「イントレランス」

メソポタミア
映画「イントレランス」【バビロニア編】のセット

 映画の草創期に活躍した映画作家にD・W・グリフィスという人物がいます。映画の表現技術を確立し、映画を芸術的な域へと高めることにより映画史上に大きな足跡を残しました。俳優やスタッフなど多くの映画人を輩出し、ハリウッドをはじめ後世の映画に大きな影響を残したことから「映画の父」とも呼ばれています。
 グリフィス監督の代表作の一つである「イントレランス」は、4つの時代における人間の「不寛容(intolerance)」を並行して描いた一大叙事詩です。巨大なセットと大量のエキストラを用い、当時としては画期的な映画技術を駆使しており、不滅の名作として映画史にその名が刻まれています。

1916年アメリカ映画
監督 D・W・グリフィス
出演 リリアン・ギッシュ、メエ・マーシュ、マージョリー・ウィルソン、
   コンスタンス・タルマッジ

 人間の業ともいうべき「不寛容(intolerance)」について、4つの異なる時代のエピソードが並行して展開するという構成になっています。いずれも不寛容がもたらす悲劇を描いています。まず、4つのエピソードが描き出す「不寛容」のあり様です。

【現代編】 映画製作時点(1916年)のアメリカが舞台です。偽善的な社会向上運動家の女性たちが自分たちの考える秩序を押し付けます。その「不寛容」により主人公の青年が数々の不幸に見舞われ、無実の罪を問われることになります。

【ユダヤ編】 紀元30年頃のパレスチナを舞台にした聖書のイエス・キリストの物語です。戒律の遵守に固執するユダヤ教のパリサイ派の「不寛容」のために生じたイエスの受難が、宗教的迫害の象徴として描かれます。

【バビロニア編】 紀元前539年、メソポタミアの新バビロニア王国の都バビロンが舞台です。伝統的に主神とされてきたマルドゥクの神官たちは、新たにイシュタル信仰が広まることに「不寛容」であり、自らの権威を守るために国を裏切ろうとします。

【中世フランス編】 1572年のフランスのパリ、ヴァロワ朝の時代です。カトリック(旧教)とユグノー(新教)が争う宗教戦争であるユグノー戦争のさ中です。宮廷の実権を握る国王の母カトリーヌ・ド・メディシスは、ユグノーに対する「不寛容」からユグノーの虐殺を目論みます。

 上映時間180分の「イントレランス」の中では、【現代編】と【バビロニア編】に比較的長い時間が割かれています。【ユダヤ編】は聖書に書かれたイエスの生涯の有名な挿話を散りばめたもので、時間が最も短いです。
 この記事では、【バビロニア編】と【中世フランス編】について、歴史的背景とともに詳しく見ていきたいと思います。まず【バビロニア編】です。

 紀元前539年、新バビロニア王国の都のバビロンです。国王のナポニドゥスが国を離れているため、摂政として皇太子のベルシャザルが国を統治しています。ベルシャザルには寵姫がいます。
 新バビロニア王国では、マルドゥク神が最高神とされてきましたが、女神イシュタルへの信仰が広まりつつあり、マルドゥク神に仕える神官たちは自分たちの権威が落ちることを懸念しています。
 バビロンの城門インガー・ベルの周辺は様々な民族の商人や旅人で賑わっています。城門から女神イシュタルの巨像が運び込まれることになり、マルドゥク神の神官たちは不快な表情を見せます。

 像を見ようと集まっている人たちの中に「山の娘」がいます。おてんばの「山の娘」は兄との喧嘩が絶えず、兄は「山の娘」を裁判官のところに連れて行きます。裁判官は「山の娘」を結婚市場に連れて行って伴侶を見つけるように言います。「山の娘」は結婚市場に出されますが、たまたま通りかかった皇太子ベルシャザルが自由にしてくれます。感謝した「山の娘」はベルシャザルへの忠誠を誓います。

バビロニアの結婚市場(19世紀の画家エドウィン・ロング)

 その頃、隣国のアケメネス朝ペルシアでは、新バビロニア王国への侵攻の準備を進めています。

 それでは、バビロニア編の背景となる古代オリエントの歴史を見ていきましょう。

古代オリエント

 オリエントとは西アジアからアフリカ北東部にいたる地域で、主としてメソポタミア、地中海東岸、エジプトの三つの地域からなります。オリエントという名称はラテン語で、ギリシアなどから見て「日が昇る地域」、東方という意味です。「肥沃な三日月地帯」とも呼ばれ、農耕文明の発祥地です。
 各地域に独自の国家が形成され、それぞれの歴史が展開されます。

①メソポタミア 

 メソポタミア地域は、ヘルシア湾に注ぐ二つの大河であるティグリス川とユーフラテス川の流域を指します。ギリシア語で「川の間」という意味で、ほぼ現在のイラクに相当する地域です。とても肥沃な地域で様々な民族が興亡します。
 紀元前5000年頃、ティグリス川とユーフラテス川から取水して灌漑農業が始まります。これにより農業生産力が向上して定住生活が始まります。人口も増加して大村落を形成し、それが都市に発展します。
 紀元前3000年頃、シュメール人により周辺の村落を含んだ都市国家が形成されます。民族系統は不明です。階級社会を形成し、神官や軍人が神の言葉を伝える代理人とされます。神の権威を背景に統治をする神権政治です。
 都市の中心には守護神を祭る神殿のほか、祈りを捧げるためのれんが造りの塔が建てられました。これをジッグラト(聖塔)といいます。
 シュメール人による都市国家には、メソポタミアの南部を中心としてウル、ウルク、ラガシュなどがありました。これらの都市国家がまとまって誕生した最初の王朝がウル第一王朝です。
 シュメール人が作った文字が楔形文字です。様々な文字のもとになりました。ウルク遺跡から粘土板に記載された楔形文字が発見され、世界最古の文字資料となっています。
 その後、ウル第一王朝の力は弱まり、メソポタミアは分裂状態に陥ります。
 その次に登場するのがセム語系のアッカド人です。セム語系とは、古代オリエントの諸言語や現在のアラビア語を話す人々を指します。
 シュメール人の都市国家を次々と征服して広い領域を支配します。紀元前24世紀にはアッカド王国を立てます。この国のサルゴン1世がメソポタミア全体をはじめて統一します。アッカド語は楔形文字で記載され、その後のメソポタミアの共通語となります。 

 アッカド王国が崩壊した後は混乱が続きます。一時的にシュメール人の国家が復活します。ウル第3王朝です。これがシュメール人の建てた最後の王朝になります。この王朝は「ウルナンム法典」を残しています。有名なハンムラビ法典よりも350年古く、現存する世界最古の法典と言われます。

ウルのジッグラト(ウル第三王朝)

