「ライアンの娘」と「麦の穂をゆらす風」

アイルランド
映画「ライアンの娘」の舞台となったアイルランドのディングル半島

 ヨーロッパの北西部の北大西洋にアイルランド島があります。イギリスの中心的な島である大ブリテン島の西隣りです。緑豊かな島で、ケルト文化とキリスト教に根差した独自の文化が花開いています。この島は長きにわたってイギリスの支配を受けてきましたが、19世紀以降、自治を求める動きが活発になりました。20世紀前半には、イギリスからの独立戦争、さらには同胞同士が戦った内戦という悲劇を経験しました。このアイルランドの苦難の時代を舞台としていくつかの映画が作られています。

 それでは苦難に満ちたアイルランドの歴史をたどっていきましょう。

 日本で通常イギリスと呼んでいる国は正式には「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」、略称「連合王国(UK)」といいます。大ブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランドとその西にあるアイルランド島の北部(北アイルランド)がその領域にあたります。そしてアイルランド島の残りの部分が「アイルランド共和国」(または「エール」)です。

 現在のアイルランドは様々な来歴の人々が混ざり合っています。アイルランドに人類が居住するようになったのは紀元前8000年頃、農耕・牧畜が始まったのが紀元前6000年頃と言われています。巨石文化の時代もあり、東部のレンスター地方にあるニューグレンジという巨大な墳墓が世界遺産に登録されていますが、これが紀元前3000年頃と言われています。

ニューグレンジUploaded by Popsracer – Photo taken 25 June 2003 copyright Richard Gallagher., CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 アイルランドと言えばケルトの国というイメージが強いですが、ケルト人は紀元前300年頃(500年頃という説もあり)、ヨーロッパや大ブリテン島からアイルランドに移住して鉄器文化をもたらしました。ケルト人の一派であるゲール人が現在の多くのアイルランド人の祖先とされています。
 紀元前後にローマによる地中海世界の支配が確立し、紀元後1世紀末には大ブリテン島もローマ軍に征服され、ローマの属州となります。一方、アイルランドはローマの侵攻を受けず、小国が乱立する状態となります。
 5世紀、地中海世界に普及していたキリスト教がアイルランドにも到来します。大ブリテン島出身の聖パトリックらがアイルランドでの布教に努めました。現在でも聖パトリックの命日の3月17日は「聖パトリックの祝日」という祝祭日になっています。
 カトリックが急速に広まって各地に修道院が建設され、信仰や文化の中心となります。アイルランドは後に「聖者と学者の島」とも呼ばれます。ケルト系の文化とカトリック信仰に根差した固有の文化が発展を遂げ、現在も色濃く残っています。

 4世紀以降、ヨーロッパはゲルマン民族の侵入により混乱に陥ります。各地にゲルマン民族による国家が立てられますが、アイルランドは直接の影響は受けませんでした。しかし、8世紀末以降、デーン人などのノルマン人が北欧から侵攻してきました。ゲルマン民族の一派であり、ヴァイキングとも呼ばれます。ノルマン人は略奪者であると同時に商人でもありました。ダブリンなどの海港都市を拠点として建設し、アイルランドと外の世界とのつながりが生まれます。アイルランドに定住したノルマン人は徐々にケルト人と同化していきます。
 大ブリテン島では9世紀にゲルマン系のアングロサクソン人によるイングランド王国が成立しますが、アイルランドは分裂状態が続きます。
 11世紀、ヨーロッパではローマ・カトリック教会の世俗化に対する改革運動が起きますが、その波はアイルランドにも及び、教会の改革が行われます。

①プランタジネット朝とテューダー朝の時代

 1066年、イングランドではフランス北部から侵攻して来た勢力によりノルマン朝が立てられます。さらに1154年には同じくフランスを本拠地とするプランタジネット朝が成立し、周辺への拡大を図ります。大ブリテン島内の北方のスコットランドは独立を保ちますが、西方のウェールズはイングランドに併合されます。そして1171年、プランタジネット朝のヘンリー2世がアイルランドに侵攻して来ます。これは、当時分裂状態で小国同士の争いが続いていたアイルランドで、敗れた国がヘンリー2世に助けを求めたのがきっかけです。これがイングランドによるアイルランドへの介入の始まりになります。これ以降、イングランドやウェールズから、アングロサクソン人やノルマン人のアイルランドへの移住が進みます。
 アングロサクソン人等はゲール人の土地を奪って領主になるなどしますが、イングランドがアイルランドの全土を制圧したわけではなく、アングロサクソン人等の支配する地域とゲール人の支配する地域が混在する形になりました。移住者もゲール人と同化して人種と文化の混合も進みました。イングランドが1337年にフランスとの百年戦争に突入するとアイルランドは主たる関心の対象ではなくなります。

ハンス・ホルバイン画 『ヘンリー8世』(1537年ごろ)

 テューダー朝の時代、イングランド王権によるアイルランド支配が進みますが、アイルランドの人口の圧倒的多数はカトリックの信仰を保持します。イングランドはアイルランドにもイングランド国教会を強制し、カトリックを弾圧しますが反発を呼び、アイルランドでは国教会は浸透しません。また、イングランドからアイルランドへの移民を奨励したため移住が進み、アイルランドのカトリック住民との宗教的な対立が始まります。
 1595年、ヘンリー8世の娘であるエリザベス1世の時代に、北アイルランドのアルスター地方でイングランドの支配に不満をもつゲール人により大規模な反乱が起きます。これをカトリック国であるスペインが支援します。この反乱は1603年まで続いて「九年戦争」と呼ばれます。結局イングランドが鎮圧し、この後、アルスター地方にイングランドからの入植が進みます。
 イングランドは北米大陸など海外への進出を進めて植民地を拡大していきますが、アイルランドもその一環となります。

②クロムウェルの侵攻と植民地支配の定着

 17世紀初め、イングランドではエリザベス1世が未婚のまま亡くなったためテューダー朝は断絶します。スコットランド王がイングランド王ジェームズ1世として即位してスチュアート朝が始まり、アイルランドの王位も継承します。この時代に北アイルランドのアルスター地方への本格的なプロテスタントの移住が進みます。これが後の北アイルランド問題の背景となります。

オリバー・クロムウェル(サミュエル・クーパーによる肖像画)

 ジェームズ1世もその子チャールズ1世も議会を無視して専制政治を行います。チャールズ1世が議会を解散させる等したことから、1642年、イングランドは王党派と議会派に分かれて内乱となります。1649年にクロムウェルを指導者とする議会派が勝利して内戦を終結させ、王政を廃止してイギリス史上唯一の共和制が樹立されます。清教徒(ピューリタン)革命です。クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑し、独裁体制を確立するとともに海外へも進出します。王党派を掃討するという名目でアイルランドに侵攻して征服します。

