画家ポール・セザンヌは「近代絵画の父」と称され、その作品は世界中の美術館に展示されて多くの人から愛されています。また、エミール・ゾラは19世紀に一世を風靡した自然主義文学を代表する文豪であり、日本でも多くの翻訳書が出版されています。この二人は少年時代からの親友でした。光あふれる美しい南フランスと近代化が進むパリを舞台に、二人の長年にわたる友情と確執を描いた作品です。
□映画の概要
2016年フランス映画
監督 ダニエル・トンプソン
出演 ギヨーム・カネ、ギヨーム・ガリエンヌ、デボラ・フランソワ、アリス・ポル
□映画のあらすじ(ネタバレ無し)
物語は、1888年にセザンヌ(ギヨーム・ガリエンヌ)がパリ近郊のメダンにあるゾラ(ギヨーム・カネ)の邸宅を訪れ、二人が久しぶりの再会をする場面から始まります。そこから二人の対話と過去の回想が交互に描かれます。
回想は、1852年、二人の少年時代から始まります。南フランスのエクス・アン・プロヴァンス(以下エクス)です。セザンヌは銀行家の父親をもち、裕福な暮らしをしています。一方のゾラは、パリからエクスに移ってきましたが、イタリア人の父親が急死し、貧乏暮らしをしています。
学校でいじめられていたゾラを一歳年上のセザンヌが助け、ゾラがお礼にリンゴを贈ったことから二人は友人になり、青春時代をともに過ごします。境遇は異なり目指す世界は違っても、芸術家を志すという共通の夢を抱きます。
文学を志すゾラは母親とともにパリに移ります。しかしバカロレア試験(大学入学資格試験)に落ちて貧乏暮らしを強いられ、働きながら創作に取り組みます。画家を目指すセザンヌも父親を説得してパリに出てきたものの、アカデミー(国立美術学校)の入学試験に落ち、父親からの送金も減らされます。ゾラは思い通りの絵が描けずに苦しむセザンヌを励まします。セザンヌは造花売りのガブリエル(アリス・ポル)という女性にモデルを頼み、二人は付き合ってもいましたが、ゾラは密かにガブリエルに思いを寄せています。
1863年、公式の美術展であるサロンに落選した絵を集めた落選展が開催され、エドゥアール・マネの「草上の昼食」がスキャンダルを巻き起こしています。二人がそれを観た帰り道に、ゾラはガブリエルと付き合っていることを打ち明けます。セザンヌは「愛のためならば裏切りを許そう」と言います。
やがてゾラは作品が売れるようになり、小説家として成功への道を歩み始めます。しかしセザンヌはなかなか才能が認められず、気難しくなっていきます。二人の距離が離れていきますが、ゾラはセザンヌの才能を信じて支援します。
それでは二人が活躍した時代に至るまでの19世紀フランスの歴史を見ていきましょう。あわせてそれぞれの時代の美術の特徴をご紹介します。
◎歴史的背景 ウィーン会議から二月革命まで
19世紀のフランスはフランス革命後のナポレオンの時代から始まります。ナポレオンの没落の後、ウィーン会議が開かれ、ウィーン議定書が締結されます。フランス革命以前の王朝と政治体制に回帰する「正統主義」が原則とされます。そして列強の「勢力均衡」により、革命や戦争の再発を防ごうとします。この復古的な国際秩序はウィーン体制と呼ばれています。
しかしフランス革命の影響から、自由主義、国民主義(ナショナリズム)がヨーロッパ各地に広がっていました。フランスでも自由と平等を求める精神が人々の意識に浸透していきます。
フランスでは革命前のブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王になります(復古王政)。王政が復活しましたが立憲君主制であり、所有権の不可侵や法の下の平等、言論・出版の自由などのフランス革命の成果は保障されています。憲法が定められ議会も設置されますが、制限選挙によるものです。国王が貴族の権限を強化しようとするのに対し、人民主権など政治体制の近代化を求める運動が続きます。1824年にシャルル10世が即位すると反動政治を強め、フランス革命以前の時代に戻そうとします。1830年の選挙で自由主義者が勝利すると国王は議会を解散します。出版の自由を停止し、選挙権への制限を大幅に強めます。7月にはそれに反発して学生、労働者、市民など民衆がパリで蜂起し、バリケードを築きます。結局、国王は国外への亡命を余儀なくされます。これが七月革命です。
七月革命により復古王政は倒れますが、その後の政治体制も立憲君主制となり、自由主義者であると言われていたルイ・フィリップを新しい国王に迎えます。ブルボン家の分家の出身です。新しい憲法が制定され、選挙制度も新しくなりますが選挙権は有産者に限られます。議会は産業資本家や銀行家等の上層の市民階級であるブルジョワジーが支配的になり、政権はその利益の保護を図ります。
七月王政期は、フランスにおいても産業革命が大きく進展した時期です。技術革新により工場生産が拡大し、経済は農業から工業中心に転換します。産業資本家が台頭する一方、労働者層も形成されます。労働者の勤務条件や生活環境は劣悪なものであったため、労働運動が活発になります。
市民の間ではルイ・フィリップ政権への批判が強まります。選挙制度の改正を求める運動が「改革宴会」という集会により展開されます。政府が改革を拒否したことから1848年に市民が蜂起して二月革命が起きます。これにより国王は退位し、共和政が宣言されて臨時政府が成立します(第二共和制)。
☆この時代の美術 新古典主義とロマン主義
19世紀を通してフランスの美術の世界では「美術アカデミー」(以下、アカデミー)が国の公的な機関として高い権威をもちました。アカデミーが運営する「国立美術学校」(エコール・デ・ボザール)が美術教育の中心となり、アカデミーが主催する公式の美術展「サロン・ド・パリ」(以下、サロン)が画家にとって作品を発表する重要な場でした。サロンに入選することが画家の将来を大きく左右しました。
アカデミーは、絵画のジャンルについて序列を示し、神話や古代史、聖書の物語などを題材とした歴史画や宗教画が最も高いジャンルとされました。また、構図、デッサン、仕上げなどについて画家が従うべき厳格な基準を示しました。
19世紀のフランスの美術界では、この様な秩序が長く維持される一方、様々な革新的な動きが生まれ、伝統と前衛との間の緊張関係が近代美術へ向かうダイナミズムを生み出しました。
絵画の様式としては、18世紀のフランスでは宮廷を中心に繊細、優雅、華やかさを特徴とするロココ様式が流行していました。しかしフランス革命により王政が崩壊すると、ロココの軽さや享楽性への反発が生じます。美術にも理性と道徳を取り戻して荘重で確固とした様式を確立する運動が始まります。これが新古典主義です。芸術において普遍的な「理想の美」が存在すると考え、歴史上それを実現した古代ギリシア・ローマの芸術を規範とします。この後、アカデミーは一貫して新古典主義を推奨します。
様式の特徴としては秩序と節度を重んじます。激しい動きを否定し、整然とした安定感のある構図を尊重します。正確なデッサンによる線の美しさを重視して色彩を抑えます。明確な輪郭線や正確な肉付けにより古代の彫像のような立体感を持たせます。
新古典主義の総帥はジャック=ルイ・ダヴィッドです。厳格で理知的な画風と卓越したデッサン力により新古典主義の美学を完成しました。
ナポレオンの時代になっても新古典主義が重んじられ、ダヴィッドは主席宮廷画家となります。「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」は、ノートルダム大聖堂で行われた皇帝ナポレオンの戴冠式を描いた壮麗な記念碑的作品です。

復古王政の時代にも新古典主義の価値観は伝統を重んじる国家観と合致し、引き続きアカデミーによって推奨されます。19世紀前半は、ダヴィッドの弟子であるアングルが中心的存在となります。洗練された美しい線描と陶器のように滑らかな人体表現で純粋な美の世界を生み出します。
その後新古典主義は形式主義的な面も生じますが、19世紀末まで大きな勢力を持ち続けます。
その一方で1820年代には新古典主義に対抗してロマン主義が台頭します。文学や音楽などと軌を一にしつつヨーロッパ全体で起きた芸術運動です。ロマン主義の価値観は新古典主義とは正反対に近く、「普遍的な理想美」を否定します。美とは永遠不滅のものではなく、時代によって、また人によって様々に変わるものと考え、個人の感情や主観を重視します。また、アカデミーの提示する規範や秩序に異を唱え、自由な創造活動を主張します。この考え方が後の近代絵画の精神につながっていきます。
この後、40年にわたって新古典主義とロマン主義が対立し、フランスの美術界を二分することになります。
ロマン主義の絵画は感情と想像力を解放し、激しい情熱や苦悩、高揚感をドラマチックに描きました。聖書や神話よりも現実の政変や事件の象徴的場面などを題材にしました。作品には自由への憧れや権力に対する批判、民衆の情熱への礼賛などが込められました。中世の伝説や物語の世界に想像力を働かせた作品や東方世界など異国の情緒に着想を得た作品もあります。
表現様式は動きのある劇的でダイナミックな構図で、人物は人間性豊かに描かれます。デッサンよりは色彩の効果を重視します。大胆な筆触を残し、色彩や明暗の強いコントラストにより、観る者の感覚に直接的に働きかけます。
ロマン主義を確立したのがウジューヌ・ドラクロワです。豊麗な色彩に輝くダイナミックな美の世界を創り出し、後の印象派や二十世紀美術にも大きな影響を与えました。
「民衆を導く自由の女神」(1830年)はロマン主義の代表作です。1830年の七月革命に共感し、蜂起した民衆が突き進む様が描かれています。中央の女性像は「自由・平等・博愛」の寓意であり、周囲の市民、学生、兵士、労働者、少年などは様々な階層の人々が蜂起に参加したことを象徴しています。画面全体の勢いと躍動感が革命の熱気と混沌を感じさせます。