 この王朝が東方から侵入したエラム人によって滅ぼされ、西方からはセム語系のアムル人という遊牧民が侵入します。このアムル人がメソポタミア南部のバビロニアにバビロン第1王朝を立てます。後の「新バビロニア王国」と区別するため「古バビロニア王国」ともいいます。ユーフラテス川中流域のバビロンを首都とします。この町が後に「イントレランス」【バビロニア編】の舞台となります。

ハンムラビ法典の文面( 楔形文字)CC 表示-継承 3.0, リンク

 紀元前18世紀には第六代のハンムラビ王が登場します。全メソポタミアを統一し、中央集権国家を築きます。ハンムラビ王が編纂させたのがハンムラビ法典です。楔形文字で記載され、刑法、民法、商法などを含む全282条です。この法典の特色は、「目には目を、歯には歯を」と言われるように被害以上の過剰な復讐を禁じる原則や、被害者の身分によって刑罰の重さが異なる身分法であることです。

②エジプトと地中海東岸地域

十戒が書かれた石板を持つモーセ(17世紀スペインの画家ホセ・デ・リベイラ)

 最後にヘブライ人です。この呼称は外国人からの呼び方で、自称はイスラエル人です。苦難の歴史で知られます。遊牧民族だったヘブライ人がパレスチナに定住し、一部はエジプトに移住します。しかしエジプトの新王国のファラオに迫害され、前13世紀に預言者モーセに率いられてパレスチナに帰還します。これが旧約聖書に書かれている「出エジプト」と言われる出来事です。途中、モーセはシナイ山で神から「十戒」を授かったと言われています。
 その後、ヘブライ人の部族が連合してヘブライ王国が成立します。紀元前10世紀のダヴィデ王、ソロモン王の時代が全盛期です。ダヴィデ王の時代に中心都市であるイェルサレムが建設され、ソロモン王の時代には、イェルサレムのシオンの丘に神ヤハウェを祭る神殿が築かれます。
 しかし紀元前10世紀後半に王国は分裂します。北部がイスラエル、南部がユダという国になります。

 オリエント全体を始めて統一するのはアッシリアです。もともとはティグリス川中流を拠点とする小勢力で、一時はミタンニ王国に服属していましたが、次第に強大化します。鉄製武器、戦車、騎兵を駆使して軍事力を高め、征服活動を展開します。前722年のサルゴン2世の時代には、ヘブライ王国が分裂して出来たイスラエル王国を滅ぼします。
 最盛期の王はアッシュール・バニパルです。前670年頃にエジプトを征服してオリエント統一を成し遂げます。首都はティグリス川中流のニネヴェです。ニネヴェにはオリエント各地の伝承などを収集する大図書館を建設しています。統治体制は専制的な国王を中心とする中央集権体制です。広大な領土をいくつかの州に分け、総督を派遣して支配します。そして州を結ぶ駅伝制を整備します。

 被征服民に対しては重税を課し、強制移住をさせて未開拓地の開墾に従事させるなど過酷な支配を行います。そのため服属した諸民族の反抗を招きます。前612年、アッシリアはイラン高原で自立したメディアとメソポタミア南部で台頭した新バビロニア王国の連合軍によって滅ぼされます。
 その後、オリエントの世界は四つの王国が成立します。メソポタミアには新バビロニア、イラン高原にメディア、小アジア半島にリディア、そしてエジプトが分立します。リディアは、世界最古の金属貨幣を用いたことで知られています。

メソポタミアに関連した地域の位置関係

 ここで映画「イントレランス」【バビロニア編】の舞台となる新バビロニア王国が登場します。

 新バビロニア王国はセム系遊牧民であるカルデア人の国で、「カルデア」とも呼ばれます。前625年にナボポラッサルによってメソポタミア地方南部のバビロニアを中心に建国され、当時メソポタミアを支配していたアッシリアに対する反乱を起こします。前612年、イラン高原のメディアと連合してアッシリアの都ニネヴェを陥落させてアッシリアを滅ぼし、全メソポタミアを支配します。

バビロン捕囚(19世紀フランスの画家ジェームズ・ティソ)

 二代目はナボポラッサルの息子であるネブカドネザル2世です。この王の時代が全盛期になります。地中海東岸への遠征を繰り返します。まずエジプトの勢力を排除してシリアを征服します。さらに前597年と前586年の二度にわたりイェルサレムを攻撃し、ユダ王国を滅ぼします。そしてユダヤの民(ユダ王国のヘブライ人)をバビロンに強制的に移住させます。これが有名な「バビロン捕囚」です。ユダヤ人の苦難の歴史として旧約聖書にも記されています。

 新バビロニア王国は広大な領域を支配し、アッシリア滅亡後の4王国分立の中で最大の勢力となります。
 都はバビロンです。バビロンは前1900年ころに古バビロニア王国の都となって繁栄しました。古バビロニアがヒッタイトに滅ぼされた後はカッシートの都にもなりましたが、アッシリアの時代に破壊されていました。ネブカドネザル2世はこれを復興します。
 バビロンの都市神であったマルドゥク神は、バビロニアの繁栄によりメソポタミア地方全体でも最上位の神となったようです。

 この頃、イラン地方ではアケメネス朝ペルシアが興ります。前550年、初代君主のキュロス2世の時にメディア王国から独立します。次第に勢力を伸ばし、メディアを倒してイラン地方を支配します。さらにリディアを征服して、新バビロニア王国を攻撃する機会をうかがいます。

 新バビロニア王国の五代目の王がナボニドゥスです。もとからの王家の人間ではなく、前555年にクーデターを起こして即位しました。この王の素性ははっきりしません。母親が月神シンを信仰していたことが碑文からわかっています。月神シンの神官であったとも言われます。
 ナポニドゥスは即位後まもなく遠征に出ます。そしてアラビア半島のタイマというオアシス都市に10年間滞在します。アラビアの通商路をおさえるという経済的な目的だったようですが、滞在が長期にわたった理由ははっきりしません。国王が不在の間は、皇太子のベルシャザルが国内の統治を一任されました。しかし、国王が不在のためにマルドゥク神に関する重要な新年祭を開催することができず、これが不満を招きます。この皇太子ベルシャザルが【バビロニア編】で重要な人物になります。

 国王ナボニドゥスは前541年にバビロンに帰還します。その後、人事をはじめ神殿の改革を図ります。これは神官の勢力が増していたことに対抗したものと推測されています。
 バビロニアでは伝統的にマルドゥク神が主神とされてきましたが、ナボニドゥスは月神シンに対する信仰が非常に強かったようです。母親の影響と推測されます。月神シンの神殿を修復し、特別の奉納をするなどします。このことがバビロニアの一部の住民、特に神官の反感を買います。神官たちはナボニドゥスがマルドゥクに代わってシンを最高神に位置付けようとしているのではないかと危惧します。

