「画家モリゾ、マネの描いた美女 名画に隠された秘密」

フランス
『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』(エドゥアール・マネ)

 19世紀フランスは革命や政変が次々と起こり、めまぐるしく体制が入れ替わりました。一方では産業の進展により社会や人々の生活も大きく変わりました。こうした変化を受けて美術の世界でも新しい絵画を目指す個性豊かな画家たちが次々と登場しました。その中で近代絵画の扉を開いたと言われるのがエドゥアール・マネです。そして印象派の創設メンバーの一人で、女性画家の先駆者として知られるのがベルト・モリゾです。この二人を中心に19世紀後半のフランスの美術界を描いた映画「画家モリゾ、マネの描いた美女 名画に隠された秘密」(以下、「画家モリゾ」)をご紹介します。

 1865年、フランスはナポレオン三世の第二帝政の時代です。
 パリの産業館でこの年の「サロン」(公式の美術展)が開催されています。エドゥアール・マネ(マリック・ジディ)の出展した「オランピア」の前に大勢の人が集まり、描かれた裸婦を見て不道徳だと言って非難しています。ブルジョワ階級の娘であるベルト・モリゾ(マリーヌ・デルテリム)は姉のエドマと一緒にこの絵を観て心を強く揺さぶられます。
 モリゾと姉は絵を描くことに夢中になっています。二人の母親は教養の一つとして絵画を習わせたのに、二人が結婚をせずに絵を描き続けていることを心配しています。ある日、ルーヴル美術館で二人が古典作品の模写をしている時に、知人である画家のファンタン・ラトゥールにマネを紹介され、マネから絵のアドバイスを受けます。
 モリゾはマネから絵のモデルをしてほしいという手紙をもらいます。モリゾは姉のエドマをモデルとして推薦したうえで断りの手紙を書きますが、後日、美術館でマネと再会します。マネは絵の構想をモリゾに話します。スペインのゴヤの絵に着想を得て三人の人物を配する作品で、その一人としてモリゾを考えていると語り、再度モデルを引き受けるよう頼みます。
 モリゾは、エドマの付き添いでモデルをすることを承諾し、二人はマネのアトリエを訪れます。そこで数々のマネの作品を観ることになります。

 それでは政治や社会の動きを18世紀末のフランス革命から見ていきましょう。

 フランスではフランスでは16世紀末にブルボン朝が始まり、ルイ14世の時代に絶対主義が完成します。絶対王政下のフランスは「旧制度(アンシャン・レジーム)」と呼ばれる身分制度の社会でした。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は広大な土地を領有するとともに免税などの特権をもち、重要な官職を独占していました。それに対し人口の98%を占める第三身分(平民)は不平等な扱いを受けていました。第三身分には、ブルジョワジー(ある程度の私有財産を有する市民)から労働者、貧農など幅広い層が含まれていました。18世紀末には啓蒙思想やアメリカ独立革命の影響もあって国民の不満が強まり、改革への機運は高まっていました。
 フランス革命は国王に対する貴族の反乱から始まりました。度重なる戦争でフランスの国家財政は赤字が続いていましたが、アメリカ独立戦争に参戦したことなどから財政が破綻します。政府は、貴族がもっていた免税特権を廃止して課税する等の改革を試みます。しかし逆に貴族はこの機会に王権に対する自分たちの立場の強化を目指し、長く閉鎖されていた「三部会」(聖職者、貴族、市民の代表からなる会)の招集を求めました。
 1789年にヴェルサイユ宮殿で三部会が開催されます。市民(第三身分)の代表であるブルジョワジーは憲法の制定を目指します。しかし、第一・第二身分と第三身分は議決方法をめぐって対立します。第三身分は、国民の代表機関として身分制ではない「国民議会」を独自に組織し、憲法制定まで解散しないことを誓います(球戯場の誓い)。その動きに対して国王は軍隊を動員して圧力をかけます。

 一方、都市民衆や農民などの下層市民(一般市民)は食糧危機などにあえいでいました。7月14日、パリの民衆が蜂起し、絶対王政の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃して占拠します。パリは大混乱に陥ります。動乱は地方にも波及し、各地で農民の蜂起が起き騒然となります。

「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・ウーエル画)

 自由主義を信奉する貴族や上層の市民(ブルジョワジー)は、農奴制等を廃止する「封建的特権の廃止」を国民議会で決議し、「人権宣言」を採択しました。人権宣言は自由主義貴族のラファイエットが起草したもので、法の下の平等、国民主権、私有財産の不可侵等、後に近代国家の原理となる権利をうたった画期的な宣言です。
 この段階では革命の主導権はラファイエットやミラボーなどの自由主義貴族や上層の市民がもっており、立憲君主制を目指すものでした。立憲君主制とは、国王などの君主が存在しますが、憲法によって君主の権力が規制される体制です。1791年には憲法を制定します。この憲法は比較的穏健な内容で、選挙権には財産資格が設けられる制限選挙制でした。憲法の制定後、国民議会は解散して選挙が実施され、新たに「立法議会」が成立します。これによりフランスでもイギリスと同様に立憲君主制が実現しました。

ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家(1791年6月25日)

 しかし国王一家が国外逃亡を図って失敗した(ヴァレンヌ逃亡事件)こと等が転機となり、国王は国民の信頼を失います。一方、オーストリアとプロイセンは革命の影響が自国に及ぶことを恐れ、革命に干渉する動きを見せた(ピルニッツ宣言)ことから、対外的な危機が高まります。

 立法議会の中では、それまでの立憲君主主義者に対抗して、共和主義者のジロンド派が台頭します。ジロンド派は商工業者などのブルジョワジーが基盤です。1791年、ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦します。フランス国民の愛国心が高まり、各地から義勇軍がパリに集まります。この時、現在のフランス国歌である「ラ・マルセイエーズ」が生まれました。
 パリでは民衆が過激化し、革命は一気に急進化します。1792年8月、テュイルリー宮を襲撃して国王を幽閉し(8月10日事件)、立法議会は王権を停止します。議会は解散し、男子普通選挙により「国民公会」が成立します。そして都市の下層市民や農民を基盤とする急進的なジャコバン派が勢力を拡大します。穏健な共和制の維持を主張するジロンド派と革命の推進を主張するジャコバン派が対立します。9月には国民公会が王政の廃止を決議し、フランスは初めて共和制になります(第一共和政)。

 1793年1月、国民公会の議決によりルイ16世は処刑されます。それをきっかけとしてイギリスを中心とする第一回対仏大同盟が結成され、フランスはヨーロッパ全体を敵にまわすことになります。
 内外の危機が高まるなか、ロベスピエールに率いられたジャコバン派は、ジロンド派を国民公会から追放して独裁体制を固めます。価格の統制や土地改革(封建地代の無償廃止)などの急進的改革を行い、共和制や男子普通選挙を定めた1793年憲法を制定します(ただし、この憲法は実施されませんでした)。そして反対勢力を粛正するなどの恐怖政治を行います。この時、王妃マリー・アントワネットも処刑されました。対外的には1794年にフランス軍が攻撃に転じます。

マリー・アントワネットの処刑

 しかし恐怖政治は長くは続きません。独裁に対する反発が強まり、ジャコバン派は民衆の支持を失います。1794年7月にはロベスピエールが逮捕、処刑され、ジャコバン派は一掃されます(テルミドール9日の反動)。その後は旧ジロンド派等の保守的な共和派が勢力を回復します。1795年10月には1795年憲法が制定され、一時は急進化した革命は穏健な共和制に戻ります。5人の総裁からなる総裁政府が成立します。革命初期の1791年憲法が定めた立憲君主制とは異なり国王が存在しない共和制ですが、選挙権には財産による資格を設けた制限選挙制です。
 総裁政府の下では国内の左・右両勢力の対立が激しく、政局は不安定で行政や治安は混乱します。また対外的には対仏大同盟が存続しています。土地を所有する農民が増加し、私有財産の不可侵が定められている等革命前とは違いますが、有資産階級であるブルジョワの利益が重視されます。社会では貧富の差が大きく、多くの市民はフランス革命以前よりも貧しい生活を送っていたとも言われています。

☆この時代の美術  新古典主義 その1

 それでは19世紀フランスの政治や社会の動向と美術がどう結びついたかを見ていきましょう。
 まず、19世紀を通してフランスの美術の世界で支配的な影響力をもった制度的な枠組みです。17世紀に「王立絵画・彫刻アカデミー」として設立された「美術アカデミー」(以下、アカデミー)が国の公的な機関として高い権威をもちました。

 アカデミーが運営する「国立美術学校」(エコール・デ・ボザール)が美術教育の中心となり、アカデミーが主催する公式の美術展「サロン・ド・パリ」(以下、サロン)が画家にとって作品を発表する重要な場でした。サロンは、ルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)で開催されたためにこう呼ばれました。

サロンの様子(エドワール・ダンタン)