次に、セザンヌとゾラがそれぞれの活動を開始した時代に入ります。
◎歴史的背景 第二帝政の時代
二月革命で成立した臨時政府には穏健な共和派から労働者や社会主義者まで様々な人々が参加しており、政治的、社会的な混乱が続きます。不満を抱く民衆は安定を求めるようになります。そうした中で行われた大統領選挙でナポレオン(1世)の甥であるルイ=ナポレオンが圧倒的な支持を得て大統領になります。さらに大統領自らが軍を率いてクーデターを起こし、国民投票での支持を受けて皇帝位に就いてナポレオン3世となります。農民、労働者、資本家、教会など国民の各階層の利害が対立するなかでナポレオン3世が広範な支持を得たことは、フランス革命以来の社会的混乱を終わらせ、強力なリーダーシップのもとで国民が統合されることをフランス国民が望んだからだと言われています。こうして第二帝政が始まり、一応の政治的安定が得られます。
ナポレオン3世は積極的な産業保護政策などにより近代化を進めます。産業革命が大きく進展して工場生産が発達し、銀行などの金融機関の設立、鉄道などの交通網や社会資本の整備も進展します。都市への人口集中が進み、社会は大きく変わります。この時期にフランスはイギリスと並ぶ資本主義国として発展します。

ナポレオン三世は、パリの大改造を行って世界の文明の中心地にしようとします。皇帝の命を受けたセーヌ県知事オスマン男爵により、幅の広い大通り、多くの公園や広場、上・下水道などの衛生設備や街灯が整備され、パリは魅力的な近代都市に劇的な変貌を遂げます。
劇場、カフェ、レストラン、百貨店などが次々と開店します。新聞や雑誌の普及で文化が大衆化し、市民社会が成立します。カフェには画家をはじめ様々な芸術家や文化人が集まり、活発な議論が展開され、そこから新しい芸術が生まれます。
1851年に世界で最初の万国博覧会がロンドンで開催されてイギリスは産業の発展を誇示しましたが、その4年後の1855年、パリで万国博覧会が開かれます。さらに1867年にはナポレオン三世の威信をかけた第二回のパリ万国博覧会が開かれます。この時日本が初めて正式に参加し、浮世絵や扇子、陶磁器などが展示されます。
豊かな市民階級(ブルジョワジー)は高い学識を持ち、富を蓄えて着実に実力を伸ばします。そして王侯貴族に代わって社会の新しい担い手になります。この時期から次の第三共和政期にかけてブルジョワジーを中心として華やかな都市文化が展開されます。
一方では資本主義の発展により階級対立が激化するなど社会構造も大きく変わります。
☆この時代の美術 第二帝政期の美術
①写実主義(リアリスム)
19世紀前半は新古典主義とロマン主義が勢力を競い合いましたが、この間も新古典主義を信奉するアカデミーが国立美術学校やサロンを支配し続けました。アカデミーは自らが定める秩序にしばられて停滞し、新しい美術の価値が理解できません。1851年から始まる第二帝政の20年間は、ロマン主義に次いで近代性を追求する新たな動きが活発化し、アカデミーの美学との闘争の時代となります。
アカデミーは歴史画や宗教画を高貴な美術とし、肖像画や風景画は低俗な作品として扱われました。歴史画や宗教画は、ごく少数の特権階級である王侯貴族や教会の嗜好に合うものでもありました。しかし、市民社会の成立に伴い、芸術の経済的な担い手も市民階級に広がります。新興のブルジョワジーは、近代社会にふさわしい美術、自分の身近な世界や田園風景などわかりやすく親近感のある作品を求めます。また、批評家が新聞や雑誌に美術の批評を発表するようになり、画商が画家を援助するケースも出てきます。ゾラは小説とともに美術の評論も手掛けます。
しかし一方ではアカデミーの権威に従う保守的な傾向も根強く残り、セザンヌはサロンに認められずに長く苦しみますが、画商の支援を受けて世の中に知られるようになります。
フランスの社会は近代化が進み、人々の生活や意識も変わります。急速に進歩する科学や技術は「現実を直視する」傾向を生み、美術においても現実に即した表現を求める考え方が生まれます。この状況が写実主義をはじめ新しい美術の登場を促します。写実主義は神話や英雄を主題とするのではなく、普通の人々や身近な風景を飾らずに再現します。
さらに、ブルジョワジーと労働者階級の対立を背景に、批判的なまなざしをもって社会の矛盾や理不尽を描く作品も登場します。
写実主義の代表的画家はギュスターヴ・クールベです。同時代の現実にこそ重みがあると考え、故郷の森や川、農民や労働者の姿を誠実に再現します。1855年のパリ万国博に自分の作品の出展を拒否されると、抗議を表明するために近くの建物で独力で個展を開きます。この時、「自分が見たものだけを描く」と宣言し、自らをレアリスト(写実主義者)と名乗ります。旧弊なアカデミーの権威に反抗して自己の道を貫く反骨精神は、次の世代の印象派の若者たちに大きな勇気を与えます。
代表作の一つ「オルナンの埋葬」(1850年)は、故郷であるフランス東部のオルナンで行われた葬儀の様子を描いたものです。名もない人々が埋葬に参列している場面を歴史画に匹敵する大画面で描いたことは当時の人々の大きな驚きとなりました。

同時代の現実に目を向ける動きは、風景画の位置づけも変えます。それまで風景は神話や歴史の場面の背景に過ぎませんでした。しかし、風景を独立した主題とする画家たちが登場とします。その代表がバルビゾン派です。パリ南東のフォンテーヌブローの森の北端にあるバルビゾン村に画家たちが集まり、戸外で写生する動きが広がります。樹木や水辺などの穏やかな風景の中に深い情感を感じ取り、ありのままの自然や農村の人々の姿を落ち着いた色調で描きました。

代表的な画家の一人であるジャン=フランソワ・ミレーは、農民たちの生活への共感を格調高く描きました。「落穂拾い」(1857年)は、三人の農婦の姿を静かな落ち着きと威厳をもって描いた作品です。黙々と働く姿への温かい眼差しが感じられます。
②エドゥアール・マネ
19世紀後半、美術の世界も大きな転機を迎えますが、その中で印象派、さらには二十世紀絵画への橋渡しをした存在として重要な位置づけを占めるのがエドゥアール・マネです。ゾラはマネを高く評価し、マネが世の中から批判を浴びていた時期から擁護しています。
マネは市民社会の到来にふさわしい新しい絵画を描きたいと考え、自分の進む道を模索しました。1863年、「草上の昼食」をサロンに送りますが落選します。この時のサロンは審査が厳しく画家の間で不満が渦巻いたため、皇帝ナポレオン三世の命により落選した絵画を一堂に集めた「落選展」が開催され、「草上の昼食」もそこに展示されます。この絵には、当世風の服装の男性二人と全裸の女性が談笑している場面が描かれています。斬新な技法を評価する声もありましたが、当時の厳格な道徳観の下では反社会的であると激しく非難され、美術史でも名高いスキャンダルになりました。

マネはパリの北にあるモンマルトルの丘に近いパティニョール街に自宅とアトリエを構え、近くのカフェ・ゲルボワに通うようになります。やがてこの店に若い画家や文筆家などが集まり、マネを中心に意見を交換し合うようになります。ゾラとセザンヌもカフェでの議論に参加し、芸術の新しい潮流に接して目を見開かされます。
1865年、「オランピア」がサロンに入選します。裸の女性を正面から描いた作品ですが、この女性が娼婦であることは明らかであり、再び社会現象になるほどのスキャンダルを巻き起こします。
美術の批評を始めたゾラはマネの擁護者となります。マネは感謝を込めてゾラの肖像画を制作しています。
1874年、セザンヌを含む若い画家たちがサロンへの反旗を掲げて第一回印象派展を開催した際、マネは熱心な勧誘を受けます。マネは印象派の画家たちとは深く交流し、画風の上でも共感を抱いていましたが、マネ自身は一度も印象派展には参加しません。あくまでも既存の美術界での成功を目指してサロンの壁に挑み続けます。しかし印象派の画家たちのマネへの尊敬の念は変わらず、精神的な支柱のような存在になりました。
近代絵画の草分けであったマネの作品は、主題面と技法面の両方で革新的でした。それは新しい時代を切り開くものでしたが、当時は多くの非難を浴びる原因ともなりました。
なお、マネについては「画家モリゾ マネの描いた美女」の記事で詳しく紹介していますのでご参照ください。
◎歴史的背景 普仏戦争とパリ・コミューン
ナポレオン3世は国民の支持を得るために積極的な対外政策を展開し、中国やインドシナ半島への進出などを進めました。
一方ヨーロッパでは、フランスの隣国のドイツは当時分裂状態にありましたが、新興のプロイセンが勢力を伸ばしていました。ビスマルクが首相となり、鉄血政策により軍国主義化を進めます。ビスマルクはプロイセン中心のドイツ統一を達成するためにはフランスに勝つことが不可欠と考え、ナポレオン3世を挑発します。この挑発に乗って戦争に持ち込まれたことがナポレオン3世の命取りになります。1870年、普仏戦争が始まりますが、プロイセンが圧倒的な勝利を重ね、セダンの戦いではナポレオン3世自身が捕虜になってしまいます。
ナポレオン三世は釈放後イギリスに亡命し、フランスの第二帝政は終わります。しかし臨時国防政府が樹立されて戦争は継続します。首都パリは包囲されて深刻な食料不足になりますが、パリ市民の戦意は高く、徹底抗戦で必死に耐えます。プロイセンは翌1871年1月、パリの南西にあるヴェルサイユ宮殿において国王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行してドイツ帝国を成立させます。フランスの臨時政府ではティエールという人物が首班となり、降伏を受け入れて休戦協定が成立します。フランスは巨額の賠償金の支払いと、鉄鉱石や石炭等の地下資源が豊かなアルザス・ロレーヌ地方の割譲を受け入れます。3月1日、勝ち誇ったプロイセンは、パリに入城します。
この屈辱的な講和条約に対しパリ市民は憤激し、武装蜂起します。ティエールは軍と政府関係者を引き連れてパリを放棄し、ヴェルサイユに逃走します。3月26日、蜂起した民衆はパリの実権を掌握し、自治政権を樹立してフランス臨時政府から離脱します。これがパリ・コミューンです。
パリ・コミューン政府は官公吏の公選制、言論や集会の自由、生活困難者に対する保護など新しい政策を次々と打ち出します。しかし、コミューンは様々な立場、主張の人々の集合体であるため意思統一が難しく、団結して政府軍と戦うのは困難な状況でした。