 それまでのイングランドによるアイルランドの支配は北部のアルスター地方を除いて不完全なものでしたが、クロムウェルは1652年に「アイルランド土地処分法」を成立させ、カトリックや王党派の指導者を死刑にして土地を没収します。さらにプロテスタントの大規模な入植を進め、本格的な植民地化が始まります。以後、アイルランドでは、イングランド本国にいる大地主(イングランド国教徒)に富と権力が集中し、小作人(カトリック教徒)を支配する社会構造が形成されます。アイルランド人は貧困と宗教的差別に苦しみます。
 イングランドのクロムウェルは評価の分かれる人物ですが、現在でもイギリスの国会議事堂の横に像が立っています。それに対し、アイルランドでは歴史上最も嫌われている人物です。
 クロムウェルの死後、再びイングランドの政治は混乱して王政が復活します。即位したチャールズ2世はカトリックと絶対王政の復活を画策したため、それに対抗して1673年に「審査法」が制定されます。公職には国教徒以外は就任できないという法律です。これにより、国教徒以外のプロテスタント(カルヴァン派など) やカトリックが官吏や国会議員などの公職から排除されました。これがアイルランド人に重くのしかかってきます。

 チャールズ2世の次は弟のジェームズ2世が即位しますが、この国王もカトリック教徒であることを公言し、イングランド国教会の立場にたつ議会と対立します。1688年、議会は国王の娘メアリ(メアリ2世)とその夫であるオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)を国王として迎えます。チャールズ2世はカトリックの国であるフランスに亡命します。これが名誉革命です。議会の優位と国王の権限の制限、国民の権利等を定めた「権利の章典」が制定されます。宗教面では国教会優位の体制が継続します。1689年に寛容法が制定されて国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由が認められますが、カトリックは対象外とされます。こうして議会政治と国教会制度を柱とするイングランドの立憲君主制の基本原則が確立します。

 1690年、名誉革命でフランスに亡命した前国王ジェームズ2世は、ヨーロッパの覇権を目指すフランスのルイ14世の支援を受けて、イングランド王位への復帰を図ります。フランスの援軍と共にアイルランドに上陸し、カトリックの勢力を結集して挙兵します。これに対してウィリアム3世が出兵し、イングランドの王位をかけた争いがアイルランドを舞台に行われます。ウィリアム3世はボイン川の戦いでジェームズ2世とカトリック軍を破ります。

ボイン川の戦い

 ジェームズ2世はフランスに逃げ帰り、残されたアイルランド軍は戦闘を続けますが、最後の拠点であった南西部のリムリックで降伏します。この時の条約はカトリックの信仰の自由を認める寛容なものでしたが、後に反故にされます。この条約を記念して建てられた石碑はイギリスの二枚舌のシンボルとなり、「条約の石」と呼ばれ今も残されています。
 これによりイングランドによるアイルランドの植民地化が定着します。その後も少数のプロテスタントの支配層により大多数のカトリック教徒を支配する体制が続きます。ただし、北部のアルスター地方ではプロテスタントが大量に流入したため、人口が逆転してプロテスタントが多数派になった地域もありました。

 1707年、イングランド王国がスコットランド王国を併合し、大ブリテン王国(以下、「イギリス」)となります。
 1775年からのアメリカ独立戦争では北アメリカの13殖民地がイギリスからの独立を勝ち取ります。また、1789年に始まったフランス革命の影響で、ヨーロッパの各地に自由主義の思想が広まります。アイルランドではイギリスへの従属に対する不満が続いていましたが、これらの動きを受けて独立の機運が高まります。

1798年5月、ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起

 1791年、「ユナイテッド・アイリッシュメン」という民族主義的な政治結社が結成されます。民主的な議会改革やカトリックの権利の回復を目指して穏健な運動を展開しますが、フランス革命の進展にも刺激されて徐々に過激化します。1798年に蜂起しますが鎮圧されます。組織は解体させられますが、後にアイルランドの民族独立運動の原点として評価されることになります。

 イギリスはアイルランドの動きを憂慮し、1801年にアイルランドの議会を廃止して正式にアイルランドを併合します。これにより「大ブリテン=アイルランド連合王国」が形成されます。
 併合後はアイルランドもイギリスの一部になりますが、前述の審査法があるため、カトリックであるアイルランド人は高位の官職や帝国議会議員などの公職に就くことができません。この後は、政治的に無権利状態におかれたアイルランド人(カトリック教徒)に対する差別の撤廃の要求が高まります。
 審査法は1828年に廃止になり、国教徒以外も公職に就けるようになりましたが、カトリックは対象から除かれました。

 次に民族運動の指導者としてダニエル・オコンネルが登場します。カトリック教徒の地位の向上を目指し、広範な民衆の参加する「カトリック協会」を1823年に設立します。1829年、オコンネルはクレア州で行われた議会議員の補欠選挙で大差で当選しますが、カトリック教徒であったことから議席を認められませんでした。それに対してカトリック教徒が強く反発し、アイルランドは内乱の危機になります。当時イギリスでも産業革命を受けて産業資本家や中間層が台頭して自由主義の風潮が高まっていたこともあり、「カトリック教徒解放法」が制定されました。これによりカトリック教徒の公職就任が可能となり、法的な平等が達成されました。これ以降、アイルランド人もイギリスの議会に進出します。カトリック教徒解放法の成立に尽力したオコンネルは「解放者」と呼ばれることになります。オコンネルは合法的、平和的なアイルランドの独立を目指し、イギリス議会で政府の政策を批判し、併合の撤回を求める運動を展開します。

 イギリス本国は18世紀後半~19世紀に産業革命を展開して急速に工業化し、「世界の工場」となります。多くの海外植民地を獲得して唯一の超大国として繁栄し、大英帝国と称されます。しかしアイルランドは産業革命の恩恵にあずかることなく、イギリス本国の工業化から取り残されます。本国から安価な工業製品が流入し、本国の食料供給地となって経済的に従属します。
 農業国となったアイルランドは国内に著しい経済格差が生じます。地主などの富裕層はごくわずかで、大多数の土地を持たない零細な農業労働者(小作人)は貧窮にあえぐことになります。地主や中流階級以上のアイルランド人は穀物を食べていましたが、貧困な農民は小麦などの穀物を生産しても自らは口にすることができず、主食は安価なジャガイモに依存していました。

 ジャガイモは、天候の影響を受けにくく、栄養が豊富であるため、ヨーロッパの農民の食料として普及し、アイルランドでも栽培が拡大していました。しかし1840年代半ば、ジャガイモに病害が蔓延して凶作となります。ウィルス性のジャガイモ疫病菌です。これによりアイルランドでは深刻な飢饉が広がります(ジャガイモ飢饉)。はっきりした人数はわかりませんが百万人以上が餓死したと言われています。

