第二次世界大戦後の東西冷戦下でのチェコスロヴァキアで起きた「プラハの春」と呼ばれた民主化運動とそれに続く「チェコ事件」を背景に、三人の男女の愛の軌跡を描いた作品です。原作はチェコ出身の作家ミラン・クンデラの同名小説です。
舞台は現在のチェコ共和国の首都プラハです。プラハは長い歴史をもつ街で、中世には神聖ローマ帝国の首都として繁栄を謳歌した時期もありました。この映画の描く時代にはプラハはチェコスロヴァキアという東側陣営に属する共産主義体制の国家の首都でした。
■映画の概要
・1988年アメリカ映画
・監督 フィリップ・カウフマン
・出演 ダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリン
■あらすじ (ネタバレなし)
1968年のチェコスロヴァキアの首都プラハが舞台です。主人公トマシュは優秀な脳外科医ですが、同僚の看護師をはじめ複数の女性と気軽に交際するプレイボーイでもありました。特に、サビーナという画家は自由奔放で、トマシュとはお互い束縛せずに長く関係が続いています。ある日、仕事で地方都市に行ったトマシュは、テレーザというカフェのウェイトレスをしている女性に出会います。テレーザは読書家で二人は会話を通して互いにシンパシーを感じますがトマシュはプラハに帰ります。後日、テレーザは写真家を志してプラハにやって来ます。トマシュに惹かれていたテレーザはトマシュを訪ねてきます。トマシュはテレーザの思いを受け止め、二人は同棲しやがて結婚します。しかし結婚後もトマシュはサビーナをはじめ他の女性との関係がなくなりません。
当時のプラハは共産主義政権下でしたが、自由化、民主化の空気が強まっている時期でした。「プラハの春」と呼ばれる改革機運が高まります。トマシュもそういった一人でソ連に対する痛烈な批判論文を雑誌に掲載するなどしていました。
トマシュのプレイボーイぶりにテレーザが疲れ果て二人の間に溝ができはじめた頃、ソ連を中心とする軍隊のチェコスロヴァキア侵攻が始まりました。多くの市民が激しく抗議する中、ソ連はプラハを制圧します。テレーザはソ連軍による弾圧に対し無心でシャッターを切り、多数の現場写真を撮影します。
この映画の描く時代に至るまでチェコはその長い歴史の中で幾多の苦難を経験してきました。それでは、チェコの歴史を見ていきましょう。
◎歴史的背景 チェコの歴史《その1》
チェコはヨーロッパの中央部にある国です。1世紀頃からゲルマン人が住むようになり、5世紀頃にゲルマン人が西に移住するとスラブ人が入り定着しました。スラブ人とは東ヨーロッパに広がっている民族で、南スラブ、西スラブ、東スラブに分かれます。東スラブはロシアやウクライナ、南スラブは主にバルカン半島に広がり、西スラブが現在のチェコ、スロヴァキア、ポーランドにあたります。チェコ人とスロヴァキア人はもともとは同じ西スラブ人ですが、その後は異なる道を歩みました。チェコは神聖ローマ帝国(中世初期以降,ローマ帝国を継承する国として現在のドイツ地域を領域とした帝国)の支配を受けながらも自立した国となります。一方、スロヴァキアはマジャール人(現在のハンガリー人)の侵攻を受け、ハンガリー王国の一部となります。
チェコ西部のプラハを中心とした地域をボヘミアと言ったことから、チェコ人の王国は、ボヘミア(ベーメン)王国とも呼ばれました。ベーメン(チェコ)王国は神聖ローマ帝国内で勢力を拡大して帝国内の最有力諸侯となりましたが、13世紀からはベーメンと新興のハプスブルク家の対抗関係が始まります。14世紀にはベーメン王のカレル1世が神聖ローマ皇帝となり(皇帝としてはカール4世)、「金印勅書」を制定して皇帝の選出方法を定めました。有力な7諸侯に皇帝選出権を認めたのですが、ベーメン王みずからも選帝侯となりその地位を保ちました。カール4世はプラハ大学の創設もしました。これは神聖ローマ帝国における最初の大学であり、カール4世の時代はベーメン王国とプラハのもっとも繁栄した時代であったといえます。
15世紀には、プラハ大学出身の修道士ヤン=フスが教会批判を開始し、プラハ大学の教授たちもそれを支持したため教会改革の嵐がおこりました。これは後のマルティン・ルターらの宗教改革を先取りするものでしたが、ローマ教会は1414年のコンスタンツ公会議でフスを異端と断定して翌年に処刑しました。するとベーメンのフス派の貴族や農民が反乱を起こし、神聖ローマ皇帝の派遣する軍隊との間で激しい戦争となりました(フス戦争)。この後ハプスブルグ家が勢力を拡大し、神聖ローマ皇帝とベーメン王を兼ねるようになります。そしてチェコはハプスブルグ家の支配下に入り、チェコ語の使用すら禁じられる長い暗黒時代に入ります。1806年にナポレオン戦争により神聖ローマ帝国は解体されましたが、ベーメンはハプスブルグ家のオーストリア帝国に吸収され、引き続きハプスブルグ家の支配下におかれました。