 アカデミーは、絵画についてジャンルによる序列を示しました。そこでは神話や古代史などを題材として道徳的な教訓や英雄的行為を描く歴史画や宗教画が最も高いジャンルとされました。また、画家が従うべき規範を提示し、構図、デッサン、仕上げなどの厳格な基準を示しました。サロンに入選することが画家の将来を大きく左右しました。サロンに入選すれば一流の画家として認められ、貴族や教会などから注文が入るようにもなりました。
 19世紀のフランスの美術界では、この様な秩序と伝統が長く維持される一方、様々な革新的な動きが生まれました。しかし多くの場合、新たな試みはサロンから排除され、別会場で自主的な展示をせざるを得ませんでした。こうした伝統と前衛との間の緊張関係が近代美術へ向かうダイナミズムを生みました。

 ヨーロッパでは17世紀にバロック美術が主流となりました。ドラマチックな構図や明暗のコントラストなどによる劇的な表現を特徴とします。イタリアからヨーロッパ中に広がり、フランスも影響を受けましたが、フランスでは独自に古典主義が主流になりました。絶対王政の頂点にであったルイ14世の時代に権威付けとして重視されたもので、古代ギリシア・ローマを理想として合理的な秩序や調和を重んじました。
 18世紀に入りルイ14世が没すると、宮廷を中心に繊細で優雅、華やかさを特徴とするロココ様式が流行しました。しかし18世紀末にフランス革命により王政が崩壊すると、これと呼応してロココの軽さや享楽性への反発が生じます。美術にも理性と道徳を取り戻して荘重で確固とした様式を確立する運動が始まります。これが新古典主義です。この後、アカデミーは一貫して新古典主義を推奨します。サロンの入選作も新古典主義の様式を遵守した作品が中心になりました。
 この様式が重んじられた背景には、18世紀の啓蒙思想があります。人間の理性によって社会を良くしようとする考え方です。また、自由と平等を掲げたフランス革命の精神の根底には理性への全面的な信頼がありました。これが同じく理性を重んじた古代ローマの共和政の理想と合致していました。18世紀以来のポンペイ遺跡の発掘など考古学上の発見により古代への憧れが高まっていたことも背景にありました。
 芸術においても普遍的な「理想の美」が存在すると考え、それを追求することを芸術家の責務とします。そして、歴史上理想の美を実現した古代ギリシア・ローマの芸術を規範とします。
 絵画の様式としては感情を抑制し、秩序と節度を重んじます。整然として安定感のある構図を重視し、瞬間をとらえた複雑な姿勢や激しい動きを否定します。正確なデッサンによる線の美しさを重視して色彩を抑えます。筆致はなめらかできめ細かく、明確な輪郭線や正確な肉付けにより古代の彫像のような立体感を持たせます。
 新古典主義の総帥はジャック=ルイ・ダヴィッドです。厳格で理知的な画風と卓越したデッサン力により新古典主義の美学を完成しました。

  ダヴィッドの「ホラティウス兄弟の誓い」(1784年)は古代ローマの物語を題材としています。三人の兄弟が父親の差し出す剣に向かって腕を伸ばして国家への忠誠を誓う場面を厳格に描くことにより、兄弟の徳と理性を賛美しています。男性たちが直線的に描かれて力強さやたくましさを表しているのに対し、女性たちは柔らかく曲線的です。バランスのいい簡潔な構図とギリシア彫刻のような人体表現で新古典主義の価値観を示す典型的な作品です。

『ホラティウス兄弟の誓い』(ジャック=ルイ・ダヴィッド)
『マラーの死』(ジャック=ルイ・ダヴィッド)

 ダヴィッドは熱心な共和主義者で、1789年のバスティーユ監獄の襲撃に参加し、1792年には国民公会の議員となるなど革命期には政治的にも活動しました。最も急進的なジャコバン派に属し、革命期の現実の政治状況を反映する作品も残しています。
 「マラーの死」(1793年)は、フランス革命の指導者を讃える作品です。ジャン・ポール・マラーは、ロベスピエールやダヴィッドとともにジャコバン派に属していましたが、1793年7月に対立するジロンド派支持者により暗殺されました。1794年7月の「テルミドール9日の反動」の前年の出来事です。暗殺直後の姿を描いた作品ですが、シンプルな構図であり、静けさと厳粛さが漂います。

 民衆の間では社会を安定させる強力な政権を望む声が高まります。そしてナポレオンの登場となります。ナポレオンは1796年にイタリア遠征軍の司令官に抜擢されます。翌年アルプスを越えてオーストリアを破り、対仏大同盟を崩壊させて名声が高まります。さらにエジプトにも遠征しますが敗北します。その間に第二回対仏大同盟が成立するとナポレオンは単身帰国し、1799年に無力な総裁政府を倒して三名の統領からなる統領政府をたてます(ブリュメール18日のクーデター)。自ら第一統領となって実権を握ります。
 1800年、ナポレオンは再度オーストリアを破り、1802年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約)、第二回対仏大同盟を解体させます。ローマ教皇とも和解します。フランスは平和と社会の安定を取り戻しナポレオンの名声はさらに高まります。

『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』(ジャック=ルイ・ダヴィッド)

 同年の国民投票で終身統領となり、フランス銀行を創設、国民教育制度を確立します。さらに所有権の不可侵、法の下の平等などを定めた「ナポレオン法典(フランス民法典)」を発布します。これによりフランス革命の成果が成文化され、革命の精神はナポレオンの下でフランス社会に定着していきます。
 野望を燃やしたナポレオンは、1804年に国民投票により皇帝に就任してナポレオン1世となります。皇帝の正当性は血筋ではなく国民投票に基づいており、ここでもフランス革命の理念は継承されています。
 1805年、フランスの強大化を恐れた各国は第三回対仏大同盟を結成します。ナポレオンはイギリスへの上陸を目指しますがトラファルガーの海戦でイギリス艦隊に敗北して挫折します。しかし大陸では同年のアウステルリッツの三帝会戦でロシアとオーストリアを破ります。さらにプロイセンを破ってヨーロッパ大陸の大半を支配下におきます。そして大陸市場からイギリスを閉め出してフランスの産業を育成するため、大陸諸国とイギリスの間の貿易を禁ずる「大陸封鎖令」を出します。
 しかしこの大陸封鎖令は大陸の諸国にとっても打撃となります。革命中のフランスの対外戦争は祖国の防衛でしたが、ナポレオンの時代になると侵略戦争の性格が強まります。絶対王政下にあった諸国民にとって、当初ナポレオン軍はフランス革命の精神である自由と平等をもたらす解放者でした。しかし次第にフランスの大陸支配への反発が強まり、各国で民族意識が高まります。ナポレオンの支配はスペインの反乱から揺らぎ始めます。ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開すると、ナポレオンは大軍を率いてロシア遠征を行います。一時はモスクワを占拠したものの雪の中での退却を余儀なくされ、勢力を大きく失います。ここでヨーロッパ各国がいっせいに立ち上がります。ナポレオンは1813年からの諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)に破れ、退位して地中海のエルバ島に流されます。

☆この時代の美術  新古典主義 その2

 ナポレオンの時代にも美術では新古典主義が重んじられます。皇帝位に就いたナポレオンがローマ帝国の再現に夢を馳せていたこともあり、英雄のイメージを視覚化するのに有効と考えられたようです。ダヴィッドはナポレオンに心酔して主席宮廷画家となります。

『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』(ジャック=ルイ・ダヴィッド)

 「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」は、ノートルダム大聖堂で行われた皇帝ナポレオンの戴冠式を描いた壮麗な記念碑的作品です。皇帝の権威のアピールを目的に制作されました。破格の大画面に人物を実物大で描きました。まさにダヴィッドの畢生の大作です。ダヴィッド自身が戴冠式に招かれて式典の情景を詳細に把握し、新古典主義の様式に則って描きました。大聖堂の厳粛で冷え冷えとした空気や光を浴びて輝く衣装などを精緻かつ鮮明に描写しました。

