「ペーパー・ムーン」と「プレイス・イン・ザ・ハート」

アメリカ
綿花畑(映画「プレイス・イン・ザ・ハート」の舞台)

 第一次世界大戦後、アメリカは世界一の経済大国となり、1920年代には空前の繁栄の時代を迎えます。しかし、永遠に続くと思われたこの繁栄は、1929年に勃発した大恐慌により一変します。企業の倒産が相次ぎ、街は失業者であふれます。人々は出口の見えない苦境にあえぎます。アメリカの人々は未曽有の出来事に直面し、どの様に生きるかという根源的な問いを突きつけられました。この苦難の時代にたくさんの名もなき人々が互いに助け合って生きる道を選びました。その様な人々を描いた二本の映画をご紹介します。

 アメリカの1920年代は、「狂騒(狂乱)の20年代」と呼ばれます。この時期のアメリカの社会や文化の華やかさや力強さを強調する言葉です。
 第一次大戦後、民主党のウィルソン大統領は国際連盟の創設を含む十四か条の平和原則を公表し、戦後世界の新しい国際秩序の形成を主導しました。国際連盟は集団安全保障により平和を維持する画期的な構想でしたが、共和党が多数を占めるアメリカ議会は孤立主義を守ろうとしたため、アメリカは国際連盟に参加しませんでした。第一次世界大戦中、アメリカはイギリスなどの連合国に対して物資や資金(戦債)を提供しており、債務国から債権国に転じます。大戦で消耗したヨーロッパの地位は低下し、アメリカが世界一の経済大国となります。国際社会に大きな影響力をもち、国際協調と軍縮を主導しました。
 1920年代の三人の大統領はいずれも共和党です。一人目のハーディング大統領(1921年~)は、「常態(平和)への復帰」を掲げて当選しました。ワシントン会議を主導してアジア・太平洋地域の国際秩序を確立し、経済面では自由放任政策を採りました。二人目のクーリッジ大統領(1923年~)はハーディング大統領の死後就任し、自由放任政策を継承しました。国際紛争を平和的手段により解決することを規定したケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)がこの時期に締結されました。ケロッグはアメリカの国務大臣、ブリアンはフランスの外務大臣です。三人目のフーヴァー大統領(1929年~)も「永遠の繁栄」を謳歌するかに見えましたが、当選直後に世界恐慌が始まりました。

 1920年代、アメリカは空前の好景気に沸きます。国際金融市場の中心はロンドンのシティからニューヨークのウォール街に移りました。科学技術が発達し、著しい経済成長を続けて輸出を拡大しました。特に製造業の成長が顕著で、イギリスに代わり世界の工場となりました。中でも自動車産業においてはベルトコンベアによる流れ作業という方式が開発され、フォードのT型モデルが大量生産されました。価格も低下し、一般大衆に自動車が普及しました。化学工業やエネルギー産業も急成長し、石油は増産を続けました。

ニューヨーク(1926年)

 消費者の需要も増大して大量消費の時代となりました。月賦販売制度等の商慣行も普及し、デパート等の現代的な小売店が現れました。家庭の電化が進み、洗濯機や冷蔵庫など新しい耐久消費財が登場しました。生活様式が大きく変化し、大衆は物質的な豊かさを経験しました。
 第一次世界大戦への反動でしょうか、大衆娯楽が発達し、この時代は商業化された大衆文化の先駆けとなりました。その象徴がラジオです。誰でも購入できるようになり、新聞とともに大衆向けメディアとして発達しました。また、ラジオの普及によりジャズ・ミュージックの人気が広がりました。ルイ・アームストロングの洗練された演奏等が人気を呼び、この時代は「ジャズ・エイジ」とも呼ばれました。 

世界初のトーキー映画「ジャズシンガー」のポスター

 ハリウッド映画も新たな娯楽として発達しました。1922年には最初の総天然色映画「恋の睡蓮」が公開され、1927年には音声の入った初めての映画「ジャズ・シンガー」が公開されました。大衆はトーキー(映像と音声が同期した映画)に熱狂し、次の1930年代からは「映画の黄金時代」が始まります。
 スポーツの人気も高まり、野球のベーブ・ルースらがニューヨーク・ヤンキースの黄金時代を築きました。
 都市化が進み、ニューヨークでは摩天楼の建設が本格化しました。クライスラービル(1930年完成)、エンパイアステートビル(1931年完成)が相次いで世界一の高さを誇りました。 

