原作は2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作です。この小説は1989年にイギリスを代表する文学賞であるブッカー賞を受賞しました。由緒ある英国貴族に仕える執事の半生が、貴族の邸宅と英国の田園風景を背景に描かれています。静かな物語ですが、物語の背景として第二次世界大戦前の緊迫した国際情勢があり、過去と現在を交互に描く手法によりと大戦後の大きな変化が鮮明に浮かび上がります。
■映画の概要
・1993年イギリス映画
・監督 ジェームズ・アイヴォリー
・出演 アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ジェームズ・フォックス
クリストファー・リーヴ
■あらすじ (ネタバレなし)
1958年、イギリスのオックスフォードシャーにあるダーリントン卿の屋敷が競売に出されます。名門貴族であるダーリントン卿は既に亡くなっています。屋敷はアメリカの政治家であるルイス氏が買い取ります。ダーリントン卿のもとで長年にわたって執事を務めてきたスティーブンスは屋敷に残りルイス氏に仕えることになりますが、主従関係にも従来とは違った空気が生まれます。
屋敷が競売に出された際に熟練のスタッフが辞めていったため、スティーブンスはスタッフ不足に頭を悩ませていました。そこに20年前にダーリントン邸で一緒に働いていたベン夫人から手紙が届きます。手紙には、ダーリントン邸で働いていた過去が懐かしいこと、現在は憂鬱な日々を送っていることなどが綴られていました。スティーブンスはルイス氏に、有能なベン夫人を採用するよう提案します。それに対しルイス氏は働きづめのスティーブンスに休暇をとって旅行に行くことを勧めます。そこでスティーブンスはベン夫人に職場への復帰を促すことも兼ねて小旅行に行くことにします。その道すがらスティーブンスの脳裏には、彼女がミス・ケントンと呼ばれ、ともに屋敷を切り盛りしていた時代の思い出が蘇ります。
ここから物語は第二次世界大戦前である1930年代の回想(「過去」のパート)と、第二次世界大戦後の1958年(「現在」のパート)を行き来しながら描かれます。
物語は「過去」の1935年に移ります。スティーブンスはまだ若いケントンを女中頭として採用します。同時期に人手不足を補うためベテランの執事であるスティーブンスの父が副執事として採用されます。スティーブンスは執事としての品格を重んじ、決して感情を表に出しません。職務に没頭するスティーブンスとミス・ケントンはことあるごとに衝突しますが、対立を繰り返しながらも二人は信頼関係を築いていきます。
この頃スティーブンスの主人のダーリントン卿は、ヨーロッパで第一次世界大戦の様な戦火を繰り返さないために、イギリスやフランスとドイツを宥和させるよう奔走していました。そのための重要な国際会議がダーリントン邸で開かれることになり、屋敷中がその準備に追われることになります。
それではこの映画の「過去」のパートの背景となる第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、いわゆる戦間期におけるヨーロッパの状況をイギリスとドイツを中心に見ていきましょう。
◎歴史的背景 第一次世界大戦後のヨーロッパ(その1)
第一次世界大戦は、1914年7月から1918年11月まで4年3ヶ月続いた最初の世界戦争でした。帝国主義国家が、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国の二陣営に分かれ、ヨーロッパを主戦場として戦いました。1917年のアメリカの参戦もあり、協商国側の勝利となりましたが、戦争の途中でロシア革命が勃発しソヴィエト連邦が成立しました。また、この大戦によってドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国などは消滅しました。
戦後のパリ講和会議の結果、1919年にヴェルサイユ条約が締結されました。この会議には敗戦国は招かれず、アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリアの五大国が中心となって進められました。敗戦国には条約に調印するよう圧力がかけられました。ヴェルサイユ条約によりドイツはすべての海外植民地を放棄させられ、ヨーロッパの領土についても、アルザス・ロレーヌ地方をフランスに返還、ポーランド回廊と呼ばれる地域をポーランドに割譲しました。
さらにライン川の両側地帯であるラインラントの非武装化、徴兵制の禁止をはじめとする軍備の制限が課されました。そして1320億金マルクという巨額の賠償金が科されました。イギリスとフランスは大戦中にアメリカから資金を借りていましたが、ドイツからの賠償金をアメリカへの債務の返済に充てる考えでした。この1320億金マルクという金額は天文学的な数字といわれ、実態として支払いは困難でした。このような懲罰ともいえる過酷の内容の条約を結ばされたことはドイツ人に屈辱感を与え、それがナチスの台頭、ひいては第一次世界大戦後の不穏なヨーロッパ情勢につながりました。
