映画「イル・ポスティーノ」は1950年代のイタリアの小さな島を舞台に、島に滞在している南アメリカの詩人と地元の郵便配達の青年の交流を描いた作品です。この詩人はチリのパブロ・ネルーダという実在の人物であり、後にノーベル文学賞を受賞して20世紀を代表する詩人となります。この時期にイタリアに亡命し、ナポリ湾に浮かぶ島に身を寄せていたのも史実であり、そこから物語をふくらませてこの映画ができました。純朴な若者が詩人との交流を通して詩の素晴らしさを学ぶとともに、愛を知り、生きる喜びを見出していく姿を描く物語です。
□映画の概要
1994年イタリア映画
監督 マイケル・ラザフォード
出演 マッシモ・トロイージ、フィリップ・ノワレ、マリア・グラツィア・クチノッタ
アカデミー賞の作曲賞を受賞
□映画のあらすじ(ネタバレ無し)
1950年代、イタリア南部のナポリの沖合にある小さな島が舞台です。主人公のマリオ(マッシモ・トロイージ)は30歳の内気な青年で、漁師の父親と二人暮らしです。父親からは漁師になるよう言われますが、漁師の仕事は性に合いません。張り合いのない退屈な日々を送っています。
ある日、世界的に有名な詩人であるパブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が祖国のチリを追われてイタリアに亡命して来ます。妻のマチルデと共にマリオの住む島に滞在することになります。マリオは映画館でそのニュースを見て、女性に人気のネルーダに憧れを抱きます。ネルーダには世界中の女性ファンから手紙やプレゼントが山のように届きますが、島の郵便局では人手が足らず、ネルーダ専属の郵便配達員を雇うことになります。応募したマリオは、字が読めることもあって採用になります。
マリオは毎日自転車で坂を登って、ネルーダの家に郵便物を届けます。ネルーダは手紙を受け取ってマリオにチップを渡すだけで、言葉を交わすことはありませんでした。そこでマリオはネルーダの著作を購入し、ネルーダにサインをしてもらいます。ネルーダの詩を読み始めたマリオは不思議な感動を覚えます。ある日、何か言いたげに立っているマリオを見てネルーダは声をかけます。それから少しずつ交流が始まります。
二人は美しい砂浜で詩について話しをします。ネルーダは、詩は説明するものではなく感じるものであること、隠喩(メタファー)という表現方法があることなどを話します。マリオは胸の高鳴りを抑えられなくなり、自分も詩を書きたいと思います。
島にはローザというおばさんの営む食堂があり、姪のベアトリーチェ(マリア・グラツィア・クチノッタ)という美しい娘が手伝っています。マリオはベアトリーチェに心を奪われます。
チリの国民的詩人と言われる人物が祖国を追われることになった背景には、当時の東西冷戦、そしてチリの複雑な政治情勢がありました。
それではチリの歴史から見ていきましょう。
◎歴史的背景 アンデス文明とインカ帝国

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チリは南アメリカ大陸の太平洋側に位置する国です。面積は75.6万平方キロメートルで、日本のほぼ2倍です。最大の特徴は国土の細長さです。南北に4,500キロ、東西方向の幅は180キロ程度です。
東にはアンデス山脈が走り、これを隔ててアルゼンチンと隣接しています。北はペルー、ボリビアと接しています。西側には太平洋が広がっていますが、海底には大陸プレートと海洋プレートの境界があり、日本と同様に地震の多い国です。そして、本土から西に3700キロ離れた南太平洋にはモアイ像で有名なパクスア島(イースター島)が浮かんでおり、島全体が世界遺産に登録されています。
なお、南・北アメリカ大陸とカリブ海の島々のうち、アメリカ合衆国とカナダを除いた全域を「ラテンアメリカ」または「中南米」と呼ぶこともあります。
アメリカ大陸に人類がやってきたのはおよそ1万年前と言われています。五大陸の中では最も人類の進出が遅いようです。アメリカ大陸の北端のアラスカとユーラシア大陸の東シベリアの間にあるベーリング海峡が地続きであった氷期に、モンゴロイド(黄色人種)がユーラシア大陸から渡来して定着したものがアメリカ大陸の先住民であると考えられています。
メソアメリカ(現在のメキシコと中央アメリカ)と南アメリカ西部のアンデス山脈周辺で農耕文化が発展し、それが発展して高度な都市文明となりました。農耕はトウモロコシを主食とし、サツマイモやジャガイモなども栽培したようです。
アメリカ大陸の孤立した環境のもとで独自の文明と社会が発展し、他の大陸などからの影響はほとんど受けていません。これらの文明に共通することとしては、金、銀、青銅器を装飾品などとして用いましたが、鉄の製造法は知りませんでした。また車輪や犂も用いられず、人力での耕作が中心でした。統治は、支配者の権力を神から授かったものと考える神権政治でした。
中央アメリカでは前1000年頃までにメキシコ湾岸にオルメカ文明が栄えました。巨石人頭が発見されています。その後、前2世紀~紀元後6世紀にメキシコ中央部でテオティワカン文明が発達しました。「太陽のピラミッド」と呼ばれる世界で三番目の大きさのピラミッド状の神殿で知られています。
メキシコ湾とカリブ海の間に突き出しているユカタン半島では、4~9世紀にマヤ文明が栄えました。複雑な絵文字、精密な太陽暦、独自のマヤ文字、二十進法による計算などで知られます。
メキシコ高原には12世紀以降アステカ王国が栄えました。首都はテノチティトラン(現在のメキシコシティ)で、ここにもピラミッド状の神殿がありました。
一方、アンデス山脈の高地や周辺部に住み着いた人々も、トウモロコシやジャガイモを中心とした農耕や畜産業を始めました。馬のような大型獣はおらず、リャマやアルパカを用いました。リャマとアルパカは現在もアンデス地方に生息するラクダ科の動物です。
紀元前1000年ごろからアンデス地方に花開いた多くの文明の総称をアンデス文明といいます。その中心地は現在のペルーでした。その他、エクアドル、ボリビア、アルゼンチンを含んでいます。チリの北部のアタカマ地方もアンデス文明圏に含まれていました。
アンデス地方では、前1000年ころのチャビン文化をはじめ、巨大な地上絵で有名なナスカ文化や、鮮やかな模様の土器を多数作ったモチェ文化、チチカカ湖周辺に大神殿を築いたティワナク文化など様々な文化が栄えましたが、これらを最終的に統合するような形でインカ帝国が繁栄しました。

インカ帝国は、1200年頃に現在のペルー南部でケチュア人が建てた国家です。拠点のクスコは太陽神殿を中心とする人口20万人の大都市でした。15世紀には急速に拡大して大帝国となります。北はエクアドル、南はボリビア、さらにチリの北部に及びます。

インカ帝国は皇帝を太陽の化身とする専制国家で、中央集権的な行政組織をもっていたと言われています。文字をもたない社会でしたが、縄の結び目の数や位置などで情報を記録・伝達する「キープ(結繩)」という手法を使っていました。高度な石造り建築の技術をもち、大きな神殿を造っています。広大な帝国の統治のために「インカの道」と呼ばれる道路網と駅伝制も整備しました。空中都市として知られるマチュピチュ遺跡は、標高2400mのアンデス山中にあるインカ帝国の遺跡です。インカ帝国の首都であるクスコはさらに1000m高い場所にあり、クスコの市街もマチュピチュと共に世界遺産に登録されています。
インカ帝国はチリ中央部以南にも進出を図りますが、マウレ川付近でマプチェ族の激しい抵抗にあい、インカ帝国の南への拡大はここで停止します。なお、インカ帝国を築いたケチュア人は、現在もペルーやチリなど南アメリカ各国に居住しています。
古代の南アメリカ大陸では、インカ帝国でさえ文字を持たなかったため、ヨーロッパ人がやって来る以前のことについては遺跡や伝承に頼るほかなく、不明な点が多いのが実情です。
◎歴史的背景 スペインによる植民地支配
①スペイン人による征服
15世紀末から16世紀は大航海時代と呼ばれます。ヨーロッパ人が本格的に海外に進出し、南・北アメリカ大陸にもやって来ます。この背景には、マルコ・ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」などから刺激を受けて東方への関心が高まったこと、羅針盤の改良などによる遠洋航海術の発達、肉食の普及による香辛料への需要の増加、キリスト教の海外布教熱の高まりなどがありました。
新たな貿易ルートの開拓の先頭に立ったのはイベリア半島からイスラム教徒を追い出した(レコンキスタ)ばかりのポルトガルとスペインでした。ポルトガルがインド航路の開拓などアジア方面に進出したのに対し、スペインは大西洋経由でインドを目指します。
1492年にスペイン女王イザベルの援助を受けたイタリア人コロンブスの艦隊が大西洋を西に航海し、南北アメリカ大陸にはさまれたカリブ海域の西インド諸島に到達します。その中のバハマ諸島の一つに上陸し、サンサルバドル島と命名します。「聖なる救世主」の意味です。コロンブスはこの地がインドであると信じていたため、先住民をインディオと呼びます。