クライスラービル

 大恐慌が起きた背景には様々な要因があったと言われています。
 第一に企業の生産過剰がありました。1920年代の好景気、そして大量消費の時代の到来により様々な製品の需要が高まりました。大衆が手軽に株等を売買できる時代になったことから、企業は資金の調達が容易になり、設備投資を続けて生産を増やしました。しかし、ヨーロッパ各国が復興し、ヨーロッパや日本からの輸出が増加するとアメリカの輸出に陰りが出ます。アメリカは生産過剰に陥り、商品は飽和状態になります。
 第二は農業不況です。アメリカでは第一次世界大戦中、大戦後に食糧需要が増加して農産物の価格が上がったため、農産物の増産が続きました。その結果、農産物についても生産過剰になります。さらにヨーロッパで農業が復興して自給自足を図るようになると、アメリカの農産物の価格が低下し、農家の収入が減少して購買力が低下します。
 第三に、当時はアメリカをはじめ各国が自国の産業の保護のために高い関税をかける保護貿易政策を採っていました。このため国際貿易は低迷します。また、ヨーロッパ諸国の戦災からの復興、社会主義国であるソ連の成立等によりアメリカの国外市場は縮小します。
 このようにアメリカの経済的繁栄の陰では、国内の購買力が低下し市場が縮小するにもかかわらず過剰生産が続くという需要と供給のアンバランスが生じます。しかし株価や地価は高騰を続けました。その背景には繁栄するアメリカに世界各地から余剰資金が流入したことと、アメリカ国内では異常な投機熱が広がっており、好景気に浮かれた大衆が経済の実情に十分な注意を払わずに株や土地の売買を続けたことがありました。

 株価は1929年の9月に最高値を記録しますが、一部の投資家はアメリカ経済の実態と株価の間に乖離があることに気づき、先行きに不安を覚え始めます。株が値下がりする前に売却して資金を回収しようという心理が働き、株価はじわじわと下がり始めます。そして10月24日、「暗黒の木曜日」を迎えます。ウォール街のニューヨーク株式市場では株の売りが殺到し、株価が一斉に大暴落します。

ダウ(アメリカの代表的な業種の銘柄)平均株価の指数の推移

 株価の暴落により企業は市場からの資金の調達が困難になり、企業の倒産が起きます。1920年代の好景気を支えた工業生産は急激に落ち込みます。また、株を所有していた人々の資産価値は大きく減少し、消費は急速に減退します。これにより企業の収益はさらに悪化します。企業は労働者の解雇や賃下げを行います。人々は消費を控えてますます商品が売れなくなり、生産が縮小するという悪循環に陥ります。

破綻した銀行に殺到する群衆(1931年)

 収入の減った人々は生活費を賄うために銀行から預金を引き出そうとします。預金者が殺到した銀行は営業停止に追い込まれます。銀行から融資が受けられなくなった企業の倒産が相次ぎます。農産物の価格が下がった農家も困窮し、購買力はさらに低下します。

 これらの連鎖反応により生じた極度の景気後退が「大恐慌」と言われています。大都市は失業者であふれかえり、失業者のデモが頻発します。浮浪者や犯罪者も増加して社会不安が蔓延します。
 こうして「永遠の繁栄」と言われた1920年代は大恐慌の勃発で幕を閉じました。

 この時の大統領は共和党のフーヴァーです。共和党政権はもともと「政府は経済には極力介入すべきではない」という自由放任政策を採っていました。資本主義の経済サイクルにおいては、数年に一回程度は周期的に不況が生じていましたが自然に回復しており、フーヴァーはこの時の恐慌も資本主義の自然回復力によりいずれ解決すると考え、抜本的な対策を講じようとはしません。これが恐慌の深刻化を招きました。
 フーヴァーの講じた数少ない対策の一つとして、国内産業の保護のために関税率をさらに引き上げました。提唱者の名前から「スムート=ホーリー関税法」と呼ばれている政策ですが、他国も高関税政策を採るようになり、結果的に恐慌を悪化させる方向に寄与しました。
 フーヴァーはアメリカの恐慌が世界各国に波及することを食い止めようとはしました。第一次世界大戦後、敗戦国のドイツから戦勝国のイギリス、フランス等へ賠償金を支払い、イギリス等からアメリカへ戦債(大戦中に生じた債務)の返済をしていましたが、これらの支払いを一年間猶予しました(フーヴァー・モラトリアム)。しかし、その時点で既に恐慌はヨーロッパに波及しており、手遅れでほとんど効果がありませんでした。

 恐慌はさらに深刻化します。1929年に3.2%だったアメリカの失業率は1930年に8.7%、1931年に15.9%と上昇し、1933年には25%にまで上がります。