一方、社会主義国として成立したソ連もパリ講和会議には参加できませんでした。このソ連とドイツが急接近し、1922年にラパロ条約を締結し、相互に承認するとともにソ連は賠償金の受け取りも放棄しました。このことがヨーロッパ各国を警戒させました。
ドイツでは戦後の経済危機もあり、巨額の賠償金の支払いが滞りました。それに対する制裁としてフランスとベルギーがドイツ西部の工業地帯であり石炭と鉄の産地でもあるルール地方を占領します。ドイツ政府はこれに抵抗し、工場の稼働を停止します。生産力は低下し急激な品不足の結果、ドイツ国内では空前のインフレーションが発生し混乱に陥ります。賠償金の支払いはさらに困難になり、ヨーロッパは再び戦争の危機に見舞われました。
この状況を改善するため、1924年にアメリカから提案(ドーズ案)が出されました。この案は、アメリカがドイツに融資をすることによりドイツの経済を復興し、ドイツからイギリスやフランスへの賠償金の支払いを可能にするというものです。これにより英・仏は自国の経済を立て直し、アメリカからの債務を返済するという仕組みです。この方式が各国に受け入れられ、フランスとベルギーはルール地方から撤退しました。
1925年にはドイツ、イギリス、フランスなどの間でロカルノ条約が結ばれ、ラインラントの非武装の維持が確認されました。この条約によりドイツの国際連盟加入が認められ、ドイツの国際的な地位が少しずつ向上していきます。国内的にもシュトレーゼマン内閣がレンテンマルクという新紙幣を発行することによりインフレーションが克服され、経済的な混乱も収まりドイツの社会は徐々に安定に向かいます。当時アメリカは1920年代の繁栄のただ中にあり、1929年にはヤング案を提案し、ドイツの賠償金額は大幅に引き下げられるとともに、返済期限も延長されました。
しかし、その直後にアメリカを震源とする世界大恐慌が各国の経済に大打撃を与えます。特に大きな影響を受けたのがドイツでした。ドイツの経済復興を支えていたアメリカからの融資がなくなりました。アメリカのフーヴァー大統領は一年間賠償金の支払いを停止する猶予令(フーヴァー・モラトリアル)を発しましたが効果はなく、世界恐慌の影響はさらに深刻になりました。
ドイツでは産業が停止し、失業者が激増し経済が大混乱します。そのような中、ヴェルサイユ体制の打破を訴えるナチスが国民の支持を得て勢力を伸ばし、1932年には第一党に躍進、1933年にはヒトラーが首相に就任します。ヒトラーは賠償金の支払いを拒否し、全権委任法を成立させてナチスが一党独裁体制を築きます。翌1934年には大統領と首相を合わせた総統に就任します。
ナチス政権が景気の回復に成功し、失業者が大幅に減少したこともあり、民衆の支持も高まり独裁体制を固めます。国際的には1933年に国際連盟を脱退し、いよいよ再軍備の準備に入ります。イギリスやフランスは自国の海外植民地との間にブロック経済を形成して世界恐慌を乗り切ろうとしますが、海外植民地を持たないドイツは新たに勢力圏の拡大を図ります。
1935年にはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し再軍備宣言を行い、徴兵制を復活します。これに対し、英・仏・伊による対独包囲網が形成されます。しかしイギリスは、英独海軍協定を締結しドイツの海軍力保有を容認することによってドイツのさらなる要求を封じ込めようとしたしたため包囲網は崩れます。これがイギリスの宥和政策の始まりです。
映画「日の名残り」の「過去」のパートの中で、その前半のクライマックスともいうべき国際会議が開かれたのはこの頃になります。
◎歴史的背景 第一次世界大戦後のヨーロッパ(その2)
ドイツは1936年には非武装地帯とされていたラインラントに進駐します。これに対し英・仏は抗議しますが結局は容認します。1938年、ドイツはオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアにズデーデン地方の割譲を要求します。ドイツ人が多数居住しているというのが理由です。チェコスロヴァキアのベネシュ大統領はこれを拒否し、ヨーロッパはまたも戦争の危機にさらされます。
イギリスとフランスは、ドイツとイタリアを加えた4カ国で話し合いの場を持ちました。これがミュンヘン会談です。この会議を主導したのがイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンです。この会議では結局ドイツの要求が受け入れられます。この時のイギリスの対応が宥和政策の典型だと言われています。この時フランスも追随しました。
