映画「ロスト・キング 500年越しの運命」とミステリー小説「時の娘」

イギリス
リチャード3世(現存する最古の肖像画)

 イギリスの歴代の国王の中でも極悪非道な王として語られることが多いのが15世紀後半の薔薇戦争の末期に王位に就いたヨーク朝のリチャード3世です。その古くから言い伝えられる悪評に疑問を抱き、真実の姿を知ろうとした一人の女性の物語です。500年にわたり行方不明であったリチャード3世の遺骨発見という歴史的快挙の立役者となったアマチュア歴史家の実話を映画化したものが「ロスト・キング500年越しの運命」(以下、「ロスト・キング」)です。併せてリチャード3世にまつわる謎の解明を題材としたミステリー小説の名作もご紹介します。

2022年イギリス映画
監督 スティーヴン・フリアーズ
出演 サリー・ホーキンス、スティーヴ・クーガン

 二人の息子の母で会社勤めをしているフィリッパ(サリー・ホーキンス)は、夫(スティーヴ・クーガン)とは別居中ですが子供のことでは協力しあっています。フィリッパは持病を持っていることもあって職場で正当に評価されていません。若い後輩に重要なポストを奪われるなど理不尽な扱いに不満を募らせています。
 ある日、息子と一緒にシェイクスピア劇の「リチャード三世」を鑑賞し、リチャード3世の悲劇的な最期を見て心を動かされます。リチャード3世は冷酷非情で不当に王位を奪ったということが定説となっていますが、フィリッパは本当にそうなのか疑問に感じます。自分と同じように不当な扱いを受けてきたのではないかと考え始めます。
 フィリッパは悪名高いリチャード3世の実像を明らかにしようと思い立ちます。リチャード3世に関する多くの書籍を次々と購入し読破します。リチャード3世を擁護する人たちの集まりであるリチャード3世協会にも参加します。リチャード3世の遺体がある場所についても諸説があってはっきりしないことを知ります。やがてフィリッパの前にはリチャード3世の幻影が現れるようになります。 

 通常日本でイギリスと呼んでいる国は正式には、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」という名称であり、大ブリテン島にある三つの国と西隣のアイルランド島の北部(北アイルランド)の合計四つの国の連合です。大ブリテン島は北部がスコットランド、南西部がウェールズ、そして南部の大半を占めるのがイングランドです。イングランドの人口はイギリス全体の80%以上を占め、政治や経済の中心でもあり、歴史を語る際にもイングランドとイギリスを同義で使うことも多いようですが、イングランドはあくまで連合王国を構成する一王国です。この映画の話題の中心となるリチャード3世は15世紀のイングランドの国王でした。
 それではリチャード3世が登場するまでのイングランドの歴史を見ていきましょう。併せてそれぞれの時代を舞台とした映画等もご紹介します。

 紀元前1000~500年頃、ヨーロッパに広く居住していた先住民族であるケルト人がイングランドに流入し、鉄器文明と高い農耕・牧畜技術をもたらしました。ケルト人は鉄製農具を使用して土地を開墾し、生産力が向上しました。これにより人口が増加し、部族間の抗争も激化したようです。
 紀元前55年と前54年、ガリア(現在のフランス)を統治していたローマの総督のユリウス・カエサルがブリテン島にも侵攻してきましたが、ケルト人は激しく抵抗して征服を免れました。この時の様子はカエサルの「ガリア戦記」に詳しく書かれています。
 しかし紀元43年ローマ帝国の皇帝がクラウディウスの時代に、ローマ帝国は大軍を派遣して大ブリテン島の南部を征服します。これによりイングランドの全域とウェールズの大部分がローマ帝国の属州となりました。ただし、スコットランド、アイルランドにはローマの支配は及びませんでした。
 現在のイングランドとスコットランドの境界付近にはローマ人によって長城が建設されました。なかでも122年にローマ帝国の五賢帝の一人ハドリアヌスによって築かれた石積の長城が有名です。
 ローマはこの地域をブリタニアと呼びました。これが大ブリテン島の名称の起源です。そして先住のケルト人をブリトン人と呼びました。大ブリテン島にはローマ人によって都市が建設されました。中でもブリタニア統治の拠点として、テムズ川に面した交通の要地にロンディニウムが建設されました。これが現在のロンドンの起源です。

 その他、総延長5000マイルを超える放射状の道路網が造られ、都市には市場、広場、上下水道、公共浴場や円形競技場が築かれるなどしてローマの文化が浸透しました。現在でもローマ時代の遺跡を見ることができます。3世紀ごろにはキリスト教もブリテン島に入ってきました。
 しかしローマ人の入植者により土地が収奪されたため、たびたび反乱が起きています。特に60年にイケーニー族の女王ボウディッカ(ブーティカ)に率いられた蜂起は大規模なものでしたが、ローマ軍により鎮圧されました。

「ブリトン人に演説をするボウティッカ」(ジョン・オピー)

※ ローマ帝国に立ち向かったボウディッカはイングランドの伝説として語り継がれます。この女王の物語はこれまでに2度映画化されています。最近では2003年に「ウォリアークイーン」(ビル・アンダーソン監督)という作品が作られました。日本では劇場未公開ですが、DVDで鑑賞することはできます。

 ローマ帝国の支配は400年近く続きますが、5世紀になるとヨーロッパの各地にゲルマン人の侵入が始まります。ローマ帝国では混乱が広がり、ブリタニアの支配を維持することができなくなります。409年にはブリタニアの属州を放棄して、大陸に引き返しました。その後大ブリテン島には古来からのブリトン人(ケルト人)が残りますが、449年からはゲルマン人の一派のアングロ・サクソン人が侵入を始め、移住するようになります。アングロ・サクソン人はもともとは大陸のエルベ川下流や北海沿岸にいたようです。

※ アーサー王伝説は、この時代にアングロ・サクソン人の侵入と戦ったブリトン人の英雄の物語です。何度も映画に取り上げられていますが、1981年の「エクスカリバー」(ジョン・ブアマン監督)はアーサー王の波乱の生涯を描いた作品として話題になりました。