しかしチェコでは次第に工業が発達し生産力が高まったので、中産階級が成長しはじめました。19世紀のヨーロッパではフランス革命とナポレオン戦争の影響を受けて、民族主義と国民国家の理念が各地に広がりました。多民族国家であるオーストリア帝国内でも民族的自覚が高まりました。1848年フランスに二月革命が起きると、ヨーロッパ各地で抑圧されていた諸民族のナショナリズムが一気に高揚して、自由を求めて一斉に立ち上がりまし。これを「諸国民の春」といいます。ベーメン(チェコ)、ハンガリー、ポーランド、北イタリアのヴェネツィア・ロンバルディアなどで相次いで独立運動が起きました。これらの運動はオーストリアやロシアの軍隊の力で抑えつけられたり、弾圧されてしまいましたが、近代ヨーロッパの大きな転換点となりました。この時、チェコのプラハでも民族運動が高揚しパラツキーらがスラヴ民族会議を結成し、民族の独立を求める民衆が蜂起しましたがオーストリア軍に鎮圧されました。
その後もチェコはオーストリア帝国内にあって高い工業力を保ちましたが、依然として政治的自由は手にすることができず、独立をめざす運動が続きました。オーストリア帝国は、台頭するプロイセン王国中心で進むドイツ統一運動からは排除され、ハンガリー人と手を結びオーストリア・ハンガリー帝国となりますが、チェコは依然としてハプスブルグ家の支配下におかれたままです。
一方、スロヴァキアは長くハンガリーの支配下におかれチェコとは別の道を歩んでいましたが、オーストリア・ハンガリー帝国が成立するとチェコとともにその支配下におかれました。
この時期、チェコでは民族復興運動として、交響詩『わが祖国』で知られるスメタナやドボルザークなどチェコ国民楽派と呼ばれる音楽家やヤナーチェクなどが民族音楽を基にした作品を発表し、国民を鼓舞します。
美術ではアール・ヌーヴォーを代表する画家アルフォンス・ミュシャがチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品を発表しています。しかし、独立の実現は第一次世界大戦の終結を待たなければならなりませんでした。
それではハプスブルグ家支配からのチェコの独立とその後の新たな苦難について見ていきましょう。
◎歴史的背景 チェコの歴史《その2》
20世紀に入り、チェコでの民族運動がさらに高揚します。その指導者として活動したのはプラハ大学の教授であったマサリクです。第一次世界大戦が勃発すると、マサリクはチェコ国民会議を結成して民族の独立を目指します。1918年に第一次世界大戦が終わり、オーストリアはドイツなどとともに敗北し、ロシア革命でソヴィエト連邦が成立します。オーストリア、ドイツ、ロシアの支配下にあった諸民族が一斉に独立し、アメリカ大統領ウィルソンの唱えた民族自決の原則のもと多くの新しい国が誕生します。マサリクを指導者とするチェコ国民会議もイギリス、フランスなどの連合国から独立が認められます。ハンガリー支配下にあったスロヴァキアもチェコとの合同国家の建設が認められます。こうして独立国としてチェコスロヴァキア共和国が誕生し、1920年には新憲法を制定し、マサリクが初代大統領となります。
ようやく独立国となったチェコスロヴァキアですが、1929年のアメリカを震源とする世界恐慌はヨーロッパ各国にも大きな影響を与えました。ドイツではヒトラーが政権を握り周辺地域への拡大を図りました。1938年にオーストリアを併合したナチス=ドイツは、チェコのズデーデン地方にドイツ系住民が多いことから、その地方の割譲をチェコスロヴァキア政府に迫ります。チェコスロヴァキアの大統領はベネシュに代わっていましたが、この要求を拒否します。この緊迫した事態に対応するため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンはヒトラーとの対話を呼びかけミュンヘン会談が開かれますが、出席者は英仏独伊四国の首脳であり、当事国であるチェコスロヴァキアは会議に招かれません。
チェコスロヴァキア政府はイギリス・フランスがドイツの要求を拒否することを期待しますが、イギリスが主導する宥和政策によってドイツの要求が容認され、国土の割譲が決められました。ヒトラーは自信を強め、さらにチェコスロヴァキアの西半分を保護国として事実上併合します。これによりチェコスロヴァキアは解体されます。そして独立国として残っていた東側のスロヴァキアもドイツの強い影響下におかれます。
1939年にドイツがポーランドに侵攻したことから第二次世界大戦が始まります。第二次世界大戦中、チェコスロヴァキアはドイツに占領されますが、ベネシュを大統領とする亡命政府がロンドンで結成されます。そして亡命政府とチェコスロヴァキアの共産党が協力してドイツに対する抵抗運動を起こし、ゲリラ戦を展開します。1945年にはナチス=ドイツが敗北し、チェコスロヴァキアは解放されます。解放後再び統一国家として独立を取り戻したチェコスロヴァキアでは、共産党を含む6政党により政府が組織され、自由選挙によりベネシュが大統領に選出されました。第二次世界大戦後、東ヨーロッパの各国ではソ連の圧力により次々と社会主義政権による独裁体制が成立しましたが、チェコスロヴァキアは議会制民主主義による国としてスタートしたのです。東西冷戦が厳しくなるなか、ベネシュ大統領は「東西の架け橋」を標榜し東西どちらの陣営にも属さない道を模索しますが、チェコスロヴァキアも厳しい選択を迫られることになります。