 ナポレオンが失脚すると、戦後の処理とヨーロッパの秩序の回復のための国際会議が1814年にウィーンで開催されます。ヨーロッパ中の国が参加しましたが、オーストリア、イギリス、ロシア、プロイセン、フランスが主導権を取ります。
 各国は領土の拡大を狙い、華やかな宴会や舞踏会が開かれる裏で取引が行われます。しかし調整が難航し、「会議は踊る、されど進まず」と言われたように長引きます。その間にナポレオンはエルバ島から脱出して皇帝位に復帰しますが、約三ヶ月しか続きません(百日天下)。ワーテルローの戦いでヨーロッパ各国の連合軍に敗れ、大西洋の孤島セントヘレナに流されます。
 会議が再開された後、大国の利害のバランスが図られて、ようやくウィーン議定書が締結されました。フランス革命以前の王朝と政治体制に回帰する正統主義が原則とされました。国王や貴族の支配の復活を図るものです。そして列強の勢力均衡により、革命や戦争の再発を防ごうとします。この復古的な国際秩序はウィーン体制と呼ばれ、大国の協調により保守的な体制の維持が図られました。
 しかし政治的、経済的に自由と平等を求めるフランス革命の精神がナポレオンの時代にヨーロッパ各地に広がっていました。これが近代市民社会の到来を告げることになります。
 各国ではウィーン体制に反発する動きが起きますが、この時点では抑圧されました。  フランスではウィーン体制下でブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王になります(復古王政)。王政が復活しましたがあくまで立憲君主制であり、フランス革命前の絶対王政とは異なります。所有権の不可侵や法の下の平等、言論・出版の自由などの革命の成果は保障されていました。憲法が定められ議会も設置されますが、制限選挙によるものです。言わばフランス革命の理念と王政を組み合わせたような形になります。国王が貴族の権限を強化しようとすると、それに反対する自由主義者との対立が強まります。市民には自由と平等を求める意識が定着しており、人民主権など政治体制の近代化を求める運動が続きます。
 一方、産業の発達に伴い、市民の中でも産業資本家や金融業者などのブルジョワジーが成長し、都市の一般民衆や農民との溝が深まります。

☆この時代の美術  新古典主義とロマン主義の対立

 ナポレオンの没落後、ナポレオンの庇護を受けていたダヴィッドは亡命を余儀なくされます。しかし復古王政の時代になっても、新古典主義の価値観は伝統を重んじる国家観と合致し、引き続きアカデミーによって推奨されます。
 19世紀前半は、ダヴィッドの弟子であるアングルがこの流れを継承して新古典主義の中心的存在となります。アングルは洗練された美しい線描と陶器のように滑らかな人体表現で純粋な美の世界を生み出します。国立美術学校の校長に就任するとともに元老院議員にも選出され、美術行政全体に強い影響を及ぼします。
 その後新古典主義はギリシア・ローマ時代の忠実な模倣を理想とする形式主義的な面も生じますが、19世紀末までフランス美術界に大きな勢力を持ち続けます。

 1810年代末から1820年代には新古典主義に対抗してロマン主義が台頭します。ロマン主義は、ビクトル・ユーゴーをはじめとする文学や音楽などと軌を一にしつつヨーロッパ全体で起きた芸術運動です。
 ロマン主義の美術は、新古典主義と同様にフランス革命の精神を背景にしますが、新古典主義とは価値観が正反対に近く、美に対する新しい考え方を主張します。新古典主義が掲げる「普遍的な理想美」を否定し、美とは永遠不滅のものではなく、時代によって、また人によって様々に変わり得るものと考え、個人の感情や主観性を重視します。革命精神の「自由と平等」を受けて、感性や想像力の自由を掲げます。 また、アカデミーの提示する規範や秩序に異を唱え、自由な創造活動、独創性を主張します。この個性を重視する考え方が後の近代絵画の精神につながっていきます。
 この後、1820年代から40年にわたって新古典主義とロマン主義が対立し、フランスの美術界を二分することになります。

 ロマン主義の絵画は、理性だけでは捉えきれない感情と想像力を解放し、激しい情熱や苦悩、高揚感をドラマチックに描きました。聖書や神話よりも現実の政変や事件の象徴的場面などを題材にして情感豊かなスタイルで描き出しました。作品には自由への憧れや権力に対する批判、民衆の情熱への礼賛や人々を鼓舞する思いなどが込められました。その一方では中世の伝説や物語の世界に想像力を働かせた作品や東方世界など異国の情緒に着想を得た作品もあります。
 表現様式の特徴は激しい動きのある劇的でダイナミックな構図で、人物は人間性豊かに描かれます。デッサンよりは色彩の効果を重視します。大胆な筆触を残し、強い色彩のコントラストや光と影などの明暗の表現により、観る者の感覚に直接的に働きかけます。
 フランスでロマン主義絵画の道を切り開いたのはテオドール・ジェリコーです。33年という短い生涯はナポレオンの帝政から復古王政の時代でしたが、新古典主義の美学を根底から揺るがすような挑戦を試みました。極限状態におかれた人間が見せる本能やみなぎる緊張を激しい表現で描き出しました。代表作の「メデュース号の筏」(1819年)は、1816年に実際に起きた海難事故を題材にしています。

 イギリスから返還された植民地の統治のためにフランスの軍艦がセネガルに向かう途中で起きた座礁事故です。わずかな生存者が筏で漂流している地獄絵図を巨大なスケールで描いており、復古王政の人事による無能な指揮官や無責任な体制によって多くの人が死亡した惨劇が白日の下にさらされました。死者、絶望に沈む人、わずかな希望から必死に助けを求める人が折り重なる様は圧倒的な迫力です。観る者は現場に居合わせるかのような臨場感を否応なく味わうことになります。この作品がロマン主義絵画の幕開けを告げました。

『メデューズ号の筏』(テオドール・ジェリコー)

 1824年にシャルル10世が即位すると反動政治を強め、フランス革命前の時代に戻そうとします。1830年の選挙で自由主義者が勝利すると国王は議会を解散します。出版の自由を停止し、選挙権への制限を大幅に強めます。それに反発して学生、労働者、市民などがパリで蜂起し、バリケードを築きます。結局、国王は国外へ亡命して復古王政は崩壊します。これが七月革命です。
 その後の政治体制について共和制を望む声もありましたが、ブルジョワジーたちは革命が過激になることを恐れ、共和制ではなく立憲君主制を選びます。そして開明的な自由主義者であると言われていたルイ・フィリップを新しい国王に迎えます。ブルボン家の分家の出身です。憲法が制定されて選挙制度も新しくなりますが選挙権は有産者に限られます。議会は産業資本家や銀行家等の富裕なブルジョワジーが支配的になり、政権はその利益の保護を図ります。

 七月王政期はフランスにおいても産業革命が大きく進展した時期です。人力に代わって機械の動力を用いる技術革新により工場生産が広がります。経済は農業中心から工業中心に転換し、鉄道の建設も進みます。
 中小の産業資本家が台頭する一方、労働者層も形成され、フランス革命前には第三身分(平民)と呼ばれていた階層が、富裕な市民階級(ブルジョワジー)と貧しい労働者層(プロレタリアート)に分化し、格差が大きくなっていきます。労働者の勤務条件や生活環境は劣悪なものであったため、ブルジョワジーに対する反発が強まり、労働運動も活発になります。
 七月王政はやがて少数の大資本家との結びつきを強めます。労働者や農民の不満は高まり、ルイ・フィリップ政権への批判が強まります。中小のブルジョワジーや労働者は選挙制度の改正を求めます。改革宴会という合法的な集会により普通選挙を要求する運動が展開されます。

☆この時代の美術  ロマン主義の展開

 夭逝したジェリコーの後を継いでウジューヌ・ドラクロワがロマン主義を確立します。ドラクロワは豊麗な色彩に輝くダイナミックな美の世界を創り出して美術史上大きな役割を果たしました。しかし、当時のアカデミーからはなかなか認められず、ようやく1957年になってアカデミーの会員になることが許されます。ドラクロワが創り上げた独自の画風は、後の印象派や二十世紀美術にも大きな影響を与えました。

『キオス島の虐殺』(ウジェーヌ・ドラクロワ)

 ドラクロワの「キオス島の虐殺」(1824年)は、1822年に地中海の島でオスマン帝国がギリシア住民を虐殺した事件を取り上げ、その惨状を生々しく描いています。ギリシアのオスマン帝国からの独立をめぐって独立戦争が続いていましたが、その中で起きた衝撃的な事件です。フランス国内の出来事ではありませんが、ヨーロッパ全体で高まっていた民族自決の機運を背景に、東方への関心や虐げられた人々への共感というロマン主義的な視点が強く出ています。ギリシアの独立運動を支援するフランス国内の世論を後押しする効果も持ちました。

 「民衆を導く自由の女神」(1830年)はロマン主義を象徴する代表作です。1830年に七月革命が起きると、ドラクロワは市民や学生たちの蜂起に共感し、それを記念して制作しました。ノートルダム大聖堂などのパリ市街を背景に、同志たちの屍を乗り越えて民衆たちが突き進む様が描かれています。中央の女性像は「自由・平等・博愛」の寓意であり、周囲の市民、学生、兵士、労働者、少年などは様々な階層の人々が蜂起に参加したことを象徴しています。硝煙にかすむ中で三色旗の赤、青、白が鮮やかに響き合い、沸き起こる民衆のどよめきが聞こえてくるようです。

『民衆を導く自由の女神』(ウジェーヌ・ドラクロワ)

 画面全体の勢いと躍動感が革命の熱気と混沌を感じさせ、高揚した感情表現で革命の精神と国民国家の理念を讃えています。
 なおこの作品はサロンに出品された後リュクサンブール美術館に展示されますが、ルイ・フィリップの七月王政が保守化していくと倉庫に移されます。1848年の二月革命後に再び日が当たるようになり、1855年の万国博覧会に出品され、第三共和政のもとでルーヴル美術館に展示されて現在に至ります。