月の神シンに祈るナボニドゥスJona lendering (投稿者自身による著作物), CC 表示 3.0, リンクによる

 一方、新バビロニア王国への侵攻を狙っていたアケメネス朝ペルシアは、バビロンにおける王に対する反感を巧みに利用します。 前539年、ユーフラテス川上流のオピスの戦いでアケメネス朝が新バビロニア軍を破り、都のバビロンに進撃する体制を整えます。
 結局、新バビロニアはアケメネス朝ペルシアによる外側からの圧力と、内側に渦巻く王に対する不満や不信の両方により滅亡することになります。バビロンの陥落の経緯については様々な記述が残されています。「キュロスの円筒形碑文」という遺物によれば、前539年にキュロス2世はバビロンに無血入城を果たし、バビロンの人々から解放者として歓迎されたとされています。
 マルドゥク神の神官がバビロンの城門を開いたとも言われます。また、バビロン陥落に際し激しい戦いがあり、敗れたバビロンで大規模な破壊が行われたという説もあります。
 【バビロニア編】は、このバビロンが陥落に至る時代の物語です。

【バビロニア編】の一場面 中央がベルシャザル皇太子

 この映画は、アケメネス朝ペルシアの攻撃を受ける新バビロニア王国が、マルドゥク神に仕える神官たちの裏切りにより滅亡に追い込まれるという設定で物語が展開します。皇太子ベルシャザルに思いを寄せる主人公「山の娘」が王国を守ろうとして必死の努力をする様を劇的に描きます。
 物語のテーマはマルドゥク神に仕える神官たちのイシュタル信仰に対する不寛容です。マルドゥク神は古代メソポタミアの神話に登場する男神です。バビロンの都市の守護神でしたが、古バビロニア王国が成立すると国家神となります。

 新バビロニア王国でもマルドゥクが主神(最高神)として重んじられ、儀礼の中心となります。マルドゥクは、ベル、ベール、あるいはベル・マルドゥクとも呼ばれ、【バビロニア編】でも「バビロンの最高神ベル・マルドゥク」とされています。
 古代メソポタミアの王朝は多くが多神教です。バビロンでもマルドゥクを最上位の神としますが、その他にも信仰されている神はいました。その中で重要な神がイシュタルです。
 メソポタミアの神話にはシンという月の神が登場します。暦や豊穣の神とされていますが、イシュタルはシンの娘とされているようです。戦争、愛、性の女神で、金星と結びつけられて信仰されました。国王ナボニドゥスが月神シンを崇敬していたこともあり、その娘のイシュタルに対する信仰が広がったようです。このため本来最上位に位置するベル・マルドゥクの神官たちは自分たちの権威の失墜を危惧します。これが【バビロニア編】の重要な背景になります。

マルドゥク神の像(紀元前9世紀)

 新バビロニア王国の時代に復興されたバビロンには壮大な建築物が数々あったとされていいます。
 マルドゥク神殿は主神マルドゥクを祭った神殿です。神殿の聖域の中に大ジッグラト(聖塔)が立っていたようです。階段状の塔で、これが旧約聖書に登場する「バベルの塔」のモデルになったと言われています。
 また、バビロンには「空中庭園」があったとも言われていますが、実際に存在したかどうかは不明です。

「バビロンの城壁と神殿」(19世紀イギリスの画家ウィリアム・シンプソン)
復元されたイシュタル門(ベルリンのペルガモン博物館)
By Rictor Nortonhttps://www.flickr.com/photos/24065742@N00/151247206/, CC BY 2.0, Link

 【バビロニア編】に登場するインガール・ベルの門は架空のものです。バビロンの城壁の門としてはネブカドネザル2世の時代に建てられたイシュタル門が有名ですが、イシュタル門をはじめとしたバビロニア風の建築物を参考にしてデザインされたのが映画に描かれているインガール・ベル門です。
 実在したイシュタル門はバビロンの重要な出入り口でした。青い釉薬をかけた壮大なレンガの門で、華やかな装飾がされていました。イシュタルに捧げられたものですが、バビロンの主神であるマルドゥクをはじめいくつかの神々の象徴がレリーフとなっていました。20世紀はじめにドイツによって発掘された際に持ち去られ、現在はベルリンのペルガモン博物館でイシュタル門を再興したものが展示されています。
 なお、元の場所であるイラクのバビロン遺跡でも部分的な保存がなされています。

 アケメネス朝は、前525年、カンビュセス2世の時にエジプトを征服してオリエントの再統一を達成します。最盛期の王はダレイオス1世です。エーゲ海東岸からインダス川にいたる大帝国を築き、新首都のペルセポリスを建設します。広大な領土を支配するために約20の州に分け、サトラップと呼ばれる知事(監察官)を派遣して支配させます。「王の目・王の耳」と呼ばれます。被征服民族に対しては、独自の宗教や習慣を容認する寛大な支配をします。これは強圧的支配をしたアッシリアと対照的です。
 さらに地中海で都市文明を形成していたギリシアを征服しようとしてペルシア戦争を起こしますが(前500~前449年)、失敗します。

 新バビロニア王国のネブカドネザル2世によってバビロンに強制移住させられていたヘブライ人は、この地に約50年留め置かれますが、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって解放されます。
 パレスチナに帰還したヘブライ人は団結を強め、イェルサレムのヤハウェの神殿を再建します。このころ一つの宗教としてユダヤ教の形が整ったと考えられています。唯一神であるヤハウェを信仰し、旧約聖書を正典とします。

 

「キュロス2世によるユダヤ人の解放」

 前334年、ヨーロッパ南部のバルカン半島マケドニアのアレクサンドロス大王がギリシアを支配した後、東方に遠征をしてオリエントに侵入します。アケメネス朝は前330年にアレクサンドロス大王によって滅ぼされます。
 アレクサンドロス大王はバビロンに入城した後、さらに中央アジア、インドまで進出します。そして前323年にバビロンに戻り、この地で死去します。

 続いて「イントレランス」の【中世フランス編】についてご紹介します。

 1572年のパリ、ヴァロワ朝の時代です。カトリックとプロテスタントのユグノーが対立するユグノー戦争のさ中です。
 宮廷では、国王シャルル9世の母であり実権を握るカトリーヌ・ド・メディシスがユグノーに対する嫌悪感を募らせています。しかし国王はユグノーの中心人物であるコリニー提督を慕っており、カトリーヌ・ド・メディシスは、宮廷からユグノーを一掃することを画策します。
 両派の融和を図るため、国王の妹マルグリットとユグノーであるナヴァール王アンリが婚約します。結婚を祝うために全国から大勢のユグノーがパリに集まってきます。パリの街は二人のパレードで賑わいます。
 庶民の娘ブラウン・アイズはユグノーです。恋人のプロスペルと結婚の約束をしますが、一人の傭兵がブラウン・アイズに一目ぼれします。
 宮廷ではカトリーヌ・ド・メディシスや国王の弟アンジュー公が、ユグノーを虐殺する命令書にサインするよう国王に迫ります。気弱な国王シャルル9世は逡巡します。 