アーサー王のタペストリー

 アングロ・サクソン人の移住は長期にわたり混乱が続きますが、先住のケルト人はアングロ・サクソン人に征服され、同化していきました。「イングランド」という名称は「アングル人の土地」を意味するものです。
 6~8世紀にかけて大ブリテン島とアイルランドのキリスト教の布教も進みます。6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は大ブリテン島での正統のカトリックの布教を目指し修道士を派遣します。後にカンタベリー大司教となる教会が置かれて布教の中心となりました。イングランドの教会には信仰と学問に優れた聖職者が現れます。アルクインという聖職者は、大陸のフランク王国のカール大帝の宮廷に招かれてカロリング・ルネサンス(古代文化の復興運動)の中心となりました。
 大ブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人は7世紀頃には7つの小王国(ヘプターキー)を建設します。北部のノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、南部のエセックス、ウェセックス、ケント、サセックスです。この7つの小王国が並立して覇権を争った約380年間を七王国時代と呼びます。
 8世紀には七王国のうちのマーシアにオファ王が登場して大きな勢力となりました。この王はフランク王国のカール大帝とも交渉があり、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いたことで知られています。
 七王国は栄枯盛衰を辿りますが、七王国時代の最後に現れたのがウェセックス王のエグバートで、829年にイングランドの統一を達成したとみなされています。支配したのはイングランドの全域ではありませんでしたが、これによりイングランド王国が成立したという考え方もあります。
 この時期にはウェールズではブリトン人による小国が分立していました。スコットランドではケルト系のピクト人がいましたが、アイルランド北部からスコット人が移ってきて9世紀後半にはスコットランド王国が成立します。アイルランドにはローマの侵攻はなく、ケルト系の多数の国家に分かれていました。

 8~11世紀、ゲルマン人の一派であるノルマン人が断続的に活動を展開します。第二次民族大移動とも言われ、ヨーロッパ全体に影響を与えました。大ブリテン島でもデンマークがあるユトランド半島からデーン人の侵入が活発になりました。デーン人もノルマン人の一派であり、ヴァイキング(「入江の民」という意味です)とも呼ばれました。

 デーン人の侵入に対抗して勇猛果敢に戦ったのがウェセックス王のアルフレッド大王です。イングランド史上唯一「大王」と呼ばれる人物ですが、886年にはデーン人に奪われていたロンドンを奪還した上で、境界線を設けてイングランドの一部にデーン人の居住を認めました。アルフレッド大王は法典の整備を進めるなどしており、この時期が実質的なイングランド王国の成立という考え方もあるようです。
 しかしその後もデーン人の侵入は続き、イングランドでも内紛があったため、1016年にはデーン人のクヌートによってアングロ・サクソン人の王が追われ、クヌートはイングランド王位に就きます。征服王朝であるデーン朝の成立です。クヌートはその後デンマーク王、ノルウェー王も兼ねて北海帝国と言われる広範な帝国を支配しました。 

アルフレッド大王の像(ロンドンのサザーク地区)

 1066年、王は後継者を指定せずに死亡し、有力者間で王位継承の争いになります。アングロ・サクソンの有力貴族ハロルド・ゴドウィンソンが王位に就きますが、エドワード証聖王の従兄弟の子にあたるノルマンディー公ギヨームとノルウェー王ハーレルが異議を申し立ててイングランドに侵攻します。ハロルドはノルウェー王を破りますが、ヘイスティングズの戦いでノルマンディー公ギヨームに敗れて戦死します。
 勝利したギヨームはウエストミンスター寺院でイングランド王に即位してウィリアム1世となります。これによりアングロ・サクソンによる王統は途絶え、ノルマン朝が成立します。この一連のイングランド征服を「ノルマン・コンクエスト」と言います。なお、これ以降イングランド国王の戴冠式はウエストミンスター寺院で行うのが慣例となっています。(現国王チャールズ3世の戴冠式も2023年にここで行われました。)

ウェストミンスター寺院の西側ファサード

※ フランスのノルマンディー地方のバイユーという町の博物館に「バイユータペストリー」という約70mの巨大な刺繡画が保存されています。11世紀に作られたもので、ヘイスティングズの戦いをクライマックスとしてノルマン・コンクエストの過程が鮮やかな刺繍で活き活きと描かれた歴史絵巻です。

バイユーのタペストリー(ヘイスティングズの戦い)By Dan Koehl – Tapestry de Bayeux, CC BY-SA 3.0, Link

 ノルマン朝は征服王朝であり、国王が広大な土地を領有するなど、中世ヨーロッパの中では国王の権限が強い王朝でした。アングロ・サクソン系の貴族の土地を没収し、戦争で功績のあったノルマン系の貴族に分配することによって、王権と臣下が強固な封建関係で結ばれました。
 ウィリアム1世の統治する範囲には、ブリテン島のイングランドの他、本来の領地である大陸のノルマンディーにもありました。ウェールズ、スコットランド、アイルランドには支配が及んでいません。イングランド王ウィリアム1世としてはフランス王と対等の立場ですが、フランスにおいてはノルマンディー公ギヨームとしてフランス王から封土を与えられる臣下であり、奇妙な関係になります。これが後の百年戦争の遠因ともなりました。またこれ以降、イングランドの歴史はヨーロッパ大陸と密接に結びついて展開することになります。
 この王朝ではイングランドにフランス風の国家統治と文化がもたらされ、宮廷ではフランス語が公用語とされました。そして修道院や大聖堂の建設が進められます。また、国内の検地が行われ、土地の面積、家畜の数などを詳細に記載した「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる世界初の土地台帳が整備されました。

 1135年、ノルマン朝第4代のヘンリー1世は男子の後継者を残さずに死亡し、その後王位継承をめぐる内乱を経て、1154年にフランス西部のアンジュー地方を支配するアンジュー伯家のアンリが新しい王ヘンリー2世として迎えられました。ヘンリー2世の母親がノルマン朝ヘンリー1世の娘でした。これがプランタジネット朝の始まりです。アンジュー伯もフランス国内ではフランス王の臣下ですが、イングランド国王としてノルマンディー公国とアンジュー伯領も支配することになります。さらにヘンリー2世はアキテーヌ地方の有力者である公女と結婚します。その結果、イングランド国王が英仏海峡をまたぎ、フランスの西側の広大な領土を支配することになり、アンジュー帝国とも言われました。これはフランス統一の大きな支障となり、両王室の関係はさらに悪化することになりました。プランタジネット朝もノルマン朝と同様に王権が強く、集権化が進みました。ヘンリー2世はアイルランドにも侵攻しています。

※ プランタジネット朝の初代ヘンリー2世の時代を舞台とした映画もいくつかあります。その一つの「冬のライオン」(1968年アンソニー・ハーヴェイ監督)は、ブロードウェイの舞台劇の映画化で、ヘンリー2世、王妃エレノア(アキテーヌ公女)と三人の息子、さらにはフランス国王フィリップ2世らの織り成す複雑な人間関係、権力欲と愛憎を描いた名作です。