ヴェルサイユに集結したフランス臨時政府軍はコミューンへの攻撃を開始します。コミューン側は老人、子ども、女性たちも加わって必死の抗戦をし、後に「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦が行われます。この戦闘で3万人もの市民が惨殺されたと言われています。5月28日、追い詰められたコミューン側は全滅します。
パリ・コミューンはわずか72日間という短命に終わりましたが、市民が中心となった自治政府の樹立は世界史上初めてのことであり、その後に大きな影響を与えたと言われています。
写実主義の画家クールベはパリ・コミューンに共鳴してナポレオンの戦勝記念碑であったヴァンドーム広場の記念円柱の取り壊しを提案し、実施に移しています。コミューンの崩壊後はスイスに亡命し、その地で亡くなりました。モネ、ルノワール、セザンヌらによる「第一回印象派展」が開かれるのはクールベが亡命した翌年のことです。
◎歴史的背景 フランスの「ベル・エポック」
普仏戦争の敗戦とその後の内戦はフランス国民に深い傷跡を残しました。しかし混乱が収束するとフランスは急速に国力を回復します。ルノーなどの自動車産業を中心に工業力も発達します。
政治体制は王政復古や立憲君主制ではなく共和制を選択し、第三共和政が始まります。1875年には憲法が制定され、三権分立や男性普通選挙が導入されます。その後は議会中心の政治運営になりますが、小党が分立して強力な政権はできません。国内では普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回を主張する対独強硬論が根強く、右派と軍部が勢力を伸ばします。一方では労働組合を中心としてデモやストライキなどの直接行動を重視するサンディカリズムが台頭し、社会主義勢力も成長します。第三共和政の政府は左右両方からの攻撃を受けて不安定でした。
この時期のフランスを取り巻く国際情勢はドイツとの関係がポイントになります。普仏戦争でフランスを破って国内の統一を成し遂げたドイツでは、宰相ビスマルクがフランスの反撃に備えて、フランスを孤立させることを外交政策の主眼とします。しかしビスマルクがドイツの皇帝ヴィルヘルム2世と衝突して失脚し、ヴィルヘルム2世の新しい世界戦略が始まると状況が変わり、ドイツとロシアの関係が悪化します。この機会にフランスはロシアに接近して1894年に露仏同盟が成立しますが、緊迫した国際情勢は続きます。
この時代は世界の中でヨーロッパ各国が経済的、軍事的に優位に立っており、海外に植民地を拡大する帝国主義の時代でもありました。フランスもヨーロッパ列強の一員として植民地政策を展開します。アフリカでは地中海に面したアルジェリアとチュニジアを保護国化し、西側にあるモロッコからサハラ砂漠を横断して東岸のジブチの方面に向かうアフリカ横断政策を採ります。これはアフリカ縦断政策を採るイギリスと対立することになり、1898年ナイル川上流のスーダンで衝突の危機(ファショダ事件)が生じますが、この時はフランスが譲歩して撤退しました。
東南アジアでは、1884年の清仏戦争と翌年の天津条約を経てベトナムを保護領とします。さらに1899年にはラオスを保護国化してフランス領インドシナ連邦が成立します。
これらの植民地や保護国からの収益がフランスにさらなる繁栄をもたらします。
フランスの国内社会では産業が発展して資本主義が成熟します。街の復興が進むと人々は活気を取り戻します。

フランス革命100年を記念してエッフェル塔が建てられ、鉄道網の拡充、地下鉄の開通など交通、通信、出版などが発展します。ボン・マルシェなどのデパートには買い物客があふれ、都市の消費文化が急速に発展して現代に続く生活様式が始まります。都市の大衆文化が花開き、市民の時代が到来します。
パリに人口が集中し、「文化と芸術の都」として世界中の憧れの的となります。1900年にはパリ万国博覧会が開催されます。各国の産業や芸術の成果が展示され、約5000万人が入場しました。
この時代が後に「ベル・エポック」と呼ばれるのは、第一次世界大戦後にこの時代の平和な生活や華やかな文化を懐かしんでこう呼んだことに起因するようです。
☆この時代の美術 印象派と世紀末の美術
①印象派
1860年代からモネ、ルノワール、ピサロ、ドガらの若い画家たちが美術の表現に大きな変革をもたらしました。伝統的な技法や理想化された主題によらず、自然の光や大気の効果、時のうつろいに着目します。日常的な生活や身近な風景を題材に、感覚を重視した新しい方法で表現して当時の人々に衝撃を与えました。当初は激しい批判を受けましたが、後に20世紀美術の出発点として評価されるようになります 。
印象派は、自分たちの時代を主題にします。パリの街並みや歓楽地の情景、カフェ、劇場、ダンスホール、郊外で余暇を楽しむ市民の姿、近代化の象徴である鉄道や駅など日常風景をモチーフにし、自分たちが暮らしている近代都市生活をそのまま描きます。
印象派が登場した背景には19世紀前半のロマン派以来の様々な取り組みがありましたが、その他にもいくつかの要因があります。
パリのサン・ラザール駅とフランス北西部のノルマンディー地方が鉄道で結ばれると、多くの市民が郊外のレジャーを楽しむようになり、画家たちも屋外での制作が容易になります。持ち運び可能なチューブ入り絵具など戸外での制作に便利なツールも開発されました。
また、1839年にシュヴールという科学者が色彩に関する新しい科学理論を発表しますが、印象派は新しい色彩理論を積極的に取り入れました。

印象派の画家たちは自分の感覚や印象を重視し、目に映る光と色の移ろいを素早い筆触で捉えるスタイルを追求しました。
印象派の画家たちは写実主義を一層徹底させるところからスタートしています。しかし目の前の世界を再現するだけでなく見え方自体に関心を向け、その瞬間の光や空気の中で自分の感覚に反映された印象を重視します。物の色はいつも同じ色、つまり固有色として存在するのではなく、光の変化に応じて明るさも色調も変化すると考えます。時間の経過とともに移り変わる自然の多彩な輝きを鋭敏な感覚でとらえ、現場で素早くキャンバスに定着させようとします。
自分の感覚世界を徹底して重んじる点で、ロマン派以来の個性的な表現を求める美学のひとつの到達点になります。しかしこれは、当時支配的であったサロンの保守的な価値観とは決定的に対立します。印象派は現在でこそ世界中に多くの愛好者がいますが、当時はアカデミーの権威に対する反逆者として登場しました。


印象派の画家たちはそれぞれが豊かな個性を持っていましたが、共通するのは伝統的な絵画が支配的なサロンに対抗して新しい時代に合った美術を生み出そうという志であり、多くの画家が屋外で制作し、急速に変化する近代都市生活や光あふれる自然を明るい色彩で描こうとしました。印象派の画家たちは自然の輝きを画面に定着させるために「筆触分割」または「色彩分割」と呼ばれる独特の技法を用いました。太陽の光を構成する七色を基本とし、基本の色の絵具を混合せずに短い筆さばきでそのまま並置します。これにより絵を観る者の眼には明るい鮮やかな色として映ります。
印象派はサロンとは別に自主的な展示の場を設けます。参加した画家たちが共同出資によって会社を作り、作品を自由に持ち寄って展示し、販売も行うという方式で発足しました。審査や賞の制度はありません。第一回は、1874年4月15日、パリのキャピシーヌ大通りにあったナダール写真館の二階で開催されました。美術史に残る画期的なものでしたが、当時はさんざんな悪評と嘲笑を浴びせられてスキャンダルとなり、商業的にも失敗に終わっています。ルイ・ルロワという批評家が「印象を手軽に描いただけ」など悪意に満ちた記事を新聞紙上に掲載して揶揄しましたが、その記事が結果的に「印象派」という言葉を広めることになりました。直接的には、この時展示されていたモネの「印象・日の出」という作品が印象派の呼称の由来となっています。



印象派グルーブによる展覧会は1874年から1886年の間に8回にわたって開催されました。興行面で成功していないにもかかわらず開催が継続できた背景には、印象派の将来性を見抜いて作品を購入するなどした画商デュラン=リュエルや、印象派の画家の一員でもあり富豪でもあるギュスターヴ・カイユボットの財政的な支援がありました。この12年間は苦難の時代であり、批評家や一般の愛好者の無理解により激しい反発や嘲りを受けましたが、あくまでも自分たちの主張する新しい表現を追求していきました。当時の人気作家であったエミール・ゾラなどの熱心な擁護もあり、批評家や一般の間に少しずつ理解が進み、徐々に社会に受容されていきました。
②世紀末~20世紀初頭の美術
19世紀末には象徴主義の運動が登場します。急速な近代化と物質文明の進展により人間の精神性が軽んじられることへの反発や危機感が背景にありました。神秘的なものや超自然的なもの、さらには人々の心に潜む恐れや苦悩などを目に見えるもの(象徴)に置き換えて表現しました。文学を皮切りに美術や音楽、演劇など幅広い分野の芸術運動となりました。美術では、ギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンが忘れがたい作品を残しています。
また画家のトゥールーズ=ロートレックが、モンマルトルの盛り場の光景を題材にこの時代の華やかで享楽的な雰囲気を活き活きと写し取っています。