1947年、ヨーロッパ各国の戦後復興に対するアメリカの経済支援計画であるマーシャルプランが公表されます。チェコスロヴァキアではベネシュ大統領が戦後の復興のためにこの計画を歓迎し、受け入れを決定します。しかしソ連はこれを受け入れないよう圧力をかけ、チェコスロヴァキア共産党もストライキを実施して受け入れに反対します。様々な意見が出され国内は一触即発の状態になります。そしてついに共産党のクーデターが成功してベネシュは退陣に追い込まれ、共産党政権が成立します。その後はソ連を中心としたワルシャワ条約機構、経済相互援助会議(コメコン)に加盟し、東欧社会主義陣営の一員となります。
1948年以降は、共産党一党独裁体制とソ連を模倣した計画経済を導入します。スターリン体制を受容し、ソ連型の社会主義に反対する者は処刑か強制収容所に入れられました。当時、ユーゴスラビアのティトー大統領とソ連のスターリンの対立がありましたが、チェコスロヴァキア国内でティトーに同調する者はすべて粛清されました。こうして言論が抑圧されるとともに、計画経済のもとで経済が停滞し、国内の活力は失われていきました。
そうした中、1953年にソ連の独裁者スターリンが死にます。1956年にはソ連の指導者となったフルシチョフによって「スターリン批判」が行われます。これが東欧各国に大きな影響を及ぼします。特にポーランドとハンガリーでは反ソ暴動に発展しますが鎮圧されました。チェコスロヴァキアでは体制を揺るがすような暴動は起きませんでしたが、自由を求める動きは徐々に強まっていきました。
映画「存在の耐えられない軽さ」はこの時代のチェコスロヴァキアが舞台です。この映画の背景を理解するためには、舞台となったチェコスロヴァキアとソ連との関係も知っておく必要があります。それではごく簡単に見ていきましょう。
◎歴史的背景 「チェコ事件」の背景となるソ連の動向
ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)は1922年12月にロシアを中心として成立した社会主義国家です。ロシア革命を指導し最初の社会主義国家を建設したレーニンが1924年に死んだ後、共産党内での権力闘争を経てスターリンが権力を掌握します。その権力を安定させるため1936年にはスターリン憲法を制定し、共産党が支配する国家の形態が完成します。工業化も進展し経済的に安定するとともに、国際社会でも認知されます。同時にスターリンは社会主義革命路線を守るためには権力の集中が必要だと考え、自身への個人崇拝を強要します。スターリンの意向に従わない人間は無条件で処刑、または強制収容所送りとなり大粛清が行われました。
第二次世界大戦前の複雑なヨーロッパの国際情勢の中、ドイツとの間で独ソ不可侵条約を結び、第二次世界大戦勃発後はポーランド、さらにはフィンランドに侵入します。ドイツとの関係が破れ独ソ戦が始まってからは、イギリス、フランスと連携しドイツと戦います。ソ連はドイツの猛攻の前に一時は危機に陥りますが、スターリングラードの戦いに勝ってからは優勢に戦いを進めます。第二次世界大戦はドイツと日本が降伏して終結します。ソ連は、第二次世界大戦の交戦国中最大の犠牲者を出しましたが、戦勝国の一員として発言力を強め、新たに発足した国際連合の安全保障理事会の常任理事国となります。国内的にも、第二次世界大戦の厳しい戦いを勝利に導いたことからスターリンの独裁体制が維持され、権威はさらに高まります。
不明 – [1] Dutch National Archives, The Hague, Fotocollectie Algemeen Nederlands Persbureau (ANeFo), 1945-1989, bekijk toegang 2.24.01.04, Bestanddeelnummer 914-4385, CC BY-SA 3.0 nl, リンクによる
大戦終盤にソ連がドイツ軍を排除しながら影響下においた東ヨーロッパの各国では、ソ連の主導権のもとに共産主義政権が樹立されます。こうした共産主義勢力の拡大を危惧するアメリカ、イギリスとの間で対立が深まり、東西冷戦の時代が始まります。東ヨーロッパにおいて大きな動揺が生じたのは1953年3月の独裁者スターリンの死亡です。ソ連は集団指導体制になりますが、フルシチョフが指導者としての地位を確立します。この写真の人物です。
そして1956年2月、第20回ソ連共産党大会において、フルシチョフによる「スターリン」批判演説が行われます。この演説の中で、フルシチョフは、絶対的存在であったスターリンの独裁政治、個人崇拝などを厳しく批判するとともに、資本主義と社会主義の平和共存を打ち出し、ソ連の大きな転換点となりました。各地のスターリン像も撤去され、スターリンによって粛清された人たちの名誉回復が行われました。
ソ連のスターリン批判により東ヨーロッパの社会主義陣営には大きな波紋が広がりました。これを機にそれまでの強圧的なスターリン体制に対する反発が爆発し自由化要求が強まりました。特にポーランドとハンガリーの反ソ暴動は陣営全体に深刻な影響を及ぼしました。しかし、フルシチョフのソ連は東欧各国での自由化やソ連の影響下からの離脱を許すわけではありませんでした。ソ連はポーランドではゴムウカ政権に一定の自治を認めましたが、ワルシャワ条約機構からの離脱や自由化は認めません。ハンガリーにはソ連軍を派遣して暴動を鎮圧し、親ソ政権を樹立しました。その他の東欧諸国でもスターリン派は排除されましたが、自由化やソ連圏からの離脱は実現しませんでした。