1519年、スペイン王の命を受けたマゼランは、南アメリカ大陸最南端(マゼラン海峡)を通って太平洋を西に進みます。マゼラン自身はフィリピンで戦死しますが、残った部下が世界周航を達成し、地球が球体であることを証明します。
ポルトガルもアメリカ大陸に進出したため、両国の勢力範囲を設定する必要が生じます。そこで1493年にローマ教皇の仲裁により「教皇子午線」という分界線が定められ、この東側がポルトガル、西側がスペインの勢力圏とされます。その後、1494年のトルデシリャス条約によって分界線が西側に修正され、ブラジルはポルトガルの勢力圏、その他はスペインの勢力圏となります。なおカリブ海の西インド諸島などにはイギリスやフランスの植民地もできます。
16世紀前半には「征服者(コンキスタドール)」と呼ばれるスペイン人などが南・北アメリカ大陸の探検と征服を進めます。スペインは1510年代までに西インド諸島を植民地化し、1520年代にはアメリカ大陸に進出します。1521年にはスペイン人のコルテスがメキシコ高原のアステカ王国を征服します。
さらにスペイン人は1530年代には南アメリカ大陸に進出してインカ帝国を発見します。数では先住民がはるかに勝りましたが、スペイン人の持つ鉄砲と騎馬が威力を発揮します。1532年にスペイン人フランシスコ・ピサロはインカ帝国の内乱も巧みに利用して皇帝のアタワルパを処刑します。これによりインカ帝国は崩壊します。

スペインはその周辺にも支配地を広げていきます。ピサロの配下がペルーから南下してチリに侵攻します。かつてインカ帝国が支配していた地域を征服し、1541年までにチリの中央部までを植民地化します。先住民との戦いの過程で、現在のチリの首都であるサンティアゴ・デ・チレを建設します。
1552年にはチリ南部を流れる大河であるビオビオ川までを支配下に入れますが、その先は先住民族マプチェ族の抵抗にあいます。マプチェ族は非常に勇敢な民族で、有能な指導者であるラウタロのもとで激しく抵抗し、スペインはその先には進めません。その後もビオビオ川を境界にして、スペイン人征服者とマプチェ族の戦いが続きました。これをアラウコ戦争と言います。
スペイン人はメキシコからチリにかけての広大な地域で強力な支配権を確立します。ポルトガルの植民地となったブラジルを除く南アメリカの全域です。そして大規模な殖民を行います。その支配は1820年代に中南米諸国が一斉に独立を開始するまで約300年間続きました。
スペインは植民地の支配のために、もともと文明が発達して人口が多かった地域を拠点とし、スペイン国王の代理として副王を置きます。アステカ王国を征服した後のメキシコには現在のメキシコシティを中心とするヌエバ=エスパーニャ副王領を創設し、インカ帝国の跡地のペルーには現在のペルーの首都リマを建設してペルー副王領を置きます。そしてスペインによる武力支配の下、先住民の文明は破壊され、強制的に労働に従事させられます。しかし植民地化された後も先住民族の抵抗は続き、何度かスペインに対し反乱を起こしています。
②植民地支配の推移
スペインは当初は先住民からの略奪を行いますが、サトウキビなどを生産する農園や牧場の経営を始めます。さらに1545年に発見したポトシ銀山(現在のボリビア南部)をはじめ、ペルーやメキシコの鉱脈を発見し、先住民の奴隷労働により本格的な鉱山経営を始めます。これがスペインの植民地経営の基盤となり、莫大な富をもたらします。
植民地支配は「エンコミエンダ制」という仕組みで行われました。これはスペイン人の植民者に対し、先住民を保護してキリスト教を布教することを条件に先住民を労働力として使役することを認める制度です。実際には先住民を強制的に徴発して農園や鉱山で過酷な労働を行わせるなどの弊害も大きく、ラス・カサスというドミニコ会の宣教師がこれを告発しています。さらに、アメリカ大陸はそれまで他の大陸から孤立した環境にあったため、先住民はヨーロッパから持ち込まれたウィルス性の病気に対する抵抗力がなく、次々と死んでいきます。これにより先住民の人口は急激に減少します。その後は、代替労働力として西アフリカから黒人奴隷を連れてきて労働力として使います。
また、17世紀からはアシエンダ制という大土地所有に基づく農場経営が始まります。ここでも奴隷を労働力とします。
多くのスペイン人、ポルトガル人がラテンアメリカに移住し、文化や習慣、宗教も持ち込まれます。植民地では、ペニンスラールと呼ばれる本国から派遣された白人(スペイン人)が最も権力をもち、主要な役職を独占します。植民地の被支配階級の中で最も力をもったのは、現地生まれの白人(スペイン人)でクリオーリョと呼ばれます。大地主、事業家などの富裕層です。
クリオーリョに支配されたのが、白人と先住民の混血(メスティーソ)、先住民、白人との黒人の混血(ムラート)であり、最下層に黒人の奴隷がいました。この様に様々な人種による複雑な社会が構成されます。徐々に混血も進み、文化も融合します。スペインなどからもたらされたラテン系の文化とカトリックに様々な現地の文化を取り入れたラテンアメリカ独特の文化が形成されます。
植民地の社会が成熟して農業や産業が活発になるにつれて人口も増加し、クリオーリョの力が増します。クリオーリョは特権階級であるペニンスラールに対して不満を募らせ、経済的、政治的な地位の向上を求めて対立するようになります。
植民地時代のチリはペルー副王領の拠点のリマから離れており、山脈や砂漠により周辺地域から隔てられていましたがあくまで副王領の一部でした。
サンティアゴ周辺は温和な気候であるため、小麦やワインの生産が盛んになり、輸出が行われます。チリでは鉱山の開発も進められ、中でも銅の産出が主要産業になります。
しかし、他の植民地と同様にチリで生み出される利益のかなりの部分が本国へ吸い取られます。