首都ダブリンに建立されたジャガイモ飢饉の追悼碑

 また、アイルランドでは以前から海外への移住が続いていましたが、この時期にはアイルランドで生計を立てられない人が急増しました。イギリス本国や北アメリカへの移民が増加し、80万人以上が移民として渡航しました。800万人いたアイルランドの人口は20~25%減りました。

①青年アイルランド党等の蜂起

ダブリンに建つダニエル・オコンネルの像

 アイルランドでは、1842年にアイルランドの自立を目指す青年知識人のグループにより「青年アイルランド党」が結成されます。ジャガイモ飢饉などで国民が困窮する様をみて急進的になり、ダニエル・オコンネルらの合法的な運動に不満を抱きます。オコンネルは平和的な非暴力主義の運動に固執するうちに求心力を失い、失意のうちに亡くなります。しかし現在でもアイルランドの人々の間で人気が高く、首都ダブリンにはオコンネルの巨大な像が立っています。
 19世紀前半には、ナポレオン戦争後に成立した保守的なウィーン体制が国際秩序でした。それに対して自由主義やナショナリズムの運動が各地で起きました。1848年には保守的な君主制国家に対する反乱が連鎖反応的に起きました。フランスでは二月革命が起きて王政を終わらせ、イギリスでも労働者の選挙権拡大の要求であるチャーチスト運動が高揚しました。この一連の革命や運動によりウィーン体制は崩壊しました。

 アイルランドでも各国での民族運動等の刺激を受けて青年アイルランド党が一気に武装蜂起します。しかし時期尚早であり民衆の支持が得られず、イギリスに鎮圧されて失敗に終わります。この時に弾圧を逃れたメンバーを中心に「アイルランド共和主義同盟(略称IRB)」という急進的な秘密結社が結成されます。フィニアンとも呼ばれます。フィニアンとは、アイルランドの古代神話に登場する若い戦士の集団にちなんだ名称です。この秘密結社が1867年に武装蜂起しますがこれも鎮圧されます。
 これらの急進的な活動は失敗に終わりますが、イギリスはアイルランドの問題に危機感を覚えるようになり、深刻な政治課題となります。1868年に成立したウィリアム・グラッドストンの自由党内閣は本腰を入れてこのアイルランド問題に取り組むことになります。

②土地問題

 グラッドストン内閣が最初に取り組んだのはアイルランドの土地問題です。1850年代からイギリス人の不在地主とアイルランドの小作人(借地農)の間で土地をめぐる対立が激化していました。小作人らの要求が「Fixity of Tenure  小作権保有の保障」、「Fair Rent  適正な地代」、「Free Sale 小作権売買の自由」であったことから3F運動と呼ばれます。
 1870年、3F運動の要求を受けて第1次グラッドストン自由党内閣が「アイルランド土地法」を制定します。これにより小作権の安定や小作地の改良に対する補償が認められるなど小作人の権利保護が図られますが、小作人にとっては不十分な内容であり、不満は解消しません。

ウィリアム・グラッドストン

 19世紀後半のアイルランド民族運動の中心となるのはスチュアート・パーネルです。1879年、パーネルが中心となって「アイルランド土地同盟」が結成され、小作権の安定、小作料の引き下げを求めて「土地戦争」と呼ばれるほど闘争が激化します。
 パーネルはグラッドストン内閣と連携して土地問題の解決に努めます。

スチュワート・パーネル

 1881年、第2次グラッドストン自由党内閣が「第二次アイルランド土地法」を制定します。自作農の創出を図るため、農民の土地購入権を承認し、補助金も出すことになります。
 これにより小作人の権利が向上し、自作農の増加も促されて農民の不満はある程度まで解消しました。この後、アイルランド問題は土地問題から政治的な自治権の獲得へと要求が移っていきました。 

③アイルランド自治法をめぐる動き

 1880年代、イギリス議会での活動を通じて自治の獲得を目指す「アイルランド国民党」が設立されます。土地問題に続きパーネルがこの党の指導者となります。アイルランド自治法の制定に向けて活動し、徐々に勢力を拡大します。1885年のイギリス議会選挙では86議席を獲得し、二大政党である自由党、保守党につぐ第三党となって影響力を強めます。
 1886年、第3次グラッドストン自由党内閣がアイルランド国民党と提携してアイルランド自治法案を提出します。アイルランドに一定の内政の自治権を与えるものです。これが最初の法案提出です。しかし法案をめぐって自由党が分裂します。党内の有力者であるジョセフ・チェンバレンが法案に反対して自由党を離党し、自由統一党を結成します。これにより法案は不成立に終わりました。
 グラッドストンはイギリス議会を解散して選挙になりますが、分裂選挙になった自由党は野党に転落します。また、アイルランド国民党の指導者であったパーネルは女性スキャンダルで1890年に失脚してしまいます。

 1893年、政権に返り咲いた第4次グラッドストン自由党内閣が2回目のアイルランド自治法案を提出しますが、これも上院で否決されて不成立に終わります。
 また、自治法の制定を目指す動きに対し、北アイルランドのアルスター地方で反発が起きます。アルスター地方ではイギリス本国にルーツをもつプロテスタントの住民が多いことに加え、アイルランドの中では例外的に産業の近代化が進展し、イギリス本国と一体的に工業が発展していました。自治法に反対する義勇軍が組織されます。これに対抗してアイルランドの自治を求める側でも義勇軍が結成され、内戦の危機に瀕します。

 19世末、自治を求める政治的な動きと連動して、アイルランド固有の文化や伝統を見つめ直す運動が高まります。「アイルランド文化復興運動」と呼ばれます。アイルランドの歴史、文芸、話者が減りつつあったケルト語などを再評価することにより民族意識の覚醒と文化の復興を目指すものです。

ウィリアム・バトラー・イェイツ

 詩人で劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツやグレゴリー夫人が運動の中心となり、「アイルランド文芸劇場」の設立など文学の活性化や演劇の上演を進めます。この運動は近代アイルランド文学の確立に大きな影響を及ぼしました。イェイツは、「湖の島イニスフリー」などアイルランドの神話や伝説に想を得た作品で高い評価を受け、1923年にノーベル文学賞を受賞しています。その後アイルランドは世界的に有名な文学者を多数輩出し、ノーベル文学賞の受賞者を4人生み出しています。
 また、古くからアイルランドで行われてきたスポーツの復活を図る運動も起きています。GAA(ゲーリック体育協会)が中心となってハーリング(スティックとボールを用いる屋外競技)などの復興が図られました。

 20世紀に入り、アイルランドの要求は自治から独立に移っていきます。1905年、アイルランドの独立をめざす政治結社シン=フェイン党が結成されます。
 1912年、自由党アスキス内閣がアイルランド国民党の協力を得て3回目のアイルランド自治法案を提出します。これも上院で否決されますが、下院で3回可決されていたことから、1911年に制定された議会法の規定により2年後(1914年)の成立が決定します。