 七月王政が普通選挙を拒否したことなどから1848年に市民が蜂起して二月革命が起きます。これによりルイ=フィリップが退位して七月王政が倒れます。共和制が宣言され臨時政府が成立します。フランスでのこの動きが発端となってヨーロッパ各地で様々な民族運動が連鎖的に発生し、ウィーン体制は終わりを迎えます。
 しかしフランスの臨時政府には穏健な共和派から労働者や社会主義者まで様々な人々が参加しており、政治的、社会的な混乱が続きます。不満を抱く民衆は安定を求めるようになります。そうした中で行われた大統領選挙でナポレオン(1世)の甥であるルイ=ナポレオンが圧倒的な支持を得て大統領になります。さらに大統領自らが軍を率いてクーデターを起こし、国民投票での支持を受けて皇帝位につきます。ルイ=ナポレオンはナポレオン3世となります。農民、労働者、資本家、教会など国民の各階層の様々な利害が対立するなかでナポレオン3世が広範な支持を得たことは、フランス革命以来の社会的混乱を終わらせ、強力なリーダーシップのもとで国民が統合されることをフランス国民が望んだからだと言われています。こうして第二帝政が始まります。

 ナポレオン3世は積極的な産業保護政策などにより近代化を進めます。産業革命が大きく進展して工場生産が発達するとともに、銀行など金融機関の設立、鉄道などの交通網や社会資本の整備も進みます。都市への人口集中が進み、社会は大きく変わります。この時期にフランスはイギリスと並ぶ資本主義国として発展します。
 帝政への反感や社会不安もありましたが、一応の政治的安定も得られます。

 ナポレオン三世はパリを世界の文明の中心地にしようとしてパリの大改造を行います。皇帝の命を受けたセーヌ県知事オスマン男爵により、幅の広い大通り、多くの公園や広場、下水道などが整備され、パリは近代都市に姿を変えます。

パリ万国博覧会 (1867年) 会場の鳥観図

 1851年に世界で最初の万国博覧会がロンドンで開催されてイギリスの産業の発展を誇示しましたが、その4年後の1855年、パリで万国博覧会が開かれます。さらに1867年にはナポレオン三世の威信をかけた第二回のパリ万国博覧会が開かれます。この時日本が初めて正式に参加し、浮世絵や扇子、陶磁器などが展示されたことがジャポニズムブームの契機になります。

 劇場、カフェ、レストラン、百貨店などが次々と開店します。大衆向けの新聞や雑誌の普及で文化が大衆化し、市民社会が成立します。カフェでは画家をはじめ様々な芸術家や文化人が集まり、活発な議論が展開され、そこから新しい芸術が生まれることになります。
 また、豊かな市民階級(ブルジョワジー)は富を蓄え高い学識を持ち、着実に実力を伸ばします。そして王侯貴族に代わって新しい社会の担い手になります。この時期から次の第三共和政期にかけてブルジョワジーを中心として華やかな都市文化が発展します。
 一方では資本主義の発展により階級対立が激化するなど社会構造も大きく変わります。

☆この時代の美術  第二帝政期

 映画「画家モリゾ」の中心人物であるエドゥアール・マネとベルト・モリゾはこの第二帝政の時代に画家としての活動を本格的に始めます。それでは、この時代の美術の状況を見ていきましょう。

①写実主義(リアリスム)

 19世紀前半は、新古典主義のアングルとロマン主義のドラクロワが勢力を競い合いました。ただし、この間も新古典主義を信奉するアカデミーが国立美術学校やサロンを支配し続けます。アカデミーは自らが定める秩序にしばられて停滞し、新しい美術の価値が理解できません。1851年から始まる第二帝政の20年間は、既に登場しているロマン主義に次いで、近代性を追求する新たな動きが活発化し、あくまでも伝統に固執するアカデミーの美学との闘争の時代となります。
 アカデミーの秩序にはジャンルの優劣という体系が存在し、古代の神々や聖書の物語を題材にした歴史画や宗教画が高貴な美術とされたのに対し、目に見える世界のそのままに写し出した肖像画や風景画は低俗な作品と扱われました。歴史画や宗教画は顧客である王侯貴族や教会の嗜好に合うものであり、制作する側にも鑑賞する側にも主題に関係する歴史や宗教の教養が必要とされました。
 それに対し、市民社会の成立に伴い、芸術の経済的な担い手も市民階級に広がります。新興のブルジョワジーが絵画を購入する顧客になりますが、自宅に飾る絵には、自分の身近な世界やのどかな田園風景などわかりやすく親近感のあるものを求めます。美術に関する価値基準も従来アカデミーが独占的に定めていましたが、多様な評価がなされるようになります。批評家が新聞や雑誌に美術の批評を発表するようになり、画商が画家を援助するケースも出てきます。また、急速に進歩する科学や技術は「現実を直視する」傾向を生み、美術においても現実に即した表現を求める考え方が生まれます。この様な状況が写実主義をはじめ新しい美術の登場を促します。
 しかしその一方では、市民階級にも伝統を重んじる嗜好やサロンの権威に従う保守的な傾向も根強く残り、革新的な取り組みに挑む画家たちを苦しめることになります。

 写実主義は絵画の主題として神話や英雄ではなく、同時代の普通の人々や身近な風景を飾らずに再現します。この姿勢はアカデミーの規範への挑戦でもあります。これが絵画の世界に新しい潮流を生み出します。
 さらに、ブルジョワジーと労働者階級の対立を背景に、批判的なまなざしをもって社会の矛盾や理不尽を描く作品も登場します。
 写実主義の代表的画家はギュスターヴ・クールベです。クールベは技法や様式では伝統を踏襲しましたが、主題とその扱いが革新的でした。絵画における「理想的な美」の存在を否定し、同時代の現実にこそ重みがあると考えます。故郷の森や川、農民や労働者の姿を率直に見つめ、それを誠実に再現します。
 クールベは社会的な関心も高く、思想的には急進派で共和主義者です。1848年の二月革命には積極的に参加し、その後のナポレオン三世の第二帝政には強い反感を抱きます。1855年のパリ万国博の美術展に自分の作品の出展を拒否されると、抗議を表明するために近くの建物で独力で個展を開きます。この時、「自分が見たものだけを描く」と宣言し、自らをレアリスト(写実主義者)と名乗ります。旧弊なアカデミーの権威に反抗して自己の道を貫く反骨精神は、次の世代の印象派の若者たちに大きな勇気を与えました。

『オルナンの埋葬』(ギュスターヴ・クールベ)

 代表作の一つ「オルナンの埋葬」(1850年)は、クールベの故郷であるフランス東部のオルナンで行われた葬儀の様子を描いたものです。地方の小村に暮らす名もない人々が埋葬に参列している場面であり、構図も劇的に盛り上がることはなく、感じられるのは粛々とした儀式の静けさと地域に根差した生活の重さです。

 高貴な主題とはされていない題材を歴史画に匹敵する堂々たる大画面で描いたことは 当時の人々に大きな驚きとなりました。

 理想化された主題を離れて同時代の現実に目を向ける動きは、風景画の位置づけも変えます。それまで風景は神話や歴史の場面を支える背景に過ぎませんでした。しかし、風景を背景としてではなく、独立した主題とする画家たちが登場とします。その代表がバルビゾン派です。
 パリ南東のフォンテーヌブローの森の北端にあるバルビゾン村に画家たちが集まり、森や野の自然に触れるとともに戸外で写生する動きが広がります。樹木や水辺などの穏やかな風景と向き合い、その中に深い情感を感じ取り、畏敬の念を抱きます。そしてありのままの自然を農村の人々の姿とともに落ち着いた色調で荘重かつ親密に描きました。

 代表的な画家の一人であるジャン=フランソワ・ミレーは農家に生まれ、厳しい労働を自ら体験して育ちました。画家となったミレーは、大地と結びついた農民たちの生活への共感を格調高く描きました。代表作の一つが「落穂拾い」(1857年)です。この作品は旧約聖書の物語をヒントにしていますが、三人の農婦の姿を静かな落ち着きと威厳をもって描きました。収穫後の畑で落ち穂を拾う作業は貧しい農婦にのみ許された権利でした。額に汗して黙々と働く姿はまさに農民の生活を象徴しています。日々繰り返される真摯な営みへの温かい眼差しが感じられます。

『落穂拾い』(ジャン=フランソワ・ミレー)
『モルトフォンテーヌの思い出』(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー)