 恐慌に対する効果的な政策を講じず、明るい展望を国民に示すことのできなかったフーヴァー大統領に対する国民の失望は深まります。

1910-60年のアメリカの失業率、世界恐慌(1929-39年)の年をハイライト表示 Pharexiaftp://ftp.bls.gov/pub/special.requests/lf/aat1.txt, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 この様な状況の中でフランクリン=ローズベルト大統領が登場することになります。

 1932年の大統領選挙が重要なターニングポイントになりました。民主党のフランクリン=ローズベルトが現職である共和党のフーヴァーに圧勝します。ローズベルトは、選挙戦では「救済(relief)」 、「回復(recovery)」及び「改革(reform)」の3つのRを綱領としました。

フランクリン・ローズベルト(1930年代初頭)

 大統領に就任後は、経済の再建と失業者の救済を大目標に掲げ、「ニューディール政策」と呼ばれる恐慌対策を打ち出します。ニューディールとは「新規まき直し」という意味です。いくつもの法律が次々と制定されます。
 ニューディール政策の基本的な考え方は、国家が経済と社会に介入し、積極的に経済を動かそうというものです。まず1933年に農民の困窮を救済するために「農業調整法(AAA)」を制定します。これは政府が主要な農作物の生産量を制限して、見返りとして補助金を支払います。過剰な農産物は政府が買い上げ、農産物の価格を安定させます。これによって農家の収入を確保し、農民の購買力を高めようとするものです。

 同年には「全国産業復興法(NIRA)」も制定します。これは企業の生産活動に政府が介入して過剰生産を抑制し、価格と賃金を安定させようとするものです。産業ごとの同業者団体の形成を進め、生産量や価格は協定によって定めます。あわせて労働者の労働時間の短縮、賃金の引上げなど労働者の保護に関する条項も盛り込まれています。いずれも国民生活の安定と購買力の増強を目的としたものです。
 1933年には金本位制からの離脱を決めています。金本位制とは、各国が保有する金の量に応じて通貨を発行し、通貨と金が交換できることを保証する制度で、当時多くの資本主義国で採用されていました。イギリスは恐慌の発生後、自国の金の流失を防ぐために1931年に金本位制から離脱していますが、アメリカも恐慌が長引き銀行の倒産が増加するなど金融不安が広がっているのを受けて、金本位制から離脱しました。 

 ニューディール政策の大きな柱の一つに「テネシー川流域総合開発公社(TVA)」という国有企業の設立があります。これは多くのダムと水力発電所の建設や洪水対策などにより流域を総合的に開発する大規模公共事業です。建設事業の実施によって雇用を創出して失業者を救済するとともに、電力の供給を安定化させて農業の近代化や地域産業の振興を目指す経済開発プロジェクトです。

TVAによって建設された最初の水力発電ダムの現場での作業員

 アメリカはそれまで民間の自由な経済活動を尊重していました。資本主義の原則に則った自由放任主義です。フーヴァー大統領は恐慌が発生してもこの原則を固守しました。しかし恐慌の発生から4年経過しても一向に回復しないため、ローズベルト大統領はあくまで資本主義の基本的な枠組みの中で、市場経済に一定の関与をします。民間の経済活動に政府が強力に介入することによって恐慌からの回復を図りました。
 この考え方を理論化したのがイギリスの経済学者であるケインズです。1936年に有名な「雇用・利子・貨幣の一般理論」を発表し、政府の財政政策によって有効需要を拡大することの有効性を理論的に整理しました。

炉辺談話をするローズベルト大統領(1934年)

 ローズベルトの新しい取り組みとしてもう一つ重要なものが「炉辺談話」です。1920年代に国民に広く普及したラジオ放送を積極的に活用し、大統領が政策について国民に直接訴えるスタイルを導入しました。長引く恐慌により国全体が不安に包まれるなか、リーダーである大統領が自身の言葉で国民に語りかけることによって不安を解消し、国民に希望をもたせて勇気づけようとしました。これが功を奏して国民から大統領への激励の手紙も多く届きました。