17世紀になると、植民地支配の体制が安定し、諸産業が発達して経済が活発になります。しかし本国スペインの力がヨーロッパの中で相対的に弱まり、イギリス、フランス、オランダもアメリカ大陸への進出を図ります。各国が様々な商業活動を開始し、スペインの独占を揺るがすようになります。
1701年、スペインではハプスブルク家の国王が後継者なく亡くなり、王位継承をめぐる国際戦争になります(スペイン継承戦争)。この結果、スペイン王室はフランスのブルボン家に変わります。また、イギリスが多くの植民地貿易の特権を得て、その後の繁栄の基礎を築きます。
スペインでは、ボルボン改革とよばれる財政の立て直し政策を実施します。アメリカ植民地との貿易の統制を強化し、収益の増大を図ります。また、植民地での政治的、経済的な支配の強化を図るため、新しい副王領を設けます。ペルーの北のコロンビアを中心にヌエバ・グラナダ副王領を創設し、南方にはアルゼンチンを中心にリオ・デ・ラ・プラタ副王領を設けます。ブエノスアイレスが拠点となります。
しかしスペインは海上覇権をイギリスに奪われて貿易の統制も十分にできなくなり、衰退を止められません。18世紀にはヨーロッパなどで戦争が続きますが、イギリスは海軍力を増強して大西洋でスペインやフランスを圧倒し、アメリカ大陸への影響力を強めます。
◎歴史的背景 ラテンアメリカの独立運動
アメリカの植民地にもヨーロッパから様々なモノや情報が流入するようになります。アメリカ大陸で生まれ育った白人(クリオーリョ)は数も力も増しており、スペイン本国による植民地政策に疑問を持つ人々も出てきます。
1776年には、北アメリカ大陸でアメリカ合衆国が独立を達成し、イギリスの支配から脱します。1789年にはフランスの民衆が革命を起こし、自由と平等の理念はラテンアメリカにも伝わります。1780年、ペルーで「トゥパク=アマルの反乱」と呼ばれる先住民の反乱が起きます。鎮圧はされますが、これがラテンアメリカでの独立運動の先駆けとなります。
1791年、カリブ海のエスパニョーラ島西部のフランス植民地サン=ドマングでトゥサン=ルベルチュールの指導する黒人暴動が起きます。この暴動は鎮圧されますが反乱が続き、1804年には黒人奴隷たちが独立国ハイチを立ち上げます。黒人による共和制国家であり、ラテンアメリカで最初の独立国家になります。
ラテンアメリカの現地の支配層であったクリオーリョは、インディオや黒人の反乱に危機感をもちます。本国からの独立を望む機運が次第に高まり、本国政府に代わって現地での直接的な支配の確立を目指します。その後、ラテンアメリカの独立運動はクリオーリョが主体となります。

1808年、スペイン本国がフランスのナポレオンに征服されます。ナポレオンは自分の兄をホセ1世としてスペイン王に据え、スペインを従属国とします。それに対してスペイン民衆が蜂起してスペイン独立戦争となり、1814年にはフランスは撤退します。
スペイン本国が混乱して政治的な空白が生じたのを受けて、ラテンアメリカ各地で本国に反旗を翻して独立を目指す動きが活発になります。
1810年にはメキシコで司祭イダルゴの指導する蜂起が起き、1821年に独立を達成します。
1811年には、ラテンアメリカで最も早く、パラグアイで独立宣言が出されます。
アルゼンチンでも1810年に独立戦争が始まります。現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの3カ国をラプラタ地域ともいいますが、1816年7月にはこの地域を統合して「リオ・デ・ラプラタ諸州連合」として独立を宣言します。しかし、スペイン軍の圧迫を受けて苦戦し、簡単には独立できません。
ラプラタ地域の独立戦争の中から指導者として台頭した人物にサン・マルティンがいます。アルゼンチン出身のクリオーリョです。この人物が南アメリカの南部の独立運動の指導者となります。

チリでも1810年にスペイン人の総督が追放され、サンチャゴ・デ・チリに独自の臨時政府が設置されます。国民議会を招集し、共和国の建設の準備をします。しかしペルーの副王が派遣するスペインの軍隊がこの動きを鎮圧します。1814年、独立運動のリーダーのベルナルド・オイギンスは、ランカグアの戦いでスペイン軍に敗北し、チリはスペインに再度占領されてしまいます。

オイギンスは、リオ・デ・ラプラタ諸州連合のアルゼンチンに亡命します。しかしアルゼンチンでもスペイン軍の攻勢を受けて危機に瀕しています。独立運動の指導者であるサン・マルティンは、植民地を解放してラテンアメリカ全体の独立を達成するためには、スペイン勢力の中心であるペルーを攻略して副王を倒すことが必要と考えます。
サン・マルティンはオイギンスと共にアンデス山脈を超えて大遠征を行います。チリに侵入してスペイン軍に不意打ちをかけ、1817年、チャカブコの戦いでスペイン軍相手に勝利をおさめます。1818年2月、オイギンスがチリの独立を宣言して臨時政府を樹立します。さらに同年、チリとラプラタ連合州の連合軍は軍隊を増強してマイプーの戦いでスペイン軍を破り、チリの独立は確実なものになります。

一方、南アメリカの北部の独立運動の指導者は、ベネズエラ出身でクリオーリョのシモン・ボリバルです。1819年8月のボヤカの戦いでスペイン軍を破り、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)の独立を達成します。そして「大コロンビア共和国」の構想を発表します。現在のコロンビア、エクアドル、ベネズエラを合わせた地域です。しかし地域間の対立もあり、結局は1830年に分離独立をすることになります。
1825年には、ボリバルの名を国名に取り入れたボリビアが共和国として独立します。
ブラジルでは、ナポレオン戦争の際にポルトガルの王室が植民地に避難してき来ます。本国の混乱が終息した後に王室はポルトガルに帰還しますが、皇太子のドン・ペドロがブラジルに残り、皇帝となってブラジルは帝国として独立します。1889年には共和制に移行します。
チリの独立の後、サン・マルティンはチリからペルーに進む準備を整え、1821年7月にはリマでペルーの独立を宣言します。しかしスペイン軍の反撃もあり、ペルーでの情勢が悪化して一度撤退します。事態を打開するため、1822年7月にサン・マルティンはシモン・ボリバルと会談を行います。しかし両者の関心の食い違いもあって合意に達することができません。会談後、サン・マルティンはペルーを去ることになります。シモン・ボリバルの率いる独立軍は1824年にはアヤクーチョの戦いでスペイン軍を破り、ペルーの独立を確固たるものにするとともに、南アメリカ諸国の独立を決定づけました。
その後サン・マルティンは不遇をかこちますが、アルゼンチンでは独立の英雄として後々まで高く評価され、現在でもその命日はアルゼンチンの国民の祝日となっています。
こうして1810~1820年代の独立戦争によりラテンアメリカ諸国が一斉に独立を達成します。スペイン領として残ったのはキューバとプエルト・リコのみになります。
この時期、ヨーロッパはナポレオン戦争後の保守的なウィーン体制です。フランス革命前の王朝を正統とみなす復古的な国際秩序です。ヨーロッパの絶対王政の諸国はラテンアメリカ諸国の独立への介入を図ります。それに対しアメリカ合衆国はモンロー教書を発表してアメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉の原則を打ち出し、ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸に干渉することを批判します。
また、産業革命が進んでいるイギリスのカニング外相は、自国の工業製品の市場の開拓を狙います。そのためラテンアメリカの諸国がスペインから独立することを期待してアメリカ合衆国を支援します。これによりアメリカ大陸での独立が進み、その後はイギリスの進出が進みます。
◎歴史的背景 独立国チリの発足
独立を果たしたチリでは、初代大統領にオイギンスが就任して新しい国づくりが始まります。1833年には憲法を制定します。国力を蓄え、鉄道などを整備して発展していきますが、他のラテンアメリカ諸国と同様に経済的にはイギリスへの従属が強まります。
また、独立後は国境を巡る隣国との対立も深刻化します。1836年、チリの隣国であるペルーとボリビアが連合して一つの国になります。チリは自国の北方に大国が出現することに脅威を感じ、1840年に軍隊を派遣してペルー・ボリビア連合国を解体に追い込みます。

ペルーとボリビアの2国とは1870年代にも戦争になります。焦点になったのはチリの北方にあるアタカマ地方です。アンデス山脈と太平洋の間に広がる海岸の砂漠ですが、多くの鉱物資源に富んでいました。特に19世紀半ばにはこの砂漠が天然の硝石の産地であることが判明します。硝石は火薬や肥料の製造に用いられる貴重な資源であり、アタカマ地方の産出量は世界最大級です。もともとはチリ、ボリビア、ペルーの3カ国に分割されていましたが、この地域の領有をめぐる争いが起きます。
チリは1873年、ペルーとボリビアの2国相手に戦争を開始します。これを「太平洋戦争」といいます(「硝石戦争」とも呼ばれます)。戦争はイギリスの支援を受けたチリの勝利で終わり、ペルーとボリビアの領土の一部をチリが獲得します。特にアタカマ地方は全域がチリの領土となり、本格的に硝石の開発を進めます。ここで産出する硝石は「チリ硝石」と呼ばれ、安価なこともあってヨーロッパなどへの重要な輸出品となります。敗れたボリビアは海への出口を失い、停戦後もチリと国交を断絶します(現在でも正式な国交は回復していません)。