 もう一人、この時期に風景画と肖像画に大きな足跡を残した画家にジャン=パティスト・カミーユ・コローがいます。代表作「モルトフォンテーヌの想い出」(1864年)の舞台はパリの北方の小村です。水辺の木立と人物たちが淡い銀白色のヴェールを通して見るように描かれています。そよ風が静かに水面を渡り、木の葉をふるわせて柔らかな時間が流れています。コローの作品に特有の夢幻的な風景が広がります。想い出や夢のようなどこか懐かしい詩情が漂う静謐な世界です。コローは鋭敏で繊細な感受性により、大気や光の中で自然がどう見えるか、その印象がどう残るかに注意を向けました。

 なお、ベルト・モリゾは、マネと出会う前にこのコローに師事していました。
 これらの写実主義の画家たちの自然を見る眼と戸外での制作が後の印象派が登場する道を準備したとされています。

 19世紀後半、フランスの社会は近代化が進み、人々の生活や意識も変わりますが、美術の世界も大きな転機を迎えます。その中で重要な役割を果たしたのがエドゥアール・マネです。
 ベルト・モリゾとエドゥアール・マネは1868年に出会いました。第二帝政の末期です。映画でも序盤で二人が出会います。それでは二人が出会うまでのそれぞれの道のりを見ていきましょう。

②エドゥアール・マネ その1(1868年まで)

 マネは伝統的な美術から脱却して近代絵画の扉を開いたと言われています。ロマン主義や写実主義から印象派、さらには二十世紀絵画への橋渡しをした存在として、美術の歴史に重要な位置づけを占めています。

エドゥアール・マネ

 マネは1832年にパリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれました。父親は司法省の高級官僚であり、教養豊かな環境で育ちました。マネ自身は軽妙な才気と機知に富み、洗練された生粋のパリジャンでした。社交的な性格で多くの人と交わりました。
 二月革命の後、海軍兵学校の試験に失敗し、見習い海員をするなどしますが画家になる決意をします。両親の承認を得た後、1850年にアカデミズムの画家トマ・クチュールのもとで学びます。市民社会の到来にふさわしい新しい絵画を描きたいと考えたマネは師のクチュールと衝突した後、画塾を去ります。その後は、ルーヴル美術館で過去の巨匠たちの作品の模写や研究をして自分の進む道を模索します。

 1859年にサロンに出品した作品が落選しますが、マネが敬愛していたロマン主義の巨匠ドラクロワや親友となる詩人ボードレールからは高く評価されます。この頃、ルーヴル美術館で模写を続けるなかで、アンリ・ファンタン・ラトゥールやエドガー・ドガなどの画家と知り合います。

『ギタレロ(スペインの歌手)』(エドゥアール・マネ)

 1861年に「ギタレロ(スペインの歌手)」と「両親の肖像」の二作品で初めてサロンに入選します。
 1863年、内縁の妻であった音楽教師シュザンヌ・レーンホフと正式に結婚します。この後、情感豊かな妻の肖像画を多く残しています。

『両親の肖像』(エドゥアール・マネ)

 同年、「草上の昼食」をサロンに送りますが落選します。この時のサロンは審査が特に厳しかったため、画家の間で不満が渦巻いたと言われています。それを聞いた皇帝ナポレオン三世が公平を期すために落選した絵画を一堂に集めて「落選展」を開催させ、「草上の昼食」もそこに展示されます。この絵には、当世風の服装の男性二人と全裸の女性が同じ芝生の上で談笑している場面が描かれています。斬新な技法を評価する声もありましたが、当時の厳格な道徳観の下では反社会的であると激しく非難され、美術史でも名高いスキャンダルになりました。

 1864年にパリの北にあるモンマルトルの丘に近いパティニョール街に自宅とアトリエを構えます。その後、近くにあるカフェ・ゲルボワに足しげく通うようになります。やがてこの店に若い画家や文筆家などの芸術家たちが集まって意見を交換し合うようになりますが、マネはその中心にいました。マネは若い画家たちから慕われ、様々な援助もしました。
 1865年、「オランピア」がサロンに入選します。裸の女性を正面から描いた作品ですが、客から届いた花束も描かれており、この女性が娼婦であることは明らかです。再び社会現象になるほどのスキャンダルを巻き起こします。映画は、主人公ベルト・モリゾがこの絵を観て心を揺り動かされる場面から始まります。 

 1867年、第二回のパリ万国博の際にマネは会場の近くに会場を設けて個展を開きます。この展覧会はあまり注目されないうちに終わりますが、若い画家たちには影響を及ぼし、後の印象派のグルーブ展の開催の契機になりました。
 この頃、自然主義文学の代表的な作家であるエミール・ゾラがマネの擁護者となります。マネはゾラに対する感謝を込めて肖像画を制作しています。
 1868年、マネは画家ファンタン・ラトゥールの紹介でベルト・モリゾとその姉エドマと知り合いになります。この後、画家としてのモリゾにアドバイスをするとともに、モリゾをモデルとした作品を次々と制作します。

③ベルト・モリゾ その1(1868年まで) 

 モリゾは印象派の中でも数少ない女性画家の一人です。母子の穏やかで微笑ましい情景、窓から降り注ぐ陽光に包まれた室内の場面など身近な主題を愛情を込めて描いた作品を多く残しています。

ベルト・モリゾ

 モリゾは1841年1月、フランス中部ブールジュ生まれます。父親は官僚や県知事などを歴任した人物で、裕福なブルジョワの一家でした。姉エドマとともに幼い頃から絵の教育を受けます。ただし、あくまで教養として習ったのであり、職業画家になることは想定されていません。姉妹は富裕なブルジョワ階級として結婚して家庭に入ることが期待されていました。
 なお、姉妹は18世紀フランスのロココ美術の代表的画家であったジャン・オノレ・フラゴナールの血を引いています。
 当時、フランスの国立美術学校では女性の入学が認められていませんでした。そこで姉妹はルーヴル美術館で古典作品の模写に励んで研鑽を積みます。20歳のころからは写実主義の画家コローの門下生として風景画を学び、戸外での制作も始めます。

 1864年には、姉妹共にサロンに初入選します。ベルト・モリゾが入選したのは二つの風景画でしたが、この作品のタイトルははっきりしないようです。モリゾは、以後数年間は毎年のようにサロンに出品します。
 1868年、モリゾはルーヴル美術館で姉と模写をしていた時にエドゥアール・マネと知り合います。

 19世紀のフランスは革命や政変の連続でしたが、なかでも1870年代は激動の時代でした。モリゾとマネが知り合った2年後に普仏戦争が起き、さらにパリ・コミューンの成立と崩壊という激動の時代になります。

 ナポレオン3世は国民の支持を得るために積極的な対外政策を展開し、イギリスとの共同歩調による中国への進出(アロー戦争)や、インドシナ半島への進出などを進めました。しかし最後に行ったメキシコ出兵が失敗に終わり権威に傷がつきます。 
 この時期まで分裂状態にあったドイツでは、新興のプロイセンが勢力を伸ばしています。プロイセンは国王ヴィルヘルム1世のもとでビスマルクが首相となり、鉄血政策により軍国主義化を進めます。ビスマルクはプロイセン中心のドイツ統一を達成するためにはフランスに勝つことが不可欠と考え、ナポレオン3世を挑発します。この挑発に乗って戦争に持ち込まれたことが皇帝ナポレオン3世の命取りになります。1870年、普仏戦争が始まりますが、プロイセンが圧倒的な勝利を重ね、スダンの戦いではナポレオン3世自身が捕虜になってしまいます。これによりフランスの第二帝政は終わりますが、臨時国防政府が樹立され、プロイセンとの戦争は継続します。首都パリは包囲されて深刻な食料不足になりますが、パリ市民の戦意は高く、徹底抗戦で必死に耐えます。プロイセンは翌1871年1月にはパリの南西にあるヴェルサイユ宮殿において、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行してドイツ帝国を成立させます。結局フランス側は降伏を受け入れ休戦協定が成立します。フランスの臨時政府ではティエールという人物が首班となり、巨額の賠償金の支払いと、鉄鉱石や石炭等の地下資源が豊かなアルザス・ロレーヌ地方の割譲を受け入れます。勝ち誇ったプロイセンは、3月1日、パリに入城します。この屈辱的な講和条約に対し、必死で持久戦を耐えてきたパリ市民は憤激します。
 臨時政府がパリの市民兵の武装解除をしようとしたことが契機となり、市民が武装蜂起します。一報を受けたティエールは軍と政府関係者をひきつれてパリを放棄し、ヴェルサイユに逃走します。蜂起した民衆はパリの実権を掌握し、自治政権を樹立します。これがパリ・コミューンです。3月26日にはコミューン評議員の普通選挙が行われ、パリ市庁舎で革命政府の樹立が宣言されます。こうしてパリがフランス臨時政府から離脱します。