さらに20世紀初頭には新たな展開が見られます。目に映る色彩ではなく心で感じる色彩を大胆な表現で描き出すことを特色とするフォーヴィズム(マティス、ヴラマンクなど)、複数の視点や角度からのイメージを一枚の画面に集約するなど様々な視覚的実験を試みるキュビズム(ピカソ、ブラックなど)が登場します。なかでもキュビズムはセザンヌの行った取り組みから大きな影響を受けています。
また、植物などをモチーフとして曲線を組み合わせる装飾デザインであるアールヌーボーが開花し、建築物、工芸品、家具や調度などに幅広く用いられました。ガラス工芸のエミール・ガレが有名です。
この時代には「ドレフェス事件」と呼ばれるユダヤ人の軍人に対する冤罪事件が起きました。この事件は当時の共和政政府を揺るがし、国論を二分する大事件となり、ゾラが深く関わることになります。
◎歴史的背景 ドレフェス事件
フランスは1880年代になると政治的には穏健共和派と急進派の二大勢力になります。
フランスの共和制はこの時期に何度か危機に見舞われます。まず、1889年の「ブーランジェ事件」です。これは共和制政府を倒して軍部独裁政権の樹立を目指すクーデター未遂事件です。また1892年には「パナマ運河疑獄」が起きます。パナマ運河の建設を行っている会社の破綻とその再建をめぐる汚職事件です。これらにより共和制政府に対する大衆の信頼が揺らぎました。 第三共和政の最大の危機ともいうべきドレフェス事件が起きたのはこの2年後でした。事件の背景としては、普仏戦争敗北以来の軍国主義的風潮、軍部や右翼だけでなく大衆にも反ユダヤ主義が根強く浸透していたこと、フランスを取り巻く国際情勢、特にドイツとの緊迫した関係などがありました。
事件の発端は1894年にフランス軍の機密情報がドイツに漏洩していることが発覚したことです。これによりフランス将校団の中にスパイがいることが判明し、参謀本部の大尉であるアルフレド・ドレフェスが反逆罪で逮捕されました。
ドレフェスはユダヤ人でした。国民の中にはドレフェスを激しく非難する声が上がります。本人が無罪を主張し、決定的な証拠がないにもかかわらず、筆跡が似ているという理由から軍法会議で有罪判決を受け、終身禁固刑となります。ユダヤ人であるためにスケープゴートにされたと思われます。南米の植民地ギニアの離島であるディアブル島(悪魔島)への流刑処分となります。

そんな中、新しく諜報部長に就任したジョルジュ・ピカールは再度事件の調査を行い、ドレフェスは無罪であり、別の将校であるエステルアジが真犯人であることを突き止めます。しかし軍の威信に傷がつくことを恐れた上層部はそれ以上の調査を禁じます。調査をやめないピカールはチュニジアに左遷され、後任のアンリという人物がドレフェスの有罪を示す偽の文書を捏造します。エステルアジは軍法会議にかけられますが無罪になり、イギリスに渡ります。これも反ユダヤ主義の世論が影響していると思われます。

一方、ドレフェスの妻と弟はドレフェスの無実を信じて奔走します。それを受けて作家のエミール・ゾラが1898年に急進派系の新聞オーロールに「私は弾劾する」という公開状を発表します。政府や軍部を非難しドレフェスの再審を求める内容です。世論は沸騰します。国民はドレフェスの再審を求める派と有罪判決を支持する派に二分され、激しい議論が展開されます。
ゾラは名誉棄損で訴えられ有罪判決を受けますが、執行前にイギリスに亡命します。
アンリによる証拠の捏造が暴露され、アンリは獄中で自殺します。しかし新事実が明らかになっても政府と軍部は再審を拒否します。ドレフェス擁護派であった急進派などによる内閣が誕生し、1899年にようやくドレフェスの再審が始まります。ゾラも帰国し発言を続けます。
再審でドレフェスは減刑にはなりますが再び有罪判決を受けます。その後大統領の恩赦により釈放され、世論は沈静化します。最終的にドレフェスの無罪が確定したのは1906年でした。ゾラは1902年に事故死していますが、反ドレフェス派による陰謀という説もあります。
なお、『「ゾラの生涯」と「オフィサー・アンド・スパイ」』の記事では、この事件を取り上げた二つの映画をご紹介しています。どちらもドレフェス事件の実話をもとに作られています。
この事件の教訓として宗教と国家の関係が見直されます。フランスでは伝統的にカトリック教会と国家が結びついていました。軍部とカトリック教会の反ユダヤ主義が冤罪事件の背景にあったことから、1905年に政教分離法が成立し、国家と宗教の分離、個人の信仰の自由という原則が確立しました。
□映画のあれこれ セザンヌとゾラの生涯
それでは映画の主要な場面と共にセザンヌとゾラの生涯を振り返ってみましょう。☆はセザンヌに関する出来事、★はゾラに関する出来事です。《映画》は映画「セザンヌと過ごした時間」の場面です。
【1839年】
☆セザンヌ 1月、南フランスのエクスに生まれます。父親は帽子の製造業を営んでいましたが商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となって成功します。
【1840年】
★ゾラ 4月、パリに生まれます。父親はイタリア出身で、ダムの設計をする技術者です。母親はフランス人です。1843年には、父親の仕事の関係でエクスに移ります。
1847年に父親が亡くなり、残された家族は苦しい生活を余儀なくされます。
【1848年】二月革命が起きます。
【1852年】ナポレオン三世の第二帝政が始まります。

☆★ ブルボン中等学校で、セザンヌは一学年下だったゾラと親しくなります。
《映画》セザンヌとゾラは少年時代を共に過ごします。ゾラがよそ者でいじめられていたのをセザンヌが庇い、ゾラがお礼にリンゴを贈ります。
【1857年】
☆セザンヌ 市立の素描学校に通います。
【1858年】
☆セザンヌ 父親の希望に従ってエクス大学の法学部に籍を置き、同時に素描の勉強も続けます。法律の勉強にはなじめず、画家になりたいという夢を膨らませます。しかし父親は反対し、絵の道に進むかどうか悩みます。
★ゾラ エクスを離れ、母親のいるパリに移ります。パリでバカロレア(大学入学資格試験)に二度挑戦しますが失敗します。
エクスにいるセザンヌと文通を続け、パリに出て来て絵の勉強をするようセザンヌに勧めます。
【1861年】
☆セザンヌ 絵の道に進む決心をします。母親の理解もあり、父親を説得します。大学を中退し、絵の勉強をするためにパリに出ます。父親からは一定の財政的な援助を受けます。
ルーヴル美術館で感銘を受けるなどしますが、国立美術学校の入学試験に落ちます。
画塾アカデミー・シェイスに通い、デッサンを学びます。これが画家としてのスタートになります。ここでカミーユ・ピサロに出会ったことがセザンヌの人生に大きな影響を与えます。
しかし、セザンヌは都会の暮らしにまったくなじめず、ゾラが引き留めるにもかかわらず、エクスに戻ります。エクスでは父の銀行で働きながら美術学校に通います。銀行での仕事は意に染まず、短期間で止めます。
《映画》パリにいるゾラは執筆した原稿が認められず、貧しい生活をしています。
エクスのセザンヌは、絵の道に進もうとしますが父親の反対にあいます。
【1862年】
☆セザンヌ 再びパリに出て来てアカデミー・シェイスで勉強します。モネ、ルノワールらと出会い、新しい絵画を模索する同世代の息吹を知ります。
しかし、この時も都会の暮らしにはなじめず、数カ月でエクスに戻ります。これ以降、普仏戦争が始まるまでパリとエクスを行き来しつつ画家としての経験を積みます。この時代の作品は激しい筆遣いで暗い色調のものが多く、ロマン主義のドラクロワや写実主義のクールベの影響を受けています。
★ゾラ フランスの市民権を獲得します。
出版社アシェット書店で働き始めます。(現在でもフランス最大の出版社です。)
《映画》ゾラは市民権を得て喜びます。
セザンヌは美術学校の入学試験に落ち、荒んでいます。父親からの送金も止められてエクスに戻ります。
【1863年】
☆セザンヌ サロンに落選した絵を集めた落選展が開催され、エドゥアール・マネの「草上の昼食」が話題となります。セザンヌもこれを観たと思われます。
《映画》二人は落選展でマネの「草上の昼食」を観ますが、観客が非難しているのを見て失望します。帰り道、ゾラはセザンヌのモデルをしているガブリエル(本名はアレクサンドリーヌ)と交際したい旨の告白をします。
エクスに帰ったセザンヌをゾラは手紙で激励します。
【1865年】
☆セザンヌ サロンに応募し落選します。
★ゾラ 本格的に評論を手掛けるようになります。美術の批評にも取り組み、マネを擁護する評論を発表します。
後に妻となるアレクサンドリーヌ・メレーと出会います。
12月には、最初の長編小説である「クロードの告白」を発表します。貧しい生活を送る若い芸術家たちの物語です。
【1866年】
☆セザンヌ サロンに応募し落選します。
★ゾラ 作家、ジャーナリストとして生計を立てていく決断をして書店を退職します。
5月、サロン評をまとめた「わがサロン」を刊行します。序文でセザンヌにも触れています。この後、美術批評家としての地位を確立していきます。
☆★ この頃、カフェ・ゲルボワで、マネを中心にピサロ、ルノワールらの若い芸術家や文学者たちが集って芸術論を戦わせており、ゾラもその常連となります。セザンヌも加わりますが、社交的な人付き合いが不得手で、機知に富んだ都会の会話の場になじめません。次第に自分だけの世界に引きこもるようになります。
《映画》カフェ・ゲルボワでの集まりにセザンヌとゾラも加わりますが、セザンヌはその場に溶け込むことができません。
【1867年】
☆セザンヌ サロンに応募し落選。
★ゾラ 「テレーズ・ラカン」を刊行し、小説家して最初の成功を収めます。この作品の序文で「自然主義宣言」を行います。
《映画》二人はサロンでマネに会います。
二人は友人たちとピクニックをします。アレクサンドリーヌや女性の画家ベルト・モリゾもいます。ゾラはフランス社会の様々な階層の人々を描く作品群の構想(後の「ルーゴン=マッカール叢書」)をセザンヌに話します。セザンヌは戸外だの制作にかける情熱を語ります。
セザンヌはタンギー爺さんの店で自分の絵を預け、戸外で制作するための道具を買います。
【1868年】
☆セザンヌ サロンに応募し落選します。
★画家のエドゥアール・マネがゾラの支援に感謝し、ゾラの肖像画を制作します。
【1869年】
☆セザンヌ 後に妻となるオルタンス・フィケと知り合い同棲しますが、厳格な父親を恐れ、オルタンスとの関係を隠し続けます。父親からの仕送りで二人の生活を支えることになり、経済的には苦しくなります。