 1914年7月、第一次世界大戦が勃発します。ドイツ・オーストリア陣営(同盟国)とイギリス・フランス・ロシア陣営(協商国)の戦いですが、多くのアイルランド人がイギリス軍に加わって戦場に向かいました。これはイギリス帝国に忠誠を誓ってイギリス軍に貢献することにより自治の獲得を確実にすること、さらには自治獲得後にイギリス帝国内でのアイルランドの地位の向上を目指したものです。
 大戦勃発直後の9月にアイルランド自治法が成立しますが、イギリス政府は大戦の勃発を理由に終戦まで自治の実施の延期を決定します。
 第一次世界大戦は長期化し、それに伴ってアイルランドでも厭戦ムードが高まります。

 自治の延期の決定に対しIRB(アイルランド共和主義同盟)の急進派などが強く反発します。自治をめざす義勇軍のうち戦場に行かなかった残存勢力などを結集して部隊を編成します。さらにイギリスが戦っている相手であるドイツと密かに通じ、武器を調達して蜂起の準備をします。
 1916年4月、復活祭の日に独立を求めて武装蜂起をします(イースター蜂起)。復活祭とは、イエスが十字架にかけられて3日後に復活したことを記念したものです。

イースター蜂起後のダブリン市内

 ダブリンの中央郵便局前で共和国宣言に署名し、その後、激しい市街戦を展開します。しかしこの蜂起はアイルランド国民の支持が得られず、イギリス政府が派遣した軍隊によって1週間で鎮圧されます。

降伏後にイギリス兵に連行される蜂起メンバー

 蜂起が鎮圧された直後から、イギリス政府により容赦のない強圧的な処分が行われます。パトリック・ピアスらの蜂起の指導者が処刑されます。この過剰な弾圧がアイルランド人の反イギリス感情に火をつける結果になりました。非難の声が高まり、国民の世論は自治より独立を求めるようになります。
 独立を掲げるシン=フェイン党に急速に支持が集まり、党は急進化していきます。イースター蜂起に参加しながら処刑を免れたエイモン・デ・ヴァレラ、マイケル・コリンズらが党の中心となります。シン=フェイン党は1918年のイギリスの議会選挙で大勝し、アイルランドに割り当てられた議席の大半を獲得します。それまで自治を目指してイギリス議会内で活動していたアイルランド国民党は大きく後退します。この時期からアイルランドの運動は、議会活動による自治の獲得から、完全独立を目指す戦闘的な独立運動に変貌します。

 それではこの時期のアイルランドを舞台とした名作映画をご紹介します。

1970年イギリス映画
監督 デヴィッド・リーン
出演 ロバート・ミッチャム、サラ・マイルズ、トレバー・ハワード、ジョン・ミルズ
アカデミー賞2部門(助演男優賞、撮影賞)を受賞

 1916年、アイルランドの南西部にあるディングル半島の寒村です。断崖の上からパラソルが風に舞いながら落ちていく場面から物語が始まります。
 この地の教師であるチャールズ・ショーネシー(ロバート・ミッチャム)がダブリンでの教師の会議から船で戻ってきます。静かな浜辺で待ち受けるのは若い女性ロージー(サラ・マイルズ)です。ロージーは村で居酒屋を営むライアンの娘です。ライアンは娘を溺愛し、わがままを許しています。
 ロージーはチャールズに思いを寄せています。中年のチャールズは妻を亡くして独り身ですが、年の差を考えてためらいます。しかしロージーの激しい愛の告白を受けて結婚することにします。
 村には少し知能の遅れているマイケルという男がおり、ロージーに好意を抱いています。
 村の若者たちは職がありません。暇を持て余した若者たちはマイケルをからかっていじめていました。
 チャールズとロージーはコリンズ神父のもとで結婚式をあげ、ロージーの父ライアンは盛大なパーティーを催します。しかし、穏やかなチャールズは若くて情熱的な新妻を十分満足させることができません。淡々とした生活にロージーは不満が鬱積し、外出が多くなります。
 村の近くにはイギリス軍の駐屯地があります。第一次世界大戦で負傷した若い将校であるランドルフ・ドリアン少佐(クリストファー・ジョーンズ)が指揮官としてそこに赴任してきます。
 ある日、ランドルフがライアンの居酒屋に入ります。その時、店に来ていたマイケルが執拗に靴を壁にぶつける音をたてるとランドルフはいらだち、突然痙攣に襲われます。ランドルフは脚を負傷しただけでなく、戦場で精神を病み、その後遺症に苦しんでいました。ロージーはランドルフをかいがいしく介抱し、二人は急速に接近します。
 この時期は、首都ダブリンでのイースター蜂起が鎮圧されてから少し後ですが、アイルランド国民の間ではイギリスからの独立を求める機運が高まっており、その動きはこの寒村にも及んでいました。

 この物語はイースター蜂起の直後、独立戦争が始まる前の時期です。物語の舞台となったのはディングル半島のキラリーという寒村です。首都のダブリンとはアイルランド島の反対側の西海岸にあります。駐留するイギリス軍の将校と地元に住む女性の不倫が描かれます。また、この村でも独立の機運は高まっており、対イギリスの蜂起に向けてドイツからの武器の密輸が画策されています。揺れ動く女性の心理とともに、アイルランドの人々の独立への思いを重厚に描いた壮大なヒューマンドラマです。
 3時間15分の堂々たる大作です。脚本は緻密に練り上げられており、長尺でも冗長にはなっていません。
 寒村の閉鎖的な雰囲気とともに、若者たちがまともな仕事に就くこともできないほど経済が停滞している実情がリアルに描かれています。
 人妻であるロージーは平穏な日常に満たされず悶々としています。一方、イギリス人将校ランドルフは心に傷を負い、疲れ果てたようになっています。二人は互いの傷跡をなめ合い、惹かれ合っていきます。国中が対イギリスの戦いに向けて盛り上がりつつあり、周囲の村人たちも団結する中で、イギリス軍将校との不貞は祖国への裏切りでもあり、まさに禁断の恋です。
 また、ランドルフは第一次世界大戦で足を負傷しただけでなく、何かのきっかけで戦場での恐怖が蘇るPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていると思われます。この人物の存在が、戦争がいかに人間を変えていくかを表現しています。

「ライアンの娘」が撮影されたディングル半島By Bjørn Christian Tørrissen – Own work by uploader, http://bjornfree.com/galleries.html, CC BY-SA 3.0, Link