写真は、ミュンヘンに集まった各国の首脳(左からチェンバレン(英)、 ダラディエ(仏)、ヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)、チャーノ伊外相)です。
Bundesarchiv, Bild 183-R69173 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
映画の「過去」のパートの後半部分はこの頃を描いたものだと思われます。
一方ソ連はミュンヘン会談での英・仏の対応に不信感を強めます。ドイツがソ連に攻め込んで来た場合を想定し危機感を覚えたソ連のスターリンは、ドイツとの関係改善を目指します。その結果1939年8月に世界中を驚かせた独ソ不可侵条約が締結されます。この時ドイツとソ連でボーランドを分割する密約が結ばれたと言われています。9月にはドイツがポーランドに侵攻します。ポーランドはイギリスと同盟関係にあり、この段階でようやくイギリスとフランスはドイツとの戦争を決意しドイツに戦争布告します。これが第二次世界大戦の始まりです。
ソ連もポーランドに侵攻し、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を併合、フィンランドにも攻め込みます。1940年になるとドイツが戦線を拡大し、デンマークに続きノルウェーにも侵攻します。イギリスはそれを阻止しようとしますが失敗します。
この時点でそれまでの宥和政策を主導してきたチェンバレン首相は責任をとって辞任し、対独強硬派のウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。ドイツはさらにフランスに攻め込みます。イギリスはフランスの救援に向かいますが撤退せざるを得ず、フランスは降伏します。ドイツはイギリスへの上陸作戦、さらにはイギリスへの空爆を展開しますがチャーチル指揮下のイギリスはなんとか持ちこたえます。
■映画のあれこれ 「過去」のパートの年代設定
この映画は原作の展開をおおむね忠実に映像化していますが、年代設定をあえて原作とは変えています。前半の見せ場となっているのはダーリントン邸での国際会議です。原作では、スティーブンスはこの時に執事としての「品格」を身につけるに至ったとされています。いわば彼の執事人生の栄光の頂点とも言える場面です。 この会議は非公式な国際会議ですが、各国の有力者を招き、その後の各国の方針決定に反映させようというもので、ヨーロッパ情勢の方向づけに影響を及ぼすほどの重みをもつものでした。この会議の時期が原作では1923年に設定されていますが、映画では登場人物の発言などから考えると1935年になっていると思われます。
この会議が原作通り1923年であれば、アメリカのドーズ案が出される以前であり会議の主たるねらいはヴェルサイユ条約で定められたドイツへの制裁をどう改定し、ドイツの経済的な混乱を解決するかということになります。根底にあるのは過酷な賠償金を課せられ苦境にあえぐドイツへの心理的同情です。この時期はドイツでナチスが政権をとる以前であり、ヒトラーはこの年にミュンヘン一揆を起こして失敗し投獄されています。
一方、映画ではこの会議の時期は1935年とされています。ドイツでは既にナチスが政権をとり、ヒトラーが独裁体制を築いて再軍備も視野に入れた動きをしています。この国際会議はそのようなドイツの動きを容認することを意図した会議となります。
いずれの場合でも親ドイツの動きであることは同じですが、映画ではこの会議を対独宥和政策の時期に設定することによりダーリントン卿の立場を一層明確にしょうとしたのでしようか。
「過去」のパートの後半部分は原作と映画で大きな相違はないようです。ドイツがオーストリアやチェコスロヴァキアに侵攻していた1938年ころだと思われます。ドイツの駐英大使リッベントロップが登場します。この写真の人物です。
この人物はドイツの貴族出身の外交官であり、イギリスの上流社会にナチスへのシンパを増やすべく活動していました。ダーリントン卿は、自らの屋敷にリッベントロップ大使とイギリスの首相、外相を招き、秘密裏の会合を設けます。イギリスの首相はネヴィル・チェンバレン、外相はイーデンあるいはハリファックス卿だと思われます。(イーデンは1938年2月に宥和政策に反対して辞任しました。)
宥和政策の頂点ともいうべきミュンヘン会談の下準備になる重大な会合です。
Bundesarchiv, Bild 183-H04810 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
■映画のあれこれ 宥和政策とダーリントン卿
この物語の「過去」の時点においてイギリス外交の焦点は宥和政策の是非でした。物語に登場するダーリントン卿は、英・仏を宥和政策の方向に誘導するために必死で尽力した人物です。ある時期までその努力は実りますが、後年はそのことによって逆に激しい批判にさらされました。