エレノア役のキャサリン・ヘップバーン

 息子の一人は後のリチャード1世、一人は後のジョン王です。アカデミー賞を三部門受賞しています。アカデミー賞の演技部門で史上最多の4回受賞しているキャサリン・ヘップバーンの3回目の受賞がこの作品です(王妃エレノア役)。名優アンソニー・ホプキンスのデビュー作(息子リチャード役)としても知られています。

※ 「ベケット」(1946年ピーター・グレンヴィル監督)もアカデミー賞脚色賞を受賞した傑作です。ヘンリー2世は教会を支配下におくために、自分が最も信頼する友人であるトマス・ベケットをカンタベリー大司教に任命します。しかしベケットは熱心な聖職者になり教会の世俗権力からの独立を主張し、聖職者裁判権などでヘンリー2世と対立します。ベケットは王に従わなかったために暗殺されますが、1173年ローマ教皇により殉教者として列聖され、1174年にはヘンリー2世がベケットの墓前で懺悔します。このベケットを主人公にした物語です。

映画「ベケット」の一場面

 1189年にはヘンリー2世の子が第2代として即位します。獅子心王と呼ばれる勇猛なリチャード1世です。リチャード1世は第3回十字軍に参加します。イスラーム勢力であるアイユーブ朝のサラディンに占領された聖地イェルサレムを奪い返すための遠征です。その後はフランスのフィリップ2世との争いに明け暮れ、結局戦死します。
その弟ジョンが第3代になりますが、「欠地王」のあだ名で知られています。フランス王フィリップ2世との抗争に敗れ、ノルマンディーなど大陸の領土のほとんどを失いました。また、当時のローマ教皇は教皇権絶頂期の教皇と言われるインノケンティウス3世でしたが、ジョン王はカンタベリー大司教の任命権をめぐってこの教皇と争い、破門されて謝罪するなど失態が続きました。その一方、失った領地を回復する戦争の準備のため、貴族たちに重税を課すという強権を発動します。1215年には貴族が結束して反抗したため国王は屈し、高位聖職者と貴族による議会の承認なしには新たな課税はできない等とする「マグナ・カルタ(大憲章)」を認めさせられました。これにより従来の貴族の特権を保障するとともに、国王といえども法に服するという原則、いわば立憲政治の基礎ができたと言われています。

 次のヘンリー3世はマグナ・カルタを尊重せず、再び貴族に重税を課そうとして反発を受けます。フランスから来た貴族シモン・ド・モンフォールを指導者とする反乱が起き、国王は屈します。1265年、後に「シモン・ド・モンフォール議会」と呼ばれる議会が開設されます。それまでの高位聖職者、貴族から成る議会に騎士(下級貴族)、都市の代表を加えました。これにより国王が重要問題について国内の有力者と協議する場として身分制議会が成立し、現在に至るイギリス議会の起源とされています。ここで新たに加えられた部分が後の庶民院(下院)の起源になります。
 次のエドワード1世は議会との協調を重視し、法も尊重します。この時代にイングランドの国家としての基本的な骨格ができました。フランス的な要素も薄まり、宮廷でも英語が話されるようになります。

議会を招集するエドワード1世

 この時代は経済的にも安定しており、エドワード1世は大ブリテン島の統一を目指します。1277年にはウェールズの大部分を征服します。ウェールズは抵抗を続けましたが独立はできません。エドワード1世は1282年にはウェールズで生まれた王太子エドワード2世に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えました。これ以降、イングランドの次期王位継承者を「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ぶようになります(現在まで続いています)。さらにスコットランド遠征の費用を調達するため1295年に議会を招集しました。この議会には各州2名の騎士と2名の都市の代表が参加しており、これ以降の議会のモデルとなったことから「模範議会」と呼ばれています。エドワード1世のスコットランド侵攻以降、両国の対立関係が続きますが、スコットランドはフランスに接近し同盟関係ができます。

 14世紀のエドワード3世の時代には、現在のように上院である貴族院と下院である庶民院に分かれて二院制になり、法律の制定や新たな課税には下院の承認が必要とされました。この様に13~14世紀のプランタジネット朝の時代にイギリスの立憲政治と議会制度が次第に形を整えていきました。

※ エドワード1世のスコットランド侵攻の際、スコットランドの側にウィリアム・ウォレスという優れた軍事指導者が登場します。1297年、ウィリアム・ウォレスに率いられたスコットランド軍はスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に大勝利します。1298年にはイングランド軍がスコットランド軍を破りますが、ウィリアム・ウォレスはスコットランドの独立のために戦った英雄として今でも崇拝されています。
 この人物も何度か映画化されていますが、1995年の「ブレイブハート」は作品賞を含む5部門でアカデミー賞を受賞した名作です。「マッドマックス」シリーズなどで知られるメル・ギブソンの監督・主演作です。

ウィリアム・ウォレス像(スコットランドのアバディーン)

 フランス国内にイングランド王家が広大な土地を領有することから両国は対立していましたが、それが本格的な戦争に発展したのが百年戦争です。フランスではフィリップ4世を最後にカペー朝が断絶します。カペー家の親戚筋(傍系)にあたるヴァロワ家からフィリップ6世が三部会の推薦を受けて王位に就きます。ヴァロワ朝の成立です。これに対して1337年、イングランド王エドワード3世が異議を申し立てます。母親がフィリップ4世の娘であったことからフランスの王位継承権を主張し、1339年にフランスに侵入を開始しました。これが百年戦争の始まりです。これ以降、フランスを戦場に断続的に戦闘が続きます。
 百年戦争には、この王位継承問題以外にも重要な要因がありました。当時イングランドでは羊毛生産が発展し、フランスのフランドル地方に輸出していました。フランドル地方は羊毛を原料とする毛織物工業が盛んであり、イングランドはこの地域を支配しようとしてフランスと対立していました。
 また、フランス南西部のギュイエンヌ(アキテーヌ)地方はワインの生産地であり、中心であるボルドーはワインの積出港です。当時はイングランド領になっていましたが、フランスはこの地域を奪回することを目指しました。これらの問題が重なり、両国の対立が激化していました。

エドワード黒太子

 開戦当初はイングランドが優勢でした。エドワード3世の息子であるエドワード黒太子の率いる長弓隊の活躍もあって、1346年のクレシーの戦い、1356年のポワティエの戦いに連勝します。また、フランス東南部の大諸侯であるブルゴーニュ公らがフランス国王に対抗するためにイングランドと同盟を結び、フランスは内乱状態となったため、イングランドはフランスの半分以上の地域を占領します。