 後半の見せ場である大嵐の場面は息を吞む迫力です。猛烈な雨と風、断崖の上までしぶきが上がる高波がスクリーンいっぱいに描かれます。本物の嵐が来るまで長期間待って執念で撮影したものですが、文字通り命がけの撮影だったと言われています。現在のCG技術では表現できない自然の猛威に目をくぎ付けにされます。対イギリス戦のためにドイツ軍から密かに入手した武器弾薬が大波にさらわれそうになり、それを村人たちが嵐の中で命の危険を顧みずに拾い集める場面は圧巻です。まさに村人たちにとっての独立戦争です。

ロバート・ミッチャムBy Bjørn FjørtoftNational Archives of Norway, CC BY 4.0, Link
サラ・マイルズBy Merlin EnergyOwn work, CC BY-SA 3.0, Link
トレバー・ハワードBy Allan warrenOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

 登場人物たちにもそれぞれ陰影のある個性が付されており、奥深い人間ドラマが展開します。出演者にはイギリス人が多くを占めていますが、チャールズ役のロバート・ミッチャムはアメリカのスターです。独特のもの哀しげな表情で知られています。マリリン・モンローと共演した西部劇「帰らざる河」(1954年オットー・プレミンジャー監督)、狂気の伝道師を演じたサスペンス映画「狩人の夜」(1955年チャールズ・ロートン監督)など、がっしりとした体格でタフガイを演じることが多かったのですが、この作品では若い妻に愛を注ぐ穏やかで誠実な男を演じて演技派としての新境地を開拓しました。この作品の後には、レイモンド・チャンドラー原作の私立探偵フィリップ・マーローが活躍するシリーズ「さらば愛しき女よ」、「大いなる眠り」で主人公を演じ、さらに活躍の幅を広げています。
 主人公ロージーを演じたのはイギリス人のサラ・マイルズです。この作品が代表作になります。情熱的で、厳しい境遇に置かれても希望を失わない女性を演じてアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされました。不条理な世界を描いたサスペンス映画「欲望」(1966年ミケランジェロ・アントニオーニ監督、カンヌ映画祭パルムドール受賞)でも注目されました。
 コリンズ神父の存在感が圧倒的です。非常に厳格で正義感が溢れる頼もしい人物です。悩めるものには手を差し伸べますが、腹を立てれば殴りつける人間臭さも兼ね備えています。この人が画面に登場するだけで安心感をもたらします。演じたのはトレバー・ハワードです。抑制された説得力のある感情表現に定評があり、様々な役柄を演じています。本作と同じデヴィッド・リーン監督の「逢びき」(1945年)では道ならぬ恋に悩む医師を好演しています。
 マイケルという頭の弱い男が登場して狂言回しの役割を担っており、物語を展開するキーパーソンになっています。演じたのはジョン・ミルズです。この作品での印象深い演技でアカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。サーの称号をもつイギリスを代表する名優で、数々の名作に出演しています。

 映画に登場するディングル半島の浜辺や断崖などはアイルランドの中でも風光明媚な場所として知られています。半島の先端のスレア岬には「ライアンの娘 撮影の記念碑」が立っています。
 半島の沖合には世界遺産に指定されているスケリッグ・マイケルという無人島があります。この島は、スターウォーズ・シリーズの続三部作の第一作(全体のエピソード7)「スターウォーズ フォースの覚醒」の終幕でルーク・スカイウォーカーが隠遁しているジェダイ寺院の撮影が行われ、一躍有名になりました。

映画「ライアンの娘」に登場する学校By PhilcomanforterieOwn work, CC BY-SA 4.0, Link

 次作の「スターウォーズ 最後のジェダイ」の序盤で続三部作の主人公レイとルークが修行をする場面もこの島です。またこの映画にはディングル半島北岸のシビルヘッドの岬で撮影が行われており、新たな観光名所になりました。

 それでは独立の機運が盛り上がってからのアイルランドの歴史を見ていきましょう。

アイルランド独立記念碑

 シン=フェイン党のデ・ヴァレラらは、イギリスの議会の議席を得てもロンドンで開かれる議会に出席することを拒否します。そして1919年、アイルランド共和国の独立を宣言し、独自にアイルランド議会を設立します。デ=ヴァレラが大統領に就任し、シン・フェイン党の創設者であるアーサー・グリフィスとマイケル・コリンズも閣僚になります。しかしイギリスはこれを認めず、弾圧を強めます。
 マイケル・コリンズはIRB(アイルランド共和主義同盟)の残存メンバーや義勇兵からなるカトリック系の武装組織を組織します。これが「アイルランド共和軍(IRA)」です。IRAは本格的に戦闘を開始し、アイルランド独立戦争(1919~1921年)が始まります。IRAは、アイルランドの治安に当たっていたイギリスの武装警察である王立アイルランド警察隊(RIC)やイギリス軍に対してゲリラ戦を展開します。

 戦いが長期化して膠着状態となります。アイルランド側は疲弊し、イギリスでも戦争への批判が高まり、停戦交渉が行われます。アイルランド側はアーサー・グリフィスとマイケル・コリンズが代表となります。交渉は難航しますが、1921年12月、イギリス側の案をベースとして休戦条約であるイギリス=アイルランド条約(英愛条約)が締結されます。

アイルランドに帰還した英愛条約の交渉団

 アイルランドの南側26州は自治権が認められ、イギリス帝国内の自治領としての位置づけになります。独自の政府と議会をもち、駐留していたイギリス軍は撤退して独自にアイルランド国防軍を編成するなど、実質的には国家となります。しかし、あくまでイギリス帝国の一部です。イギリス国王に忠誠を誓い、形式的には国王の代理として総督が統治する形になるため、共和国としての独立という目的は達成できません。一方、プロテスタントが多い北アイルランド(アルスター地方)は南側と分離されてイギリス領にとどまります。この内容を受け入れることはアイルランド側が目指したものとは異なりますが、交渉に当たったマイケル・コリンズらは、長引く戦争を停止できること、将来の共和国としての独立に向けた第一歩になると考え、妥協して条約を締結しました。

 マイケル・コリンズらが締結してきた条約に対してアイルランド国内では賛否が分かれます。強い反対意見としては、アイルランド島全体ではなく北アイルランドが分離されたこと、共和国としての完全な独立ではなく大英帝国内にとどまることが批判されます。反対の中心となったのはデ=ヴァレラです。完全独立を主張するデ=ヴァレラ派と条約賛成派の対立が激化し、シン・フェイン党は分裂します。
 アイルランドの議会では条約に対して賛成64、反対57で、僅差ですが条約は承認されます。国民投票でも条約承認が上回り、条約は批准されます。これを受けて、1922年1月、アイルランド自由国が正式に成立します。北アイルランドの6州を除く26州により構成されます。これ以降、イギリスは「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」と称するようになります。