宥和政策とは、ネヴィル・チェンバレン首相時代のイギリスがナチス・ドイツの勢力拡大を一定程度まで容認することによってヨーロッパの平和を維持しようとした外交政策をいいます。イギリスが宥和政策をとった理由はいくつかあると言われています。
第一は、第一次世界大戦の反省から、ヨーロッパ全土を巻き込むような戦争は極力避けるという平和主義の考え方です。戦争を回避するためならば、ドイツにある程度の妥協、譲歩をしてもよいと考えました。
第二に、イギリスはソ連が最大の敵になると考えていました。このころソ連は世界大恐慌の影響を受けずに経済力を伸ばしていました。ソ連を牽制するためにはドイツに譲歩してでも味方にしておこうという考え方です。アメリカが恐慌対策に追われヨーロッパ情勢から距離を置いていたこともその背景にあります。
第三に、イギリスはこの時点で戦争の準備が整っていなかったため、融和政策をとらざるをえなかったとも言われています。イギリスは経済的に斜陽の時期にありましたが、さらに世界恐慌で受けた打撃から立ち直れず、戦争準備のために時間稼ぎが必要だったという考えです。
ネヴィル・チェンバレン首相は、宥和政策を実行に移した代表的人物です。ヒトラーの領土的野心が相当露わになった段階でも、ドイツと妥協することによりそれ以上の侵略行為を封じ込めることができると考え、総体としてプラスに働くと判断しました。そのためミュンヘン会談ではフランスに働きかけ、ドイツの要求をのみました。これによりチェコスロヴァキアの犠牲のもとに一時的にヨーロッパの平和が維持されたかに見えました。
またミュンヘン協定には、ドイツの要求を認めると同時に、ドイツはそれ以降の重要な対外活動についてはイギリスと話し合って取り決めるという条項がありました。チェンバレン首相としてはこの点が最大の成果でした。しかし、ミュンヘン会議で自信を深めたヒトラーはイギリスを無視して領土拡張を続けました。チェコスロバキア全体を解体し、ドイツの影響下においてしまいました。これはミュンヘン協定を踏みにじるものであり、イギリスではこの段階で一気に反ドイツの機運が高まりました。
一方、この会談を受けてソ連のスターリンはヒトラーに接近し、独ソ不可侵条約が締結されるという予期せぬ結果を招いてしまいました。
チェンバレンの宥和政策の是非については後に様々な意見が出されており、歴史的な評価は定まっていないようです。イギリスの宥和政策が第二次世界大戦を招いたという指摘は根強くあります。妥協によりヨーロッパの平和を維持できるという考えはヒトラーの野心を甘く考えていたと言わざるを得ず、ミュンヘン会談での宥和政策はヒトラーを増長させたという点で決定的な誤りであり、結果として第二次世界大戦を招いたという考えです。チャーチルはこの点を強く主張しました。
一方では、イギリスは宥和政策により稼いだ時間を最大限有効に使って戦争準備をしたのであり、それによりアメリカの参戦までの間を乗り切ることができたという意見もあります。
第一次世界大戦後のイギリスの貴族や知識人の中には、ドイツの復興を支援して賠償金の負担軽減を図ろうという意見があったのは事実のようです。ドイツを追い込みすぎて経済が崩壊すればヨーロッパ全体の不利益になるという見方です。こういった考えに立ってドイツとの協調、宥和を重んじれば、ドイツの再軍備を認めないのは不公平であるという考えにも発展しました。実際、1939年にドイツがポーランドに侵攻するまではイギリスの国内世論としても宥和政策を支持する空気も根強く、1938年のミュンヘン会談の際には戦争を回避するための勇気ある決断をしたとしてチェンバレン首相を賞賛する人々も大勢いました。
この物語に登場するダーリントン卿は架空の人物ですが、こういった考えをもったイギリス貴族を象徴する人物として描かれています。ダーリントン卿とその同調者たちには第一次世界大戦の勝者としての優越感があったのでしょうが、ドイツの疲弊を見過ごすことができずその苦境を救おうという善意があったことは確かだと思います。名誉を重んじ高邁な志で寛大さを示そうとした崇高な平和主義者であったと思われます。あくまでヨーロッパの平和を維持するために宥和政策が必要と考えたのでしょう。しかし、泥沼にはまるようにますます親ドイツ的になり、反ユダヤ主義にまで傾いてしまいます。そしてドイツはその善意を利用しようとします。ついにはダーリントン卿は自分の屋敷にチェンバレン首相とドイツのリッペンドロップ大使を招いて会談の場をもち、チェンバレン首相に働きかけます。
しかし第二次世界大戦が勃発した後には宥和政策は結果的にヴェルサイユ体制の崩壊に荷担し、ヒトラーを増長させ戦争につながったという意見が一般にも広まりました。それは大戦終結後も続きました。
これがこの物語の「過去」のパートの背景です。