 しかしイングランドでも国内が混乱します。戦争に加えてペストが大流行して人口が30%以上減少しました。農業人口が減少したため、領主(貴族)は労働力を確保する必要から農民の待遇を改善します。農民は領主に従属した自由度の少ない農奴から、独立自営農民(ヨーマン)となります。しかし経済的に困窮した領主は農民への束縛を再び強め(封建反動)、国王も新たに課税するなどしたため大規模な農民反乱が起きます。1381年のワット・タイラーの乱です。この時、指導者の一人である聖職者のジョン・ボールの「アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか」という言葉は有名です。

ワット・タイラーの乱で反乱軍と会見するリチャード2世

 エドワード3世の長男であるエドワード黒太子は獅子奮迅の活躍をしていましたが戦争中に病死し、エドワード3世の孫が王位を継承してリチャード2世となります。リチャード2世はワット・タイラーの乱は鎮圧しますが、議会を無視するなどして反発を受けます。国王と貴族の内戦にまで発展して議会は国王の廃位を決定します。これによりプランタジネット家は断絶します。
 代わって1399年、エドワード3世の四男を祖とするランカスター家のヘンリー4世が即位してランカスター朝が開かれます。百年戦争は、次のヘンリー5世の時代まではイングランドが有利に戦いを進めますが、ヘンリー6世の時代に入り、フランスでは後に「救国の乙女」として讃えられることになるジャンヌ・ダルクが登場します。もとは農民の娘でしたが、勇気ある行動でフランスの国民意識を高め、軍隊の士気を鼓舞しました。フランス王シャルル7世を助け、1429年にはパリ南方の都市オルレアンを包囲していたイングランド軍を破ります。以降フランスは反撃に転じ、イングランドは敗退を続けます。結局イングランドは1453年にフランスから全面的に撤退し、ドーバー海峡に臨むカレーを除きすべての大陸の領土を喪失しました。
 百年戦争はこの様に決着しましたが、イングランドではこの時期に毛織物工業が発達します。戦争でフランドル地方を獲得できなかったこともあり、毛織物の需要に応えるため、原料の羊毛だけでなく製品である毛織物もイングランド国内で製造するようになります。こうして毛織物はイングランドの国民的産業になり、徐々に農業国からの工業国に転換していきます。

※ 百年戦争中のイングランドを舞台とする映画もいくつかあります。シェイクスピアの戯曲「ヘンリー五世」は、百年戦争中のアジャンクールの戦い(1415年)がクライマックスになっています。この戦いはヘンリー5世率いるイングランド軍が数に勝るフランス軍に大勝したものです。この戯曲は1944年にローレンス・オリヴィエの監督・主演で映画化されています。第二次世界大戦中でもあり、愛国的なメッセージが込められていました。また1989年にはケネス・ブラナーの監督・主演で再度映画化されています。どちらも見応えのある力作です。

 それでは百年戦争の直後に起きた薔薇戦争の状況を見ていきましょう。映画「ロスト・キング」で主人公フィリッパが名誉回復のために奔走したリチャード3世がここで登場します。 

 イングランドは百年戦争の結果大陸と切り離され、以降は島国としての歴史をたどることになります。しかし百年戦争直後には血なまぐさい内戦が起きます。
 ランカスター朝のヘンリー6世は百年戦争での劣勢からイングランド国内での権威が低下し、同じくプランタジネット家の傍系(分家)であるヨーク家が台頭して両家が対立します。さらにヘンリー6世が精神に異常をきたしたことから、大戦後の1455年、ヨーク家のエドワードが王位継承権を主張してイングランドは内戦状態になります。両家は共にエドワード3世の血を引きますが、ランカスター家が赤薔薇を紋章とし、ヨーク家が白薔薇を紋章としたことから薔薇戦争と呼ばれます。王位継承をめぐる争いに加え、イングランドでは多くの諸侯、騎士が得るところなく百年戦争から帰国し、勢力の拡大、領土の争奪に走って血を血で洗う暗闘を繰り広げます。

ヘンリー6世

 ランカスター朝のヘンリー6世は平和主義者で宗教や教育を重んじる国王でしたが、しばしば精神的に不安定になり統治能力を欠きます。そのためヘンリー6世に代わりフランス出身の王妃マーガレットが国王支持の貴族たちを束ねます。マーガレットは強い意志と政治的野心をもち、ランカスター軍を指揮します。戦いは一進一退の攻防が続きますが、1461年、ヨーク家のエドワードが従兄でもあるウォリック伯ら有力貴族の支援を得て王位に就き、エドワード4世となります。ヨーク朝の始まりです。

ヘンリー6世の王妃マーガレット

 ランカスター家のヘンリー6世と王妃マーガレットはスコットランドに逃れます。しかし開かれて間もないヨーク朝ではエドワード4世を支えてきたウォリック伯とエドワード4世の関係が悪化します。ウォリック伯がエドワード4世とフランスのルイ11世の妹との婚約を進めていたにもかかわらず、エドワード4世が新興貴族の娘であるエリザベス・ウッドウィルという女性と極秘に結婚をしてしまい、この王妃の一族を優遇するようになったためです。この結婚の正当性を後にリチャード3世が問題にすることになります。またこの王妃とエドワード4世の間に生まれた息子たちが「塔の王子たち」と呼ばれることになります。面目丸つぶれとなったウォリック伯はそれまで対立していたランカスター家の王妃マーガレットとも結んで反乱を起こします。マーガレットはフランスのルイ11世の支援も得て1470年にイングランドに上陸し、ヘンリー6世が復位します。

エドワード4世

 これに対しヨーク家のエドワード4世はフランスに逃れて体勢を立て直します。フランスでルイ11世と対立していたブルゴーニュ公の援助を受けて反撃し、ヨーク家が勝利します。反乱を起こしたウォリック伯は敗死、ヘンリー6世はロンドン塔に入れられた後に殺害され、王妃マーガレットはフランスに送還されました。こうしてエドワード4世は再度王位に就き、ひとまず安定した治世となります。

 エドワード4世は1483年に死亡し、長子のエドワード5世が13歳で継承します。エドワード4世の弟グロスター公リチャードがエドワード5世の摂政となりますが、エドワード5世をその弟と共にロンドン塔に幽閉します。議会はエドワード5世と弟は庶子(正室ではない女性から生まれた子供)であるとして王位継承の無効を議決します。そしてグロスター公が議会に推戴されて王位に就きます。これがリチャード3世です。
 一方ランカスター家は壊滅的な打撃を受けていましたが、唯一生存していたのがランカスター家の支流にあたるヘンリー・テューダーです。大陸に亡命していましたが、1485年、軍を率いてウェールズに上陸してイングランドに進軍します。そしてボズワースの戦いでヨーク家のリチャード3世を破ります。この戦いが薔薇戦争の雌雄を決する戦いとなりました。ヘンリーはエドワード4世の娘であるヨーク家のエリザベスと結婚します。エリザベスは、王位を追われてロンドン塔に幽閉されたエドワード5世の姉にあたります。こうして両者の争いには終止符が打たれます。ヘンリーはヘンリー7世として即位し、テューダー朝が始まります。紋章は赤薔薇と白薔薇が交じり合った意匠で、テューダー・ローズと呼ばれています。