内戦で炎上するダブリンの裁判所

 しかしアイルランド内で条約に反対するグループは激しく反発し、1922年6月、ついに両派の間で戦闘が始まります。アイルランド内戦の勃発です。IRA(アイルランド共和軍)のメンバーの多くは新たに創設されたアイルランド自由国の国防軍に加わりますが、一部は反対勢力にまわりました。
 条約反対派はゲリラ戦を展開します。独立を目指して共に戦ってきた仲間同士で殺し合う悲惨な戦いになり、4000名とも言われる多くの犠牲者を生みました。これはイギリスと戦った独立戦争を上回る犠牲者の数です。

 1922年12月にはアイルランド自由国憲法が制定されます。二院制の議会を設置し、市民の基本的な権利を認める内容です。しかし、内戦の途中でアイルランド自由国のアーサー・グリフィスは病死し、マイケル・コリンズは殺害されます。
 北アイルランドは自由国から分離して連合王国(イギリス)の一部にとどまります。北アイルランドではアイルランド自由国とは逆にプロテスタントが多数を占め、少数のカトリックが差別を受けることになります。
 1923年5月、デ=ヴァレラら条約反対派の敗北で内戦は終結します。

 次にこの時代のアイルランドを舞台にした忘れがたい映画をもう一つご紹介します。

2006年イギリス・アイルランド・ドイツ・イタリア・スペイン合作映画
監督 ケン・ローチ
出演 キリアン・マーフィ、ポードリック・ディレーニー、リアム・カニンガム
カンヌ国際映画祭パルムドール受賞

 アイルランド南部のコークという町で暮らす兄テッド(ポードリック・ディレーニー)と弟ダミアン(キリアン・マーフィ)のドノヴァン兄弟の物語です。アイルランド独立戦争が始まり、独立を求める動きが地方でも活発になっています。兄テッドは独立運動の中心となるIRAに属し、組織の中で頭角を現しています。弟ダミアンはロンドンで医師として就職することが決まっています。
 ダミアンをはじめ若者たちがハーリングというアイルランド伝統のスポーツを楽しんでいると、イギリスの武装警察ブラック・アンド・タンズが現れ、禁止されている集会を開いたとして咎めます。若者たちは厳しく追及され、その一人が英語で自分の名前を言わないというだけで命を奪われます。
 ダミアンがロンドンに向かう出発の日、駅でイギリス軍の兵士によりアイルランド人に対する理不尽な蛮行が繰り広げられるのを目にします。しかしそれにひるまない運転士ダン(リアム・カニンガム)の存在にダミアンは心を動かされます。ダミアンはイギリスの植民地から脱却するために戦うことが己の使命だと考え、列車に乗るのを止めます。そして故郷に残り、兄と共にIRAに参加します。
 ダミアンたちは独立の理想に燃えて軍事訓練を重ね、闘争にのめり込んでいきます。やがてイギリス兵の暗殺もためらわない闘士になります。ある時、ダミアンたちはイギリス軍に捕らえられ、そこで運転士のダンと再会します。リーダーのテッドは拷問を受けますが屈しません。その後ダミアンたちは脱走に成功します。
 IRAの戦いは苛烈を極めていきます。一方、イギリス軍はダミアンの幼馴染のクリスという若者に目を付けます。クリスが働いている農園の農園主はイギリス軍に通じており、イギリス軍は農園主とクリスに圧力をかけて、ダミアンたちの活動の状況を密告させます。

 イギリスの名匠ケン・ローチ監督によるカンヌ国際映画祭パルムドール受賞作です。独立戦争とその後の内戦を背景に、アイルランドの人々の独立への思いと、歴史に翻弄される兄弟の愛憎の物語がアイルランド伝統の名曲にのせて綴られます。深い感動を呼ぶ骨太のドラマです。
 映画「ライアンの娘」は1916年のイースター蜂起の直後の物語でした。その後、独立に向けた機運はさらに高まります。1918年11月に第一次世界大戦は終戦を迎えますが、翌1919年1月にアイルランドは共和国を宣言し、独立戦争が勃発します。映画「麦の穂をゆらす風」はその翌年1920年の物語です。
 首都ダブリンなどの政治の中心地ではなく、地方での戦いが描かれます。IRAの戦士だけでなく、家族や女性たちにも光を当てて物語が展開します。普通の若者が自由と独立を求めて戦う闘士になるのに伴い、田舎で平凡に暮らす人々が戦いに巻き込まれて疲弊していきます。名もなき庶民の視点で激動の時代の移り変わりを冷徹に見つめます。
 アイルランドの豊かな自然が印象的です。「ライアンの娘」の海辺の風景とは違う緑豊かな山間の風景がふんだんに見られます。独立を求める人々の思いや内戦の虚しさなど、すべてを包み込むようなアイルランドの山々の美しさが心に残ります。

 映画の前半ではIRAとイギリス側の苛烈な戦いを描きます。ブラック・アンド・タンズやイギリス軍兵士の横暴さ、非道ぶりがリアルに描かれます。その一方でアイルランドの側もIRAの規律は厳格で、身内の密告者などへの処罰は過酷です。
 映画の後半、アイルランド側が分裂し始めてからはさらに事態は深刻になります。アイルランドの人々は理想と現実のはざまで悩むことになります。その問いは映画を観る者にも投げかけられます。
 主人公ダミアンの兄テディは現実を冷静に見据えます。イギリスとの戦いの途中では、武器調達の資金を得るために有罪判決を受けた高利貸しの拘束を解きます。停戦交渉後は、代表団が締結して来た妥協案を一歩前進ととらえて受け入れます。しかし、ダミアンをはじめ高い理想を掲げてあくまで戦い抜こうとする人たちもいます。
 映画の中でも激しい議論が戦わされます。イギリスとの厳しい交渉で妥協せざるを得なかったマイケル・コリンズらの代表団に対して、「マイケル・コリンズは裏切り者だ」「いや英雄だ」などの声が飛び交います。「1916年を忘れたのか?」との声もあります。イースター蜂起後に処刑された人たちの無念に思いを馳せているのでしょう。
 そして一枚岩だったアイルランドの人々に深い亀裂が入り、同胞同士が戦う内戦に突入するのを止めることができません。共にイギリスと戦ってきた仲間同士が戦います。祖国の独立のために戦ってきたのに、気が付くと信頼し合った者同士が殺し合う事態になっています。何のための戦いだったのか、そのやりきれなさが胸に迫ります。内戦という無益な戦いの悲惨さ、救いのなさが痛切です。

 映画は歴史の流れをそのまま伝えています。静かに淡々とした語り口ですが観る者に強烈に訴えます。医師になる道を止めて戦いに身を投じたダミアンが血を吐くようにつぶやく言葉が、観る者の心に突き刺さります。