次にこの映画の「現在」のパートの背景として、第二次世界大戦後のイギリスの状況を見ていきましょう。
◎歴史的背景 第二次世界大戦後のイギリス
ドイツの猛攻をしのぎ第二次世界大戦を戦い抜いたイギリスの首相は保守党のチャーチルでした。大戦終了直前には労働党のアトリーが首相になり、「ゆりかごから墓場まで」と言われる福祉政策等を重視しつつ戦後の経済復興を進めますが、1951年には再びチャーチルが首相に返り咲きます。イギリスは第二次世界大戦での多大な犠牲からは回復しますが、産業革命を世界に先駆けて成し遂げ「世界の工場」として君臨したかつての面影はなく、経済面での国際競争力は大きく衰えていきます。経済が停滞するなか、対外債務が膨張し国家財政も苦境に陥ります。
戦後の国際社会は東西冷戦時代に突入しますが、イギリスは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し西側陣営の要として軍備増強を続けることになりました。核開発にも成功し、アメリカ、ソ連に続く3番目の核保有国になります。
また植民地の独立要求という問題に直面します。インドの分離独立、パレスチナからの撤退、アイルランド共和国のイギリス連邦からの離脱などが次々と起こります。アフリカ諸国でも独立運動が活発化します。しかしイギリスはかつての帝国主義的な外交からなかなか脱することができません。チャーチルの次に首相になったイーデンの時代に第二次中東戦争を引き起こし、イギリスは国際的地位を大きく落とすことになります。
大戦後新たに発足した国際連合によりパレスチナ分割案が出され、ユダヤ人国家であるイスラエル共和国が建国されたのを契機に第一次中東戦争が1948年に勃発して以来、イスラエルと周辺のアラブ国家の対立が続いていました。エジプトでは1952年に革命が起きて共和国になりますが、大統領のナセルはイギリスやアメリカから距離を置きソ連に接近します。ナセルは、農業近代化用の電力供給を得るためナイル川上流にアスワン=ハイダムの建設を計画していましたが、イギリスとアメリカはナセルのソ連寄りの姿勢を嫌って建設に対する融資を中止しました。そこでナセルはスエズ運河を国有化し、その運航費をダム建設に向けることを考えました。このためスエズ運河の経営権を持っていたイギリスやフランスとの関係が悪化し、これが第二次中東戦争(スエズ戦争)につながります。
1956年、イギリス、フランス、イスラエルがエジプトに攻め込みエジプトは防戦一方でしたが、国際世論はイギリスやフランスに批判的でした。特に、この戦争に乗じてソ連がハンガリーに侵攻した(ハンガリー動乱)ため、アメリカは英・仏に対し即時停戦を要求しました。結局、三カ国は国際的に孤立してエジプトから撤退せざるを得ず、スエズ運河の利権も喪失しました。
この失敗によりかつての大英帝国の権威は大きく失墜しました。
■映画のあれこれ 「現代」のパートの年代設定
この映画は、「現在」のパートの年代も原作から変更しています。原作では1956年に設定されており、主人公スティーブンスが旅に出ていた時期はエジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言した一ヶ月後です。第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発する直前ということになります。
それに対し映画では1958年だと思われます。映画の中でスエズ戦争への言及もあります。第二次中東戦争がイギリスにとって大失敗に終わり、かつての権威が失墜した後です。イギリスの落日がより明白になった時代に、国を動かすほどの影響力を持ったダーリントン卿のかつての栄光とその過ちを振り返るという設定にしたのでしょうか。
またダーリントン卿の没落は、イギリス貴族が国際政治の中心に位置し、外交も貴族の館で行われていた古き良き時代の終焉、国家の進むべき道筋を由緒ある貴族が動かしていた時代が終わったことも示唆しています。
ダーリントン邸がイギリス貴族の伝統を知らないアメリカの富豪の所有物になったことは、まさに大英帝国の没落とアメリカにその座を明け渡したことの比喩になっていると言えます。
■映画のあれこれ 監督、出演者など
監督はイギリス文学の映画化には定評があるジェームズ・アイヴォリーです。この作品も物語の展開だけではなく、原作の雰囲気もよく再現されています。当時の緊迫した国際情勢と主人公たちの人生が重層的に描かれており、公開時から多くの人々心をつかみました。アカデミー賞では作品賞を含む8部門でノミネートされながら無冠に終わりました。この年は、自身がユダヤ人であるスティーブン・スピルバーグ監督が全身全霊を込めたといわれる、ナチスによる虐殺から多くのユダヤ人を救った実業家を描いた「シンドラーのリスト」が映画界を席巻(アカデミー作品賞・監督賞はじめ7部門を受賞)した年であり、それと鉢合わせになったのが不運でした。