 薔薇戦争の間イングランドの封建諸侯(大貴族)は相争い、内戦が長期化する中で次々と没落していきました。相対的に国王に権力が集中し、貴族勢力を抑えて集権化を進めます。こうしてテューダー朝では絶対王政の基礎が形作られます。しかし王権が伸長しても身分制議会は閉じられません。王と議会の関係が政治の中心課題となり、イングランドは近代国家に向かって歩むことになります。
 また、イングランドではジェントリーという階層が勢力を強めていきます。日本では「郷紳」と訳されています。もともとは中小の封建領主層や騎士が軍事的性格を失って地方に土着し、農村の実力者となった階層です。貴族よりは下ですが、農村の生産者であるヨーマン(独立自営農民)よりは上の階層で、後に下院の大きな勢力となります。有力貴族に仕えることが多かったのですが、薔薇戦争で貴族が没落した後に勢力を伸ばし、テューダー朝では官僚として活躍しました。このように社会の階層構造にも変化が生じました。

 それでは映画「ロスト・キング」で焦点となっているリチャード3世についてもう一度見ていきましょう。

リチャード3世の像(レスター大聖堂)By Kris1973Own work, CC BY-SA 4.0, Link

 1461年にエドワード4世がイングランド国王に即位してヨーク朝を開くと、弟のリチャードはグロスター公になります。1470年にエドワード4世がウォリック伯の反乱でイングランドを追われた際にもウォリック伯の誘いを拒否してエドワード4世に忠誠を誓い、兄王の復位に貢献します。そしてエドワード4世の下で実力者としての地位を確立していきます。
 1483年に兄エドワード4世が病死すると、リチャードは甥であるエドワード5世の摂政(護国卿)に就任します。そしてエドワード4世の側近であったリヴァース伯らを謀反人として処刑し、エドワード5世とその弟をロンドン塔に幽閉します。
 リチャードはエドワード5世兄弟の母親エリザベス・ウッドウィルとエドワード4世の婚姻が無効であると訴え、議会がそれを承認します。

 その結果、エドワード5世は正妻ではない女性から生まれた庶子であるとされ、議会はエドワード5世の王位継承は無効であると議決します。それを受けてリチャード3世として国王に即位します。その後は一人息子や王妃が病死する不幸に見舞われます。そして1485年にボズワースの戦いでテューダー家のヘンリーに敗れて壮絶な戦死を遂げます。
 リチャード3世はヨーク朝最後の国王であり、戦死した最後のイングランド国王でもあります。リチャード3世の治世はわずか2年であり、国内も安定していなかったため国王としての歴史的な評価ははっきりしないようです。近年リチャード3世の再評価が進む中で、行政や司法を公正なものに改革し庶民を保護しようとしていた、もっと長く治めていれば優れた王になっていた可能性がある等とも言われています。

 ロンドン塔に幽閉されたエドワード5世と弟の消息は判明していません。当時から殺されたという噂はあったようです。二人は後世まで「塔の王子たち」として知られることになります。そしてある時期からリチャード3世によって暗殺されたというのが定説になりました。こうしてリチャード3世は、兄王エドワード4世の亡き後、自分にとっては甥にあたる兄王の息子二人を殺害して自分が即位した悪逆の王というイメージが定着することになりました。
 この背景としては、テューダー朝時代の法律家、思想家であるトマス・モアの「リチャード三世伝」においてリチャード3世が配下のティレルに指示して暗殺させたとされていること、シェイクスピアの戯曲「リチャード三世」においても甥を殺した残虐な王として描かれていることが大きく影響しているようです。
 それに対し、18世紀からはリチャード3世が暗殺したというのは濡れ衣だという主張も出始めます。テューダー朝を開いたヘンリー7世にとっても王子たちの存在は脅威であり、ヘンリー7世が王子たちの死に関わったという説も出されます。
 その後もリチャード3世の人物や治世を支持し、その汚名はテューダー朝によって着せられたものだとして名誉回復を図ろうとする「リカーディアン」と呼ばれる研究者や歴史愛好家たちが現れます。その人たちの交流組織としてイギリスの「リチャード3世協会」などができます。映画「ロスト・キング」の主人公フィリッパ・ラングレーもこの協会に所属しています。

 「塔の王子たち」という悲劇は様々な形で語り継がれてきましたが、有名な絵画を2点ご紹介します。どちらもロンドン塔に幽閉された兄弟に危機が迫る緊迫した場面を描いています。王子たちの寄る辺なさが見る者の胸に迫ります。

「ロンドン塔の王子たち」(ポール・ドラローシュ)
「塔の中の王子たち」(ジョン・エヴァレット・ミレイ)

 まず左の作品はポール・ドラローシユの「ロンドン塔の王子たち」です。ドラローシユは、19世紀前半のフランスで非常に人気のあった画家でした。歴史的な出来事を劇的な場面設定によって描いた作品で有名です。この作品では、薄暗い部屋の天蓋付きの寝台の上で不安そうに身を寄せ合う兄弟が描かれています。兄のひざの上には聖書らしき書物が広げられています。犬の視線の先にはドアの隙間から暗い影がのぞいており、忍び寄る暗殺者の存在が示唆されています。
 次に右の作品はその約半世紀後の19世紀後半に、イギリスのラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイによって制作された「塔の中の王子たち」です。ミレイは代表作「オフィーリア」などで知られる通り、歴史や宗教、文学を題材にした抒情的な作品を得意としました。寒々とした薄暗い牢獄のような塔の中で兄弟は不安におびえて寄り添いますが、二人の背後には階段の上から忍び寄る暗殺者の影が見えます。
 「塔の王子たち」の切ない物語とこの二枚の絵画が夏目漱石の「倫敦塔」に影響を与えたと言われています。

 映画「ロスト・キング」の主人公のモデルは現在も活動中の歴史研究家フィリッパ・ラングレーです。映画にも実名で登場し、ストーリーは実話をベースにしています。 歴史には勝者が自らに都合の悪い事実を葬り去り、支配する上で都合のいいように歪められて書き残し、いつの間にかそれが事実であるかのように定着することが多々あると言われています。

フィリッパ・ラングレー(左)By Peter Broster – https://www.flickr.com/photos/191565026@N04/51931423653/, CC BY 2.0, Link