 パリ・コミューン政府は選挙で選ばれた評議員で構成され、実務機関として委員会が組織されます。コミューン政府は新しい政策を次々と打ち出します。官公吏の公選制など直接民主主義的な政策、言論の自由、集会の自由などの自由権的な政策、生活困難者に対する生活保護など社会権的な政策など多岐にわたっており、時代を先取りしたものも含まれていました。コミューンの参加者には労働者が多数を占めましたが、学者、法律家、医師、報道関係者、芸術家なども参加しており、これらの知識人指導的な立場になりました。しかし、コミューンは様々な立場、主張の人々の集合体であるため意思統一が難しく、団結して政府軍と戦うのは困難な状況でした。

パリ・コミューン参加者によって築かれたバリケード

 コミューン政府は5月20までパリを統治しますが、ヴェルサイユに集結したフランス臨時政府軍は態勢を整え、コミューンへの攻撃を開始します。コミューン側は老人、子ども、女性たちも加わって必死の抗戦をし、後に「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦が行われます。この戦闘で3万人もの市民が惨殺されたと言われています。5月28日、追い詰められたコミューン側は全滅します。鎮圧後もコミューンに加わった兵士や市民は捕らえられ、銃殺されました。

 パリ・コミューンはわずか72日間という短命に終わりましたが、市民が中心となった自治政府の樹立は世界史上初めてのことでした。実施には至りませんでしたが様々な革新的な政策が打ち出されたことは、その後に大きな影響を与えたと言われています。
 写実主義の画家クールベは社会的な関心も高く、パリ・コミューンに共鳴してコミューンの芸術連盟会議の議長という職に就任しました。そしてナポレオンの戦勝記念碑であったヴァンドーム広場の記念円柱の取り壊しを提案し、実施に移しています。
 臨時政府軍との市街戦が始まるとクールベは潜伏しますが発見され、円柱の再建費用として巨額の賠償金の支払いを請求されます。支払いが困難なクールベは身の危険を感じ、1873年にスイスに亡命し、その地で亡くなりました。モネ、ルノワールらの若い画家たちにより後世「第一回印象派展」と呼ばれる展覧会が開かれるのはクールベが亡命した翌年のことでした。

 普仏戦争の敗戦とその後の内戦はフランス国民に深い傷跡を残しました。しかし混乱が収束するとフランスは急速に国力を回復します。
 政治体制は王政復古や立憲君主制ではなく共和制を選択し、第三共和政が始まります。1875年には第三共和政憲法も制定され、三権分立や男性普通選挙が導入されます。その後は議会中心の政治運営になります。
 産業が急速に発展し、街の復興が進むと人々は活気を取り戻していきます。そして後に「ベル・エポック」と呼ばれる平和で華やかな都市文化が繁栄します。

 それでは、普仏戦争以降のマネとモリゾの活動を見ていきましょう。

☆この時代の美術  普仏戦争以降

①エドゥアール・マネ その2(1868年以降)

 1870年に普仏戦争が始まって多くの人が地方や国外に避難すると、マネは家族をピレネー山脈に疎開させ、自身は志願して国民軍に入隊して中尉となります。首都防衛戦にも加わります。
 普仏戦争が敗北に終わると疎開していた家族と合流します。パリに戻ろうとしますが、パリ・コミューンとその後の内戦によりしばらく足止めを受けたようです。
 平和が訪れ、パリの復興が進むと、マネも制作を再開します。マネは大都市パリの現実を鋭い観察眼で冷静に見つめます。街の雰囲気や避暑地の光景など華やかな都市文化を明るい鮮やかな色彩で描く一方、ブルジョワ社会の暗部でもある娼婦の存在を前面に出すなど都市の光と影をありのままに描き出します。

 1872年、画商デュラン=リュエルがマネの作品24点を購入します。
 1874年、後に印象派と呼ばれることになる若い画家たちがサロンへの反旗を掲げてグループ展を開催します。この時マネは熱心な勧誘を受けます。マネは印象派の画家たちとは深く交流し、画風の上でも共感を抱いていましたが、マネ自身は一度も印象派展に参加しません。あくまでも既存の美術界での成功を目指してサロンの厚い壁に挑み続けます。しかし印象派の画家たちのマネへの尊敬の念は変わりません。新しい美術の開拓を目指す上でマネは精神的な支柱のような存在になりました。

『フォリー・ベルジェールのバー』(エドゥアール・マネ)

 翌年、弟のウジェーヌとその妻であるベルト・モリゾの企画によりマネの回顧展が開かれました。
 マネの死後ほどなくして、その評価は急速に上がり始めます。20世紀に入ると近代絵画の巨匠として美術史に確固たる地位を占めることになります。

②ベルト・モリゾ その2(1868年以降)

 マネと知り合った後、モリゾはマネから多くを学びつつ画家としての自分のスタイルを形成していきます。マネの影響を受けて人物画の制作も始めます。また、その後はマネのアトリエに通い、たびたびモデルを務めます。
 姉のエドマは結婚してプロの画家への道をあきらめますが、妹であるモリゾはそれを残念に思います。エドマはその後も妹の心の支えとなります。姉妹の間には親愛の情があふれる手紙が残されています。
 モリゾ自身は家族などの心配をよそに絵画に人生の意義を見出して自らの道を進みます。この頃から、後に印象派となる若い画家たちとの交流が始まり、その取り組みに共感を覚えます。

 1870年の普仏戦争の際にはパリを離れます。混乱が収束しパリに戻った後も、アトリエが戦争の被害を受けていたため、しばらく絵の制作を中断します。この間、マネの絵のモデルを何作も務めています。
 1874年、印象派の第1回展に出品した唯一の女性画家となります。
 同年、マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。モリゾはその後も夫の理解と支援を得て絵を描き続けます。
 1878年には一人娘ジュリーが誕生します。家庭生活は絵の主要な主題となり、夫や娘を題材にした作品を多く残しています。

 1892年、夫のウジェーヌが亡くなります。
 そして1895年3月、ベルト・モリゾは肺炎で亡くなりました。54歳でした。
 モリゾが死去した後、印象派の仲間であったルノワール、モネや詩人のステファヌ・マラルメらがモリゾの一人娘のジュリーの後見人となります。ジュリー・マネは母の他、伯父のマネやルノワールなどのモデルを多く務め、自身も画家になります。ジュリーの綴った日記は19世紀末のフランスの美術界の様子や印象派の画家たちの生活や思想を知る貴重な資料となり、日本でも出版されています(「印象派の人々 ジュリー・マネの日記」)

 近代絵画の草分けであったマネの作品は、主題面と技法面の両方で革新的でした。それは新しい時代を切り開くものでしたが、当時は多くの非難を浴びる原因ともなりました。
 まず主題面では、神話や歴史などの理想化された題材ではなく自分の眼で見たものをそのまま描きました。同時代のパリの華やかさや人々の生活を真正面から描いた点で革新的でした。余暇や音楽会を楽しむ市民の姿、カフェの客、当時登場したばかりの汽車や駅、さらには娼婦など、それまで「高尚な絵画」の主題とされなかったモチーフを古典絵画と同じスケールと格式で扱ったことが、美術界の伝統的な価値観を揺さぶり、強い衝撃とスキャンダルをもたらしました。

 マネの絵が当時の人たちの拒否反応を引き起こしたのは、単に斬新だったからではなく、当時の社会のタブーを破っていたからだとされています。裸婦は西洋絵画の長い伝統の中にありましたが、ヴィーナスなど神話の女神やニンフに託して描かれるのが通常でした。マネはそういった暗黙のルールにとらわれずに当時のパリに実在しそうな女性の裸体をそのままの姿で描きました。

『草上の昼食』(エドゥアール・マネ)
『オランピア』(エドゥアール・マネ)

 1863年の「草上の昼食」は、16世紀にイタリアのヴェネツィアで活躍した巨匠ティツィアーノの「田園の奏楽」を下敷きにして構図や裸婦の表現を大胆に現代的に置き換えています。この絵の女性は肌の色合いなど血の通った女性の肉体を感じさせ、女性のそばには脱いだ後の流行の服を描くなど、現代生活の一場面であることを強調しています。これが「売春の場面を連想させる」と受け取られ、スキャンダルの原因の一つとなりました。
 1865年の「オランピア」もティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の構図に基づいています。横たわる裸婦という形式は古典的な構図を踏まえていますが、女神のような理想化された柔らかさは感じられず、現代の娼婦が生々しく描かれています。絵の女性は絵を観る者に挑むように視線を返しており、観る者をたじろがせます。それが当時の人々に嫌悪感を抱かせました。

 造形面では、現実を鋭く観察したうえで独自の表現方法で描きました。西洋絵画はルネッサンス以来、三次元の現実世界を二次元の画面に表現するために、なめらかな陰影で肉付けをする技法、線遠近法などを用いるのが伝統となっていました。しかしマネは立体感や丸みを出さずに画面を平面的に構成しました。背景も簡潔に処理し、空間の奥行や遠近感があいまいな作品も多くあります。
 輪郭をくっきりさせて、あえて筆致を残してその効果を活用しました。明快で明るい色を多用しましたが、同時に黒を効果的に用い、色彩の強い対比を特徴としています。
 このように絵画そのものの平面性や絵具の存在感を前面に押し出すスタイルは、当時のアカデミックな美術の規範から大きく逸脱すると見なされました。