主人公スティーブンスを演じたアンソニー・ホプキンスとミス・ケントンを演じたエマ・トンプソンの二人はアイヴォリー監督の前作「ハワーズ・エンド」に続いての共演です。二人のダーリントン邸での最も充実した日々を活き活きと演じています。
アンソニー・ホプキンスの抑制された演技が素晴らしいです。執事としての人生に誇りと情熱をもち、自らを律し、表情をほとんど変えず感情を見せません。常に執事としての品格を重んじ、大勢の使用人を統率する重要な役割を誠実かつ冷静沈着に果たします。その一方では、堅物で男女の機微にうとく、気の利いたことも言えません。
原作は全編がスティーブンスの語りによって展開していくのに対し、映画ではそれがなく、すべてホプキンスの全身での演技によって物静かで端正でストイックな執事の生き様が表現されます。アンソニー・ホプキンスはこの作品の二年前の「羊たちの沈黙」で冷酷な猟奇殺人犯である精神科医ハンニバル・レクターを演じて世界中に強烈なインパクトを与えましたが、そのイメージが吹き飛ぶほどです。彼の長いキャリアの中でも屈指のはまり役になりました。
ミス・ケントン役のエマ・トンプソンも仕事をテキパキと処理し、毅然としていつも気丈な女中頭を熱演しています。心に秘めた思いを伝えきれないもどかしさをうまく表現しています。
二人とも仕事熱心で有能であるためにプライドも高く、職務に忠実なあまりしばしば衝突します。それでもお互いを評価し敬意を払っています。二人は密かに淡い思慕の気持ちを募らせますが、それを口にすることができません。微妙な眼差しの絡み合いや口元の動き、仕草などで押し殺した感情やその濃密なやりとりを表現しています。
二人はこの映画の直前にアカデミー賞を受賞しています。ホプキンスは1991年に「羊たちの沈黙」で主演男優賞を、トンプソンは1992年に「ハワーズ・エンド」で主演女優賞を受賞しています。二人の名優がまさにそのキャリアの絶頂期に共演して、別々の人生を歩まざるを得なかった不器用な愛を熱演しています。
ダーリントン卿役はジェームズ・フォックスです。イギリスの由緒ある貴族役にぴったりでした。
新しい主人のアメリカ人ルイス氏は、クリストファー・リーヴです。「スーパーマン」シリーズのヒーローで人気が出たにもかかわらず落馬事故で体が不自由になったことが知られていますが、この映画は彼の事故の前の最後の作品です。
この映画は第二次世界大戦前後の不穏で緊迫した国際情勢、イギリスの階級社会などさまざまな要素が臨場感あふれる映像で綴られた豊穣な物語です。何度も繰り返して見ることのできる奥の深い映画ですが、原作と合わせて鑑賞することによってさらに作品に親しむことができると思います。
心に染みる味わい深い作品です。
■映画のあれこれ 執事
この物語は、イギリスの伝統の神髄ともいうべき貴族階級に仕える執事というプロフェッショナルな職業のあり様を如実に描いています。私心を捨てて誠実に主人に仕えるという役割に信念をもって人生を捧げた人物の回顧です。物語の中でスティーブンスは、愚直なまでにこだわってきた執事としての行動様式や美学、ひいては執事人生そのものを問われることになります。
直接は描かれていませんが、第二次世界大戦勃発後にダーリントン卿はイギリスを戦争に追い込んだ対独協力者として激しい非難を浴びせられて世の中から葬り去られます。失意のうちに非業の最期をとげたことがセリフからわかります。「現在」のパートでスティーブンスは旅行の途中で、ダーリントン卿がナチス擁護の貴族として人々の嫌悪の対象となっていることを痛感します。その時スティーブンスは自分がダーリントン卿に仕えていたことを隠します。主人に仕えることに誇りをもってきたスティーブンスにとってつらい経験になります。
自らの人生のよりどころとしてきたダーリントン卿を否定することは、自分自身の人生を否定することになります。執事としての誇りと信念がゆらぎます。過ぎ去りし人生を振り返り、自身の生き方への悔恨が痛切です。それでもスティーブンスは、職務に忠実だったからこそ幸せだった日々、ダーリントン卿に仕えた長い歳月を誇りに思っているのでしょう。執事という職業を全うした満足感もひしひしと感じられます。
■映画のあれこれ イギリスの貴族の邸宅
この映画では、古き良き時代のイギリス貴族の伝統的な暮らしぶりを目の当たりにすることができます。広大な敷地と壮麗な屋敷、豪華な美術品や調度品、さらには国際会議や晩餐会の様子なども格調高く描かれ、イギリス的な風土に浸ることができます。
この映画では、古き良き時代のイギリス貴族の伝統的な暮らしぶりを目の当たりにすることができます。広大な敷地と壮麗な屋敷、豪華な美術品や調度品、さらには国際会議や晩餐会の様子なども格調高く描かれ、イギリス的な風土に浸ることができます。
映画の製作の際には、いくつかの本物の貴族の邸宅が選ばれて撮影が行われました。そのうちの二か所をご紹介します。