【1870年】普仏戦争が勃発します。
☆セザンヌ 地中海に面した村エスタックに母親が住居を用意してくれたので、オルタンスと共にそこに移り、兵役を逃れます。
パリ・コミューンと内戦の混乱の時期もエスタックで過ごします。
《映画》セザンヌはエスタックでオルタンスをモデルに製作しています。
ゾラは母親と妻のアレクサンドリーヌを伴ってエスタックに避難して来ます。ゾラはしばらく滞在した後、母親と妻をセザンヌのもとに残して自分だけはパリに戻ります。
【1871年】第三共和政が発足します。
★ゾラ 「ルーゴン=マッカール叢書」の刊行を開始します。これ以降、自然主義文学が隆盛します。
【1872年】
☆セザンヌ 夏、オルタンスと生まれたばかりの息子ポールを連れて、エスタックからパリに戻ります。さらにパリ北西のポントワースに移ります。ここでカミーユ・ピサロから野外での制作に誘われます。
この後2年間、ピサロと画架を並べて自然の中で風景画を制作します。この時、ピサロから自然のままの光の重要性を吸収し、筆触分割など印象主義の技法を習得します。この結果、画面から重々しさが無くなり、明るい色彩の作品が多くなります。風景画だけでなく、静物画や人物画も光に満ちた明るい色調になります。
さらにピサロと共にオーヴェール=シュル=オワーズに移り住みます。
【1874年】
☆セザンヌ 第一回印象派展に「オーヴェールの首吊りの家」など3作品を出品します。批評家や世間からは展覧会全体が酷評を受け、セザンヌの作品も厳しい評価を受けます。ただし、「オーヴェールの首吊りの家」は売れます。
★ゾラ 新聞紙上で第一回印象派展を擁護します。
【1876年】
☆セザンヌ 第二回印象派展が開催されますが出品しません。理由ははっきりしませんが、サロンへの応募を優先したと思われます。
★ゾラ 「ルーゴン=マッカール叢書」の第七作「居酒屋」を発表します。賛否両論で大きな反響を呼び、爆発的な売り上げを記録してゾラの代表作になります。
【1877年】
☆セザンヌ 第三回印象派展が開催され、油彩13(または14)点を出品します。再び厳しい評価にさらされますが、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れます。
《映画》ゾラはエクスにセザンヌの両親を訪ね、二人の友情の証しとしてセザンヌの静物画を贈ります。ゾラはセザンヌを擁護し、セザンヌへの仕送りの増額を頼みます。セザンヌの母親はセザンヌのことをとても心配しています。
セザンヌが絵の制作に没頭しているため、オルタンスは不満を募らせます。オルタンスは、セザンヌに絵をやめるよう迫りますが、セザンヌは「絵はやめない。描きながら死ぬ。」と言います。
ゾラは密かにセザンヌを経済的に援助をします。
【1878年】
☆セザンヌ この頃から印象派の手法に不満を感じ始めます。
グループでの活動にあまり積極的ではなく、第四回以降の印象派展には参加しませんが、ピサロ、モネ、ルノワールらとの友情は続いたようです。ピサロはセザンヌの将来に期待する言葉を残しています。サロンへの応募を続けますが、落選が続きます。
制作の中心をパリから南フランス(故郷のエクスかエスタック)に戻します。数カ月単位で南フランスとパリを行き来します。この後、1895年に最初の個展を開くまで作品をほとんど公表しません。パリの美術界からは知られることなく制作に没頭します。
★ゾラ 「居酒屋」の成功で得た収入でパリの北西のメダンに豪壮な邸宅を購入します。この後、様々な文学者や画家を招いて晩餐会を開きます。セザンヌがパリを訪れた際にはセザンヌを招待することもあります。

☆★ セザンヌは妻子の存在を父親に感づかれ、送金を半分に減らされます。このためゾラに援助を求めます。既に有名になっているゾラはセザンヌを援助します。
【1879年】
★ゾラ 「ルーゴン=マッカール叢書」の第9作「ナナ」を発表します。
【1880年】
★ゾラ ゾラを中心に六人の自然主義作家による短編集「メダンの夕べ」を発表します。

《映画》ゾラはメダンの邸宅の増築を進めています。セザンヌが晩餐会に招かれ、アレクサンドリーヌをモデルに描きます。
晩餐会にはゾラを慕う文学者のモーパッサンや画家のルノワールらも招かれます。晩餐会の席上、セザンヌは粗野な振る舞いで他の出席者の顰蹙を買います。途中退席したセザンヌをゾラはやさしく励ましますが、セザンヌは他の出席者が自分の悪口を言っているのを窓の外から聞いてみじめな気持ちになります。
【1882年】
☆セザンヌは「L:A氏の肖像」で初めてサロンに入選します。サロンの審査員になっていた友人の弟子という形で特別に入選させてもらったものです。結局、サロンの入選はこの一回のみになります。
【1885年】《映画》ゾラがエクスにセザンヌを訪ね、二人は再会を喜び親しく語り合います。ゾラは画家を主人公にした作品を書いていることを告げます。
【1886年】
★ゾラ 「ルーゴン=マッカール叢書」の第14作「制作」(「作品」)を発表します。主人公の画家は才能があるにもかかわらず失敗して自殺するという物語です。この主人公のモデルの一人がセザンヌで言われており、このことが原因で二人の友情が絶たれたとされています。
《映画》小説「制作」を発表する朗読会でセザンヌはその内容を知り、憮然として立ち去ります。
☆セザンヌ 内縁の妻であったオルタンス・フィケと正式に結婚します。父親が死去してセザンヌは莫大な遺産を相続し、経済的な不安は無くなります。
その後も絵画の制作を続けますが、公にはなかなか認められません。しかし、ポール・ゴーギャン、モーリス・ドニなど一部の前衛的な若い画家や批評家の間でセザンヌの評価が徐々に高まります。
【1888年】
★ゾラ 使用人であるジャンヌと恋仲になり、別宅を構えて二重生活になります。1889年と1891年に子供が生まれます。
《映画》セザンヌはオルタンスと共にメダンを訪れます。ゾラはジャンヌに惹かれています。
セザンヌは小説「制作」のモデルにされたことへの強い怒りをゾラにぶつけます。二人は激しい議論になります。
【1893年】
★ゾラ 「ルーゴン=マッカール叢書」の全20作が完成します。

【1894年】
★ユダヤ人の軍人であるアルフレッド・ドレフェス大尉がスパイ容疑をかけられるドレフェス事件が起き、フランスの世論が二分されます。ゾラも強い関心を抱きます。
【1895年】
☆セザンヌ 初めての個展が画商アンブロワーズ・ヴォラールのパリの画廊で開催されます。セザンヌのそれまでの制作の集大成となるものです。この個展でセザンヌの作品は高い評価を受け、パリでも知られるようになります。若い画家たちがエクスにいるセザンヌのもとを訪れるようになります。
【1896年】《映画》画商ヴォラールがセザンヌの絵を買い付けるためエクスを訪れます。セザンヌはヴォラールをモデルに絵を描きます。ヴォラールはセザンヌにゾラに会いに行くよう勧めますが、セザンヌは「パリには行かない。ゾラと喧嘩はしていない」と言います。
【1898年】
☆ヴォラールがセザンヌの第二回の個展を開催。
★1月、ドレフェス事件で、ゾラがオーロール紙上に「私は弾劾する」を寄稿します。スパイ容疑は軍部の陰謀であるとしてドレフェスを擁護し、反ユダヤ主義を批判します。
2月、ゾラは名誉棄損の罪で裁判にかけられ、有罪判決を受けます。
7月、イギリスに亡命します。
【1899年】
★ゾラ 6月、フランスに帰国します。その後もドレフェスの弁護、軍法会議の糾弾などを続けます。
☆ヴォラールがセザンヌの第三回の個展を開催します。次第にセザンヌの評価が高まりますが、セザンヌ自身はエクスに腰を据えるようになり、ひたすら絵画の探求に没頭します。
《映画》ゾラがジャンヌや子供たちとともにエクスを訪れます。
【1900年】
☆セザンヌ パリで開催された万国博覧会に出品します。
【1902年】
★ゾラ パリの自宅で一酸化炭素中毒により死亡します。当時は事故で処理されましたが、反ドレフェス派によって煙突を塞がれていたという陰謀説もあります。
【1904年~】
☆セザンヌ 前年に創設された前衛的な美術展であるサロン・ドートンヌに三年続けて出品します。

【1906年】
☆セザンヌ 戸外での制作中に雨に打たれたのが原因で肺炎となり死亡します。
★ドレフェス事件で、ドレフェスの無罪が確定します。
【1907年】
☆セザンヌの死後、名声は高まり、サロン・ドートンヌでセザンヌの回顧展が開かれます。多くの若い画家たちが訪れて強い影響を受け、これが現代絵画の原動力となります。
□映画のあれこれ ポール・セザンヌとその作品
①セザンヌの絵画の探求