チリの南部についてはビオビオ川を境にマプチェ族と対立していましたが、1861年からマプチェ族の住むアラウカニア地方の制圧作戦を進めます。マプチェ族は最後の大規模な抵抗を見せますが、1883年に鎮圧されます。マプチェ族はかつてインカ帝国の侵攻を食い止め、スペインの侵略にも抵抗を続けて長期にわたって南アメリカ南部を支配してきましたが、この後はチリの社会に組み込まれます。現在でも民族としての誇りを持ち続けていると言われています。

一方、東隣りのアルゼンチンとの国境線はおおむねアンデス山脈上に引かれましたが、最南部のパタゴニア地方を巡って対立します。南緯40度付近を流れるコロラド川以南の地域ですが、油田が発見されたこともあって両国が開発を進めます。現在もチリとアルゼンチンにまたがっています。
こうしてチリは、南北に領土を広げていきます。
ラテンアメリカ諸国の独立は、植民地生まれの白人であるクリオーリョの本国に対する反逆という性格が強いものでした。独立を達成したものの農地改革等は行われず、植民地時代の大土地所有制が存続します。大地主や大商人であるクリオーリョが政治的、経済的な権益を独占します。そのため貧富の差が大きく、国内の支配をめぐって様々な対立が続いて国内は不安定です。
また、ラテンアメリカ諸国の共通の課題は、農産物や鉱物資源等の少数の原材料の生産と輸出に大きく依存するモノカルチャー経済であるため、経済的に不安定であることです。ブラジルはコーヒー、アルゼンチンは羊毛や小麦の輸出に依存します。19世紀には欧米の先進国では産業化が進み、人口も増加して食料や原料の需要が増大します。ラテンアメリカは、その供給地としてヨーロッパから資本投下がなされて本格的な開発が進みます。特に、真っ先に産業革命を進めて世界市場の開拓を目指すイギリスがラテンアメリカの経済を支配することになります。
チリも銅などの輸出に依存するモノカルチャー経済で、イギリスが最大の貿易相手国となります。このため経済や財政が不安定な状態に置かれます。
19世紀後半以降は、アメリカ合衆国が海外への政治的、経済的な影響力の拡大を図ります。その一環として南・北アメリカ大陸全体を自国の勢力圏にしようとします。1889年にはアメリカ合衆国の主導で第一回のパン=アメリカ会議を開催します。これは南・北アメリカ大陸の協調と連帯を図るものです。
1898年の米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)でアメリカ合衆国はスペインを破ります。アメリカ合衆国はカリブ海のキューバの独立を支援しますが、アメリカ合衆国の干渉権を認めるプラット条項を強制し、事実上アメリカ合衆国の保護国とします。
1903年にはコロンビアからパナマを独立させてパナマ運河の建設に着手します。
◎歴史的背景 チリの成長

ペルーとコロンビアの二国と戦った「太平洋戦争」後のチリは、銅や硝石の輸出により経済が順調に成長します。ヨーロッパからの移民もあって人口が増え、街並みが整備されます。鉄道、道路、港湾が建設され、鉱業をはじめとする産業の近代化も進められます。ブラジルやアルゼンチンに次ぐ南アメリカの主要国となります。しかし、イギリスやアメリカなどの外国資本に負うところが大きいのが実態でした。
政治的には憲法のもとで議会政治の形がとられ、ラテンアメリカ諸国の中では比較的安定していました。
しかし他のラテンアメリカ諸国と同様にチリも貧富の差が非常に激しい社会となります。ごく少数の裕福な上層部を除き、90%以上の国民は貧しい労働者か大農園で低賃金で働く小作人となります。
チリ硝石は戦争をするために不可欠な火薬の原料であることから輸出が伸び、チリ経済を支えていました。
しかし1913年にハーバーボッシュ法という工業化学の重要な発明が行われます。これは鉄を主体とした触媒を用いて空気中の窒素を水素と反応させてアンモニアを合成する方法ですが、これによりチリ硝石を用いずに火薬や窒素肥料を製造することが可能になりました。この結果、チリ硝石の価格は下がり、輸出は激減します。チリの硝石の生産は1930年代をピークに衰退し、硝石産業に依存していたチリの経済は打撃を受けます。そのシワ寄せが最下層の労働者に及びます。
なお、アタカマ砂漠にはかつてのチリ硝石工場群の跡地があり、2005年に世界遺産に指定されています。

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ここからは、映画「イル・ポスティーノ」の中心人物の一人である詩人パブロ・ネルーダの生涯とチリの歴史を照らし合わせて見ていきましょう。
☆パブロ・ネルーダの生涯 その1
パブロ・ネルーダは多様なスタイルの詩で知られています。南アメリカの自然の美しさを讃える詩、人生の無常、死、孤独をテーマにした詩、恋に破れた嘆きや情熱的な思いを歌った愛の詩、激動する社会情勢を背景に権力者を糾弾し、民衆に呼びかける詩、シュルレアリスム的な詩、歴史に思いをはせる詩など様々ですが、共通するのは根底に人間への深い愛があることです。「百年の孤独」などで知られるコロンビアの小説家ガブリエル・ガルシア=マルケス(ノーベル文学賞受賞者)はネルーダを「すべての言語の中でも20世紀最高の詩人」と讃えています。
ネルーダは1904年にチリの首都サンチャゴの南にあるパラルという町で生まれました。13歳の時に最初の詩の作品を地元の日刊紙に発表して知られるようになります。その後も地元の雑誌などに詩やエッセイを発表します。チリ大学に入学しますが、後に詩作に専念するようになります。
20歳の時に「20の愛の詩と一つの絶望の歌」という詩集を発表します。愛情と欲望があふれるような恋愛詩で、その官能性が論争を呼びますが、高く評価されて詩人としての名声を確立します。現在でもネルーダの最も有名な作品の一つです。