この時、チェコスロヴァキアには直接的には大きな影響は及びませんでした。しかし、閉塞的な共産主義社会に対する不満、自由を求める声は徐々に高まっていきました。これが「プラハの春」に結びついたのです。
ソ連のフルシチョフは西側との平和共存を図りましたが、1962年のキューバ危機での対応をはじめ、アメリカに対し弱腰だという批判が国内で強まり、1964年に解任されました。その次に権力を握ったのはブレジネフです。ソ連国内での反体制的な言論は厳しく弾圧され、社会の閉塞感が強まりました。経済は硬直化し著しく停滞しました。チェコスロヴァキアで「プラハの春」が起きたのはこのような時代でした。
それでは、東欧圏をゆるがした「プラハの春」と「チェコ事件」という出来事を見ていきましょう。
◎歴史的背景 「プラハの春」と「チェコ事件」
Fortepan/Szalay Zoltán – FOTO:Fortepan — ID 138485: Adományozó/Donor: Szalay Zoltán., CC 表示-継承 3.0, リンクによる
1960年代に入るとチェコスロヴァキアでは社会主義の計画経済が低迷し、自由が抑圧されることへの反発が表面化します。当時の共産党指導者であるノヴォトニーに対する批判が高まり、1968年1月にはノヴォトニーに代わりドプチェクが共産党第一書記に就任します。この写真の人物です。
これが改革運動の始まりとなります。ドプチェクはまず検閲制度を廃止して言論の自由を保障します。そして「人間の顔をした社会主義」をスローガンにかかげ、大胆な民主化・自由化の政策を進めます。議会制民主主義の復活、計画経済に対する市場経済の一部導入、共産党への権限の集中の是正、チェコとスロヴァキアの差別の解消などです。共産党独裁体制下で粛清を受けた人々の名誉回復や西側諸国との経済関係の強化も目指しました。そしてこれらを推進するために政府の中枢に改革派の人物を登用します。
国の動きと呼応して国民の間でも知識人や学生を中心に民主化運動が展開されました。言論と芸術表現の自由が保障されたため、政治や社会について自由に議論できるようになります。労働組合や共産党以外の政党の動きも活発になります。6月には知識人らが署名した「二千語宣言」が発表され、ドプチェクの改革路線を強く支持します。
改革の機運は社会全体に浸透していきました。首都プラハでは、ファッションをはじめ西欧風の諸文化が花開きはじめ、街にはビートルズなど欧米の音楽が流れ始めます。自由化を求める動きはさらに拍車がかかります。これらの一連の動きは「プラハの春」と呼ばれました。
しかしソ連はチェコスロヴァキアでの急速な民主化の進展に危機感を抱きます。ドプチェクの改革は社会主義体制内での自由化を目指すものでしたが、改革の動きはドプチェクの意図を越えて広がりました。ソ連の指導者はブレジネフはこの動きをいずれ社会主義体制を覆す動きに至る危険な取り組みであると判断します。東側諸国は何度かチェコスロヴァキアとの会談の場を設け、改革の動きを抑制しようとしますが合意にはいたりません。そしてついにブレジネフは軍事介入を決めます。
1968年8月20日、ソ連をはじめワルシャワ条約機構に所属する5カ国の軍15万人がチェコスロヴァキアへの侵攻に踏み切りました。首都プラハでは市民が激しく反発しますが、ワルシャワ条約機構軍はプラハの中心部を制圧します。チェコスロバキアのあらゆる機関や団体が一斉に抗議の声をあげましたが、ソ連はドプチェクをはじめ幹部を拘束しソ連に連行しました。「プラハの春」を踏みにじったこの事件が「チェコ事件」と呼ばれるものです。
Engramma.it – Engramma.it, n. 64, agosto 2008, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
この写真は、侵攻してきたソ連軍の戦車や装甲車を取り囲んで抗議をするプラハの群衆です。
事件後、この軍事介入を正当化するためにブレジネフが発表したのが「ブレジネフ・ドクトリン」です。この中で展開されたのが「制限主権論」というものです。これは、「社会主義国家の一つが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥ることである。したがって社会主義陣営全体の利益のためには、一国の主権が制限されてもやむをえない」というものです。
チェコスロヴァキアでは、事件後もソ連軍が駐留を続けます。そしてフサークという人物が共産党第一書記になり改革派は排除されます。フサークは民主化、自由化を否定し、再び計画経済と一党独裁体制に戻します。これが社会主義本来の姿に戻ることだとされ「正常化」と呼ばれました。厳しい言論統制と検閲が復活し、わずか数ヶ月で自由にものを言えない国に逆戻りしました。ソ連軍はこの後20年間チェコスロヴァキアに駐留し続けました。この体制下でもハヴェルなどの一部の知識人が社会主義体制による抑圧を国際社会で告発しようとします。それが「憲章77」という自由化運動ですがそれも弾圧を受けます。
Kingkongphoto & www.celebrity-photos.com from Laurel Maryland, USA – VACLAC HAVEL, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