 ローズベルト大統領の打ち出す政策についてアメリカの議会はこれを支持しましたが、大きな制約となったのが連邦最高裁判所です。全国産業復興法(NIRA)について、経済活動における公正な競争を阻害するものとするなど、いくつかの法律が憲法違反であるとする判決を下します。しかしローズベルトはあきらめません。違憲とされた法律の重要部分を別の法律として成立させます。全国産業復興法(NIRA)のうち、労働者の権利の保護に関する条項を独立させて制定したのが1935年の「ワグナー法」です。労働者の団結権や団体交渉権を定めたものです。さらに、失業保険、老齢年金などの社会保険や生活保護などの公的扶助の制度を整備する「社会保障法」も制定しています。
 これを受けて労働組合の組織化が進みます。従来から熟練労働者を対象としたAFL(アメリカ労働総同盟)がありましたが、急激に増加する未熟練労働者が中心となる産業別の組合が生まれ、その全国組織であるCIO(産業別組合会議)が新たに結成されます。
 恐慌から回復するために外交方針も大きく転換します。市場を確保して貿易を拡大するために対外的な融和政策を採ります。ロシア革命で成立したソ連については、各国が承認していくなかでアメリカは承認していませんでしたが1933年に承認します。アメリカの製品の市場の確保のためです。
 ラテンアメリカに対しては、20世紀初頭のセオドア・ローズベルト大統領以来高圧的な態度をとっていました。棍棒外交と言われる外交政策です。フランクリン・ローズベルト大統領はラテンアメリカ諸国に対する内政干渉を止め、協調的な外交に転じます。アメリカの経済圏の拡大を狙ったものです。代表的な例がキューバのプラット条項(アメリカの介入権を認めたキューバ憲法の規定)を廃止して完全独立を認めたことです。

 ニューディール政策はそれまでの伝統的な政策を大きく転換する革新的な政策であり、これによりアメリカの経済はある程度の回復を見せます。失業率は1937年には14.3%まで回復します。通常アメリカの大恐慌時代は1936年ごろまで続いたと言われているようです。しかしアメリカの経済が完全に回復したわけではなく、失業率の回復も頭打ちになります。さらに1930年代の後半には再び危機的状況に陥ります。結局、アメリカ経済の実質的な回復は、第二次世界大戦による軍需景気まで待つことになります。
 ニューディール政策は期待されたほどの成果をもたらしたわけではありませんでしたが、政府の懸命な取り組みは国民に伝わり、政府に対する信頼感が醸成されました。それもあってフランクリン・ローズベルトは4回も大統領選で当選することになります。(4期目は就任後4カ月で大統領が死去しています。)

 アメリカで発生した大恐慌は各国に波及して世界恐慌となっています。

 第一次世界大戦後、ヨーロッパをはじめ世界の多くの国がアメリカの経済に依存していました。ウォール街は国際金融の中心でもありました。アメリカ経済が破綻して各国から資本を引き上げることにより、経済の混乱が資本主義社会のほぼ全域に広がり、各国の工業生産は激減します。各国の政府は自国の経済の再建に必死で取り組みますが、混乱の状況や対応の内容は国によって大きく異なります。

 19世紀以来、帝国主義国として先行するイギリスやフランスなどは、広大な植民地を領有して市場が確保できます。この様な「持てる国」は、高関税による経済ブロックを形成して自国の産業と通貨の保護を図ります。イギリスの場合は、1931年のウェストミンスター憲章によりイギリス本国、自治領、植民地等からなるイギリス連邦を成立させます。イギリス連邦の内側では関税を撤廃する一方、連邦の外からの商品には非常に高い関税をかけるという極端な保護貿易政策を採ります。これはスターリング・ブロックと呼ばれています。

ロンドンの救貧院の前にいる失業者たち(1930年) By Bundesarchiv, Bild 102-10246 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

 フランスでは同様のフラン・ブロック、アメリカはドル・ブロックを形成しました。このため世界全体で貿易額が減少して世界恐慌はさらに悪化しました。
 一方、後発の帝国主義国であるドイツやイタリアでは事情が大きく異なります。植民地を広く領有しているわけではありません。これらの「持たざる国」、特に第一次世界大戦で敗れて巨額の賠償金を課せられたドイツは、アメリカからの援助で経済がまわっていたため、アメリカからの融資が途絶えることにより甚大な影響を被りました。経済の混乱は社会不安を招き、その結果、現状打破を訴えるナチ党政権が誕生し、軍備を増強して領土の拡大を図ることになります。
 インドやラテンアメリカ諸国など帝国主義国に従属していた国々も大きな影響を受けました。これらの国々は農産物の輸出で経済が成り立っていたため、農産物の価格の下落で深刻な打撃を受けました。
 国際社会でも1933年6月のロンドン世界経済会議など多くの試みがなされましたが、各国が自国の経済の再建を優先したために十分な協調体制は構築されませんでした。各国が恐慌への対策を模索するなかで排他的な保護貿易政策を講じたことが各国間の対立を深め、第二次世界大戦を引き起こす大きな要因の一つとなりました。この反省を踏まえて第二次世界大戦後には、IMF(国際通貨基金)やGATT(関税と貿易に関する一般協定)を中心としたプレトンウッズ体制と呼ばれる自由貿易体制が構築されました。