 主人公フィリッパは、リチャード3世の英国史上最悪の王として語り継がれてきたイメージにその可能性を考えます。たまたま見たシェイクスピア劇の舞台からリチャード3世の生涯に興味をもち、リチャード3世の真実を明らかにし、どこにも埋葬されずに行方不明になっている遺骨を発掘したいと考えて粉骨砕身します。持病を抱え、そのために自分が不当な扱いを受けていると考えているフィリッパは、醜い姿だというイメージが定着しているリチャード3世に自分自身をオーバーラップさせます。やがてリチャード3世の幻影がフィリッパの前に姿を現せますが、フィリッパのリチャード3世への共感を反映し、彼女の願いを凝縮したものなのでしょう。
 定着している歴史観を覆すのは大きな困難を伴いますが、学者でもない市井の歴史研究者がそれを実際の行動に移し、並々ならぬ情熱をもって取り組みます。コツコツと調べを続け、様々な障害を乗り越えて進むうちに主人公は日々の生活に活力を取り戻していきます。一種の冒険物語のような側面もあり、ストーリーに引き込まれます。
 彼女の熱意に心を打たれて協力する人が現れますが、一方では大学の権威や個人の名誉を優先する人たちもおり、主人公の苦労の成果が奪われそうになります。主人公が自分の利益や名声を度外視してリチャード3世の名誉回復のためだけに動く純粋さが、主演のサリー・ホーキンスの好演もあって共感を呼びます。 

サリー・ホーキンスBy Martin KraftOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

 監督のスティーヴン・フリアーズはイギリス出身の監督です。フランス革命前のフランス貴族社会を舞台とした「危険な関係」(1988年)が有名ですが、「クイーン」(2006年)、「ヴィクトリア女王 最期の秘密」(2017年)といった英国の王室を舞台にして独特の切り口で描いた作品もあります。

 主演のサリー・ホーキンスは、舞台から映画に進出したイギリスの女優です。アカデミー賞作品賞を受賞した「シェィプ・オブ・ウォーター」で主演女優賞にノミネートされて脚光を浴びましたが、地味で目立たない役どころで力を発揮する実力派の女優です。この作品でも平凡な生活を送っていた普通の女性が人生の転機でキラリと輝く様を見事に演じています。

 映画にも描かれていますが、実際の出来事として2012年にフィリッパ・ラングレーらのチームによってイギリス中部のレスター市の駐車場から遺骨が発掘されました。その場所はかつての修道院の跡地になります。遺骨には頭蓋骨に剣や斧による損傷があり、リチャード3世に関する文献上の記述と一致することから、レスター大学など六カ国の国際研究チームによりDNA鑑定が行われました。リチャード3世の直系は絶えていますので、リチャード3世の姉の子孫のDNAとの比較が行われた結果、遺骨は高確率でリチャード3世のものであることが判明しました。

 2015年3月、遺骨はレスター大聖堂に国王の礼をもって改葬されました。カンタベリー大主教らが臨席し、女王エリザベス2世から直筆の手紙が贈られました。DNA解析によって血縁者であることが判明した俳優のベネディクト・カンバーバッチによる詩の朗読が行われました。イギリスの王室から「正当な王」として認められたことになります。

2015年に作られたリチャード3世の墓User:Isananni, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 なお、リチャード3世がネガティブなイメージで語られる際には、背中が曲がった醜悪な姿で描かれることが多いのですが、2012年に発見された遺骨から実際に脊椎側彎症を患っていたことがわかりました。
 また、映画には描かれていませんが、フィリッパ・ラングレーは遺骨発見の8年後(2020年)には、リチャード3世が死んだ2年後である1487年の時点で王子たちが存命であったことを示す文書を発見し、リチャード3世は暗殺どころか王子たちを助けようとしていたと主張しています。

 リチャード3世の実像に関しては様々な議論がなされてきましたが、この問題に正面から取り組んだミステリー小説があります。

 推理作家ジョセフィン・テイによるグラント警部が活躍するシリーズの中の一作で、1951年に出版されました。現代の警察官が歴史上の謎を解き明かすミステリーです。海外でも日本でもミステリー小説のオールタイムのベストを選定する企画があると上位にランクインすることが多い名作です。
 また、「ベッド・ディテクティヴ」というスタイルの元祖となった作品です。ミステリー小説には古くから「安楽椅子探偵」というジャンルがあります。探偵が事件の現場に自分で足を運ぶことはせず、他人の証言や伝聞、事件の調書などのデータをもとに推理を展開するストーリーです。「ベッド・ディテクティヴ」はその一種で、探偵が怪我などで病院のベッドから動くことができない状態で事件の謎を解き明かそうとするものです。

 スコットランドヤード(ロンドン警視庁)のグラント警部は犯罪者を追跡中に誤って転落し、足を骨折して長期の入院をしています。ベッドから動けずに暇を持て余しています。見舞いに訪れた友人で女優のマータは、歴史に関する謎の探求をすれば気が紛れるのではないかとグラントに提案します。そして何枚もの歴史上の人物の肖像画を持ってきてグラントに渡します。グラントは人間の顔からその人物の性格を見抜くことに自信を持っています。マータが持ってきた肖像画のうち、リチャード3世の肖像画を見てグラントは違和感を覚えます。リチャード3世の名前は残虐な王として知られていますが、グラントにはその肖像画が権力欲にとりつかれて若い甥たちを殺した殺人者の顔には見えません。むしろ良心的すぎて自信を持てない人物に見えます。(なお、グラントが病室で見たのは右の肖像画のコピーと思われます。)

リチャード3世の肖像画

 グラントはリチャード3世が本当に伝えられているような極悪人なのか疑問をもち、リチャード3世の生涯に興味を持ちます。そしてマータや医師、看護師たちから様々な歴史の本や資料を借りて調べ始めます。さらにマータに紹介されたアメリカ人の若い歴史研究者のブレントを相棒にして、リチャード3世とその時代の人々について調査をして議論します。グラントは警察官が実際の事件を捜査するのと同様の方法で推理してみることにします。

〇ミステリー小説「時の娘」のあれこれ (注意:ネタバレを含みます)

 「時の娘」という書名は、「真実は時の娘」というフレーズから来ています。これは「真実は今は隠されていても、時間が経過すればいずれ明らかになる」という意味だそうです。
 この小説が発表された1951年の時点で、既に世の中にはリチャード3世を再評価しようとする動きはあり、この小説がまったく新しい説を提起したわけではありませんが、リチャード3世にまつわる謎をミステリー小説の素材として取り上げ、犯罪捜査と同じ手法で推理を進めていく展開が小説としての斬新な面白さになっています。
 中心的に扱われるのは、リチャード3世が「塔の王子たち」を殺害したのではないかという広く知られている嫌疑についてです。グラントは関係する歴史上の人物を容疑者または事件関係者と考え、あくまでプロの刑事捜査官としての視点で資料を読み、先入観を排除して客観的に事実をたどります。そして人間心理に対する自然な考察と合理的な推論を重ねて真実に近づこうとします。この小説の醍醐味は、グラントの論理的な思考のプロセスと、相棒ブレントをはじめとする周囲の人々とのやりとりの面白さです。