 それでは、ユグノー戦争が勃発した背景を宗教改革の歴史から見ていきましょう。

①ルター派

 中世のヨーロッパにおいて、ローマ・カトリック教会はローマ教皇を頂点とする組織です。宗教界の最高権威であるとともに、政治的にも大きな影響力を持ちました。しかし十字軍の失敗などもありカトリック教会の権威が次第に低下します。さらに教会が世俗権力化してしまい、敬虔な信仰を求める人々の思いに応えられなくなっています。16世紀にはローマ・カトリック教会に対する批判からキリスト教の改革運動が起こり、西ヨーロッパ全域に広がります。  

マルティン・ルターの肖像(16世紀ドイツの画家ルーカス・クラナッハ)

 最初に大きな動きを起こしたのはドイツのマルティン・ルターです。現在のドイツ中東部のザクセン地方のヴィッテンベルク大学の神学の教授でした。当時、ローマ教皇レオ10世がカトリックの総本山であるヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の改築の費用を捻出するためにドイツで贖宥状(免罪符)を販売していました。これを買うことによって罪の償いが軽減されるとされていました。しかしルターは贖宥状に対して疑問を投げかけます。
 ルターは「人は信仰によってのみ義とされる」と主張します。これは「信仰義認説」と言われます。魂の救済は教会への献金などの行動ではなく、内面の信仰によるという意味です。これは信仰とともに善行を重視するローマ教会の教義と対立します。ルターは1517年に九十五か条の論題を発表して、贖宥状を批判します。
 また、ルターは教会や聖職者の言葉ではなく、聖書に書かれたイエスの教えだけをよりどころとする「福音主義」を説きます。

 1519年にはライツィヒ神学論争が行われます。ローマ教会の派遣した人物とルターとの間の論争です。この場でルターは、免罪符のみならずローマ教皇庁と教皇を批判することになります。
 ルターは教会や領主に対して反発しているドイツの諸侯、市民、農民から支持されます。
 1520年、ルターは「キリスト者の自由」という書籍を発表して自分の考え方を明らかにしますが、1521年にはローマ教会から破門されます。
 神聖ローマ皇帝のカール5世がヴォルムス帝国議会にルターを召喚し、ローマ教皇を否定する主張を撤回するよう求めます。しかしルターは自分の主張は聖書に立脚していると主張して従いません。皇帝はヴォルムス勅令を発してルターを追放処分とします。

 その後ルターは皇帝と対立する有力諸侯であるザクセン選帝侯フリードリヒの庇護を受け、ヴァルトブルク城で「新約聖書」のドイツ語訳に取り組みます。このドイツ語訳の聖書が、15世紀にグーテンベルクが実用化した活版印刷機によって普及し、民衆の間にルターの主張が浸透します。 

ルターが新約聖書のドイツ語訳を行ったヴァルトブルク城の部屋

 1524年にはドイツ農民戦争が起きます。ルターの説に刺激を受けた農民たちが、領主や教会に対して起こした反乱です。トマス・ミュンツァーという教会の説教師がリーダーになり、農奴制の廃止、税の軽減などを訴えます。ルターは最初はこれに同情的でしたが、反乱が激化すると領主を支持します。結局、農民たちは領主から弾圧されて終わります。

 1526年、カール5世はシュパイアーの帝国議会でルター派の信仰を認める旨の表明をします。その背景にはイスラーム勢力のオスマン帝国の侵攻が迫っていたことなどがありました。しかしカール5世は危機を脱するとルター派を再び禁止します。ルター派の諸侯や都市は怒って抗議文を提出します。ここから「プロテスタント(抗議する者)」という言葉が生まれます。当初はルター派のみを指していましたが、後にはカトリックから分離した宗派全体を指す言葉になります。
 プロテスタントはカトリック教会からは異端とされますが、ヨーロッパの各地に広まり多くの宗派に分かれます。教義や教会のあり方などは異なりますが、いずれもカトリック教会の権威を否定します。

②カルヴァン派

 ドイツに次いでスイスでも宗教改革の動きが出ます。最初にフルドリッヒ・ツヴィングリがチューリヒでローマ教会を批判して改革を始めます。しかし1531年に旧教側と争ったカッペルの戦いで戦死してしまいます。

ジャン・カルヴァンの肖像(16世紀)

 次いで登場するのがジャン・カルヴァンです。フランス人ですが、ルターの影響を受けて福音主義を唱え、フランスで迫害を受けてスイスに亡命して来ました。カルヴァンはジュネーブで改革の動きを始めます。市民の支持を得てプロテスタント信仰の理念を反映した神権政治を行います。また、「キリスト教綱要」という著書をまとめ、スイスとフランスに大きな影響を与えます。
 カルヴァンの主張のポイントの一つは予定説です。人間の運命は全能の神によって予め定められているという考え方です。そして、現世での勤勉こそが神の意志に沿うと考え、禁欲と倹約を説きます。職業は神が与えたもの、すなわち天職であり、その天職を努力することは神の栄光を実現するものであるとし、その結果としての蓄財を容認します。この考え方は都市の商工業者などの新興の市民階級に受容され、各地でカトリック教会と対立します。

 禁欲的な労働と蓄財を肯定するカルヴァンの考え方により、近代の資本主義経済の理念の基盤が形成されたという考えがあります。20世紀のドイツの社会科学者マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で展開した論理です。
 この後カルヴァン派はヨーロッパの各地に広がります。カルヴァン主義者は国毎に呼称が異なります。イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン、オランダではゴイセンと呼ばれ、フランスではユグノーと呼ばれます。

 これらの動きに対し、カトリック教会でも対抗措置が講じられます(対抗宗教改革)。教会を自己改革するとともに教皇の権威を回復し、勢力の挽回を図ります。1545年のトリエント公会議においては、教皇の至上権とカトリックの教義を再確認するとともに、教会制度の刷新などが決められます。こうしてカトリック側(旧教)とカトリックから分離した諸派(新教)がヨーロッパのキリスト教世界を二分する対立となります。
 また、1543年には、カトリックのイグナティウス・ロヨラらがイエズス会を結成し、ヨーロッパ内外で積極的な布教活動を行います。これ以降、カトリックはラテンアメリカやアジアなど世界的な広がりをもつようになります。