 それではアメリカの大恐慌時代を舞台とした映画をご紹介します。まず、心温まるロードムービーとして名高い「ペーパー・ムーン」です。詐欺師の男と9歳の少女が一緒に旅をします。ライアン・オニールが実の娘であるテータムと共演し、テータムが史上最年少でアカデミー賞を受賞して話題になりました。

1973年アメリカ映画
監督 ピーター・ボクダノヴィッチ
出演 ライアン・オニール、テータム・オニール、マデリン・カーン
アカデミー賞 助演女優賞受賞

 大恐慌期の1936年、アメリカの南西部のカンザス州ゴーハムという町です。9歳のアディ(テータム・オニール)という少女の母親が自動車事故で亡くなり、その埋葬が行われています。アディには父親はいません。参列者は数人しかいませんが、そこにモーゼ(ライアン・オニール)という男が加わります。車で各地を回るセールスマンであると名乗りますが、本当は詐欺師です。アディの母親は酒場で働いており複数の交際相手がいましたが、モーゼはその一人です。参列者は、モーゼとアディはあごの線が似ており、アディの父親ではないかとモーゼにたずねますがモーゼは否定します。埋葬が終わった後、孤児となったアディを東隣のミズーリ州のセント・ジョセフに住む伯母の家に送り届けるよう牧師がモーゼに頼みます。モーゼはいやがりますが、押し切られて渋々その役を引き受けます。
 モーゼは、アディの母親を事故で死なせた男の兄を訪れ、アディのための示談金として200ドルをせしめます。アディはドアの外でそのやり取りを聞いています。モーゼはその金を使って自分の古い車を買い替え、さらにミズーリ行きの列車の切符を買い、アディを列車に乗せて厄介払いをしようと画策します。しかしアディは、200ドルは自分のものだから返せと主張します。困ったモーゼはやむを得ずアディを連れて旅をすることになります。
 モーゼは新聞の訃報欄を見て最近夫を亡くした女性たちを訪ねます。亡くなった夫から妻へのプレゼントとして高価な聖書の注文を受けていたと偽ります。自分の名前が金文字で刻まれた聖書を見た未亡人が亡くなった夫を偲んで代金を払うという詐欺です。頭のいいアディはすぐに詐欺の仕組みを理解し、モーゼを助けます。さらに商店での両替のトリックを使った詐欺などもして、2人は所持金を増やしていきます。
 旅の途中で移動遊園地に立ち寄った際、モーゼはトリクシー(マデリン・カーン)というダンサーにのぼせ上り、ショーを何度も観に行きます。遊園地には紙の月に座って写真を撮る簡易写真館があり、アディはそこでモーゼと一緒の写真を撮りたかったのですが、モーゼはトリクシーに夢中でアディはほったらかしにされます。

 この映画は1936年の設定です。ローズベルト大統領のニューディール政策が始まって4年目、アメリカの経済が大恐慌から少し回復してきた頃の物語です。カンザス州の片田舎でお金を稼ぎながらの道中記です。 

 モーゼはずる賢いペテン師ですが、どこか憎めません。一方、少女アディは大人顔負けの賢さを発揮します。二人の息が少しずつあっていき、連帯感のようなものが生まれていく過程が心地よく、どことなく哀愁も漂って見終わると心が温まります。二人の心の交流にわざとらしさがなく、温かい眼差しで二人の道中を描いています。心に染みる名品です。

映画の舞台となったカンザス州ウィルソンにあるミッドランドホテル

 モーゼとアディのやりとりには微笑ましく楽しいエピソードがいくつもあります。映画の序盤でモーゼはアディを汽車に乗せて追い払おうとしますが、アディは負けていません。「私の200ドルを返せ」と言い張り、最後はモーゼが根負けします。この時のカフェでのやり取りの場面は傑作です。
 モーゼがしている聖書のセールス詐欺についても、アディが機転を利かせて巧みにモーゼをフォローしたり、ピンチを救ったりします。アディは、詐欺の相手が裕福とみると大金をふっかけ、生活に困っているとみると聖書を無料で渡します。モーゼもアディの才覚、話術、そして相手を見る目に舌を巻きます。
 相手を煙に巻くような商店での両替詐欺の手口も面白いです。
 モーゼはトリクシーに騙されたと思った後、アディにしみじみといいます。
「大人になっても男をだますような女にはなるなよ。」
 他人を騙すのが仕事である詐欺師のモーゼがこう言うのが何とも言えずユーモラスです。