 「そこまでする価値のある戦いだろうか?」

 また、命を落とした仲間が残した言葉が切実です。

「誰と戦うかはすぐにわかる。何のために戦うのかは容易にはわからない。」

 イギリスの支配を脱してもアイルランド人の血は流れ、人々の貧しさは変わらないことにダミアンは心を痛めます。

「アイルランド人が豊かになるにはアメリカに移住するしかないのか?」

 映画のタイトル「The Wind That Shakes the Barley」はアイルランドの伝統的な歌の名前に由来しています。もともとはロバート・ドワイヤー・ジョイスというアイルランドの詩人による詩の一節だそうです。これは1798年のユナイテッド・アイリッシュメンの反乱に加わって命を落とした若者たちを悼む詩です。それがイギリスへの抵抗の象徴となって歌い継がれたものです。700年にわたりイギリスに支配されてきた辛苦の道のりの中で、いつも変わらずそよ風が吹いて麦の穂を揺らす様を歌っています。映画の中では序盤のブラック・アンド・タンズによって命を奪われた若者を弔う場で歌われます。一部を抜粋します。

 While the soft wind blew down the glade And shook the golden barley

 柔らかい風が渓谷を吹き抜け、金色の大麦を揺らしていた。

 監督のケン・ローチはイギリス人ですが、アイルランド独立戦争をアイルランド人の視線で描きました。長年にわたりアイルランドを支配してきたというイギリスの歴史の暗い面から目をそらさずに正面から直視する渾身の力作です。映画の製作にもイギリスが加わっています。公開後は描き方に公平性を欠くという批判があったものの、イギリス国内でもおおむね好評だったようです。この作品がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したことによって、あらためてアイルランドの苦難の歴史が世界で注目を浴びることになりました。
 ケン・ローチ監督は、労働者階級や貧困層など社会の底辺で虐げられて生きる人々に焦点をあてた作品を作り続けています。1995年にスペイン内戦を舞台とした「大地と自由」でカンヌ映画祭の国際批評家賞を受賞しています。「麦の穂をゆらす風」の10年後の2016年には「わたしは、ダニエル・ブレイク」で再びカンヌ映画祭のパルムドールを受賞しています。イギリスの格差や貧困の実態をリアルに描き、保険制度などの社会問題にも鋭く踏み込んだ作品です。

ケン・ローチ監督
By Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Link
キリアン・マーフィ
By Mirka at English Wikipedia, CC BY-SA 3.0, Link

 主演のキリアン・マーフィは、清新な存在感をもったアイルランド共和国出身の俳優です。透明な青い目とクールなたたずまいが印象的です。故国の歴史に取り組んだこの作品では、普通の青年が激動の時代に運命を狂わされながらも誠実にかつ情熱をもって生き抜こうとする様を熱演しています。この作品の前年には、同じくアイルランド人のニール・ジョーダン監督のコメディ「プルートで朝食を」で性同一性障害の役を演じて話題になりました。この作品の後にはヒット作品を連発するクリストファー・ノーラン監督作品の常連となり、同監督の「オッペンハイマー」(2023年)では主役を演じてアカデミー賞の主演男優賞を受賞しました。アイルランド人として同賞の初めての受賞であり、授賞式のスビーチではアイルランド人としての誇りについて語っています。

 1910~1920年代の独立戦争の前後の時期は、アイルランドの人々にとって忘れられない時代です。この時代を舞台とした映画は他にも作られていますので、いくつかご紹介します。

①映画「マイケル・コリンズ」の概要

1996年イギリス・アイルランド・アメリカ合作映画
監督 ニール・ジョーダン
出演 リーアム・ニーソン、アラン・リックマン、ジュリア・ロバーツ、エイダン・クイン
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞

②映画「マイケル・コリンズ」のあらすじ(ネタバレ無し)

 1916年、イギリスからの独立を目指したイースター蜂起の最中、蜂起した勢力がダブリンの中央郵便局でイギリス軍と交戦している場面から物語は始まります。蜂起はイギリス軍に鎮圧されて失敗に終わり、首謀者たちは銃殺されます。
 蜂起に加わったマイケル・コリンズ(リーアム・ニーソン)とエイモン・デ・ヴァレラ(アラン・リックマン)も捕らえられますが、釈放されます。マイケル・コリンズは親友で同志のハリー・ホランド(エイダン・クイン)らと独立に向けた活動を再開します。街頭での演説では多くの聴衆の心を動かします。警察に殴られて頭に怪我をしたマイケルは、キティ・キアーナン(ジュリア・ロバーツ)という女性の手当を受けます。マイケルとハリーはキティに惹かれるようになります。
 マイケルはIRAを組織して警察の武器庫を襲撃するなどリーダーとしての存在感を増していきます。ダブリン市警察のブロイという男がマイケルの演説に魅了されたことからこの男を協力者にすることに成功し、イギリス側の情報を得て情報戦を展開します。デ・ヴァレラはイギリス側に捕らえられますが、コリンズは脱獄させることに成功します。
 マイケルはIRAを使ってイギリス側のスパイを暗殺するなど活動を過激化させますが、イギリスもリームズという男が率いる冷酷無比のブラック・アンド・タンズを送り込んできます。

③映画「マイケル・コリンズ」のあれこれ

 アイルランドの独立に向けて最も激しい戦いが展開された時代です。映画「麦の穂をゆらす風」とほぼ同じ時期のアイルランドを舞台としていますが、「麦の穂をゆらす風」がIRAの無名の闘士や庶民の物語であるのに対し、映画「マイケル・コリンズ」は実在したIRAのカリスマ的リーダーの目を通して描いています。主人公が独立運動の指導者の一人ですので、政治的な展開が直接的に描かれています。若干の修正を加えてはいますがおおむね史実に基づいており、歴史の流れを大づかみに把握するのには非常にわかりやすい作品です。

 マイケル・コリンズは後に祖国の英雄とされる人物です。コリンズの活動の出発点となる1916年のイースター蜂起から内戦で命を落とすまでの波乱に満ちた生涯をつづった歴史映画ですが、スピーディーな展開でサスペンス映画としても楽しめます。キティとのロマンスも盛り込んで観客を飽きさせないよう工夫しています。

イースター蜂起を描いた絵画(ウォルター・パジェット)

 マイケル・コリンズという人物は軍事指導者ですが、都市でのゲリラ戦や情報戦を得意とし、暗殺などの過激なテロリズムも厭いません。政治家としてイギリスとの交渉の場にも臨むことになります。そのような様々な側面がバランスよく描かれており、警察内部の情報を引き出す場面やイギリス側の要人の暗殺を行う場面などは、スパイ映画や犯罪映画を思わせるものがあります。
 戦闘シーンや街頭での演説の場面などは迫力があります。

 監督のニール・ジョーダンはアイルランド共和国出身で、アイルランドの歴史や文化を反映した作品を作り続けています。この作品でも祖国への熱い思いが画面に満ちています。この映画の時代の約70年後の北アイルランド紛争を題材にした「クライング・ゲーム」(1992年)でアカデミー賞の脚本賞を受賞しています。