 あらためて新旧両派の比較をしますと、カトリックとプロテスタントの共通点は、唯一神への信仰であること、イエスを救い主とすること、旧約聖書と新約聖書を教典とすること、そして「父なる神、子なるイエス、精霊が同質である」とする三位一体説をとることなどです。
 違いは主として以下のような点です。カトリックが神の恩寵を信じること(信仰)に加え、善行によって人は救われるとするのに対し、プロテスタントは救いは信仰のみによって得られるとします。また、カトリックが聖書とともに教会や聖職者の権威を尊重するのに対し、プロテスタントは聖書のみに権威をおき、聖職者の特権を認めません。

 それでは【中世フランス編】の時期のフランスの国内情勢です。

 フランスでは987年以来カペー朝という王朝が続いていましたが、1328年に男系の血筋が絶えます。そこでカペー朝の親戚筋にあたるヴァロワ家からフィリップ6世が王位につきます。これがヴァロワ朝の始まりです。
 それに対し、イギリスの国王エドワード3世がフランスのカペー朝の血を引いていることからフランスの王位継承権を主張します。そして1339年、フランスに侵入して百年戦争が始まります。戦争の背景には、毛織物産業が盛んであったフランドル地方やぶどう酒の産地として重要なボルドーを中心とするギエンヌ地方の支配権をめぐる争いがありました。
 戦いは当初はイギリスが優勢でした。1346年のクレシーの戦いや1356年のポワティエの戦いで、エドワード3世の息子であるエドワード黒太子が率いる長弓兵がフランス軍を破ります。また、フランス東南部の大諸侯ブルゴーニュ公らが国王に対抗してイギリスと同盟を結び、フランスは内乱状態になります。

 しかし、15世紀に入り、農民の少女であるジャンヌ・ダルクが登場してフランス軍を鼓舞し、パリ南方のオルレアンを包囲していたイギリス軍を破り、国王シャルル7世を助けます。その後はフランス側が勢力を挽回します。結局、1453年にイギリスはドーヴァー海峡を臨むカレーを残して大陸から撤退し、フランスの勝利に終わります。
 フランスは戦いには勝ちましたが、ペストの流行、大農民反乱であるジャックリーの乱などもあって国内は荒廃します。この戦いを通して地方の実力者であった封建貴族は没落します。そして都市の市民層らは混乱の収拾を国王に期待し、国王の力が強まり国内統一が進みます。

「シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク」(19世紀フランスの画家ドミニク・アングル)

 その後、1494年から1559年までフランスのヴァロワ朝とハプスブルク家(神聖ローマ帝国とスペイン)がイタリア半島の覇権をめぐって一連の戦争を繰り広げます。イタリア戦争と呼ばれます。最終的にフランスがイタリア支配を断念し、カトー・カンブレジ条約(1559年)で戦争が終結します。
 その3年後に、フランスではユグノー戦争という長期にわたる宗教戦争が起きます。

 ヨーロッパのキリスト教世界を二分した新旧両派の対立は激しい戦争に発展します。16世紀半ばから約1世紀に渡って宗教戦争が吹き荒れます。戦いは政治的な利害や国際的な対立もからんで複雑な様相を呈します。
 ドイツでは1530年に、ルター派の諸侯や都市がプロテスタントの信仰の自由を求めて軍事同盟を結成します。シュマルカルデン同盟と呼ばれます。それに対し、皇帝やカトリック教会を支持する諸侯も結束し、1546年には戦争が始まります。これがシュマルカルデン戦争です。この戦争は1555年のアウグスブルクの和議で一応終わります。これにより支配者である領主層には宗教選択の自由が認められます。しかし領民は領主の信仰に従わなければならず、宗教について個人の自由は認められませんでした。また、カトリックとルター派の二者択一であり、カルヴァン派など他の新教は認められません。そのためドイツにおける宗教対立はその後も続きます。

 次いでフランスです。カルヴァンはフランスを追われてスイスで活動しましたが、その思想はフランスにも流入します。都市部の商工業者等を中心にユグノーと呼ばれたカルヴァン派が広がり、貴族層にも浸透します。
 1559年に幼いフランソワ2世が国王になった際、母親のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政となります。メディチ家の出身です。フランソワ2世が急死し、弟のシャルル9世が即位しますが、引き続きカトリーヌ・ド・メディシスが実権を握ります。カトリーヌ・ド・メディシスはカトリックを信奉してユグノーを敵視するとともに、王権の拡張をねらいます。大貴族の中でのカトリックとユグノーの対立が深刻になります。カトリック側は大貴族のギース家などが中心となり、ユグノー側はコリニー提督や新興貴族のブルボン家を中心に結束します。

カトリーヌ・ド・メディシス

 対立は戦争に発展し、1562年にユグノー戦争という宗教戦争が始まります。宗教対立に王位をめぐる大貴族の対立などが複雑に絡んだものです。断続的に激しい戦いが続きます。
 1572年、両派の融和を名目に、国王の妹マルグリットとユグノーであるブルボン家のアンリが結婚することになります。二人の結婚式を祝うために全国からユグノーがパリに集まります。カトリーヌ・ド・メディシスと大貴族のギース公はこの機会にコリニー提督などのユグノーを宮廷から一掃しようと画策します。

「サン・バルテルミの虐殺」 (16世紀フランスの画家フランソワ・デュボア)

 そして8月23日の夜、サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の半鐘を合図に、コリニー提督以下のユグノーの有力者を殺害します。さらに23日から24日にかけて、全国から集まっていたパリ市内のユグノーを旧教徒が惨殺します。これが「サン・バルテルミの虐殺」という事件です。虐殺はパリから全国に拡大します。殺害されたユグノーはパリ市内で数千人、全国で数万人と言われています。

 宗教戦争であるユグノー戦争の頂点ともいうべきサン・バルテルミの虐殺が描かれていますが、【現代編】や【バビロニア編】と比べると時間が短く、ユグノー戦争の経緯も十分説明されていませんので、やや理解しにくいかもしれません。
 もともとはフランスの宮廷で新教(ユグノー)の勢力が拡大しつつあったことに対する旧教(カトリック)側の不寛容に端を発しています。この映画にも国王シャルル9世がユグノーの中心人物であるコリニー提督を慕っている場面もあり、国王の母カトリーヌ・ド・メディシスが警戒心を深めています。さらに王権の拡張をねらう企みや有力貴族間の対立など政治的な策謀が結びついて宗教的な憎悪が助長されます。宗教的な不寛容が権力闘争と結びつくことによっていかに残酷な結果を招くかを描いたのが【中世フランス編】です。 

パリ市内での大量虐殺( 同時代の版画)

 映画の中では、虐殺の首謀者としてカトリーヌ・ド・メディシスの悪辣ぶりがしっかりと描かれています。過去の事件を引き合いに出してユグノーに対するカトリック側の警戒心を煽っています。また、国王の弟とともに虐殺の命令書にサインをするよう優柔不断な国王に執拗に迫り、息子である国王を心理的に追い詰めます。