 この作品はあえてモノクロで撮影しています。1930年代の雰囲気をノスタルジックで詩情豊かに再現しています。空と大地、そして二人の車が走る風景が印象的です。
 音楽もラジオから流れるスウィング・ジャズをはじめ明るくテンポのいい曲が多く、雰囲気を盛り上げます。

 監督のピーター・ボクダノヴィッチは、もともとは映画の批評や映画史の研究をしていましたが、監督に転じて1971年にはテキサス州の地方都市を舞台にした群像劇「ラストショー」を撮って一躍有名になりました。この「ペーパー・ムーン」もボクダノヴィッチ監督の映画への愛が詰まった作品となりました。

ライアン・オニール

 俳優はいずれも好演です。ライアン・オニールは大ヒットしたラブストーリー「ある愛の詩」(1970年アーサー・ヒラー監督)で主役を演じ、「愛とは決して後悔しないこと」というセリフとともに世界中で有名になりました。この作品ではペテン師ではあるものの実は人がよくて味のあるモーゼを巧みに演じて演技者としての幅の広さを示しました。この後、1975年にはスタンリー・キューブリック監督の重厚な歴史映画「バリー・リンドン」でも主役を演じています。

 テータム・オニールは、大人びてはいますが愛らしい少女アディを演じました。機転と才知でモーゼを驚かせ、観客を魅了しました。小生意気で無愛想なこともある一方、モーゼの危機を救うために奔走するいじらしさを見事に演じてアカデミー賞の助演女優賞を受賞しました。10歳での受賞は史上最年少で、現在も破られていません。テータムはこの3年後に大ヒット映画「がんばれ!ベアーズ」(マイケル・リッチー監督)で弱小少年野球チームの投手に扮し、コーチ役の名優ウォルター・マッソーとの掛け合いが話題になりました。

テイタム・オニール 1974年アカデミー賞受賞 By UCLA Library Special Collections – https://www.flickr.com/photos/127608843@N08/24372733326/, CC BY 2.0, Link
マデリン・カーン

 モーゼが夢中になるトリクシーを演じたのがマデリン・カーンです。トリクシーは品がなく慎みのない女性ですが、こちらもモーゼと同様どこか憎めません。女の哀しみも漂わせる名演技で、テータムと並んでアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされました。その後は幅広く活躍しましたが、メル・ブルックス監督作品の常連のコメディエンヌとなり、ブルックス監督による西部劇のパロディ「ブレージングサドル」(1974年)で再度アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされています。

 映画のタイトルは、挿入歌にもなっている1930年代のヒット曲『It’s Only a Paper Moon』からとられています。ペーパー・ムーンとは写真撮影用の大きな張りぼての月で、家族や恋人との記念写真で使われました。映画の中盤の移動遊園地の場面にこの「紙の月」が登場します。偽物の月でも愛情があれば本物になる、信じる心があれば本物の月になるというメッセージが込められています。モーゼとアディは偽物の親子ですが、本物の親子以上の絆をもつようになります。それを「紙の月」が象徴しています。そしてその偽物の親子を本物の親子である二人が演じているところがこの映画の妙味であり、話題になった所以でしょう。
 この曲はジャズの代表曲となり、ナット・キング・コールをはじめ多くの歌手がカバーしています。この曲が主題歌となった映画には、「当たって砕けろ」(1933年ローレンス・シュウォブ監督)という作品もあります。ブロードウェイでヒットしたミュージカルコメディの映画化です。
 日本映画の中でも歌われています。横溝正史原作の名探偵金田一耕助のシリーズが市川崑監督、石坂浩二主演で映画化されましたが、その第5作「病院坂の首縊りの家」(1979年)にはジャズバンドが登場し、米軍キャンプで演奏する場面があります。桜田淳子がバンドのボーカルの役を演じ、映画の中でこの曲を歌っています。
 それでは『It’s Only a Paper Moon』の歌詞の前半部分をご紹介します。

 Say it’s only a paper moon    Sailing over a cardboard sea
  そう、それは紙の月に過ぎません。ボール紙の海の上を航海します。       
 But it wouldn’t be make believe  If you believed in me
  でも、もしあなたが私を信じてくれるならば、それは作り物ではなくなります。
 And it’s only a canvas sky     Hanging over a muslin tree
  そう、それはキャンバスに描かれた空に過ぎません。モスリンの木にぶら下がっています。
 But it wouldn’t be make believe  If you believed in me
  でも、もしあなたが私を信じてくれるならば、それは作り物ではなくなります。