セザンヌはモネ、ルノワールらとともに第一回印象派展の創設メンバーの一人であり、印象派の画家として取り上げられることもありますが、「ポスト印象派」の画家として紹介されることも多いです。ポスト印象派とは、印象派の影響を受けながら印象派の様式にとどまらず、独自のスタイルを展開していった画家たちの総称です。いわば印象派を乗り越えて個性的な表現を模索していった画家たちです。フィンセント・ファン・ゴッホやポール・ゴーギャンとならんでセザンヌもその一人とされています。
セザンヌは同時代の人々からはなかなか評価されませんでしたが、キュビズムをはじめ20世紀美術に大きな影響を与えたことから「近代絵画の父」とも呼ばれます。
当初は、ロマン主義的な作風で、暴力やエロスなどをテーマとした暗い色調の作品が多く残されています。1870年代の前半、2年間にわたりピサロと画架を並べて戸外で制作し、印象派の仲間に加わったことなどから、自然光を重視することを学び、明るい色彩を獲得しました。
セザンヌは印象派のグループの一員として活動していましたが、第三回印象派展に出品した後、印象派の手法に疑問を感じ始めます。印象派は、目の前の自然や光の効果をそのままカンヴァスに留めようとしました。しかしセザンヌは、印象派の画家たちが時間とともに移ろう光と色彩の変化をとらえることを重視するあまり物の形が希薄になり、対象物の確固とした存在感が失われていることに不満を感じます。そして確固とした量感や堅固さを持つ絵画を目指すようになります。
1880年代からはグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にも印象主義にもとらわれない独自の様式を模索します。豊かな色彩と秩序のある画面構成を調和させようと努力し、その結果、幾何学的な構成を重視する独自の造形世界にいきつきました。セザンヌは自分の目指す方向を次第に固めていきますが、印象派の時代に身に着けた明るい色彩は生涯消えることはありませんでした。
セザンヌは形態を表現するに当たって独自の方法を追求し、従来の固定観念を破りました。
まず、目に見えた形をそのまま描くのではなく、形の本質をとらえようとしました。事物を円や三角形、円柱など単純な形に還元したうえで幾何学的な造形として表現しました。例えばリンゴを単純な球として扱い、人間の頭部、腕、胴体を円筒形として描き、山をシンプルな三角形に近い形で描くなど、独自の視点で現実を画面上に再構築しました。セザンヌを慕っていた画家のエミール・ベルナールに語ったという「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉に象徴されています。
また、対象を複数の視点や角度からとらえて一枚の絵の中に配置するという試みをしています。正面からとらえた形と、斜め上、または横からとらえた形を一つの画面に収めることにより、緊張感のある画面を作り出しています。これは視点を一点に固定して描くという絵画の約束事を破るもので、後のピカソなどのキュビズムに大きな影響を与えました。
セザンヌは内向的で気難しく、人付き合いが不器用だったこともあり、エクスに引きこもって自分の目指す絵画の実現に向けて孤独な探求を続けました。ながらく不遇のまま制作を続けましたが、最晩年には多くの人から賞賛を浴びるようになりました。本人は絵を描きながら死にたいと願っていましたが、制作中に大雨に打たれたことが原因で亡くなりました。
死後、その名声は決定的なものとなりました。
②セザンヌの作品
セザンヌは同じ主題を繰り返し描きました。テーマは主として四つに分けられます。
第一が風景画です。若き日にピサロから学んだ自然との接触を生涯にわたって大切にしました。他の印象派の画家たちと異なり、近代化の進むパリの情景を描いた作品はありません。故郷のエクスや地中海に面したエスタックなど南フランスの風景が題材になりました。中でも最も頻繁に取り組んだのは故郷の町にそびえるサント・ヴィクトワール山です。石灰岩の白い山ですが、この山を描いた作品は40点以上にのぼります。


第二が静物画です。リンゴなどの果物や花の入った花瓶などを白いテーブルクロスとともに描きました。作品ごとに配置に工夫をこらし、対象を異なる視点から描くという試みを行ったものも多くあります。
第三が人物画です。経済的な問題もあり、モデルを雇って描いた作品は少なく、富裕な人物の注文による肖像画もありません。自画像、または妻のオルタンスなど身近な人を描いたものがほとんどです。セザンヌは遅筆で時間がかかり、モデルが途中で動くとセザンヌに厳しく叱責されるため、セザンヌのモデルを務めるのは苦行であったことが知られています。


第四が水浴画です。男女の裸婦の群像を描いたもので、若いころから晩年まで繰り返し描かれました。人体を幾何学的な造形として描くなどの試みがなされています。
セザンヌは作品を完成させないこともありました。特に後半期のものは未完成のまま放置され、塗り残した余白がところどころに残されているものも多数あります。しかし絵としては観る者の心に残る作品であることに変わりはありません。
セザンヌの代表作を何点かご紹介します。
「オーヴェールの首吊りの家」(1872年)
印象派の影響が強く感じられる作品で、第一回印象派展に出品されました。全体が緑のさまざまな色調や濃淡で描かれています。明るい戸外の風景ですが建物や樹木には力強い実在感があり、ゆるぎのない構図に組み立てられているなどセザンヌの特質が見て取れます。


「果物かごのある生物」(1888~1890年)
静物画の代表作です。単なる写実ではなく、各々の形態の本質を突き詰めようとしています。形と色の関係に配慮した複雑な画面構成で、複数の視点からとらえたモチーフが一枚の絵に描かれており、物の存在感が観る者に迫ってきます。
「大水浴図」
製作年がはっきりしませんが、晩年の傑作とされています。一連の水浴画の集大成であり、セザンヌの作品中最大のものです。全体がセザンヌ独特の青の色調で描かれ、風景と裸婦の群像が見事に調和しています。太い樹木が左右から中央に伸びて大きな三角形を構成し、水浴する裸婦の集団が樹木の根本で三角形を描いて画面を安定させています。人体も幾何学的な形に単純化して描かれています。

③セザンヌを取り巻く人々
・タンギー爺さん
パリの画材商で、貧しい画家たちの支援をしていました。セザンヌはタンギーの店で画材を買い、代金の代わりに絵を渡すことが多かったようです。セザンヌが作品を発表しなかった間もタンギーが自分の店にセザンヌの絵を並べており、ゴッホやゴーギャンをはじめ若い画家たちがこの店で観たセザンヌの絵に強烈な衝撃を受けています。これがセザンヌが多くの画家たちから評価される契機になりました。
映画では、カフェ・ゲルボワの集まりに顔を出して新しい絵の具の話をしたり、セザンヌが店を訪れた際に戸外制作用の絵具を紹介するなどしています。

・アンブロワーズ・ヴォラール
19世紀末から20世紀はじめのフランスで最も重要な画商の一人です。世間から評価されることなく独自の表現を追求していたセザンヌの絵を世に広めるうえで大きな役割を果たしました。タンギーの店でセザンヌの作品を観たヴォラールはその価値を見抜きました。そして1895年、オペラ座の近くにあった自身の画廊でセザンヌの初めての個展を開きました。この個展を観た多くの人が作品の素晴らしさを称え、セザンヌは56歳にして初めて光が当たりました。


ヴォラールは、1898年、1899年にも続けてセザンヌの個展を開催しています。また、ヴォラールはセザンヌの絵のモデルも務めています。
映画では、エクスのセザンヌを訪れ、セザンヌの絵を買い付けています。また、セザンヌの絵のモデルを務めますが、途中で動いてセザンヌに怒られています。また、セザンヌとゾラの関係を修復しようと気遣っています。
・カミーユ・ピサロ
印象派の創設メンバーの一人であり、全部で8回開催された印象派展のすべてに参加した唯一の画家です。セザンヌにとっては生涯の師ともいうべき人物です。戸外制作や印象派の技法の基礎をセザンヌに教え、印象派展への出品を勧めました。
セザンヌが世に知られる契機となった1895年の個展は、ピサロのヴォラールへの働きかけによって実現したと言われています。
映画ではカフェ・ゲルボワの集いなどに顔が見られます。

・モーリス・ドニ
19世紀末にパリで活動した画家のグループであるナビ派の一員です。ナビ派の画家たちはセザンヌを敬愛し大きな影響を受けました。ドニの「セザンヌ礼賛」(1900年)は、ヴォラールの画廊を舞台にセザンヌの静物画の周囲にドニ自身を含む若い画家たちが集まっている場面を描いた作品です。

□映画のあれこれ エミール・ゾラとその作品
①ゾラと自然主義文学

ゾラは19世紀後半から20世紀初めに活躍した自然主義文学を代表する作家です。資本主義の発達により経済が発展する一方で社会の矛盾が露呈していく様を目にし、科学的、実証的に現実社会と向き合うべきと考えます。そこで自然科学の手法を文学に取り入れた自然主義の文学を創始し、世界の文学に大きな影響を与えました。
ゾラはドレフェス事件に強い関心を抱き、反ユダヤ主義に言論で立ち向かったことは大きな反響を呼びました。1902年に一酸化炭素ガスの中毒で不慮の死をとげましたが、ドレフェス事件との関係で暗殺されたという説もあり、真相は不明です。
マネや印象派の画家がフランスの美術界で認められていなかった時代に、彼らを擁護、支援する批評を発表しています。
ゾラが自然主義を提唱するに至るまでの文学の流れを見ていきましょう。
19世紀のフランス文学は美術と同様に、政治や社会の変遷と関わりながら多様な展開を見せました。いくつかの文学潮流を形成し、現代にまで残る多くの傑作を生み出しています。
まずロマン主義です。美術と同様、理性的な規範を重視する古典主義に対抗して登場しました。感性や情熱を重視し、想像力の解放を目指しました。代表的な作家は「レ・ミゼラブル」で有名なビクトル・ユーゴーです。ユーゴーは第二共和政期には政治家でもありましたが、ナポレオン三世の帝政には反対して亡命しています。
フランスでは他にシャトーブリアン、ストー夫人などがいます。
次に写実主義です。これも美術と同様、見たものをありのままに描くことを重視します。産業革命の進展による資本主義社会の成立、ブルジョワ階級と労働者階級の対立など、この時期の社会と人間の実態を客観的に観察し、価値判断を加えずに描写して真実に迫ろうとしました。
代表作にはスタンダールの「赤と黒」があります。復古王政の時代のフランス社会を緻密に描いた作品です。バルザックは、「ゴリオ爺さん」を含む連作「人間喜劇」でフランス革命から二月革命の時代の様々な出来事を多数の登場人物を通してありのままに描きました。
写実主義文学の最高峰と言われるフローベールの「ボヴァリー夫人」は、平凡な生活に飽きた医師の妻が不倫の末に破滅する物語です。人間の弱さと欲望を細やかに綴っていますが、風俗を乱すとして訴えられています。美術の世界で画家クールベが写実主義宣言をした1855年の翌年に発表されています。
この様な流れを受けてゾラは、当初はロマン主義に惹かれていましたが、バルザックやフローベールの写実主義文学に接し、これらに傾倒します。そして写実主義を継承しつつさらに推し進め、自然科学の発展などを取り入れて、より科学的に徹底しようとします。そして1870年代に自分の文学理念、構想を「自然主義」と称して提唱します。自然主義はフランスを中心にヨーロッパ各国に広がり、20年ほど盛り上がりを見せます。
ゾラは自然主義の構想を理論的に展開して体系的に構築するとともに、それを実践した作品を多く発表しています。1880年には「実験小説論」という論文を取りまとめています。
人間性を解明する際に生理学や生物学の成果を取り入れ、世の中を客観的に描くだけではなく、現実の社会の矛盾や問題点に科学的、実証的に踏み込みます。精密な客観描写を重視し、価値判断を加えずに、また一切の美化をせずに人生の醜い面、現実社会の暗黒面も避けずに暴き出しています。
社会各層、特に貧困層を舞台に人間の欲望や異常な面を残酷なまでに克明に描いており、暗澹たる内容の作品も多いため、描写が醜悪である、露悪的である等の批判も受けました。
ゾラは特に、人間の性格や行動は遺伝的な要因と周囲の環境の必然的な結果であるとして、作品中の人物たちを科学者のように冷徹に観察しています。ゾラが影響を受け、理論的な根拠としたのは以下のような研究です。
一つはイギリスのチャールズ・ダーウィンが1859年の「種の起源」で提唱した進化論です。生物は環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じるというものです。
また、実験医学の基礎を築いたフランスの生理学者クロード・ベルナールは、生命は自然の法則に従う現象であり、正しい科学的実験の積み重ねによって解明されるべきとしています。ベルナールはゾラに直接働きかけもしています。
ゾラは哲学者オーギュスト・コントの研究にも影響を受けています。コントは、実験や測定など経験的に確認が可能な事実だけを知識の基礎とし、社会を実証的な方法で研究する実証主義を提唱しました。
②「ルーゴン=マッカール叢書」など
ゾラが自らの理論を実践した代表的な取り組みが全20作の「ルーゴン=マッカール叢書」です。「第二帝政下における一家族の自然的・社会的歴史」という副題が付けられています。第二帝政期のフランス社会を描き尽くした壮大な取り組みです。写実主義のバルザックの「人間喜劇」に匹敵するものを目指したようです。登場人物は300人以上であり、すべての社会階層に及んでいます。主要な人物はいくつもの作品で登場します。五代にわたるルーゴン家とマッカール家の人々の物語ですが、遺伝形質が一族の人々に代々受け継がれていく様を追跡し、貪欲、怠惰、暴力、アルコール依存症などの負の特質や精神的障害が環境に応じてどの様に現れるかを描いています。
主な作品とその映画化作品を見ていきましょう。