「プラハの春」は東欧圏を大きく揺るがす動きでしたが、これ以降、東欧諸国での民主化要求は沈静化しました。そしてソ連による制圧後、チェコはまた長い冬の時代を迎えます。
再び春が訪れるのはゴルバチョフがソ連の書記長に就任し、1987年にペレストロイカが始まるまで待たなければなりませんでした。1989年からの東欧革命によって各国の共産主義独裁体制が崩壊します。チェコスロヴァキアでも人々が共産党政権打倒を叫び大衆活動が活発になり、共産党幹部が辞任します。「プラハの春」の指導者ドプチェクが20年間の沈黙を破って連邦議会議長に就任し、ハヴェルが大統領に選ばれました。この写真の人物です。
こうして流血の惨事を回避しながら共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」とも言われています。その後、1993年にチェコとスロヴァキアに分離して現在の両国が成立しました。
◎「プラハの春」と「チェコ事件」の歴史的評価
「プラハの春」はわずか8ヶ月で頓挫しましたが、その後の東ヨーロッパ各国の民主化に与えた影響はとても大きいものでした。ソ連とともにチェコに侵攻したのは東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアです。いずれも長期にわたる独裁的な社会主義国家です。同じ東欧圏でもルーマニア、ユーゴスラビア、アルバニアは軍隊を送らず、逆にソ連を激しく非難しています。東欧の社会主義圏が一体ではないことが露呈しました。中国もこれを「社会帝国主義の堕落」として非難しました。
「プラハの春」はあくまで社会主義体制下での自由化、民主化を求める活動でしたが、それが社会主義国の元祖ともいうべきソ連によって暴力により徹底的に弾圧されたことにより、社会主義体制のもとでは自由化、民主化自体がそもそも困難であることが白日のもとにさらされました。フランスやイタリアの共産党など、西側自由主義圏においてソ連にシンパシーを抱いていた勢力は大きく失望し、社会主義体制の外側からの社会主義に対する希望の芽を摘むことになりました。
ソ連の実力行使は国際的な批判を浴びます。西側の政府や諸団体は激しく非難し、国際連合では軍事介入の翌日の8月21日にアメリカ、イギリス、フランスの要求で安全保障理事会が開かれ、即時撤退を求める決議案が議論されますが、ソ連が拒否権を行使したため廃案となります。こういった非常時に国連が無力であることが露呈します。
またソ連の軍事介入が現実のものとなったことにより、冷戦構造は変質します。いわゆる「緊張緩和(デタント)」の時期を迎え、さらにはソ連のアフガニスタン侵攻に始まる新(第二次)冷戦の時期を経て、結局は社会主義体制の内外において体制そのものを否定する動きに結びついていきました。
チェコスロヴァキアの「プラハの春」でドプチェクが掲げたのは「人間の顔をした社会主義」でしたが、20年にわたる「正常化」と呼ばれる冬の時代を経て、自由を求める声が再び噴出した時、それは社会主義体制そのものを否定する動きになりました。
■映画のあれこれ 監督と出演者たち
監督はフィリップ・カウフマンです。この人はアメリカ人ですが、ヨーロッパ各国の映画に触れて魅了されたそうです。この映画もアメリカ映画ですが、ハリウッドの娯楽作とは違うヨーロッパ映画のような雰囲気があります。「SF/ボディ・スナッチャー」(1978年)で注目を浴び、アメリカの宇宙飛行士たちの実話を基にした「ライト・スタッフ」(1983年)で高く評価されました。また、あまり知られていませんがハリソン・フォード主演の「インディ・ジョーンズ」シリーズの原案はジョージ・ルーカスとフィリップ・カウフマンが考えたものです。
主要人物の3人は魅力にあふれています。演じた三人の若手俳優はこの映画が大きく飛躍する契機になりました。
By Jürgen Fauth (flickr user muckster) – File:Paul Thomas Anderson & Daniel Day-Lewis.jpg, CC BY-SA 3.0, Link
まず、主人公トマシュを演じたのはイギリス出身のダニエル・デイ=ルイスです。この写真です。
演技力が高く、役づくりにのめり込むことでも知られています。この映画の前にも「マイ・ビューティフル・ランドレット」のゲイの若者、「眺めのいい部屋」では保守的な英国貴族を演じて注目されていましたが、この映画の後、「マイ・レフト・フット」で脳性麻痺の画家を演じてアカデミー賞の主演男優賞を受賞しました。2002年には「ギャング・オブ・ニューヨーク」ではギャングのボスを演じて強烈な存在感を発揮しました。さらに「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007年)、「リンカーン」(2012年)でも主演男優賞を受賞、史上初となる3度目の同賞受賞者となりました(現在でも単独の最多受賞者です)。この映画でもプレイボーイではありますが、自らの信念に忠実に生きる男をクールに演じています。