マイケル・コリンズ

 主人公コリンズを演じたのは、北アイルランド出身のリーアム・ニーソンです。コリンズの信念と情熱、一方では優しさ、さらには終盤の内戦に突入してからの孤独と苦悩を巧みに表現しています。ニーソンは、ナチス・ドイツによる虐殺から多くのユダヤ人の命を救った実在のドイツ人実業家を描いた「シンドラーのリスト」(1993年スティーブン・スピルバーグ監督)で主人公オスカー・シンドラーを演じて注目を浴びました。

マイケル・コリンズを演じたリーアム・ニーソン
By Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Link

 ニーソンは、その後も多くの作品で主役を演じていますが、1998年には「スターウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」でジェダイ・マスターのクワイ・ガン・ジンを演じて人気を博しました。
 この映画で興味深いのはコリンズの同志でありながら対立することになるデ・ヴァレラの存在です。

エイモン・デ・ヴァレラ

 実在のデ・ヴァレラは、後にアイルランド共和国の首相や大統領を長く務めて独立後の国家の形成に大きく貢献した人物ですが、この映画では主人公コリンズとの対比が強調されています。コリンズの誠実さや高潔さに対し、デ・ヴァレラは政治家としての多面性や策謀家として得体のしれない面が際立たされています。この役を演じたアラン・リックマンが独特のエキセントリックな雰囲気を漂わせて、この人物の複雑なパーソナリティを表現しています。

エイモン・デ・ヴァレラを演じたアラン・リックマンBy David Shankbone – Own work, CC BY-SA 3.0, Link

 リックマンはイギリスの俳優で、アクション映画の金字塔「ダイ・ハード」(1988年ジョン・マクティアナン監督)でブルース・ウィルスが演じた主人公と対峙するテロリスト集団のリーダーを演じて一躍有名になりました。一度見ると忘れられない個性的なオーラを放ち様々な役を演じていますが、2001年から始まった「ハリーポッター」シリーズでホグワーツ魔法魔術学校の教師セルブス・スネイプ役で人気は不動のものとなりました。
 また、主人公マイケルと親友ハリーの二人の男性の間で揺れる女性キティ役でジュリア・ロバーツが出演しています。1990年の「プリティ・ウーマン」(ゲイリー・マーシャル監督)でブレイクしてハリウッドのトップスターになりました。2000年の「エリン・ブロコビッチ」(スティーヴン・ソダーバーグ監督)でアカデミー賞の主演女優賞を受賞しています。

ジュリア・ロバーツ

 映画史上の名監督として名高いジョン・フオード監督はアイルランド系アメリカ人です。自身のルーツであるアイルランドを舞台にした作品も撮っています。

①映画「男の敵」の概要

1935年アメリカ映画
監督 ジョン・フオード
出演 ヴィクター・マクラグレン、マーゴット・グレアム、プレストン・フォスター
アカデミー賞4部門(監督賞、主演男優賞、脚色賞、作曲賞)受賞

②映画「男の敵」のあらすじ(ネタバレ無し)

映画「男の敵」劇場公開ポスター

 1922年3月、アイルランドの首都ダブリンの霧の夜です。ジポ・ノーラン(ヴィクター・マクラグレン)はIRAのメンバーでしたが、組織に命じられた処刑役を拒否したために追放され、仕事もなく困窮しています。 ジポはIRAの同志で友人であったフランキーが警察から指名手配され、懸賞金がかかっていることをポスターで知ります。
 ジポの恋人ケイティ(マーゴット・グラハム)は、金を蓄えてジポと二人でアメリカに渡って新生活を始めることを夢見ています。ジポは、懸賞金20ポンドを目当てに同志のフランキーの居場所を警察に売ってしまいます。その結果、逃亡しようとしたフランキーは警察に射殺されます。
 IRAの隊長ダン(プレストン・フォスター)は、仲間を売った行為は組織に対する裏切りであるとして重視し、密告者を見つけ出すよう指示します。
 一方、懸賞金20ポンドを得たジポは酒場で派手に飲み始め、他の客にも酒を振舞います。

③映画「男の敵」のあれこれ

 この物語は1922年3月で、1921年12月に英愛条約が締結されて独立戦争が終結してから3カ月後です。条約への賛否をめぐって激しい議論が戦わされていた時期です。この年の4月にイギリスの王立アイルランド警察隊は解散、6月に内戦の戦闘が始まりますので、その直前の時期になります。

  濃い霧が立ち込めています。独立戦争が終わったものの国の行く末が混沌としている情勢や、長年のイギリスの支配で貧困にあえいでいる社会の状況を象徴しているようです。
 一夜の逃亡劇を緻密な展開で描いた緊迫感のある作品です。フィルムノワールの雰囲気を漂わせつつ、静かな力強さを秘めています。音楽も物語の展開を盛り立てており、何度か流れるアイルランドの民謡が印象的です。
 映画の冒頭でユダに関する聖書の一節が字幕で紹介され、裏切りの物語であることを示唆しています。

映画「男の敵」の一場面

 ジョン・フオード監督はアイルランドからの移民の子として生まれました。50年以上にわたり140本以上の作品の監督をしており、アカデミー賞の監督賞を史上最多の4回受賞しています。この作品が最初の受賞でした。広大な自然を背景にした西部劇を多数撮っており、西部劇の神様と呼ばれます。社会問題を取り扱った作品や冒険活劇など様々なジャンルの作品を残しています。いずれも普遍的なテーマを深く掘り下げた人間ドラマであり、作品に共通するのは人間のもつ倫理や道義への信頼感です。この作品では主人公は怪力ではありますが、短慮で衝動的に行動します。深く考えないままに仲間を売ってしまい、得た金も無計画に遣ってしまいます。主人公の弱さ、愚かさを赤裸々に描きつつ、それでも温かい眼差しで見つめています。
 ジョン・フォード監督は自身がアイルランド系であることに強いこだわりをもっていました。4回目の監督賞の受賞作である「静かなる男」(1952年)もアイルランドへの思いがこもった映画です。牧歌的な風景を背景に、アイルランドの素朴な人々を活き活きと描いています。

ヴィクター・マクラグレンとマーゴット・グレアム

 主演のヴィクター・マクラグレンはイギリスの俳優です。主人公の浅はかな虚栄心や徐々に追い込まれていく様を鬼気迫る演技で表現しています。観ていて切なくなるほどの名演でアカデミー賞を受賞しました。この作品では主演でしたが、後は名脇役として活躍しています。ジョン・フオード監督作品の常連となり、「黄色いリボン」(1949年)、「リオ・グランデの砦」(1950年)、「静かなる男」などで忘れがたい存在感を示しています。
 恋人役のマーゴット・グレアムは1930年代のイギリスの人気女優で、この作品の他では1935年の「三銃士」(ローランド・V・リー監督)が知られています。