 マネは、若い時にはルーヴル美術館を度々訪れて過去の巨匠たちの技法を研究して多くのことを学びました。自身の作品でも古典に敬意を払い、構図やモチーフを踏襲するなどしています。その一方で進取の気性に富み、様々な芸術に触れ、そこから幅広く吸収しています。特にスペインに憧れ、ベラスケスなどスペインの画家から強い影響を受けました。
 また、日本の浮世絵版画にも興味を抱きました。マネの作風には鮮やかな色彩や平面的な描写、意表を突いた構図など浮世絵の影響も見られます。
 さらに1870年代には、自分がアドバイスを与えていたベルト・モリゾをはじめ年下の印象派の画家たちの技法や戸外制作などを柔軟に取り入れた作品も残しています。
 この様にマネは伝統を尊重したうえであらゆるものから吸収し、洗練された色彩表現や大胆な筆遣いなど独特の様式を生み出して絵画のもつ魅力を追求していきました。 

 マネ自身はサロンでの成功にこだわり印象派展には参加しなかったものの、現実の都市生活を主題とするスタイルや革新的な技法などを通じて、モネやルノワールら印象派の画家たちに決定的な影響を与え、後の近代美術につながる出発点と見なされています。

 マネ個人は裕福なブルジョワ階級の出身ですが、愛国者であると同時に熱心な共和主義者でもありました。マネの少年時代はルイ・フィリップの七月王政の時代でした。1848年の二月革命により第二共和政が成立するとこれを歓迎します。その後第二帝政の時代になるとナポレオン三世の独裁体制に対しては批判的です。1867年にフランスが擁立していたメキシコ皇帝マクシミリアンが銃殺された事件を題材に、メキシコ出兵を批判する「皇帝マクシミリアンの処刑」を制作しています。
 普仏戦争の際には志願して国民軍中尉となり、首都防衛戦に参加しています。パリ・コミューンに対しても共感し、「血の週間」で処刑されたコミューン参加者を描いた版画を残しています。

『皇帝マキシミリアンの処刑』(エドゥアール・マネ)

 映画の中でモリゾは何度もマネのアトリエを訪れますが、アトリエにはマネの有名な絵がいくつもあります。

『笛を吹く少年』(エドゥアール・マネ)

 「草上の昼食」の他、初めてのサロン入選作「両親の肖像」や「笛を吹く少年」(1860年)、「シャボン玉を吹く少年」(1867年)などです。
 「アトリエでの昼食」(1867年)もあります。この絵の中心はレオンという少年ですが、映画の中でモリゾはこの少年に会います。レオンはマネの妻シュザンヌの弟とされていますが、結婚前に生まれたマネの実子である可能性もあるようです。

『アトリエでの昼食』(エドゥアール・マネ)

 マネに関して残されている記録やエピソードがこの映画のストーリーやセリフにうまく活かされています。モリゾには「重ね塗りはするな」「影から光へ突破しなければならない」などのアドバイスをし、「他の画家から学ばなければならない。私はベラスケスやゴヤから学んだ」と言っています。「若い友人の絵を観て水面の輝きに目がくらんだ」と、印象派への共感も語っています。
 サロン等で非難されたつらさを語るとともに、モリゾに印象派展への参加を誘われた時には「ようやくサロンで認められつつある」と言って断っています。

 画家としてのモリゾは、ルノワール、モネ、ドガなどと共に印象派展の創設メンバーの一人です。印象派とは、美術の流れを大きく変えて近代美術の出発点となった革新的な運動です。当時のサロンが求める伝統的な描写から脱却し、画家個人の感覚や印象に基づいて身近な風景や都市生活の一場面を描きました。時間の経過による光の変化や色調の移り変わりを明るい色彩と軽やかな筆致でキャンバスに再現しました。
 モリゾはその後も継続的に印象派展に参加しました。既にサロンに入選した実績をもっていましたが、印象派の仲間と共に自分たちの表現を求め続けました。計8回開催された印象派展のうち7回に参加しています。第4回のみ出産のために参加できませんでした。
 印象派の画家たちとは親しく交流し、対等な仲間とみなされていました。印象派展を揶揄した当時の批評に「女性一人を含む数人の狂人」というものがありましたが、その「女性一人」がモリゾです。
 モリゾは印象派の一員ですが、独自のテーマと画風を確立しています。一見無造作に見えるほど大胆で動きのある筆触で光と空気の揺らぎをとらえます。穏やかでありながら力強く、軽やかで生命力に溢れています。
 色彩は白、ピンク、淡い緑や青など透明感のある明るい色を多用し、洗練された調和を見せています。女性や子どもの肌や衣服、カーテンなどをふんわりと表現し、柔らかで温かみのある空気感を生み出しています。

 当時の女性画家は、男性画家と違って公の場で長時間制作をすることが難しかったため、モリゾは女性特有の視点で自身の主題を開拓しました。自分が容易にアクセスできる家庭や家族をテーマとして掘り下げました。母と子の親密な場面、女性の室内風景、テラスや庭での休息のひとときなど、身の回りの人々や家庭内の情景に焦点を当てて幸福感に溢れる作品を生み出しました。
 女性の役割は家庭を守ることだと考えられていた時代であり、特にブルジョワ階級の女性が働くことはあり得ませんでした。また、美術界は男性中心で、女性がプロとして自由に制作し続けることは非常に困難でした。モリゾは父母や夫の理解があったこと、周囲に芸術的な環境があり経済的にも恵まれていたという有利な条件を最大限に活かし、社会的な制約の中で自らの才能を開花させ、後に多く誕生する女性画家の先駆者となりました。
 自らも働く女性であったモリゾは、労働に従事する女性たちに共感を抱き、誇りをもって働く女性の生き生きとした姿も多く残しています。

『モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人』(ベルト・モリゾ)

 映画にはモリゾが制作中の作品がいくつか登場します。まず、自分の母親と姉エドマを描いた「モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人」(1870年)です。モリゾはこの作品でサロンに応募しようとしていますが思うように進まずいらだっています。特に、母親の黒い服の部分にマネの描くような黒が表現できず苦しみます。マネは「君の純真な部分は残す」といいつつ作品に手を入れて黒の表現を教えています。

 姉の住むロリアンを訪ねて戸外制作をした「ロリアンの小さな港」(1869年) も登場します。ロリアンは海軍士官であるエドマの夫が赴任した港町です。映画のマネはこの作品を見て「なんという光だ」と言って賞賛します。そして「君はこれからも芸術の世界にいるべきだ」と言って激励します。

『ロリアンの小さな港』(ベルト・モリゾ)
『ゆりかご』(ベルト・モリゾ)

 モリゾの代表作としてしばしば紹介されるのは「ゆりかご」(1872年)です。赤ん坊を見守る母親を描いた作品で、母子像の名作として知られます。黒い服を着た母親は姉のエドマです。本格的な画家になる道を断念せざるを得なかった姉への思いを込めて制作されたと思われます。カーテンと揺りかごを包むレースの柔らかく細やかな色使いが印象的で、第1回印象派展に出品されました。陰影のない平面的な描写や黒の効果的な使い方はマネの影響と言われています。当時酷評を受けた第一回印象派展の中では、女性らしい穏やかな雰囲気が比較的好評であったようです。ただしモリゾの絵は一枚も売れていません。映画ではこの絵を観た画商デュラン・リュエルが「大気と光で描いているようだ」と言って絶賛します。

 他にモリゾの作品としては、娘ジュリーを描いた一連の作品があります。母親の視線から成長する娘の表情を追いかけたシリーズとして評価されています。日本のポーラ美術館に所蔵されている「ベランダにて」(1884年)もその一つです。

 モリゾはマネにとって「草上の昼食」や「オランピア」のモデルを務めたヴィクトリーヌ・ムーランと並ぶ重要なモデルとなります。モリゾをモデルにしたマネの作品は、二人が出会った年(1868年)からモリゾが結婚をした年(1874年)までの間に11点の油彩画が制作されています。
 マネの描いたモリゾ像は、いずれも芸術家らしい内省的な美しさと知性を兼ね備えた肖像です。モデルであるモリゾの内面に焦点を当て、絵画への強い志と画家とモデルの親密な交流を感じさせるものばかりです。

『バルコニー』(エドゥアール・マネ)
『休息(ベルト・モリゾの肖像)』(エドゥアール・マネ)
『横たわるベルト・モリゾの肖像』(エドゥアール・マネ)