 アディは母親の形見などを入れた宝物箱と一緒にラジオを大切に持ち歩いています。そしてホテルなどでアディが耳を傾けているのはフランクリン・ローズベルト大統領のスピーチです。当時、ローズベルト大統領はカリスマ的に人気がありましたが、アディもローズベルトの熱心な信奉者であるらしく、最大の関心事はラジオで聞く大統領の言葉です。この物語の時点でローズベルトは就任4年目です。最高裁判所の違憲判決への対応などに苦慮しながらも、「炉辺談話」としてラジオで国民に直接語りかけて理解を求めていました。この映画にはアディの「大統領は希望をもつようにと言っている」「大統領は皆で助け合うようにと言っている」などのセリフがありますが、実際に多くの人が大統領の言葉に勇気づけられたようです。この年(1936年)の11月に行われた大統領選挙でローズベルトは地滑り的な勝利をして2期目に入ります。

 モーゼとアディの乗った車が農民一家の乗ったトラックとすれ違う場面があります。このトラックはジョン・フオード監督の「怒りの葡萄」(1940年)の主人公一家のトラックを彷彿とさせます。映画「怒りの葡萄」の原作は文豪ジョン・スタインベックの小説です。1930年代の中~後半に巨大な砂嵐による土地の疲弊や農業の機械化等によって居場所を失った大勢の農民たちがカリフォルニアを新天地と夢見て移動しましたが、そのような貧しい農民一家の物語です。スタインベックはこの作品等を受賞理由としてノーベル文学賞を受賞しています。ジョン・フオード監督はアカデミー賞の監督賞を史上最多の4回受賞していますが、この「怒りの葡萄」で2回目の受賞をしています。
 「怒りの葡萄」と「ペーパー・ムーン」はおおむね同時代で、共にアメリカ南部を舞台としています。

映画「怒りの葡萄」のポスター

 ボクダノヴィッチ監督はかねてよりジョン・フオード監督を尊敬しており、この「ペーパー・ムーン」もその影響を受けているとも言われています。ボクダノヴィッチは映画批評家であった時代にジョン・フオードに関する本も出版しています。ジョン・フオードへのインタビューやジョン・フオード論が入った力作で日本でも出版されました。「怒りの葡萄」を思い起こさせる農民一家が「ペーパー・ムーン」に登場するのは、ボクダノヴィッチ監督が心酔するジョン・フオードにオマージュを捧げたものかもしれません。
 この農民一家のトラックを見た時、アディはモーゼに車を止めるよう言います。アディは「気の毒な人たちだから助けよう」と言います。これもローズベルト大統領が互いに助け合うようラジオで呼びかけたことを受けているのでしょう。しかしモーゼは「国中がそうだ(貧しく困っている)。」と言って止まりません。大恐慌時代であることを実感させる場面でもあります。

 大恐慌に見舞われた過酷な時代に「ペーパー・ムーン」の二人は親子のように支え合って生きました。同じく大恐慌時代のアメリカ南部を舞台に、苦難の道のりを助け合いながら懸命に進んだ人々を描いた映画をもう一つご紹介します。

1984年アメリカ映画
監督 ロバート・ベントン
出演 サリー・フィールド、ダニー・グローヴァー、リンゼイ・クローズ、
   ジョン・マルコヴィッチ
アカデミー賞 主演女優賞、脚本賞を受賞