1927年からは外交官として東南アジア、メキシコ、スペインなどに赴任します。ジャワ島のバタビア(現在のインドネシアのジャカルタ)赴任中に、オランダ人の女性と最初の結婚をしています。
20世紀に入るとラテンアメリカはアメリカ合衆国の経済的な影響下に入ります。イギリスは第一次世界大戦で国力が大きく低下し、世界市場を支配する力を失います。アメリカ合衆国はラテンアメリカ諸国に対する経済的な影響力を維持するために政治にも介入するようになり、各国内のアメリカ企業の活動を保障する政権を支援します。
1929年にアメリカで大恐慌が起きると、各国に波及して世界恐慌となります。アメリカ経済と深く結びついていたチリの経済も大打撃を受けます。困窮した労働者の怒りが沸騰し、1932年にはクーデターで一時的に社会主義政権が発足するまでになります。しかしこの政権も短命に終わります。
チリは恐慌を乗り切るために自国の工業の育成に努めます。
アメリカのフランクリン・ローズベルト大統領は、それまでのラテンアメリカに対する強圧的な外交から善隣外交に転じ、各国への介入や干渉を行わない方針を打ち出します。
1930年代には、世界恐慌の余波で各国の社会が混乱するなか、世界的にファシズムが台頭します。その一方では左翼勢力を中心として反戦、反ファシズムの統一戦線を結成する動きもでます。フランスやスペインなど人民戦線による内閣が生まれる国もあります。チリでも1938年に人民戦線内閣が発足し、9年間政権を担当します。
チリは第二次世界大戦では中立の立場に立ちますが、最終的にはアメリカ合衆国等の連合国側で参戦します。第二次大戦中はそれまでヨーロッパから輸入していた工業製品が入ってこなくなります。そのためアメリカとの結びつきが強まるとともに、工業製品の自給を目指し、結果的にチリの工業化が進んで景気が回復します。
☆パブロ・ネルーダの生涯 その2
1934年からはスペインに領事として赴任します。ネルーダはこの時期に共産主義に接近します。スペインでは1936年に人民戦線内閣が成立しますが、反人民戦線のフランコ将軍らの反乱軍が蜂起し、人民戦線政府との間で内戦に突入します。ネルーダはこれを目の当たりにし、著作や演説を通して人民戦線を強く支持します。
最初の妻とは疎遠になり、デリア・デル・カリルというアルゼンチン人の画家の女性と親しくなります。
1935年には「地上の住処」という前衛的な詩集を発表します。
1940年からはメキシコの総領事となります。メキシコ滞在中に最初の妻と離婚し、デル・カリルと結婚します。デル・カリルとはその後15年間苦楽を共にしており、この妻に捧げる詩も多く残しています。
また、スペイン内戦で人民戦線を支持して以来、ソビエト連邦とその指導者スターリンに対する敬愛を明らかにしています。1942年にはスターリングラードでのソ連軍の奮闘を讃える「スターリングラードにささげる新しい愛の歌」という詩を発表し、ソ連が著名な共産主義者に授与するスターリン平和賞を受賞(1953年)しています。ネルーダは後年スターリンに幻滅し、ソ連を支持したことを後悔していますが、ノーベル文学賞の候補になった際には独裁者スターリンを賞賛したことが問題になっています。しかしネルーダが共産主義者であることは変わらず、チリの共産党への支持はその後も続きます。
1943年にはチリに帰国します。その後ペルーなどをめぐり、マチュピチュ遺跡を訪れています。この時の感慨が1945年に発表した「マチュピチュの高み」という詩に結び付きます。12部構成の長詩で、ネルーダのアメリカ大陸の古代文明への関心の高さが表れています。
◎歴史的背景 東西冷戦の時代
第二次世界大戦後、世界は東西冷戦の時代になります。チリを含むラテンアメリカはアメリカ合衆国の強い影響下に置かれ、その陣営に組み込まれます。アメリカ合衆国は共産主義がラテンアメリカに浸透することを警戒し、各国に対する経済支援とともに、集団安全保障体制を強化します。
1947年、リオデジャネイロで開かれたパン=アメリカ会議でリオ協定(米州共同防衛協定)が締結されます。共同防衛と相互協力を目的とします。さらに1948年には、パン=アメリカ会議が発展した米州機構(OAS)が発足します。アメリカ大陸の国々が相互に協力する国際組織です。チリはこれらの協定や組織のいずれにも参加しています。
また、アメリカ合衆国は各国の反米、反政府活動の鎮圧等を支援するために大統領直属の諜報機関として中央情報局(CIA)を設置します。これがチリにも大きく関わってきます。
チリも東西冷戦に巻き込まれます。1946年にガブリエル・ゴンザレス・ビデラが大統領に就任します。1938年以来の人民戦線内閣が継続しており、政権の発足時には共産党を含む連立内閣です。しかしビデラ内閣はアメリカ合衆国と連携する政策に転じます。ソ連と断交して共産党を連立内閣から排除し、人民戦線は崩壊します。さらに1948年には「民主主義防衛法」という法律を成立させて共産党を非合法化します。アメリカからはチリの銅鉱山の開発などへの投資が拡大します。
☆パブロ・ネルーダの生涯 その3
1943年に外交官としての勤務を終えたネルーダは、1945年に上院議員に当選します。同年、チリの共産党に入党します。1947年に共産党が主導する鉱山作業員のストライキが起きますが、ビデラ政権はそれを弾圧し、参加した労働者を強制収容所等に送り込みます。1948年1月、ネルーダは上院でビデラ政権を「祖国をアメリカ合衆国に売り渡した」と激しく批判する演説をします。
1948年9月に民主主義防衛法によって共産党が完全に非合法化され、投票権を剥奪されます。ネルーダも議員の資格を剥奪され、逮捕される危機に瀕します。チリ南部に潜伏し、さらに国外への逃亡を余儀なくされます。1949年3月、アンデス山脈を越えてアルゼンチンに亡命します。ネルーダは後にノーベル賞の受賞講演を行った際に、この時の脱出劇について語っています。
その後はヨーロッパ各地に滞在することになります。ネルーダが病気で倒れた際に、チリの歌手であるマチルデ・ウルディアという女性の介護を受け、その後不倫関係になります。後年結婚して三番目の妻となったこの女性は、ネルーダの後半生の作品のミューズになります。映画「イル・ポスティーノ」にネルーダの妻として登場するのもこの女性です。
また、1950年には「ユナイテッド・フルーツ・カンパニー」という詩を発表します。カリブ海のバナナ等の果物の生産を独占しているアメリカの会社を糾弾したものです。ネルーダはこの詩で、アメリカ企業によるラテンアメリカの経済的支配、自然や社会生活の破壊を告発します。
ネルーダの亡命生活は1949年3月から1952年8月の3年半に及びました。1952年には、イタリアの歴史家の所有するカプリ島の別荘に滞在します。この時の経緯をベースにして制作された映画が「イル・ポスティーノ」です。
□映画のあれこれ 映画の見どころ
小さな島を舞台にマリオとネルーダの出会いと交流を描いた珠玉の作品です。マリオが詩についての質問をしたことから二人が徐々に心を通い合わせ、友情が育まれていく過程が微笑ましく、心地がいいです。
マリオは詩に親しみ、詩のすばらしさに目覚めます。マリオは内向的で自分の思いを上手く言葉にできませんでしたが、詩を作ることによって、心のうちを自分の言葉で表現できるようになります。心が感じたことを言葉として紡ぐことの素晴らしさを知ります。
マリオが実感した「学ぶこと」の楽しさは、この映画を観る人にも伝わります。無教養だったマリオは愚直なまでに詩を学ぼうとします。不器用ながら詩を理解し、自身でも詩を作るようになります。それがマリオの生活を彩ります。

マリオが学んだものは「言葉の力」です。言葉がいかに人の心を揺さぶり、人生を豊かなものにするかを学びます。詩の奥深さと詩に込められた思いについて理解を深めます。詩に親しみ、詩の表現に惹かれることによって、口下手だったマリオの言葉に力が与えられます。
自分の思いを他のものに例える隠喩(メタファー)の技法を学びます。マリオが詩に触れた自分の気持ちを
「言葉の真っ只中で揺れる小舟のようだ」
と言うと、ネルーダが「うまい隠喩だ」と言って褒めています。
マリオはネルーダから学んだ詩を披露しつつ、隠喩を駆使してベアトリーチェに思いを伝えようとします。ベアトリーチェも流れるような美しい言葉の数々に心を動かされます。マリオに対して仏頂面ばかりを見せていたベアトリーチェが溢れんばかりの笑みを見せる場面が心に残ります。
平凡で退屈だった日々に詩が息吹を与えます。純朴なマリオの感性が磨かれ、心の世界が広がります。生きる喜びを覚え、同時に愛を知ります。少しずつ成長していく様子を淡々と温かく描いています。何気ない日々の暮らしの中に喜びを見出します。それが人生を豊かなものにします。