 映画「画家モリゾ」にも何点か登場しています。モリゾがモデルとなった最初の作品は1868年のサロンに入選した「バルコニー」です。手前の左側に大きな瞳が印象的なモリゾが描かれています。映画では、完成したこの作品をモリゾとその母親に見せる場面が中盤のクライマックスになっています。
 「休息(ベルト・モリゾの肖像)」(1870年)は、白い衣装と物思いにふけっているようなモリゾの表情が印象的な作品で1872年のサロンに出品されました。
 「横たわるベルト・モリゾの肖像」(1873年)もやや愁いを帯びた表情ですが、生き生きとした瞳で観る者を静かに見つめ返しています。モリゾの服の黒と背景の暗赤色の対比が美しいです。実在のモリゾは、マネが自分を描いた作品の中でこの絵を一番気に入っていたと言われています。映画の中では、マネがこの作品を制作する際に、モリゾが人間としても画家としても成長したことを感じ取り、「以前の君よりも強くなった」と言っています。

『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』(エドゥアール・マネ)

 マネが描いたモリゾの肖像の代表作として知られるのが「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1872年)です。知的な女性の内面の輝きと一瞬の表情をキャンバスにとどめた近代の肖像画の名作として知られます。衣服や帽子の暗い色と背景の白のコントラストが美しい作品です。この絵は人手に渡った後、モリゾ自身が購入して亡くなるまで所有していました。その後は娘のジュリー・マネとその子孫が相続しましたが、現在はオルセー美術館に所蔵されています。

 映画「画家モリゾ」には、この他にも何人かの画家が登場していますのでご紹介します。

①フレデリック・バジール

 バジールはマネを敬愛する才能豊かな若い画家でした。印象派と呼ばれる以前のモネやルノワールらと行動を共にし、伝統的な絵画にあきたらず、自然の光を画面に取り入れる方法を探っていました。木陰のテラスに憩う家族など自然の情景の中に人物を配置した作品で知られています。

『バジールの画室』(フレデリック・バジール )

 「バジールの画室」(1870年)は、バティニョール地区にあった自身の画室を舞台にしています。後に印象派となる若い仲間たちのくつろいだ雰囲気を描いた貴重な作品です。中央の画架の右で絵の説明をしている長身の男性がバジール自身です。絵の左でステッキを持ってバジールにアドバイスをしているのがマネです。
 バジールは普仏戦争に従軍し、1870年11月、中部フランスの戦闘で帰らぬ人となりました。29歳の若さでした。その早すぎる死は後に多くの人に惜しまれることになり、もしバジールが戦争を生き抜いていれば印象派の有力なメンバーになったであろうと言われています。

 映画では、戦場に向かうバジールがモリゾに出会います。バジールはモリゾの絵に惹かれて「素晴らしい光だ」「心に訴えかけてくる」等と言い、二人は束の間の交流をします。後日バジールの死を聞いたモリゾはショックを受けています。

②ファンタン・ラトゥール

 ラトゥールはルーヴル美術館で巨匠の作品の模写をしていた際にマネと知り合いました。印象派の画家たちと親しく交流し、カフェ・ゲルボワの常連でもありましたが、技法の上では印象派と一線を画し、伝統的な技法を用いてサロンへの出展を続けました。

 交流のある芸術家たちの群像を描いた作品を残しています。「バティニョールの画室」(1870年)もその一つで、マネへの敬意を込めて制作した大作です。若い画家たちがマネのアトリエに集まっています。中央で絵筆を手に画架に向かっている男性がマネ、一番右の男性がモネ、右から二番目がバジール、四番目がルノワールです。

『バティニョールの画室』(ファンタン・ラトゥール)

③エヴァ・ゴンザレス

 ゴンザレスは小説家の娘で、ブルジョワ家庭に育ちました。ゴンザレスは、モリゾがマネと知り合った翌年の1869年にマネと知り合っています。絵の才能があったことからマネの弟子になります。マネの正式な弟子はこのゴンザレス一人だけです。

『エヴァ・ゴンザレスの肖像』(エドゥアール・マネ)

 マネはゴンザレスをモデルにした作品も描いています。1870年の「エヴァ・ゴンザレスの肖像」です。黒と明るい色のコントラストを巧みに用いてゴンザレスの華やかな雰囲気を伝えています。ゴンサレスは美貌の持ち主で、マネと親密な関係にあったようです。
 モリゾはこのゴンザレスに対抗心を抱いていたと言われており、映画にもそのような場面があります。ゴンザレスが絵を制作中の姿をマネに描かれているのに対して自分にはそれが無いことから、自分は画家として認められていない、と不満を言っています。

 画家としてのゴンザレスはサロンにも出品して評価されていました。女性の日常的な光景を落ち着いた色彩で描いた作品が多く、画風は印象派に近いものでしたが、師であるマネにならって印象派展に参加することはありませんでした。代表作の一つ「イタリア座の桟敷席」は、劇場の桟敷席での社交の場面を描いています。
 ゴンザレスは、1883年、マネが亡くなった6日後に34歳の若さで亡くなっています。

『イタリア座の桟敷席』(エヴァ・ゴンザレス)

 この映画は2012年にフランスでテレビ映画として制作された作品ですが、日本では劇場公開されました。作品の質が高かったことと、日本での印象派の人気を考えてのことだと思われます。
主人公ベルト・モリゾは、結婚することが当然とされた当時の社会的制約の中で絵画に情熱を燃やします。エドゥアール・マネと心を通わせつつ、苦しみながらも夢を追い続ける姿を描いた物語です。
 ストーリーは、実在の画家たちについて伝えられている逸話をもとに構成してあります。映画としての盛り上がりを意識して膨らませてあるようですが、史実から大きく逸脱しないよう配慮されています。モリゾとマネがこの映画が描くような関係であったのかどうかはわかりません。二人が親しかったことは確かですが、実際にどういう関係だったのかは諸説があってはっきりしないようです。
 映画の中には数々の名画が登場します。絵にまつわるエピソードや制作の背景などが描かれており、興味深く鑑賞することができます。美術愛好家はとても楽しめる映画です。
 アトリエの様子やルーヴル美術館での模写の情景など当時の画家たちの生活ぶり、さらにはブルジョワ階級の邸宅や装飾品、夜会の様子がよくわかります。

 物語の主な舞台となるのは、パリ中心部の西側の地区である7区(セーヌ川左岸)と16区(右岸)です。モリゾ家の邸宅のあった16区はブローニュの森を含むエリアですが、現在でも高級住宅街として知られる地域です。7区にはエッフェル塔やシャン・ド・マルス公園などがあります。シャン・ド・マルス公園には万国博の時に建てられた産業館があり、この時代のサロンはここで開催されていました。ルーヴル宮に由来する「サロン」の名称は定着していたので残ったようです。なお、現在の7区にはオルセー美術館もあります。

1901年のパリ・16区のベルトン通り (ウジェーヌ・アジェ撮影)

 この映画の監督はフランスの女性監督カロリーヌ・シャンプティエです。撮影監督として豊富な実績があり、フランス映画の新しい潮流であったヌーヴェル・ヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督や独特の映像美で知られるレオス・カラックス監督などの作品で撮影を務めていました。実際にあった修道士殺害事件を題材にした「神々と男たち」(2010年グザヴィエ・ボーヴォワ監督)でフランスのアカデミー賞に相当するセザール賞の撮影賞を受賞しています。この「画家モリゾ」は監督に進出して撮った長編第一作になります。撮影監督も担当しています。
 中心人物であるモリゾとマネを演じた二人の俳優はフランスを中心に活動しており日本ではあまりなじみがありませんが、それぞれの人物の雰囲気をうまく再現しています。肖像画で描かれている姿とよく似ていますし、伝えられている画家のイメージを壊すことなく演じています。

マリーヌ・デルテリム(2012年)Par Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Lien(ジョルジュ・ビアール)

 モリゾを演じたマリーヌ・デルテリムの出演作には、ルイ14世時代の宮廷を舞台にした歴史ドラマ「宮廷料理人ヴァテール」(2000年ローランド・ジョフィ監督)があります。主演のジェラール・ドパルデューがルイ14世をもてなす大宴会を準備する料理人を演じていますが、デルテリムはルイ14世の公妾モンテスパン侯爵夫人を演じています。シャーリー・マクレーンの主演で有名デザイナーの半生を描いた「ココ・シャネル」(2008年クリスチャン・デュゲイ監督)にも出演しています。デルテリムが扮したエミリエンヌ・ダランソンは実在のダンサーで、マネの晩年の大作「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台となったミュージック・ホールなどで活躍しました。

 マネを演じたマリック・ジディの出演作には、日本の黒沢清監督による「ダゲレオタイプの女」(2016年)があります。世界最古の撮影方法であるダゲレオタイプをめぐるフランス・ベルギー・日本の合作のホラー・ラブロマンスです。ポスト印象派の画家として名高いポール・ゴーギャンの南太平洋の島タヒチでの苦闘を描いた「ゴーギャン タヒチ、楽園の旅」(2017年エドワール・ドゥリュック監督)にも出演しています。タヒチの医師の役です。

マリック・ジディ(2013年)Par Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Lien(ジョルジュ・ビアール)