①ダーリントン卿の屋敷の外観と庭園 「ディラム・パーク」
屋敷の外観と庭園は、イギリス南西部のグロスターシャー州にある「ディラム・パーク」という邸宅で撮影されました。この建物は17世紀から18世紀にかけて外交官として活躍した人の屋敷として建てられたそうです。建物はバロック様式で、保存建築に指定されています。環境保護団体が管理をしており、一般公開もされているようです。広大な敷地には鹿が放たれており、シャトルバスが走っているそうです。
映画の中でも、この屋敷と庭園の美しい景観が何度か登場します。特に、映画の冒頭のキツネ狩りに出発する場面は印象深いものでした。
②ダーリントン卿の屋敷の内部 「パウダーハム城」
ダーリントン卿の屋敷の内部は何か所かの邸宅で撮影されたようですが、その一つが「パウダーハム城」です。こちらもイギリス南西部のデボン州にあります。18世紀から19世紀にかけて大きく拡張された建物で、この建物の階段、ホール、音楽室などが映画の撮影に用いられています。この地域一帯を治めていたデボン伯爵の子孫が現在も住んでいるそうですが、一般公開もされており、ガイドツアーや結婚式、コンサート等の様々なイベントが行われているそうです。
■映画のあれこれ 名セリフとエンディングのこと
この作品で最も印象深い言葉を紹介します。
物語の後半で黄昏の浜辺で灯りが点り始める時、
「夕暮れが一日で一番いい時間です。皆、楽しみに待っています。」
という言葉が登場します。原作ではスティーブンスの隣に座った同年配の男性の言葉ですが、映画ではベン夫人のセリフになっています。スティーブンスはしみじみその言葉をかみしめます。心に残る言葉です。
原作には終盤、夕闇に包まれた桟橋で、スティーブンスが地元の男性と言葉を交わす場面があります。夕日の名残りを眺めながら自らの人生を振り返り、それまで抑え続けてきた自らの思いを思わず口にする場面です。スティーブンスの思いが切々と伝わるとても印象的な場面です。この場面が映画では除かれており、そのかわりに映画オリジナルのエンディングが用意されています。原作とは違う形で未来への希望を感じさせる気持ちのいい終わり方です。筆者が初めて映画を見た際には、このエンディングも後味がよいのですが原作の重要な場面は映画に入れて欲しかった、と思ったものでした。ところが映画のDVDには特典として未公開シーンがあり、その中にこの場面がありました。すなわちいったん撮影したにもかかわらず、編集の段階でまるまるカットしたようです。監督には色々な判断があったのでしょうが残念です。いつか未公開シーンも加えた完全版を公開してもらいたいものです。
■こちらもおすすめです。 「眺めのいい部屋」
「日の名残り」のジェームズ・アイヴォリー監督はアメリカ人ですが、イギリスを舞台にした数々の文芸作品の映画化で手腕を発揮しています。イギリスの小説家E・M・フォースター原作の「眺めのいい部屋」(86)、「ハワーズ・エンド」(92)、「モーリス」(87)といった作品の映画化で有名です。「モーリス」ではヴェネツィア国際映画祭の監督賞にあたる銀獅子賞を受賞、「ハワーズ・エンド」ではカンヌ国際映画祭45周年特別賞を受賞しています。
その中から「眺めのいい部屋」をご紹介します。アイヴォリー監督としては、「日の名残り」の7年前に製作した作品です。「日の名残り」と同様に20世紀前半のイギリスの物語です。
◎映画の概要
・1986年イギリス映画
・監督 ジェームズ・アイヴォリー
・出演 ヘレナ・ボナム・カーター、ジュリアン・サンズ、ジュディ・デンチ、マギー・スミス
・アカデミー賞3部門で受賞(脚色賞、衣装賞、美術賞)
◎あらすじ(ネタバレなし)
1907年。イギリスの良家の令嬢ルーシーは、年配の従姉で付き添い(シャペロン)のシャーロットとイタリアのフィレンツェを旅行していました。イギリス人観光客で賑わう宿屋に着いて、眺望を楽しもうと部屋の窓を開けてみると、予約時に約束したアルノ川に面した眺めのいい部屋ではなかったのです。ルーシーとシャーロットが食堂で部屋のことで不満を言っていると、見知らぬ男性二人から話しかけられます。エマソン氏と息子のジョージと名乗るイギリス人は、眺めのいい部屋との交換を申し出てくれたのでした。しかし、シャーロットは眉をひそめます。見知らぬ女性にいきなり話しかけるのはマナー違反とされており、またエマソン父子は下層階級に属しており、階級社会の常識にも反していました。ルーシーはエマソン父子の申し出を素直に好意として受け取り、部屋を替えてもらうべきと主張しますが、シャーロットは申し出を受けることは慎みがない行為と考えいったんは辞退します。結局は居合わせたイギリス人牧師ビープ氏の仲介で申し出を受け、大聖堂とアルノ川が見える部屋と交換してもらうのでした。