外の世界にあこがれていたマリオが、実は自分の身の回りの世界が美しいものであふれていることに気づき、目を見開かされます。生活するだけの場所だった自分の周囲に輝きを発見します。
島の穏やかな美しい風景が素晴らしいです。どこまでも広がる空、真っ青な海、緑の山、切り立った岸壁、白くまぶしい光、そして小さな漁村の風景が魅力的です。素朴な島民たちの日常とのんびりとした島の空気が懐かしい香りを込めてスクリーンに写し出されます。
美しい風景の中で紡がれる詩の数々が胸に迫ります。
なお、ネルーダが実際に滞在していたのはカプリ島ですが、この映画の撮影は同じナポリ湾のプローチダ島などで行われました。とても美しいところです。
終幕は胸が締め付けられるように切なく、深い余韻を残します。観る者の心に残る作品です。
□映画のあれこれ 原作、監督、出演者など
この映画はアントニオ・スカルメタというチリの小説家が1985年に発表した小説を原作としています。物語の大枠は原作に基づいていますが、原作が1970年代のチリを舞台にしているのに対し、映画は1950年代のイタリアに変更しています。ネルーダがカプリ島に身を寄せていた史実を踏まえて物語を再構成しています。主人公も17歳の少年から30歳の青年に変更しています。
映画のエンドロールの最初に「友である故マッシモに捧げる」という献辞がクレジットされます。この映画の共同脚本に名を連ね、主役のマリオを演じたマッシモ・トロイージに捧げたものです。マッシモ・トロイージはイタリアの監督兼俳優です。1989年の「スプレンドール」(エットーレ・スコラ監督)などの主演作があります。トロイージがこの小説の映画化権を取得したことがこの企画の始まりです。トロイージは心臓に重大な疾患があり移植をする予定でしたが、この映画の制作を優先して手術を延期しました。撮影中も日に日に体力が衰え、1日に2時間しか撮影に耐えられませんでした。撮影終了の12時間後に41歳の若さで亡くなりました。トロイージが文字通り命を懸けて残したこの映画は、時を超えて世界中の人々に愛される名作となりました。なお、トロイージは死後、この作品でアカデミー賞の主演男優賞と脚色賞にノミネートされています。
監督はイギリスのマイケル・ラドフォードです。トロイージの10年来の友人であったことから監督を依頼されました。温かみのあるヒューマンドラマを多く残しています。2004年にシェイクスピア劇の映画化である「ヴェニスの商人」をアル・パチーノとジェレミー・アイアンズの主演で撮り、2014年には「トレヴィの泉で二度目の恋を」というラブロマンスをクリストファー・プラマーとシャーリー・マクレーン主演で制作しています。



パブロ・ネルーダを演じたのはフランス映画界を代表するフィリップ・ノワレです。100本以上の作品に出演していますが、1988年のイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジョゼッペ・トルナトーレ監督)が有名です。映画監督である主人公が少年時代を回想する物語ですが、少年の人生の師であり友でもある映写技師役をノワレが演じ、「イル・ポスティーノ」とともに代表作となりました。「イル・ポスティーノ」では高名な詩人であるとともに辛酸をなめた政治家でもある実在の人物に扮し、優しさと温かさ、そして高い知性に裏付けられたユーモアを醸し出して抜群の存在感です。
マリオが恋をするベアトリーチェを演じたのはイタリアの女優であるマリア・グラツィア・クチノッタです。1999年には007シリーズの第19作となる「007ワールド・イズ・ノット・イナフ」(マイケル・アプテッド監督)に出演して暗殺者の役を演じています。
「イル・ポスティーノ」は、公開後は各国で非常に好評でした。アカデミー賞には作品賞を含む5部門でノミネートされて作曲賞を受賞しています。音楽はアルゼンチン出身でイタリアを中心に活動したルイス・バカロフです。マカロニ・ウエスタンなどの音楽を担当してきました。「イル・ポスティーノ」ではゆったりとした哀愁の漂う音楽を提供しています。郷愁を誘うメロディが心の隅々まで染みわたります。バカロフは、ラドフォード監督の「トレヴィの泉で二度目の恋を」の音楽も担当しています。
なお「イル・ポスティーノ」の音楽のサントラ盤の制作に当たって、ジュリア・ロバーツ、マドンナ、アンディ・ガルシアなどがパブロ・ネルーダの詩の朗読をしたものが収録されました。日本でも輸入盤を入手すれば聴くことができます。
□映画のあれこれ パブロ・ネルーダの詩
映画「イル・ポスティーノ」の物語にはネルーダのいくつかの詩集が関わっています。一つは1950年に発表された「大いなる歌」という詩集です。ネルーダが1971年にノーベル文学賞を受賞した際の受賞理由になった壮大な叙事詩です。
ネルーダの自らの体験を踏まえた南アメリカ大陸の歴史、地理、豊かな自然、動植物、そして抑圧された人々の哀しみなどについての豊穣で生命力にあふれた心の叫びです。南アメリカ諸国の民族史であり、諸国の人々の自由と解放を力強く訴える詩でもあります。弱者に寄り添い、虐げられた人々の苦しみを伝えることに力を注いだネルーダの代表的な詩集です。「マチュピチュの高み」「木こりよめざめよ」など有名な詩もこの中に収められています。
ネルーダが逃亡を余儀なくされた間も執筆を続けて完成しました。イタリアに亡命中の1950年にメキシコやチリで刊行されました。「イル・ポスティーノ」の中でも、ネルーダは抑圧された人々への思いの中から詩が生まれたことを語っています。また、ネルーダの誕生日に祖国の同志から録音テープが届く場面があります。そこで「大いなる歌」が密かに刊行されたことを知らせています。

もう一つは「100の愛のソネット」という詩集です。三番目の妻であるマチルデに捧げたものです。人間の一生を通しての愛の喜び、悲しみ、苦悩を歌った多彩で官能的な愛の詩集です。14行のソネット形式でできています。
この詩集の27番目に「裸のきみは」という詩があります。恋人の裸身を歌った詩で、ネルーダがマチルデのために書いたものですが、これをマリオがベアトリーチェに贈ります。ベアトリーチェは隠していたのですが、伯母のローザに見つかってしまいます。
ローザには卑猥にしか思えず、マリオがベアトリーチェの裸を見たに違いないと思ってネルーダに抗議に行くというエピソードもあります。
ネルーダがマリオに「他人の詩を勝手に使ってはいけない」と諫めたのに対してマリオが言います。
「詩は書いた人間のものではなく、それを必要としている人間のものだ。」
これを聞いてネルーダが感心します。
それでは引き続きチリの歴史を見ていきましょう。
◎歴史的背景 社会主義政権と軍事クーデター
チリのビデラ政権は経済政策などについて支持を失い、1952年に辞職します。
民主主義防衛法は1958年に廃止され、共産党の非合法化も解除されます。
1960年5月、チリの近海を震源域としてM9.5という観測史上最大級の地震(チリ地震)が起き、チリ本土のみならず、ハワイ、ニュージーランド、日本を含む環太平洋全域に津波が襲来しました。地球の裏側にある日本では地震発生から22時間半後に最大6.1mの津波を観測し、死者・行方不明者139人という被害が発生しました。

貧富の格差の激しいラテンアメリカの諸国では、大衆や労働者の中に新しい政治を求める声があがるようになります。経済の平等を掲げる社会主義に魅力を感じる人も少なくありません。1959年1月、キューバ革命により親米のバティスタ政権が倒されてカストロ政権が発足します。カストロ政権は1961年5月には社会主義を宣言し、社会主義の国づくりを始めるとともに、革命の輸出も図ります。その影響がラテンアメリカ各地に及びます。
カストロの協力者であるゲバラは、世界同時革命を目指して南米各地を訪れます。映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年ウォルター・サレス監督)は、若き日のゲバラのラテンアメリカ各地への旅行記を映画化したものです。ゲバラがチリを訪れて銅山の最下層の労働者と出会う場面もあります。
ラテンアメリカの各地で貧困層を中心に格差の縮小を求める声が高まっていくと、アメリカ合衆国は大きな危機感を抱きます。1961年、キューバを除くラテンアメリカ各国とアメリカ合衆国の19カ国により「進歩のための同盟」が結成されます。福祉や医療などについてアメリカ合衆国が支援することにより地域内の共産化を阻止しようとするものです。
アメリカとソ連による軍備拡張と核開発の競争はエスカレートし、1962年10月のキューバ危機では核戦争の瀬戸際まで来ますが、米ソの直接の衝突は回避されます。しかし、キューバは社会主義国として存続します。
☆パブロ・ネルーダの生涯 その4
ネルーダは1952年8月に逮捕令が解けてチリに帰国します。
1962年にはモスクワを訪問します。この時にパキスタンの詩人で社会活動家のファイズ・アハマド・ファイズと出会い、交友が始まります。この人物はインドと分離独立したパキスタンの軍事政権に国を追われ、ソ連をはじめ各国に滞在していました。
ネルーダはキューバ危機に際してはアメリカを非難し、その後のベトナム戦争へのアメリカの関与を批判します。
1960年代以降、ラテンアメリカの多くの国が経済発展を遂げます。しかし貧富の差も拡大し、政治的に不安定な状況が続きます。そういった中でチリは1932年以来安定した政治が続き、クーデター等は起きません。
チリでは1964年エドゥアルド・フレイ・モンタルバ大統領が就任し、「自由の中の改革」を唱えます。その一環として大地主の土地を貧しい人々に分配する農地改革に取り組みます。しかし地主の反対を抑えきれず、不徹底なままに終わりました。