「虐殺跡を視察するカトリーヌ・ド・メディシス」(19世紀フランスの画家エドワール・ドゥバ・ポンサン)

 【中世フランス編】の恐ろしいところは、貴族レベルでの殺戮が一般の庶民を巻き込んだ大虐殺に進展していくことです。民衆レベルでも宗教的狂信ともいうべき状態になり、パリ市内、さらには地方にも波及してユグノーの虐殺が行われます。

【中世フランス編】の一場面(左端がブラウン・アイズ)

 その悲惨さを視覚的に訴えるため、宮廷での出来事だけでなく、ユグノーである庶民の娘プラウン・アイズを登場させています。字幕でも「ブラウン・アイズとその一家は、権力者たちによる不寛容のクモの巣が張り巡らされていることを知らない」とされています。映画を観る者は、婚約者との結婚を翌日に控えていたブラウン・アイズの物語により、不寛容がエスカレートしてささやかな幸福を踏みにじる悲劇を身に染みて感じ取ることになります。
 

 なお、母親からの強圧により虐殺の命令書にサインをした国王シャルル9世は、良心の呵責から精神的に疲弊し、2年後に23歳の若さで亡くなっています。

 サン・バルテルミの虐殺により新旧両派の対立は激化し、ユグノー戦争は続きます。さらにイギリスやオランダが新教側、スペインが旧教側の支援に入り、国際紛争の様相を呈します。フランスは大混乱に陥ります。
 シャルル9世の次のアンリ3世は暗殺され、ヴァロワ朝は断絶します。
 この大混乱を収拾したのがブルボン家のナヴァール王アンリです。1589年、アンリ4世として即位してブルボン朝を開きます。1598年には、ユグノー戦争を収束させて国内を統一するためにナントの王令(勅令)を発布し、プロテスタントの信仰を認めます。これによりフラナンス国内のカルヴァン派は公認され、個人の宗教の自由も認められます。アンリ4世自身はユグノーでしたが、自らはカトリックに改宗します。「アンリのとんぼ返り」と呼ばれています。30年以上続いたユグノー戦争は終結し、フランスはブルボン朝の絶対王政の時代になります。

 しかしヨーロッパの宗教戦争はなおも続きます。1618年、ドイツの新旧両派の諸侯の対立に諸国が介入し、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争となります。これが最後の宗教戦争と言われる三十年戦争です。この戦争は次第に宗教戦争の枠組みから離れ、各国の利害が前面に出た戦争に変質していきます。1648年に講和が成立し、ウェストファリア条約が締結されます。アウグスブルクの和議を確認してルター派の信仰が認められるとともに、カルヴァン派も含めた信仰の自由が国際的に認められます。こうして宗教戦争の時代は終わりを迎えます。

 それでは、残りの二つのエピソードのあらすじをご紹介します。

【現代編】
 1916年のアメリカの西部のある町です。人間性の向上を目指そうという女性のグループがいます。活動資金を得るために資本家のジェンキンズの妹に出資を依頼します。妹に頼まれたジェンキンズは、女性たちの活動を支援する資金を捻出するために労働者の賃金の10%カットを強行します。反発した労働者たちがストライキを行うと、ジェンキンズは武装した警備員を動員してストライキを弾圧します。騒動の中で主人公である「青年」の父親は殺されます。

【現代編】の一場面(中央が「可愛い娘」)

 路頭に迷った労働者たちは職を求めて町を離れざるを得なくなります。その中にもう一人の主人公「可愛い娘」と「その父親」、「青年」、「孤独の娘」の4人がいます。
 大都会に出た4人は職がなく、「孤独の娘」は暗黒街のボスの情婦になります。「青年」もその一味に加わりますが、「可愛い娘」と出会って恋に落ち、ボスの一味から抜けることにします。

【ユダヤ編】
 ローマ帝国の支配下にある古代パレスチナです。紀元前7年頃、イェルサレムの南方のベツレヘムの大工の家にイエスが誕生します。
 紀元27年頃のイェルサレムが物語の舞台です。律法を厳格に守ることを重視するパリサイ派がユダヤ教の主流となっています。

【ユダヤ編】の一場面

 ガリラヤのカナで婚礼があります。そこでワインが足りなくなると、出席していたイエスが水をワインに変えます。イエスの最初の奇跡です。その後イエスは民衆に愛や赦しを説き、その教えが民衆に浸透していきます。
 イエスは姦淫の罪で捕らえられた女を石打ち刑から助けます。イエスの教えに反発するパリサイ派はイエスを危険視するようになります。

「イントレランス」の劇場用ポスター

 壮大なスケールと映画技法の革新性で映画史に残る画期的な作品です。
 4つの異なる時代のエピソードを、オムニバス形式ではなく同時進行的に描くという当時としては前衛的な表現方法を用いています。各エピソードがモザイクのように複雑に組み合わさっており、エピソード間をめまぐるしく移動します。それぞれが込み入った時代背景を前提としており、多種多様な人物が登場しますので、ストーリーを細部まで理解するのは容易ではないと思われます。
 冒頭の字幕に「時代を超えた、憎しみと不寛容に対する愛と慈悲の闘い」と示される通り、綴られた4つのエピソードはいずれも人間の心の狭さ、偽善、虚栄心などを戒め、愛を謳うものです。4つの時代を組み合わせて不寛容の諸相を描くことにより、重層的で深みのある作品になっています。

 監督のD・W・グリフィスは、1915年に南北戦争とその後の時代を舞台にしたアメリカ初の長編映画「国民の創生」を制作していますが、それに続いて発表した作品です。上映時間が3時間に及ぶサイレント映画の中でも特筆される大作です。
 グリフィスは1915年に「母と法律」という独立した長編劇映画を制作しています。これが「イントレランス」の【現代編】に相当するものです。賃上げを要求してストライキを行った労働者15名を工場主が虐殺したスタイロウ事件という実際の事件を基にしています。グリフィスはこの現代の物語に過去の3つの物語を織り込んで並行して展開させることにより、時代を通して根強く続く不寛容を批判する壮大で野心的な構想に発展させました。

D・W・グリフィス
【バビロニア編】の一場面

 エピソード毎に大がかりなセットを作りました。なかでも【バビロニア編】のために、そびえたつ宮殿、大階段、高さ90mの城壁などの巨大なセットを製作しています。凝りに凝ったセットは巨大であるだけでなくクオリティも非常に高く、衣装や小道具類も含めて隅々に至るまで細かく作り込んであります。さらに一万数千人のエキストラを用いてスケールの大きい撮影をしています。【バビロニア編】の城壁の上を行進する皇太子の馬車や兵士の隊列、迫力ある戦闘場面、【現代編】の大規模なダンスパーティー、列車と自動車の競走の場面などの見せ場は素晴らしい出来です。