トマシュの妻テレーザを演じたのはフランス出身のジュリエット・ビノシュです。フランス国内で活動した後、この映画でアメリカ映画に初出演し国際的に注目されました。その後、「ポンヌフの恋人」(1991年)「トリコロール青の愛」(1993年)等でも評価され、「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー賞の助演女優賞を受賞しまた。世界三大映画祭(カンヌ、ベルリン、ヴェネツィア)のすべての女優賞を受賞した数少ない女優の一人です。この映画でも、初々しさ、純朴さとともに、ソ連軍の侵攻の写真を撮り続ける場面に象徴されるようにひたむきで行動力もある情熱的な人物像を演じています。儚げなもの悲しさをたたえる一方で、 凜とした彼女ならではの雰囲気を醸しだしています。
この写真は2000年のカンヌ映画祭の時のものです。
By Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Link
Frankie Fouganthin – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
トマシュの愛人サビーナを演じたのが、この写真のスウェーデン出身の女優レナ・オリンです。この映画で自由奔放な画家を演じて注目され、『敵、ある愛の物語』(1989年)でアカデミー助演女優賞にノミネートされた後、『蜘蛛女』(1993年)では冷酷なマフィアを演じて強烈な印象を残しています。男の運命を狂わす悪女役などで独特の味を発揮しますが、この映画では主人公トマシュとその妻テレーザの両方と心を通じ合う不思議な役どころを好演しています。
■映画のあれこれ 映画の魅力
物語の背景として極めて緊迫した政治情勢がしっかりと描かれた骨太な力作です。三時間近い長さを感じさせず、見応え十分です。特に、現実にあったソ連主導の共産主義体制下での監視と締め付けの厳しさ、抑圧された重苦しい雰囲気がひしひしと感じられます。冷戦時代の歴史的事実の重さがリアルに描かれています。
「プラハの春」の時期にプラハ市民が自由を謳歌し、明るく高揚した雰囲気が描かれる一方、ソ連の戦車が押し寄せ、民衆を威嚇する場面、それに対しプラハ市民が勇敢に立ち向かい抗議する場面、さらには亡命者たちの脱出に至る一連の場面の臨場感は見事で迫力十分です。古いニュース・フィルムとこの映画での撮影を調和させた映像には目を見張るものがあります。
この映画は、自由を求める「プラハの春」、それを弾圧する「チェコ事件」、そして社会主義体制による「正常化」の時代を通して描き、政治や社会など外部からの抑圧にさらされた人間のあり方を問いかける重厚な物語ですが、中心となる三人にはそれぞれの生き方があり、社会的な立場が大きく変わるなど困難な状況に直面してもそれを曲げることはありません。信念をもって生きる主人公たちの生き様は清々しく感動を呼びます。苦境に陥っても決して人生をあきらめることなく、生き生きと日々を過ごす主人公たちは魅力的です。
同時にこの映画は美しくせつない愛の物語です。エロスの情念に忠実で華やかな恋愛を楽しんできたトマシュと一途で純粋なテレーザとの間の愛情の機微と太い絆が繊細かつ鮮烈に描かれています。
トマシュの行動は恋愛や結婚という通常の観点からすればモラルが欠如しているといわざるを得ないのですが、本人にはまったく罪悪感がないらしく、反省している様子も見られません。それでもトマシュの妻テレーザと愛人のサビーナの二人は結局はトマシュを受け入れる不思議な関係です。テレーザとサビーナはトマシュとの関係において対局の位置にあります。テレーザが無垢な魅力でトマシュを魅了するのに対し、サビーナは性愛の求道者のようなトマシュに理解を示します。その女性二人が相手に嫉妬を感じながらも友情で結ばれていき非常に奇妙な三角関係になるのが説得力をもって描かれています。
プレイボーイのトマシュが次々と女性に“take off your clothes”(「服を脱いで」)を繰り返すのはエロスとユーモアが融合したおもしろさがあります。エロティシズム表現も多くありますが、下品にはなっていません。テレーザとサビーナの女性二人が互いの裸を写真で撮り合う場面は不思議な魅力があります。
映画のラストは味わい深く、余韻を残す印象深いエンディングだと思います。
■映画のあれこれ 原作者と映画化の経緯
Elisa Cabot – Flickr, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
まずこの写真が原作者のミラン・クンデラです。チェコ出身の代表的作家です。共産党の一党独裁に反対し、「プラハの春」では改革への支持を表明しました。ソ連による制圧後は大学教授の職を失い、著作はすべて発売禁止になりました。活動の場を失ったため1975年にフランスに亡命し、チェコの国籍も剥奪されました。
フランスではソルボンヌ大学教授になり、言語も変更して活動しました。ミラン・クンデラが1984年に発表した小説が「存在の耐えられない軽さ」です。激動の時代を舞台にしながらも「究極の恋愛小説」と呼ばれ、世界中でベストセラーになりましたが、故国チェコでは出版されませんでした。
この映画が製作されたのは1987年~1988年です。「プラハの春」から20年近くが過ぎ、ようやくこの出来事を映画で取り上げることが可能になりました。しかしこの時点ではこの作品をチェコ国内で撮影することは不可能でした。そのためプラハと似た雰囲気をもつ街としてフランスのリヨンを中心に撮影されました。 そしてこの映画が公開された翌年の1989年に東欧革命が発生、ベルリンの壁は崩壊し、チェコではビロード革命による民主化が達成されました。