1970年に大統領になったのが、社会主義を掲げるサルバドール・アジェンデです。チリは選挙によって民主的に社会主義政権が成立した初めての国となります。キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交を回復します。アジェンデはキューバの指導者であるカストロと親交があり、互いに訪問して信頼関係を築きます。
フレイ大統領の農地改革が不発に終わったのを踏まえ、アジェンデはこれを徹底的に行います。大土地所有制を解体し、土地を持たない農民に農地を安く分け与えます。更に年金や最低賃金の引き上げ、医療費の国民負担の軽減などの福祉政策を重視します。しかしこれらの施策は政府の出費を増大させることになります。
さらに世界一の埋蔵量を誇る銅鉱山などの国有化を図ります。銅鉱山の大半はアメリカ資本によるものでした。これをチリ政府が無償で接収したため、アメリカとの関係は著しく悪化します。
また、農地改革で土地を得た農民には営農技術が不十分な農民も多く、農業生産高が減少します。市場は物資不足になり、インフレが急速に進んで国民の不満が高まります。
☆パブロ・ネルーダの生涯 その5
1970年のチリの大統領選に際し、ネルーダは共産党から大統領候補に推されますが辞退します。この選挙でネルーダは左翼の統一候補になったアジェンデの支援にまわります。アジェンデの大統領就任後は駐フランス大使に任命され、アジェンデ政権の外交の一翼を担います。
在任中の1971年にノーベル文学賞を受賞します。
しかしネルーダは癌に侵されていたため、1972年に大使を辞任して帰国し、静養します。
チリのアジェンデ政権は財政赤字に苦しむ一方、ストライキなどで社会不安が高まり、アメリカ合衆国とも対立して追い詰められていきます。
チリが第二のキューバになることを恐れるアメリカ合衆国は、CIAを使って反アジェンデ勢力に資金を提供したと言われています。この時期のアメリカのチリの政変への介入について、アメリカは関与を否定しており、長年議論の的となりました。その後の調査ではある程度の関与を行ったと考えられています。デモやストライキなど社会不安を煽ったり、議会関係者への贈賄、世論操作などを行い、クーデターを促すための環境を整えたと推測されています。
そして1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍らのチリ軍がクーデターを起こし、首都サンチャゴにある大統領官邸を攻撃します。アジェンデは降伏を拒否し、最後の演説を行って官邸に止まりますが、自殺に追い込まれて社会主義政権は倒されます。
この出来事は2001年のアメリカ同時多発テロ事件と同じ日に起きており、「もう一つの9.11」と呼ばれます。

☆パブロ・ネルーダの生涯 その6
1973年9月11日、ピノチェト将軍らによるクーデターが起きるとネルーダは強い衝撃を受けます。クーデターを起こした軍によって捜索を受け、自宅を荒らされます。軟禁状態に置かれたネルーダは憔悴し、9月23日に失意のうちに死亡します。ネルーダは殺害されたという主張も根強くあります。
亡くなる12日前まで回想録を執筆しており、後に出版されます。日本でも「ネルーダ回想録 わが生涯の告白」というタイトルで出版されました。
映画「イル・ポスティーノ」は南イタリアの小さな島を舞台にしています。主人公のマリオはネルーダとの交流を通して世界観が広がり、世の中の見方も変わっていきます。それがマリオの運命に大きく影響していきます。それでは、この時期のイタリアの歴史を簡単に見ていきましょう。
◎歴史的背景 第一次世界大戦から1950年代までのイタリア
イタリアは第一次世界大戦で戦勝国となります。パリ講和会議で領土の拡張が認められますが不十分な内容に終わり、国民には不満が残ります。また大戦が総力戦であったため経済的に疲弊し、大戦後は深刻な不況に陥ります。街には失業者があふれ、社会不安が高まります。
その様な状況下で、ムッソリーニが率いるファシスト党が反社会主義を掲げ、議会政治を否定して強力な政府の樹立を主張します。これが社会主義革命を恐れる保守派などの支持を得ます。1922年10月、ファシスト党のローマ進軍を受けて、イタリア国王がムッソリーニに組閣を命じます。これにより合法的にファシズム政権が成立します。ムッソリーニ政権はブルジョワ、知識人、国王派をはじめ幅広い支持を得ます。1925年1月に独裁を宣言し、1926年には一党独裁を確立します。
1935年にイタリアはエチオピアに軍事侵攻を開始して東アフリカの領土拡大を図ります。ナチス・ドイツとの連携も強めます。1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、当初は中立を宣言しますが、ドイツの進撃を見て、1940年にはドイツなどの枢軸国として参戦します。しかしイタリアは北アフリカやギリシアなどの地中海の戦線でイギリスなどの連合軍に敗北を重ね、国内でもムッソリーニ政権に対する批判が強まります。1943年に連合軍がシチリア島に上陸すると、軍の一部が国王の了解を得てクーデターを起こしてムッソリーニは失脚します。代わって成立したバドリオ内閣は連合軍と休戦してドイツに宣戦しますが、すぐにドイツに攻め込まれます。イタリアの北部はドイツの傀儡政権が支配し、南部は連合軍に占領されます。この時、ファシスト党政権時代に獄中にあった共産党員が解放されます。そしてドイツに対するレジスタンス運動が展開されます。
1944年に連合軍によってローマが解放され、レジスタンス活動に参加していた主な党派による連立政権が成立します。ムッソリーニは捕らえられて処刑されます。
大戦後の1946年の国民投票によって王政は廃止され、共和政になります。パリ講和会議で連合国と講和して国際社会に復帰します。
戦後はデ・ガスペリが率いるキリスト教民主党を中心とする連立政権になります。イタリアの共産党がファシスト党政権やドイツに対するレジスタンス活動に大きく貢献したこともあり、最初の連立政権には共産党も参加しています。しかし1947年5月に共産党は連立政権から排除されます。1949年には、NATO(北大西洋条約機構)に参加します。
その後のイタリアは敗戦による荒廃から復興し、急速な経済成長を遂げます。機械や金属などの工業生産が急激に伸びます。この背景にはアメリカからの経済援助であるマーシャルプランがありました。また、現在のEU(欧州連合)の前身である欧州経済共同体(EEC)に参加したことにより投資が増加し、輸出も伸びます。物価は安定し、国際収支も黒字になります。その一方で国内の地域格差が拡大します。北部で工業と商業が発展したのに対し、南部では観光と農業が中心になり、産業基盤が弱く、失業率も高い状況でした。
政治の面では連立政権が続きますが、中心となったのは一貫してキリスト教民主党です。カトリック教会を基盤とする保守政党です。時代にあわせて柔軟に政策を変え、ブルジョワジーから中間層、労働者まで国民の幅広い層から支持を得ます。共産主義の拡大を防ぐ防波堤の役割も期待され、政権はアメリカからの支援も受けます。
一方、イタリアの共産党は西ヨーロッパで最大の勢力をもつ共産党です。国内でも第二党の位置を占め、大きな影響力をもちます。最大与党のキリスト教民主党と共産党が対立していました。
映画「イル・ポスティーノ」が描いたのはイタリアのこのような時代でした。
主人公マリオは、ネルーダとの交流を通して現実を見る目が養われ、日常の生活が政治と結び付いていることを学びます。
舞台となるのはナポリ近くの島ですが、イタリアの中では失業率が高く、共産党への支持が強い地域です。映画の中では地元のキリスト教民主党の候補者が利権によって票を得ようとする姿が描かれています。島に水道を敷設すると言って工事業者を呼んで工事を始めます。多くの島民がそれに期待をします。ローザの食堂も作業員に食事を提供する仕事で大忙しになります。しかし、選挙で当選したとたんに工事は中断してしまいます。
この映画にはイタリアの政治に対する批判も込められています。しかし、政治色が強くならないよう配慮されており、メッセージを前面に押し出すことは避けています。
映画「イル・ポスティーノ」は、世界的に高名な詩人と名もない青年が出会い、かけがえのない絆を結んだ奇跡のような友情の物語として観る人を魅了し続けるでしょう。
最後にもう一度チリの話題に戻ります。パブロ・ネルーダが波乱の生涯を閉じた1973年の軍事クーデターについては多くの文学や映画などで取り上げられています。その中からサスペンス映画の傑作をご紹介します。
■こちらもおすすめです 映画「ミッシング」
①映画「ミッシング」の概要
1982年アメリカ映画
監督 コスタ・ガヴラス
出演 ジャック・レモン、シシー・スペイセク
アカデミー賞脚色賞を受賞、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞
②映画「ミッシング」のあらすじ(ネタバレ無し)
1973年9月、作家志望のアメリカ人青年チャールズ・ホーマンは、妻のベス(シシー・スペイセク)とともにチリの首都サンティアゴに住んでいます。チャールズはアメリカから来た友人とともにチリ中部のリゾート地であるビニャ・デル・マールに旅行をします。ところがその日にクーデターが勃発し、二人はビニャ・デル・マールに足止めされます。翌朝、チャールズはホテルに軍服姿のアメリカ人が多いことに気づき、不審に思います。二人はサンティアゴに戻りますが、戒厳令が敷かれ、厳重な警戒がされています。
チャールズの妻ベスは友人たちを訪ねた後、夜間外出禁止令のために帰宅できなくなります。翌日帰宅すると家は荒らされており、夫のチャールズの姿はありません。
チャールズの父エドワード(ジャック・レモン)はベスからの連絡を受けてチリに急行し、ベスと共にチャールズの行方を追います。ニューヨークで成功した実業家であるエドワードは保守的な考え方をもっており、理想主義的な思想の持ち主であるチャールズとベスをあまり好意的に見ていません。そのためエドワードとベスの関係はギクシャクします。
エドワードは自分の立場を利用して大使館のアメリカ政府関係者などに協力を要請します。しかしエドワードは捜索を続けるうちに、大使館が息子の失踪に関する情報を隠しているのではないかと疑うようになります。
③映画「ミッシング」のあれこれ
緊迫感のある社会派のサスペンス映画です。チリの軍事クーデターの際にアメリカ人青年が失踪した事件を取り上げた書籍の映画化です。実話の映画化であり、リアリティがあります。
突然行方不明になった青年の足跡をたどりながら真実に近づこうとする青年の妻と実父の苦闘を描きます。 様々な人物の証言を聞き、病院、遺体安置所、強制収容所などをめぐって必死の捜索を続けます。二人の動揺や焦燥から目が離せず、最後まで緊張感が維持されます。全体に重苦しい雰囲気ですが、重厚で見応えのある作品です。
青年がなぜ失踪したのか妻にも父にも理解できません。軍事クーデターの深い闇が垣間見られます。エドワードは祖国アメリカの良識を信じて必死の捜索をしますが、アメリカ政府の関係者は親身を装いながら誠意のない対応を続けます。信頼が崩れて疑念が急速に拡大する様は観ていて胸が詰まる思いです。政府の高官が繰り返す「火遊びをすると火傷をする」という言葉が得体のしれない不安を感じさせます。
戒厳令により街の様子が一変する様がリアルに描写されています。夜間外出禁止令の出された市街地では、路上に死体が横たわり、銃声がどこからともなく聞こえてきます。緊迫感は真に迫る迫力です。遺体がびっしりと並んでいる遺体安置所や強制収容所に様変わりしたスタジアムの描写が底知れない恐怖を抱かせます。