翌朝、ひとりでフィレンツェの観光をしていたルーシーはジョージと出会い、行動を共にします。しかし広場で地元の青年たちの喧嘩があり、刺された男が血だらけになっているのを見てルーシーは気絶してしまいます。ルーシーはジョージから介抱されることになり、それを機に二人の間に何かが芽生えます。
◎映画のあれこれ
この映画では、前半はフィレンツェ、後半はイギリスの田園地帯のみずみずしく美しい風景が楽しめます。そしてプッチーニのオペラをはじめベートーベンやモーツァルトなど優雅なクラシック音楽がイギリスの上流社会の雰囲気を盛り上げています。室内装飾などの美術や衣装、セリフや人々の振る舞いなどにも細かく配慮が行き届いています。アイヴォリー監督らしい演出で格調高い作品になっています。
原作者E・M・フォースターの作品には異なる価値観をもつ者同士の交流、異文化との接触により引き起こされる出来事や人間の変化について描いたものが多いですが、この作品でもイギリス人である主人公ルーシーがイタリアのフィレンツェを旅することにより異文化に接触し、価値観の違う人たちと触れあうことになります。それが主人公の変容、成長の契機となります。
第一に、階級の違い、社会的な身分の違いに直面します。主人公はそれまで素朴な感情や本能的な行動よりも礼節を重んじる階級社会の常識しか知りませんでしたが、この旅行を機に自然な心の交流の素晴らしさを知ります。そこから人生の岐路にぶつかり、選択を迫られます。
現代の日本人には階級というものはわかりにくいですが、イギリスが「世界の工場」として繁栄し富裕だった時代、人々の階級ははっきり分かれていました。貴族、大地主などの上流階級、新興ブルジョワ階級である中産階級、労働者の下層階級です。そして上流・中産階級と下層階級では、生活習慣やマナーが大きく違ったようです。主人公ルーシーは亡くなった父親が弁護士であり、中産階級に属しています。上流ではありませんが、社会の上層部、いわば良家の令嬢にあたります。それに対しエマソン父子は下層階級です。そしてイギリスに帰国してからルーシーにプロポーズする青年セシルは上流階級です。
ルーシーは旅行に出ることによって本来なら出会うことがなかった筈の階級の違う青年ジョージと出会い、二人の男性の間で揺れます。身分の違いを気にしない新しい考え方に目覚めていく内面の成長が描かれます。
第二に、イギリス人の主人公がフィレンツェに旅行をします。当時、良家の子女が教養を深めるために付添人と海外への旅行に出かけるのは一般的に行われていたことだそうです。フィレンツェは14世紀に始まったイタリアルネッサンスの発祥の地です。ルネッサンスとは「再生」を意味し、古代ギリシア・ローマの文化を模範として人間性の自由・解放を求めた芸術活動です。フィレンツェは、ヨーロッパが中世から近代へ移行する出発点となった街であり、現在も多くの歴史的な建築物と街並みが保存されています。ルーシーは、この街でイギリスでは感じたことのない情熱を感じ心がざわめきます。
◎映画のあれこれ 登場人物たち
主人公ルーシーを演じたのはヘレナ・ボナム・カーターです。若い頃の彼女は、いかにも良家の令嬢らしい清楚な雰囲気を身にまとい、初々しく若さとかわいらしさがあふれるばかりです。
労働者階級の青年ジョージはジュリアン・サンズが演じました。イギリスの美形俳優として人気を集め、多くの作品に出演していますが、この映画でも繊細で一途な青年を好演しています。
映画後半に登場する上流階級の青年セシルを演じたのはダニエル・デイ=ルイスです。アカデミー賞の主演男優賞を三度受賞した名優です。この映画でも、生粋の英国貴族としての教養、服装、たしなみ、慎み深さなどを全身で表現しています。
この映画には、他にもイギリスの名優が出演しています。
小説家の役で英国演劇界の大御所ジュディ・デンチが出演しています。多くの舞台に出演し、ローレンス・オリヴィエ賞を7度受賞、映画でもアカデミー賞の助演女優賞を受賞していますが、『007』シリーズでジェームズ・ボンドの上司「M」を17年間に渡って演じたことで、世界的に知名度を上げました。
そして主人公の世話役を演じたのが、同じくイギリスの名優マギー・スミスです。アカデミー賞の主演女優賞と助演女優賞の両方を受賞しています。この作品で演じたシャーロットは、階級社会の礼節に固執し、慎み深く体面を気にする女性ですが、ルーシーを心配し、色々と世話をやきます。シャーロット自身は古い価値観にとらわれていますが、ルーシーの気持ちの変化も理解します。
主人公ルーシーと二人の男性の関わり方がこの映画の見所ですが、世話役シャーロットとルーシーの女性同士の心の交流にも印象深いものがあります。それにしても、多くの映画ファンが感慨深く述べておられるように、この二人の女性は四半世紀という長い歳月の後、場所をホグワーツ魔法魔術学校に移し、かたやダンブルドア校長の後継者マクゴナガル先生、かたや闇の帝王ヴォルデモート卿の従者ベラトリックス・レストレンジとなって対立しますが、「眺めのいい部屋」の二人からは想像もできません。