 当時としては斬新な撮影・編集技術を駆使した実験的な作品でした。グリフィスがそれまでの作品で磨いてきた手法をさらに改良し、洗練されたものにしています。まさにグリフィスの撮影技術の集大成となり、後の映画に広く継承されました。現在に至るまで広く用いられている映画文法の基礎を築いたと言えるでしょう。
 まず、クロスカッティングの技法を用いています。二つ以上の別々の場面を交互に切り替えて見せることによって緊張感を高める手法ですが、全編にわたってこの手法をフルに活用して4つのエピソードを展開します。特にクライマックスは圧巻です。クロスカッティングの頻度が増し、速いテンポでリズミカルに場面が転換します。ギリギリの瞬間での救出劇を「ラストミニッツレスキュー」と言いますが、グリフィスの映画の代名詞でもあります。この作品でも終盤の展開は迫力満点で、畳みかけるような疾走感あふれる映像に目が離せなくなります。
 次にクローズアップです。俳優の顔や手、小道具などの大胆なクローズアップが効果的に用いられています。
 そして大がかりな俯瞰撮影をしています。城壁の内側、大階段、大広場などの巨大なセットのはるか上方から超ロングショットで撮影し、雄大なパノラマになっています。高所に撮影用の足場を組んで撮影をしました。気球を用いた撮影も試みています。現在のドローン撮影と同じ発想ですが、うまく行かなかったようです。そこで昇降するエレベーター式の撮影台を作り、それにカメラを乗せて撮影しました。
 さらに移動撮影です。撮影台をレールに乗せて宮殿の外から中に進入しつつ撮影して臨場感を高めたり、猛スピードでの移動撮影をしています。

 グリフィスはこれらのテクニックを駆使することにより小説や舞台劇ではできない映画ならではの効果を生み出しています。いずれも現在では通常の技術になっていますが、様々な工夫をこらし、実験を繰り返して技術の実用性を検証したところにグリフィスとこの作品の歴史的意義があります。

「イントレランス」撮影中のグリフィス(左端)

 巨大なセットや技巧を凝らした撮影技術だけでなく、登場人物たちの人物造形も生き生きとしており、どのエピソードも見応えがあります。それぞれの物語が交錯しつつ「完璧な愛が永遠の平和をもたらすだろう」というエピローグのメッセージに収束していく語りのダイナミズムは見事です。
 完成度は非常に高く、多くの人の記憶に残る傑作であることは間違いありません。刺激の強い描写に慣れた現在の観客でも十分楽しむことができる稀有な作品です。

揺りかごのショット(母親役はリリアン・ギッシュ)

 各エピソードのつなぎとして「揺りかごのショット」が頻繁に登場します。母親と思われる女性が揺りかごを揺らしているのに光が当たる短いショットで、場面転換の合図にもなっています。揺りかごの中は花で満たされています。人間が生まれながらにもっている不寛容への戒めをこのショットに込めているのでしょう。字幕でも「過去と未来を結ぶ揺りかごは、絶え間なく揺れ続け、悲しみと喜びを歌う」とされています。

 グリフィスは、イタリアのジョヴァンニ・パストローネ監督による1914年の長編映画「カビリア」を熱心に研究しました。古代ローマのエトナ山の噴火の混乱の中で海賊にさらわれた富豪の娘の数奇な運命を、共和政ローマとカルタゴが戦った第二次ポエニ戦争を背景に描いた壮大なスペクタクル史劇です。グリフィスはこの作品に刺激を受け、これを上回る規模の作品を目指したようです。

 グリフィスは莫大な製作費を投入してこの作品を完成させました。大ヒットした「国民の創生」で得た利益もすべてこの映画に注ぎ込みました。しかし興行では予想外の大失敗となりました。4つの異なる時代のエピソードを並行して展開するという表現形式が当時としてはあまりにも斬新で、観客には十分理解されなかったと思われます。また、公開時のアメリカは第一次世界大戦への参戦の機運が高まっていた時期であり、寛容の心を求めるというテーマが国内の社会情勢とマッチしなかったとも言われています。
 その結果、グリフィスは多額の負債を抱えることになります。バビロンの宮殿の巨大なセットを解体する費用にも事欠いたため、10年近くも廃墟のように放置されてハリウッドのシンボルのようになってしまったことも有名です。

 各エピソードの中心人物には、後にスターとして活躍した俳優が登場しています。

 揺りかごのショットに登場する女性はリリアン・ギッシュです。グリフィス作品は「国民の創生」に続いての出演です。サイレント映画を代表するスターですが、トーキーになってからも長く活躍し、75年のキャリアを誇ります。この映画の後、同じくグリフィス監督による純愛映画「散り行く花」(1919年)で可憐な薄幸の少女を演じています。60年以上後の「八月の鯨」(1987年リンゼイ・アンダーソン監督)では、90歳を超えているとは思えない若々しい演技で観客を驚かせました。
 

 【現代編】のヒロイン「可愛い娘」を演じたメエ・マーシュも「国民の創生」に続いての出演です。グリフィス監督の作品の常連となり、後にはジョン・フオード監督の作品にも多く出演しています。
 【バビロニア編】で「山の娘」を演じたコンスタンス・タルマッジは、その後多くのコメディ映画などに出演して人気を博しました。

メエ・マーシュ

 「イントレランス」の【バビロニア編】のセットには、宮殿の前面に立ち上がった巨象の白い像があります。大階段の両側に4体ずつ、合計8体あり、宮殿の壮麗さの象徴となっています。グリフィスはイタリア映画「カビリア」に登場するローマの宮殿の豪華な装飾、特に2体の大理石の巨像に感銘を受け、それを圧倒しようとしてこの像を作らせました。
 「イントレランス」のセットの製作に参加し、この象の立像を作った二人の若者を主人公にした映画があります。「イントレランス」の製作の内幕を描いた興味深い作品です。

①映画「グッドモーニング・バビロン!」の概要

1987年イタリア・フランス・アメリカ合作映画
監督 ヴィットリオ・タヴィアーニ、パオロ・タヴィアーニ
出演 ヴィンセント・スパーノ、ジョアキム・デ・アルメイダ、オメロ・アントヌッティ、
   チャールズ・ダンス

②映画「グッドモーニング・バビロン!」のあらすじ(ネタバレ無し)

③映画「グッドモーニング・バビロン!」のあれこれ

 全編が映画への愛を歌い上げた作品です。生まれたばかりの映画に夢をかけた人々を描いた、まさに映画への賛歌であり、映画を愛する人たちへの応援歌です。

 1915年にパナマ運河の開通と太平洋発見400周年を記念してサンフランシスコで万国博覧会が開催されました。その時に話題となった「宝石の塔」の建設に腕を振るったイタリア人の建築職人が映画「イントレランス」の美術スタッフとして招かれたという実話をもとにしています。 