保守的な価値観のエドワードは息子夫婦の進歩的な行動や思想が理解できず、当初は息子夫婦に対して複雑な心情を抱いていました。息子の妻のベスに対しても冷ややかな視線を向け、二人は反発し合います。しかしチャールズの足跡をたどるにつれ、息子夫婦への理解が深まり、見つからない息子への愛情を再確認します。エドワードとベスが次第に打ち解け合う過程が物語に奥行きを持たせています。
監督のコスタ・ガヴラスはギリシア出身で政治サスペンスの巨匠として知られます。1967年の「Z」は軍事政権下のギリシアで反体制派の政治家が暗殺された事件をモデルにした作品で、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞しています。国家機構の欺瞞や暴力を抉り出して告発し、権力とは何かを問いかける作品を多く撮っています。「ミッシング」も、地味な演出ではありますが政治や国家の非情を家族の視点で追及しており、ガヴラス監督の真骨頂とも言える作品です。

エドワードを演じたジャック・レモンは、アメリカの喜劇俳優を代表する存在です。洒落た軽快な演技で、「お熱いのがお好き」(1959年ビリー・ワイルダー監督)、「アパートの鍵貸します」(1960年ビリー・ワイルダー監督)など映画史に残るコメディ映画で主役を演じてきました。原発事故の真相をめぐるサスペンスである「チャイナ・シンドローム」(1979年ジェームズ・ブリッジス監督)以降はシリアスな役も演じています。「ミッシング」でも渋みを増した味わい深い演技でカンヌ国際映画祭の男優賞を受賞しています。
ベスを演じたシシー・スペイセクは、ホラー映画の傑作「キャリー」(1976年ブライアン・デ・パルマ監督)で一躍有名になり、アカデミー賞の主演女優賞に6度ノミネートされ、「歌え!ロレッタ 愛のために」(1980年マイケル・アプテッド監督)で同賞を受賞しています。「ミッシング」でも毅然として勇気のある女性の役を好演しています。

最後に、その後のチリの様子を簡単に見ていきましょう。
◎歴史的背景 軍事クーデター後のチリ
クーデターに成功したピノチェト将軍は権力の基盤を固め、翌1974年末には正式に大統領に就任します。チリ史上初の軍事政権の発足です。ピノチェトは強権によって社会秩序を安定させ、アメリカ合衆国の援助の下、公営企業の民営化や規制緩和など新自由主義の経済政策を採ります。この結果赤字が解消されて経済成長が実現しますが、一方では失業者が増加し、貧富の格差は拡大してしまいます。しかもピノチェトは議会を停止して弾圧を行うなど、強力な独裁政治を続けていきます。
反政府活動家など数十万人が逮捕され、各地に建設された強制収容所に送られたり行方不明になりました。ピノチェト政権の崩壊後の調査によると3000人余りが殺害されたとされていますが、3万人が亡くなったという主張もあります。また、国民の十分の一に当たる100万人が国外に亡命したとも言われています。
ピノチェト軍事政権による苛烈な人権抑圧に対する不満が高まり、1984年には軍事政権が戒厳令を施行しています。
1970年代、ラテンアメリカでは相次いで軍事政権が誕生します。チリは典型的な例ですが、ブラジルでは1964年、ペルーでは1968年に軍によるクーデターが起きており、ウルグアイでは1973年、アルゼンチンでは1976年に軍事政権が生まれています。
各国の軍事政権は、強権を発動して議会政治と民主主義を抑圧し、反対派の人々に非人道的行為をします。
また、アメリカは中南米の政治状況にたびたび介入し、軍事支援や経済支援を行っています。親米の軍事政権を支援することにより、社会主義勢力がキューバ以外に拡大することを阻止します。
1980年代には各国で国際収支が悪化し、インフレに対処できないなど軍事政権の限界が露呈し、民政への移管(軍人から一般人に政権を返すこと)が行われていきます。1982年にアルゼンチンとボリビア、1985年にウルグアイ、ブラジルと次々と民主化していき、チリの軍事政権が人権侵害を続けることが国際的な批判を受けます。そしてチリでも1990年の選挙の後、17年ぶりに民政に移管します。以後チリでは民主的に選ばれた大統領が続きます。ピノチェトは大統領引退後も軍司令官として権力を維持しますが、1998年、人権侵害の罪で逮捕されます。裁判が始まりますが、途中で死亡しています。
チリは1990年以降は立憲共和制となり、多くの国と経済連携協定を締結します。国民の生活は一応安定していますが、失業率は高く、依然として銅などの鉱物資源の生産と輸出が経済を支えており、経済の多角化が課題となっています。