この小説は題名にもある通り人生における「重さ」と「軽さ」について考察した哲学的な作品でもあります。哲学者ニーチェの「永劫回帰」の思想が「経験や認識は1回きりではなく、すべての瞬間がまったく同様に永遠に繰り返されるのであり、ひとつひとつのことがとても重い存在感をもつ」としたのに対し、クンデラは永劫回帰の無い世界を想定し、「人生はいちどきり、選び直すことはできない」とし、自分たちの存在はその生命の終わりとともに消滅する、つまり「軽い」ものだと主張します。
一方映画化作品は、原作小説の展開や主題を大筋で踏襲していますが、人生の「重さ」と「軽さ」というテーマについては、原作の哲学的な要素を踏まえながら独自の観点からわかりやすく映像化しています。映画の中で、自分以外の女性との関係が止まらないトマシュに対しテレーザが「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」と言っています。
また、どのような状況におかれても愛するという人間の本能的行為の「重さ」を描くとともに、自由が抑制された社会をリアルに描くことによって自由のもつ「重さ」を如実に示しています。
■映画のあれこれ 音楽の話題
この映画の音楽についての話題を三つご紹介します。
①ヤナーチェク
Michal Maňas – 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, リンクによる
この映画は全編を通して美しい音楽が用いられていますが、チェコを代表する作曲家の一人であるヤナーチェクの曲です。この作曲家は19世紀後半から20世紀はじめにかけて活動しています。チェコがハプスブルグ家の支配下にあえぎ、多くの市民が民族独立に向けて活動していた時期です。ヤナーチェク自身が徹底した民族主義者だったようで、民族音楽を熱心に研究していました。
現在では、ヤナーチェクはスメタナやドボルザークとともにチェコを代表する音楽家になっていますが、日本ではこの映画を契機に知られるようになりました。民族音楽と近代音楽を統合し、多くの歌劇を発表して、20世紀最高のオペラ作曲家の一人とも呼ばれています。この映画の原作者クンデラも熱心なヤナーチェク愛好家であるそうです。「おとぎ話」「ヴァイオリン・ソナタ」「草陰の小径にて」「弦楽四重奏第1番」等静かな曲が多いですが、いずれも格調が高くバイオリンの哀切な響きが印象的です。
②マルタ・クビジョヴァーの「ヘイ・ジュード」
この映画の前半にテレーザが街頭で写真を撮る場面がありますが、その場面で「ヘイ・ジュード」が流れます。ソ連軍の侵攻の前の自由化が進んだ雰囲気を表現する重要な場面です。この曲はビートルズの大ヒット曲として有名ですが、この映画ではマルタ・クビジョヴァーというチェコの女性歌手がチェコ語で歌ったものが流れます。歌い方もビートルズのものとはかなり違うので不思議な感覚ですが、これは当時のプラハの市民にとってとても重要な歌でした。
「ヘイ・ジュード」はビートルズが設立したアップル・レコードからの第1弾シングルとして1968年に発売されビートルズの代表曲の一つになりました。この曲がアメリカで発売されたのが8月26日、ソ連軍によるチェコ侵攻の6日後です。チェコでは「プラハの春」で市民の間に自由の機運が盛り上がり、芸術活動も活発になっていましたが、ソ連の弾圧により「正常化」の時代になり、チェコの知識人や芸術家たちの中には国外に去る者もでました。この時、マルタ・クビジョヴァーはチェコに残り歌で戦う道を選びました。ソ連の弾圧に抵抗するために「ヘイ・ジュード」をチェコ語でレコーディングし、歌詞にはチェコ国民に勇気と希望を与えようというメッセージが込められました。この曲はチェコ国内でヒットしましたが、「正常化」時代のチェコ政府により発売禁止となりました。しかしチェコの人々の心に残り、民主化運動を行う民衆を励ます曲として密かに歌い継がれました。マルタの「ヘイ・ジュード」はチェコのプロテストソングとなったのです。マルタ自身もチェコの音楽界から追放され、苦難の道を歩みましたが、20年にわたる長い戦いの末、ビロード革命により自由を取り戻しました。
Autor: Joost Evers / Anefo – Nationaal Archief, CC BY-SA 3.0, Odkaz
左の写真は、ソ連軍の侵攻当時、3人の歌手でトリオを組んで活動していた時のものです。写真の一番右がマルタ・クビジョヴァーです。
右の写真は2009年のものです。
2023年10月には彼女の81歳の誕生日を記念して、イベントが開催されたそうです。
マルタ・クビジョヴァーの「ヘイ・ジュード」は、パソコンやスマートフォンの検索エンジンを使えば聞くことができますので、是非聞いてみて下さい。
Autor: Ben Skála – Vlastní dílo, CC BY-SA 3.0, Odkaz
③ロシア民謡「ステンカ・ラージン」
映画の前半のパブの場面でソ連の関係者によって高らかに歌われる曲があります。この場面によりチェコスロヴァキアのおかれた状況が示され、映画の主人公たちに感情移入して見ていると反感を覚える場面ですが、実はこれもとてもいい曲です。この曲はロシアの民衆にとってなじみ深い「ステンカ・ラージン」という民謡です。