サンフランシスコ万博の「宝石の塔」

 現在に至るまで映画制作の中心地であり続けるハリウッドの黎明期を舞台に、その舞台裏を描いた内幕ものとして、映画ファンにはたまらない作品です。撮影所は主人公たちを取り巻く大勢のスタッフやエキストラの熱気に満ち、清新な活力に溢れています。なかでもスタッフをスタジオまで運ぶ路面電車の場面がとても愉快です。
 「イントレランス」の撮影風景が再現され、グリフィス監督がこの映画の制作に情熱を注ぐ様が描かれています。グリフィスが俯瞰撮影用の高い足場と移動車を組み合わせた実験をしている場面もあります。
 映画は大勢の人たちの努力が実を結んだものであるというメッセージが実感されます。

 ストーリーはイタリア人の兄弟の夢と希望の物語です。アメリカに渡った兄弟は言葉の通じない国で苦労を重ねますが、二人で力を合わせて数々の苦難を乗り越える様を恋愛模様も織り交ぜて描いています。二人が映画制作に加わっていく過程が心地よい展開です。
 兄弟は苦手な英語で懸命にラブレターを書きます。その中の美しい詩が二人の女性の心をつかみます。

 「君の美しさは雪をいただいた山だ。雪が溶けぬよう僕が影になろう。」

 この詩が電車の中で朗読されると乗客たちが聞きほれ、撮影所中に広まっていく展開が微笑ましいです。
 兄弟はグリフィスに認められるために巨象の像を作ります。これが「イントレランス」でバビロンの宮殿を飾った巨象です。兄弟が完成させた真っ白い象が森の中の広場で前足を上げて座っている姿の美しさは、まさにこの映画のハイライトです。この像のデザインは、二人が父親の下で修復した「奇跡の聖堂」の浮彫の象をもとにしています。タイトルの由来は、父親が兄弟を送り出すときの言葉です。「イタリアが夜の時、アメリカは朝だ。私は夜寝る前にお前たちにこう言おう。『グッドモーニング、アンドレ。グッドモーニング、ニコラ。』」

 全編にわたって繰り返されるノスタルジックで美しいテーマ曲が印象的です。
 二人が荒野で出会う列車に乗っていたイタリア人職人たちが歌っていたのは、ヴェルディのオペラ「運命の力」のアリアです。
 アンドレアが頭の中で鳴り響くオーケストラに合わせてシンバルを打ち鳴らす場面がありますが、この時の曲はロッシーニの序曲「どろぼうかささぎ」です。 

 兄弟の父親が結婚バーティに招かれてイタリアからやって来ますが、父親とグリフィス監督が互いに敬意を払いつつ対峙する場面はとても印象的です。イタリアで大聖堂の修復に生涯をかけた職人気質の棟梁と新興の映画の都の巨匠という二人の達人の存在感が圧巻です。
 兄弟の父親は兄弟を祝福しつつも、兄弟が映画の仕事に夢中になり、故郷に帰って聖堂の修復の仕事に戻ろうとしないことに不満を述べます。これに対して兄弟は返す言葉がなく黙ってしまいます。その時にグリフィスが立ち上がり、父親に対して語ります。自らの映画への愛とともに、イタリアの伝統的な職人芸に対する敬意を込めた素晴らしい言葉です。

「あなたの息子さんたちと私の仕事(映画)が、その芸術性の面においてお国(イタリア)の聖堂に匹敵するかどうかはわからない。しかし、お国の聖堂も建てられた時には、我々の仕事と同様に皆さんの夢の結晶であったはずだ。あなたの息子さんたちの今の仕事は、いわばかつての無名の石工だ。あなたが誇りとする聖堂は彼らが築き上げ、世界的な芸術に仕上げた。そして人々に信じる心を教え、生の歓びを与えた。だからこそ私も映画作りを愛し、それを尊く思う。」

 監督は共同監督として有名なイタリアのタヴィアーニ兄弟です。この作品は、職人の技術を伝統として重んじるイタリア人の誇りが端々から感じられます。兄弟が胸を張って朗々と述べる「俺たちはミケランジェロやラファエロの子孫だ」という言葉に象徴されています。
 物語の中核にはイタリア映画ならではの親子愛、兄弟愛があります。さらにイタリアの若い職人たちとハリウッドのマエストロの心の結びつきが加わって物語に広がりがでています。
 タヴィアーニ監督は、イタリア映画界が生んだ史劇大作が成長期のアメリカ映画界を圧倒したことを誇ると同時に、ハリウッドが生み出した「イントレランス」という空前絶後の作品へのオマージュとグリフィス監督へのリスペクトを込めています。
 物語は心地よく展開し、心が洗われる美しい場面が多数あります。タヴィアーニ監督の巧みな語り口がさえわたります。
 終盤は戦争の暗雲が映画人たちの運命を大きく狂わせていく重い展開になりますが、ラストシーンは心に残ります。

タヴィアーニ兄弟Georges Biard, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 タヴィアーニ監督は、イタリアの風土や歴史を背景として人間愛を寓話的で詩的な物語として展開するのが持ち味です。トスカーナ地方やシチリア島などを舞台に農民や職人などが誇りをもって生きる様を、格調高く、かつユーモアいっぱいに描いた作品を多数作っています。
 1977年には言語学者ガヴィーノ・レッダの自伝的小説の映画化である「父パードレ・パドローネ」でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞しています。文盲の羊飼いの若者が言語学者として大成するまでの物語です。また、第二次世界大戦末期のドイツ占領下のトスカーナ地方のある村での悲劇を描いた「サン・ロレンツォの夜」(1982年)では同映画祭の審査員特別グランプリを受賞しています。2012年の「塀の中のジュリアス・シーザー」は、刑務所内の演劇でシェイクスピア劇を演じる囚人たちの物語です。
 この「グッドモーニング・バビロン!」は、映画制作に携わることへの誇りと無名のスタッフたちへの感謝を込めた代表作になりました。

 愛すべき登場人物たちが生き生きと動き回ります。中でもD・W・グリフィスという映画史上の伝説的人物を登場させたことがこの作品のポイントです。

チャールズ・ダンスAlan Chang – https://www.flickr.com/photos/uberpixelphoto/7533959326/, CC 表示-継承 2.0, リンクによる

 イギリスの舞台劇出身の名優チャールズ・ダンスが若き日のグリフィスを颯爽として魅力的な人物として好演しています。 兄弟の父親役はタヴィアーニ作品には欠かせないオメロ・アントヌッティです。威厳と風格を備えた演技で作品を引き締めています。この名優はビクトル・エリセ監督の「エル・スール」(1983年)などで日本でもおなじみです。

オメロ・アントヌッティ

 主人公の兄弟役は二人ともアメリカで活躍する若手俳優ですが、純粋で情熱的なイタリアの若手職人を見事に演じています。