第6作「ウージェーヌ・ルーゴン閣下」は第二帝政の内幕を暴いた政治小説です。ルーゴン家の第三世代のウージェーヌは、ナポレオン三世のクーデターに貢献した功績により政府内で出世し、内大臣にまで登り詰めます。作者のゾラは、権力欲に取りつかれた主人公や政府内の争いを冷ややかに見つめています。
第7作「居酒屋」の主人公は、マッカール家の第三世代のジェルヴェーズ・マッカールという洗濯女です。死に物狂いで働き、自分の店を持つまでになりますが、経済的に苦しくなるとアルコール依存症になって転落していきます。労働者階級の厳しい現実を描いていますが、読者が辛くなるほどのリアルな描写が大きな反響を呼びました。
何回も映画化されていますが、最も有名な映画化作品は1956年の「居酒屋」(ルネ・クレマン監督)です。自然主義文学である原作を忠実に再現し、次々と苦難に見舞われながらも必死に生きる主人公の苦悩と喜びを描いています。パリの下町の風俗も見事に映像化しており、主演のマリア・シェルはヴェネツィア国際映画祭の女優賞を受賞しています。監督のルネ・クレマンは、戦争で孤児となった少女の生活を描いた「禁じられた遊び」(1952年)でアカデミー賞の外国語映画賞とヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞していますが、「居酒屋」はこれと並ぶ代表作です。

第9作「ナナ」は、「居酒屋」のジェルヴェーズの長女が主人公ナナです。マッカール家の第四世代になります。母親のみじめな生活を見てきたナナは華やかな生活にあこがれ、舞台女優、さらには高級娼婦(クルチザンヌ)となって周囲の貴族やブルジョワたちを次々と破滅させていきます。

この作品も何回も映画化されています。有名な作品は1926年の「女優ナナ」です。この映画の監督のジャン・ルノワールは、映画史に残る名作と言われる「大いなる幻影」(1937年)で知られています。第一次世界大戦のフランスとドイツの戦いを背景に、国の対立を超えた友情を描いて人道的立場から戦争を批判した作品です。1975年にはアカデミー賞の名誉賞を受賞しています。
ルノワール監督は印象派の画家オーギュスト・ルノワールの次男です。幼い時には父の絵のモデルも務めています。ゾラはルノワールを含む印象派を擁護しています。ゾラもルノワールもエドゥアール・マネを中心とするカフェ・ゲルボワの集まりに参加していましたので、二人は交流があったと思われます。


「女優ナナ」はルノワール監督の長編映画第二作で、サイレント期の傑作です。劇場内の装飾や衣装などに父親譲りの美意識が反映されています。映画は原作を踏襲しており、ナナは近寄る男を誘惑して不幸に陥れます。欲に取りつかれた品性のない毒婦として容赦なく描かれています。ナナを演じた主演のカトリーヌ・エスランは、この映画制作時のルノワール監督の夫人です。この女性は父親のオーギュスト・ルノワールの晩年のモデルで、デデという愛称でした。
なお、2012年の「ルノワール 陽だまりの裸婦」(ジル・ブルドス監督)は画家ルノワールの最晩年の傑作「浴女たち」の制作の裏側を描いた映画ですが、この作品ではミシェル・ブーケがルノワールを、クリスタル・テレがモデルのデデを演じています。子供のころのジャン・ルノワールも登場します。
小説「ナナ」のこの他の映画化としては、1933年の「女優ナナ」(ドロシー・アーズナー監督)があります。主演はアンナ・ステンです。1955年の「女優ナナ」はクリスチャン・ジャック監督で、主演はマルティーヌ・キャロルです。シャルル・ボワイエも出演しています。
第13作「ジェルミナール」は、重労働と低賃金にあえぐ労働者の悲惨な環境と、労働者と資本家が対立する様を描いたもので、フランスの文学史上最も優れた作品の一つとされています。北フランスの炭鉱を舞台に、立ち上がった労働者たちのストライキの激しさに焦点を当ててリアルに描いています。ジェルヴェーズの三男エチエンヌ・ランティエが主人公です。
この作品は五回映画化されています。なかでも1993年のクロード・ベリ監督による「ジェルミナル」は、ジェラール・ドパルデューの主演で労働者たちの苦闘とそれを支える家族たちの苦悩を描いた大作です。

第14作「制作」(「作品」)の主人公である画家クロード・ランティエは「居酒屋」のジェルヴェーズの長男です。画家として才能がありながら認められず、精神を病んで悲惨な生涯を送ります。このモデルの一人がセザンヌであるとされ、作品を読んだセザンヌが激怒して二人は絶交した、というのが長い間の通説になっています。
第17作「獣人」の主人公ジャック・ランティエはジェルヴェーズの次男で列車の機関士です。休暇中に列車内で殺人を目撃しますが、犯人の妻と深い関係になってしまうという犯罪小説です。暴力描写もある陰惨な作品です。ジャック自身に時々女性を殺害したくなる衝動に駆られるという病癖があり、これが遺伝的形質とされています。
この作品の映画化には1938年の「獣人」があります。これもジャン・ルノワール監督作品です。疾走する蒸気機関車の荒々しさが主人公の心理描写になっています。主演のジャン・ギャバンが繊細な演技で主人公の苦悩を表現しています。シモーヌ・シモンが魔性を感じさせる犯人の妻役です。

ゾラが「ルーゴンマッカール叢書」の執筆をしていたころ、一群の若い文学者がゾラのもとに集まってきました。ギ・ド・モーパッサン、ジョリス=カルル・ユイスマンスなどです。ゾラを師と仰ぎ、メダンにあったゾラの邸宅に集まっていたことからメダングルーブとも呼ばれています。1880年には、六人の作家による短編集「メダンの夕べ」を発表しています。いずれも普仏戦争に関する出来事を描いた作品で自然主義文学の理念を実践したものです。

グルーブの一人であるモーパッサンは、「メダンの夕べ」の中の「脂肪の塊」という作品が評価されて作家としての地位を確立しました。モーパッサンの代表作は1883年に発表した「女の一生」です。主人公の少女が様々な経験をしつつ成長していく物語で自然主義文学の代表作にもなっています。
この小説は日本を含め各国で映画化されています。2016年のステファヌ・プリゼ監督の「女の一生」は原作に忠実な映画化で、ヴェネツィア国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞しています。ジュディット・シュムラの主演で、ノルマンディー地方の美しい自然を背景にささやかな希望と数々の失望が繰り返される主人公の一生を格調高く描いています。
1890年代には自然主義文学は急速に退潮期に入ります。ゾラ自身も文学的な行き詰りを感じるようになります。ゾラがドレフェス事件に深く関わったのもこの時期になります。
フランスの文学界では自然主義文学への反動から象徴主義の運動が起きます。文学が社会の現実を再現するのではなく、思想や観念を象徴的に表現することを重視するべきであるという考え方です。美そのものを目指したことから耽美主義とも呼ばれます。
代表的な作品には、ボードレールの「悪の華」、ランボーの「地獄の一季節」、マラルメの「半獣神の午後」などがあります。
□映画のあれこれ 見どころと監督、出演者
セザンヌの絵やゾラの小説が好きな方にはおすすめの映画です。この映画を観るとセザンヌの作品を観たくなると思います。
セザンヌとゾラの長年にわたる友情の物語です。セザンヌは感情の起伏が激しく人間関係をうまく築くことができません。世の中から認められず、かたくなになっていきますが、ゾラに対しては率直に話ができます。ゾラは小説と評論で名声を得て貧乏な生活から脱します。一方のセザンヌは、父親からの仕送りを止められて生活にも困るようになり、ゾラはセザンヌを精神的、経済的に支援します。映画は、二人の偉大な芸術家の関係について史実を踏まえて上手く再現しています。また、二人を取り巻く人々との関係や当時の芸術家たちの交流の様子も垣間見ることができます。
1888年の二人の再会の場面と、少年期、青年期の回想場面が交互に描かれる構成であるため時代が頻繁に変わりますが、その都度画面に年号が表示されますので混乱はしません。
ゾラの小説「制作」は、主人公の画家は才能があり精進を続けますが認められずに転落していくという内容ですが、この作品のモデルの一人がセザンヌであると言われています。この小説が契機となって40年にわたる二人の友情に亀裂が入り、二人は決別したというのが従来の通説になっています。一方では、ゾラがこの作品を執筆する際にセザンヌが助言をしており、二人の関係は破綻してはいないという説もあります。2004年には、この作品の発表の後の交友を示す手紙が発見されるなどしており、実際のところは明確にはなっていません。この映画では、基本的には通説を踏まえ、小説の発表の二年後に二人が再会し、激しい口論になるという設定になっています。