ステンカ・ラージンというのは実在したコサックの頭領の名前で、17世紀のロシアのロマノフ朝の時代に起こった農民一揆の指導者です。この反乱でステンカ・ラージンは農奴の解放、貴族の専制の廃止を掲げ、貴族支配に立ち向かいましたが、敗れて処刑されました。しかしステンカ・ラージンの記憶は民衆の中に長く残り、民族の英雄としてロシアの人々に後のちまで愛されました。民謡「ステンカ・ラージン」は、権力者に立ち向かう農民の姿を歌った曲として今でも広く歌われています。
ステンカ・ラージンというのは実在したコサックの頭領の名前で、17世紀のロシアのロマノフ朝の時代に起こった農民一揆の指導者です。この反乱でステンカ・ラージンは農奴の解放、貴族の専制の廃止を掲げ、貴族支配に立ち向かいましたが、敗れて処刑されました。しかしステンカ・ラージンの記憶は民衆の中に長く残り、民族の英雄としてロシアの人々に後のちまで愛されました。民謡「ステンカ・ラージン」は、権力者に立ち向かう農民の姿を歌った曲として今でも広く歌われています。
■こちらもおすすめです。 映画の中のチェコ
Lukáš Hron – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
上の写真はプラハのパノラマです。プラハは現在もチェコ共和国の首都で人口は120万人、中央ヨーロッパの大都市の一つです。1000年以上の歴史をもち、14世紀にチェコ(ベーメン)王であったカール4世が神聖ローマ皇帝になるとプラハは神聖ローマ帝国の首都となって繁栄し、「黄金のプラハ」と呼ばれました。現在でも街並みには中世の雰囲気や当時の面影が色濃く残されています。街のオレンジ色の景観は息を呑むような美しさで、ヨーロッパでも人気の観光スポットとなっています。世界有数の大きさを誇るプラハ城、ストラホフ修道院、ヴルタヴァ(モルダウ)川に架かるプラハ最古の石橋「カレル橋」など多くの見どころがあります。街のシンボルであるプラハ城を中心とした「歴史地区」は、世界遺産に登録されています。ロマネスク、ゴシックなどの中世から現在に至る様々な様式の建築物が見られることでも有名です。プラハをはじめチェコは多くの文学作品や映画の舞台となってきました。有名なスパイ・サスペンス映画にもチェコで撮影されたものがありますので、その中から二つご紹介します。
①「ミッション・インポッシブル」第1作
この写真はプラハの名所の一つであるカルレ橋です。トム・クルーズ主演の大ヒット作である「ミッション・インポッシブル」シリーズの記念すべき第一作(1996年)、その冒頭のシーンがプラハで撮影されており、歴史地区の美しい風景がでてきますが、トム・クルーズ演じるイーサン・ハントのチームがミッションを遂行中に仲間が次々と殺されていき、イーサンまで二重スパイの嫌疑をかけられてしまう場面です。橋の近くで車が爆発し、イーサンが橋の階段を駆け下りるシーンが印象的でしたが、あの橋が歴史地区の中心であるカルレ橋です。カレル橋はプラハの中心を流れるヴルタヴァ川に架かるプラハ最古の橋です。ゴシック様式の橋塔があり、橋の欄干の上には30体の聖人像が並んでおりプラハの代表的景観になっています。
Chosovi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 2.5, リンクによる
②「007カジノロワイヤル」
© Jorge Royan / http://www.royan.com.ar, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
同じくスパイ・サスペンス映画の代表である007シリーズではダニエル・クレイグ主演の4作品が人気を呼びましたが、その第一作「007カジノロワイヤル」(2006年)もチェコで撮影されています。プラハの歴史地区の中心の一つである「ストラホフ修道院」です。ここは、「哲学の間」、「神学の間」という2つの図書室と天井のフレスコ画で知られていますが、特に図書室は世界一美しい図書館と言われています。
この写真がストラホフ修道院の図書室です。
Photo taken and panorama created by Bobak Ha’Eri – 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, リンクによる
そして映画後半のクライマックスの場面はチェコ西部の主要観光地の一つであるカルロヴィ・ヴァリ(上の写真)で撮影されています。ここは19~20世紀にかけてドイツなど周辺諸国の王侯貴族や文豪、音楽家などヨーロッパのセレブリティに愛された歴史のある洗練された温泉保養地です。映画にもノスタルジックで美しい街並みがでてきますが、何と言ってもここにある老舗のカジノホテルであるGRANDHOTEL PUPPの豪華な室内でダニエル・クレイグ扮するジェームズ・ボンドとマッツ・ミケルセン扮するル・シッフルの息詰まるポーカーのシーンが撮影されました。長い歴史をもつ007シリーズの中でも屈指の名場面と言われており、カルロヴィ・ヴァリは007ファンの聖地となり多くの人が訪れるそうです。