 グラントが最も重視したことは、第一に動機です。王子たちが死ぬことによって得をするのは誰かという問題です。この点についてグラントは明快に述べます。リチャード3世は議会の承認を得て合法的に国王として即位しており、王子たちが生きていてもリチャード3世の即位の支障とはならないと考えます。
 第二に、信憑性のある証拠と単なる伝聞、憶測を峻別することです。この点についてグラントは次のように考えます。リチャード3世が死にヘンリー7世が即位した1485年の時点で王子たちが死んでいた、あるいは行方不明になっていたという明確な証拠はありません。当時、王子たちに関してリチャード3世に対する告発もなされていません。
 グラントは資料を読み進め、リチャード3世により殺害されたとする説は、ジョン・モートンという人物の記述に由来することを突き止めます。このモートンという人物はリチャード3世が国王であった時には対立する立場におり、テューダー朝のヘンリー7世の時代になってから枢機卿に取り立てられています。リチャード3世犯人説が後世に残ることになるのはヘンリー7世の息子であるヘンリー8世に仕えていたトマス・モアの「リチャード三世伝」によるところが大きいようですが、この本もモートンの証言に基づいていることがわかります。そしてリチャード3世の約1世紀後にシェイクスピアの戯曲「リチャード三世」が書かれました。シェイクスピアもテューダー朝の治下で活躍した人物であり、テューダー朝の初代の敵であったリチャード3世が残忍で悪逆な王としてドラマチックに描かれたものと考えます。
 グラントは、勝者であるテューダー朝によって記された虚構が、シェイクスピア作品の強い影響力もあって「歴史」として広く信じられるようになったと考えます。
 小説「時の娘」は、緻密な論理構成で説得力があり、テンポのいいストーリー展開です。ミステリー小説として謎が解けていくワクワク感のようなものも十分です。また、グラントを取り巻く登場人物たちの人物造形も個性的で、明るい人柄の相棒ブレントとの交流、女優マータや看護師たちとのやりとりも楽しく書かれています。入院して暇を持て余す腕利き刑事の日常も微笑ましく、読後感はさわやかです。ただ、薔薇戦争は人間関係が複雑で当時の人物は名前が似ていることも多いため、家系図を頻繁に参照しながら読み進めることになります。当時の歴史的知識が多少あった方が読書を楽しめると思います。

 小説「時の娘」が発表された後、リチャード3世に対する再評価がさらに進んだと言われています。しかし、フィリッパ・ラングレーらによる遺骨発見はこの小説の約60年後ですが、依然として「リチャード3世=甥殺し」の汚名は拭い去られていません。強固に植え付けられて定着した歴史のイメージを塗り替えるのがいかに難しいかをあらためて痛感します。
 なお、「塔の王子たち」が誰に殺されたかという点は確証がないため、現在の歴史学においても見解が分かれているようです。

 それではリチャード3世悪人説が定着するうえで大きな役割を果たしたと思われるシェイクスピア劇の方を見てみましょう。

『リチャード三世』ファースト・フォリオの表紙

 シェイクスピア劇は人間の本質を鋭く洞察し、洗練されたセリフが多いことで知られていますが、「リチャード三世」にもひねりの効いた言葉やシビアな毒舌が多く登場し、シェイクスピア劇ならではの独特の言い回しで進行します。クライマックスのボズワースの戦いで敗れて死ぬ間際のリチャード3世のセリフはシェイクスピア作品中で最も有名なセリフの一つです。

 A horse!a horse!my kingdom for a horse!
 「馬をくれ!馬を!代わりにわが王国をくれてやる!」

 シェイクスピアは「リチャード三世」を書くにあたっていくつかの歴史書を参考にしたようですが、あくまで歴史劇であり史実ではありません。相当なフィクションが含まれていると考えられています。リチャード3世の人物像についてはトマス・モアの「リチャード三世伝」の影響が大きいようです。いずれにしても後世に残した影響は非常に大きく、シェイクスピアが世界中で親しまれる名作を数多く生み出し、文学史を飾る劇作家としての評価が確立するのと反比例するように、リチャード3世の名は悪逆の代名詞として定着したと考えられます。
 リチャード3世の名誉回復を目指す人たちにとっては許しがたい作品かもしれませんが、戯曲としての出来は素晴らしく、この作品の主人公リチャード3世はシェイクスピアの戯曲に登場する悪人の中でも特に魅力的な人物の一人です。役者としては「ハムレット」の主人公ハムレットと並んで最も演じがいのある役柄と言われており、多くの名優がこの役を演じてきました。

ローレンス・オリヴィエ(右) (映画「リチャード三世」より)

 映像化は何回も行われていますが、何と言っても決定版は1955年のローレンス・オリヴィエ監督・主演による映画「リチャード三世」でしょう。ローレンス・オリヴィエはイギリス出身で、シェイクスピア劇をはじめ多くの舞台で高い評価を受けるとともに、映画でも活躍しました。演劇界、映画界の多くの人から尊敬されている20世紀を代表する名優です。

 オリヴィエが監督と主演をしたシェイクスピア劇の映画化は、1945年の「ヘンリー五世」、1947年の「ハムレット」に続き三作目です。「ハムレット」ではアカデミー賞の作品賞と主演男優賞を受賞しています。「リチャード三世」でもオリヴィエの真骨頂ともいうべき名演です。冷酷な表情を浮かべ、巧みな弁術で次々と人を欺きながら、不思議な魅力を撒き散らせます。シェイクスピア劇ならではの長いセリフもオリヴィエの腕の見せ所です。悪役ではありますが堂々たる風格で凄味があります。
 この映画には多くの名優が出演しています。リチャード三世の悪魔的な魅力に惹かれて妻となるアンを演じたのはクレア・ブルームです。バレリーナとして活躍していたところをチャールズ・チャップリンに見出され、「ライムライト」(1952年)のヒロインとして映画デビューを果たしたことで有名な女優です。
 シェイクスピアの「リチャード三世」の最近の映像化としては「ホロウ・クラウン/嘆きの王冠」があります。BBC(英国放送協会)製作のテレビ・ドラマシリーズです。シェイクスピアの「ヘンリー六世」の三部作と「リチャード三世」をベースにしています。ベネディクト・カンバーバッチがリチャード3世を演じたほか、ジュディ・デンチなど実力派の俳優が多数出演し、見応えのある出来栄えになっています。