映像は美しく、陽光を浴びて輝くような南フランスの自然が楽しめます。セザンヌがキャンバスに描き続けたエクスの風景がセザンヌの絵のままにスクリーンに映し出されます。セザンヌが最も多く取り上げたサント・ヴィクトワール山の実写がセザンヌの絵と重なるという映画ならではの工夫がなされているのも嬉しくなります。
緑豊かなセーヌ川の渓谷の村メダンでも撮影が行われています。なお、ゾラの邸宅は現在も保存されており、ドレフェス事件の博物館として公開されています。
孤独な探求を続け、世の中から認められなかったセザンヌですが、晩年は画家としての評価が高まり、若い画家たちから敬愛されます。映画にはそういった場面はありませんが、画商ヴォラールと関わる場面によってセザンヌの作品が世に出で行き、認められつつあることが示唆されています。
監督はモナコ出身のダニエル・トンプソンです。脚本家として長いキャリアがあり、数々の話題作の脚本を手がけています。代表作には、当時13歳のソフィー・マルソーのデビュー作「ラ・ブーム」(1980年クロード・ピノトー監督)とその続編の「ラ・ブーム2」(1982年同監督)があります。16世紀フランス宮廷を舞台にしたアレクサンドル・デュマの同名小説の映画化「王妃マルゴ」(1994年パトリス・シェロー監督)の脚本も担当し、カンヌ国際映画祭の審査員賞、女優賞(イザベル・アジャーニ)の受賞作となりました。1999年のコメディ「La Buche ブッシュ・ド・ノエル」から監督に転身しています。



ゾラとセザンヌを演じた二人の俳優は、まさに本人になりきったような熱演です。ゾラとセザンヌの作品の愛好家にも違和感のない人物造形になっていると思われます。
ゾラを演じたギヨーム・カネはフランスの俳優兼監督です。俳優としては、フランスで大ヒットしたラブ・コメディ「世界でいちばん不運で幸せな私」(2013年ヤン・サミュエル監督)で主演をしています。第一次世界大戦を背景にした人間ドラマ「戦場のアリア」(2005年クリスチャン・カリオン監督)にはフランス人将校役で出演しています。監督としては、2006年の「唇を閉ざせ」でセザール賞の監督賞を受賞しています。フランソワ・クリュゼが演じる医師が殺されたはずの妻からメールを受け取ったことから始まるスリラー映画です。
セザンヌを演じたギヨーム・カリエンヌも俳優兼演出家で、映画と舞台の両方で活躍しています。2013年の映画「不機嫌なママにメルシィ!」では監督、脚本、主演を務め、セザール賞の作品賞を含む5部門で受賞しています。裕福な家庭で過保護に育てられた少年が自分らしさを見つけていく物語ですが、カリエンヌの自伝的な作品です。役名も本人名と同じカリエンヌであり、母親の役も演じています。舞台ではフランスの国立劇団であるコメディ・フランセーズに所属しており、2016年にはルキノ・ヴィスコンティ監督の傑作映画「地獄に堕ちた勇者ども」の舞台化に参加しています。映画の主演であったダーク・ボガートが演じたフリードリヒ・ブルックマンの役で出演しています。
セザンヌの妻オルタンス役はベルギー出身のデボラ・フランソワです。実力のある女優ですが、この映画でもセザンヌが制作にのめり込み自分をモデルとしか見ないことに不満を抱きながらもついていく女性を好演しています。2012年の「タイピスト!」(レジス・ロワンサル監督)では、田舎から出てきて秘書の職に就き、タイプライター早打ち大会に挑む女性を演じています。
最後にエミール・ゾラの小説を原作としたサスペンス映画の傑作をご紹介します。
■こちらもおすすめです。映画「嘆きのテレーズ」
①映画「嘆きのテレーズ」の概要
1953年フランス映画
監督 マルセル・カルネ
出演 シモーヌ・シニョレ、ラフ・ヴァローネ、シルヴィー、ジャック・デュビー
②映画「嘆きのテレーズ」のあらすじ(ネタバレ無し)
フランスのリヨンです。幼い時に両親を亡くしたテレーズ(シモーヌ・シニョレ)は叔母のラカン夫人(シルヴィー)に引き取られて育てられました。そしてその息子であるカミーユ(ジャック・デュビー)と結婚させられ、義母となった叔母とともに生地店を営んでいます。夫のカミーユは病弱ですが傲慢で身勝手です。義母は陰湿で、息子を溺愛し甘やかしますが、テレーズには小言を浴びせます。テレーズは愛のない結婚生活に疲れ、暗い日々を送っています。
カミーユは貨物駅で働いていますが、ある日イタリア人のトラック運転手ローラン(ラフ・ヴァローネ)と知り合い、意気投合して家に連れてきます。カミーユは毎週木曜日に仲間を集めて競馬のボードゲームの集いを開いていますが、ローランをこの集いにも誘います。テレーズは、夫とは対照的にたくましいローランに惹かれていきます。ローランもテレーズに心を奪われており、二人は互いの思いを確認します。テレーズは束縛されて自由な時間がなく、二人は人目を忍んであわただしく逢引をします。
ローランはテレーズに駆け落ちを迫りますが、テレーズは決心ができず行動に移せません。二人はついにカミーユに二人の関係を打ち明け、離婚の同意を得ようとします。カミーユは承諾せず、テレーズを責め立てたり、すがりつくように哀願したりします。
カミーユはテレーズをパリの親戚宅に閉じ込めようと企み、テレーズを旅行に誘います。テレーズはこの旅行が終われば自由になれると思い、カミーユと一緒に列車に乗ります。不安を感じたローランはトラックで列車を追いかけ、途中から列車に乗ります。
②映画「嘆きのテレーズ」のあれこれ
ゾラの1867年の出世作「テレーズ・ラカン」を現代(映画制作時の1953年)に置き換えて制作した作品です。
監督はマルセル・カルネです。第二次世界大戦前には「北ホテル」、「霧の波止場」(ともに1938年)などの作品がありますが、代表作は映画史上に燦然と輝く「天井桟敷の人々」(1945年)です。大戦中、フランスがドイツに降伏して映画制作が困難を極める中で制作したことで知られます。
「嘆きのテレーズ」では自然主義文学である原作の主題と雰囲気を傷つけることなく、映画ならではの手法を駆使して表現しています。全編が不穏なムードに包まれて重く息苦しいような展開ですが、緊張感のある巧みなストーリーテリングで最後まで観客を引き込みます。後に無数に制作されるサスペンス映画の原型とも言うべき作品です。

人間模様の描写も秀逸で、心理状態を見事に映像で表現しています。満ち足りぬ思いで日々を過ごしていたテレーズは頑強で野性味あふれるローランと運命的な出会いをしますが、義母に育ててもらった恩義もあり、空疎な生活から抜け出す決断ができません。感情を押し殺したようなテレーズの無表情が苦悩の深さを感じさせます。また、テレーズとローランは初めて会った際に、視線を交わす時のわずかな表情の変化で互いに惹かれ合っていることを感じ取ります。いずれも見事な描写です。
テレーズとローランがカミーユと対峙する中盤の見せ場は、原作ではボートの上ですが映画では列車になっています。列車のライトが交錯し、轟音が鳴り響くことによって緊張感を高める巧みな演出です。
また、原作にはない水兵が登場して後半の重要な役割を担うことによって、物語に奥行きが出てサスペンスを盛り上げています。
最後は伏線を回収しつつ、観る者の印象に残る鮮やかな幕切れです。強烈であり、味わい深くもあるエンディングです。

テレーズを演じたのはシモーヌ・シニョレです。はかなげな美しさをたたえつつ、けだるく憂鬱そうな雰囲気を漂わせます。能面の様な表情に内面の葛藤と秘めた思いを時折のぞかせる見事な演技です。犯罪映画のヒロイン役などが多い女優ですが、どんな役柄でも巧みに演じることができます。
この作品の2年後の「悪魔のような女」(1955年アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)では完全犯罪をたくらむ冷酷な女性を演じています。1959年の「年上の女」(ジャック・クレイトン監督)は上昇志向の強い打算的な青年の物語ですが、シニョレは年上の女性の成熟した魅力を振りまいています。
ローランを演じたラフ・ヴァローネはイタリア出身で、サッカーの選手からスポーツ新聞の記者になり、出稼ぎ女性たちの過酷な生活を描いた社会派の映画「にがい米」(1949年のジョゼッペ・デ・サンティス監督)に兵隊役で出演したことから本格的に俳優に転じました。1990年の「ゴッドファーザーPARTⅢ」(フランシス・フォード・コッポラ監督)ではアル・パチーノが演じる主人公マイケルの精神的な導き手となる聖職者に扮しています。

ラカン夫人を演じたのはシルヴィーです。陰険な姑ですが、映画の後半、全身麻痺になってから無言で憎悪の眼差しをテレーズに向ける時の不気味さは背筋が凍るほどです。シルヴィーは非常に長いキャリアのある女優ですが、名作と言われる「舞踏会の手帳」(1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)にも出演しています。若くして未亡人になった女性が独身時代に舞踏会で出会った男たちを訪ねて旅をする物語ですが、シルヴィーは闇医者になったかつての医学生の内縁の妻を演じて存在感を見せています。
この小説の映画化としては1928年の「テレーズ・ラカン」(ジャック・フェーデ監督)もあります。サイレント映画で、主演はジナ・マネスです。
最近では2013年に「テレーズ 情欲に溺れて」(チャーリー・ストラットン監督)があります。日本では劇場公開されませんでしたが、DVDが発売されています。エリザベス・オルセンがテレーズを、オスカー・アイザックがローランを演じていますが、アカデミー賞の主演女優賞と助演女優賞の両方を受賞しているジェシカ・ラングが義母のラカン夫人に扮して強烈な印象を残しています。