 ここでもう一度小説「時の娘」に話を戻します。この小説が生み出したベッド・ディテクティヴというミステリー小説のスタイルは多くの人の興味を引き、「時の娘」以降、様々なベッド・ディテクティヴに属する小説が発表されました。日本でも推理小説の大家である高木彬光が、「時の娘」に影響を受けたと思われる歴史ミステリーを発表しています。高木彬光の作品の中に名探偵神津恭介が活躍するシリーズがありますが、神津恭介が病院に入院した時にベッドの上で歴史的な謎について推理をめぐらすという作品があります。源義経=チンギス・カン説を追求する「成吉思汗の秘密」(1958年)、邪馬台国がどこにあったのかを推理する「邪馬台国の秘密」(1972年)などです。
 一般的にはベッド・ディテクティヴの小説は映像化にはあまり向いていないようです。主人公が一切行動をせずに思索や会話が物語の中心になりますので視覚的なダイナミズムを欠いていると考えられています。そんな中で、ベッド・ディテクティヴに非常に近いスタイルをとりつつ、映画史に残る傑作となった作品がありますので最後にそれをご紹介します。

〇映画「裏窓」の概要

〇映画「裏窓」のあらすじ

 プロのカメラマンであるジェフ(ジェームズ・スチュワート)は撮影中の事故で足を骨折し、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるアパートで療養中です。

映画「裏窓」の劇場用ポスター

 ベッドか車いすでの生活を余儀なくされており、部屋からは出ることができません。暑さに耐えかねたジェフは部屋の窓を開けたままにしており、窓からは中庭と向かいのアパートの様子がよく見えます。向かいのアパートには、新婚の夫婦、いつもピアノに向かっている作曲家、若い女性のダンサー、一人暮らしの孤独な女性、犬を飼っている中年の夫婦、病床の妻と暮らしているセールスマンなどが住んでいます。ジェフは身動きが取れずに暇を持て余しているため、退屈しのぎに住人たちの様子を双眼鏡で眺めて楽しんでいます。
 ジェフの家には看護師のステラ(セルマ・リッター)が自宅看護に訪れたり、恋人でファッションモデルのリサ(グレース・ケリー)が夕食を用意して来たりします。ステラはジェフに早くリサと結婚するように言いますが、ジェフは自分とはつり合いがとれないと言います。

 ある夜、ジェフが一人でアパートにいる時に、突然女性の叫び声がします。ジェフはその夜遅く、向かいのアパートのセールスマンがスーツケースを持って何回も外出するのを見ます。その日以来、セールスマンの妻の姿を見なくなります。またセールスマンが大きな荷物を運送屋に持って行かせるのを見ます。ジェフはセールスマンの行動に不信を抱き、その動静を注意深く観察します。そしてセールスマンが妻を殺害したのではないかと推測し、リサとステラにそれを話します。

〇映画「裏窓」のあれこれ

 スリラー映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督の多くの映画の中でも屈指の人気を誇る作品です。
 小説「時の娘」と同様に主人公が家から出ることができず、暇を持て余しているという状況で事件を推理します。また主人公をカメラマンに設定し、その職業的習性が近所の住人の行動を観察するという行動の裏付けになっています。いずれも無理のない自然な展開であり、観客は違和感なく物語に入っていくことができます。

ジェームズ・スチュワートとグレース・ケリー(映画「裏窓」より)

 ヒッチコック監督はこの作品の6年前(1948年)に「ロープ」という実験的な映画を撮っています。舞台を一か所に限定したうえで全編をワンシーンで繋げ、ストーリーの進行と映画の上映が同時に進むという試みをしています。「裏窓」はこの「ロープ」の延長線上にある作品で、全編ワンシーンではありませんが、舞台を一つの空間からさらに限定し、カメラの視点が主人公のアパートの窓に固定されています。通常の映画はストーリーの進行に伴い情景が変わり、カメラのサイズや角度が様々に変化することによって映像の流れにメリハリがつき、観客が退屈しないようにしています。しかしこの作品ではベッド・ディテクティヴという枠組みから、映像は窓から見た光景と自室の内部に限られ、カメラワークにも大きな制約がかかります。その特異な設定を逆に活用してストーリーにアクセントを付ける方策として、向かいのアパートに様々な住民を住まわせています。住民たちそれぞれの人生のドラマを見せることによって物語が単調にならずに、観客は興味を持って見続けることになります。

 観客も主人公ジェフも向かいのアパートで何が起きているか全部を見ることは出来ず、音もほとんど聞こえないので身振りなどから推測するしかありません。それが観客の想像力を刺激してストーリーに引き込んでいきます。窓から見ることしかできない主人公がハラハラする場面では観客も同じ気持ちを味わうことになり、サスペンスを高めます。セールスマンをめぐる疑惑とジェフの推理をメインにおきつつ、ジェフと恋人リサの微笑ましい関係、住人たちの様々な人生模様というサイドストーリーが同時進行し、物語の展開が極めて緻密に構成されています。主人公たちが推理を進めるプロセスから終盤まで息詰まるような展開ですが、サスペンスの合間に息抜きとなるユーモアを散りばめるヒッチコック監督の話術の冴えはこの作品でも健在です。

ジェームズ・スチュワート(映画「裏窓」より)

 登場人物たちも魅力的です。主人公を演じたジェームズ・スチュアートはハリウッド映画のトップスターです。善良な人物を演じることが多く、「アメリカの良心」とも呼ばれました。1941年の「フィラデルフィア物語」(ジョージ・キューカー監督)でアカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。ヒッチコック監督作品には4本出演していいますが、この作品でも本来は活動的であるにもかかわらず動けなくなっている人物の心理を見事に表現しています。

 グレース・ケリーが演じた恋人リサはジェフの身を案じるやさしい女性ですが、思い切った行動にも出て、主人公と観客をハラハラさせます。この人もヒッチコック監督作品に3本出演していますが、この映画でのグレース・ケリーの上品な美しさは多くの映画ファンを魅了してきました。モナコ大公と結婚して公妃となる2年前の作品です。
 看護師ステラは毒舌を吐きつつもジェフを気遣う味のあるキャラクターです。演じたセルマ・リッターは名わき役として知られた人です。アカデミー賞の助演女優賞に6回ノミネートされ、残念ながら一度も受賞していません。

グレース・ケリー

 ヒッチコック監督の実験精神が溢れる作品ですが、娯楽作品としても何度見ても新たな面白さが見つかる文句なしの傑作です。