 1935年、テキサス州のワクサハチーという町です。エドナ(サリー・フィールド)は保安官の夫ロイスと共に二人の小さな子供を育てながら平和に暮らしていました。物語は一家が朝食前の祈りを捧げている場面から始まります。ロイスは朝食の途中で副保安官に呼ばれます。黒人の若者ワイリーが酒に酔って銃を撃っているのでした。ロイスはすぐに出かけ、ワイリーをなだめようとしますが、泥酔したワイリーが誤ってロイスに向けて発砲してしまい、撃たれたロイスは命を落としてしまいます。
 ロイスが遺体となって運び込まれたのを見て、妻のエドナは衝撃を受けて声もでません。銃を撃ったワイリーは白人たちのリンチで殺されます。ロイスの葬儀の後、エドナの姉のマーガレット(リンゼイ・クローズ)がエドナを慰めますが、エドナはそれまで家事と育児しかしたことがないため、この先どうやって子供たちを養っていけばいいのかわからず途方に暮れます。
 数日後、ファースト農業銀行から銀行員のデンビーが訪ねてきます。お金のことはすべて夫に任せていたエドナは、家を購入した際の借入金の返済が残っていること、支払い期日が迫っているが預金残高が不足していることなど、初めて一家の経済状態を知ります。デンビーはエドナに自宅を売却して借金を返済し、子供たちを親戚に預けることを勧めますが、エドナは受け入れません。エドナは美容師をしている姉のマーガレットを訪ね、自分を雇ってもらえないか相談しますがマーガレットにもその余裕はありません。
 エドナの家に黒人の流れ者のモーゼス(ダニー・グローヴァー)が仕事を求めて訪ねてきます。エドナは食事を与えますが、仕事は断ります。モーゼスはエドナの保有する広大な土地を綿花畑にすることを提案します。自分は子供の時から綿花畑で働いていてなんでも知っていると言います。
 また、銀行員のデンビーが彼の義理の弟のウィル(ジョン・マルコヴィッチ)を連れてきます。ウィルは戦争で失明し、椅子とほうき作りの職人として働いています。デンビーはウィルを下宿人としてエドナの家におき、家賃収入を得ることを提案します。

 この映画は「ペーパー・ムーン」の物語の前年が舞台となっています。ニューディール政策が始まってから3年目、まだ大恐慌のさなかの厳しい時代です。予期せぬ困難に直面してもたくましく生きる女性とその周囲の人々の奮闘を力強く描きました。まさにアメリカ映画の王道ともいうべき作品です。
 この映画は主人公たちの心の豊かさを通して、誰もが心の奥底にもっている良心を描いています。物語の中心となるのは、母子家庭、黒人、そして視覚障害者です。ハンディを背負った、いわば社会的な弱者です。彼らは最初は警戒し合ってギクシャクしますが、やがて閉ざしていた心を開いていきます。苦境を乗り越えるために人種や境遇の隔たりを超えて醸成される信頼、人と人が協力し合う尊さを見事に映像化して観る者の心に訴えかけてきます。厳しい生活の中から見出す光が胸を打ちます。

 物語は淡々と展開します。穏やかな日常生活に当時の社会情勢と経済的な厳しさを織り交ぜて物語に広がりをもたせています。主人公エドナは普通の主婦でしたが、突然の夫の死に直面し、最初は弱音を吐きます。切迫した経済状態から家を手放さなければならない危機に瀕します。それでも家族と離れ離れになることを拒否し、家族の思い出の詰まった家を守るために戸惑いながらも勇気をもって立ち上がります。

テキサス州ワクサハチーのエリス郡裁判所(映画「プレイス・イン・ザ・ハート」のロケ地) Renelibrary – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 しかし未亡人となったエドナは軽く見られます。男性上位の社会で生きる難しさを味合わされます。綿花栽培を思い立ちますが、銀行員のデンビーからは、綿花を専門にしていた大勢の白人が破産したことを告げられ、この時代の経済的厳しさを痛感します。
 さらに自然の脅威、そして社会的偏見が主人公たちに激しく迫ってきます。黒人が差別されることが普通の社会でした。大恐慌下で仕事もありません。過酷な現実がリアルに描かれており観ていて辛い場面もあります。主人公エドナの夫を誤って撃ち殺した黒人の少年に対する私刑は残酷です。映画の後半にはKKKも登場します。普通の人々が暴力的に変わる様に暗澹たる思いにさせられます。
 その一方でエドナは、夫を黒人に殺されましたが黒人に対する恨みを募らせている様子はありません。エドナの家の物を盗もうとしたモーゼスを許してかくまいます。エドナの優しさが観るものに安心感を与えます。
 また、フィルが目が不自由であるが故に音や声に非常に敏感であることも印象深く描かれています。

 映画は主人公たちの苦闘を自然な展開でサラリと描いています。描写は丁寧ですが押しつけがましさがないのが気持ちがよいです。
 落ち着いた気品のある映像です。テキサス州の田舎の風景が味わい深く郷愁を感じさせます。
 この映画の中で印象深い映像の一つは綿花を摘み取る場面です。地道な作業ですがとても辛い仕事です。手を切り、腰を痛める過酷な手作業の様子がじっくりと描かれています

 この映画はアカデミー賞の7部門でノミネートされ、2部門で受賞しました。監督と脚本を担当したロバート・ベントンが脚本賞を受賞しました。ベントン監督は脚本家としても活躍しており、1979年の「クレイマー・クレイマー」で監督賞と脚色賞を受賞しています。登場人物の人間性や背景となる社会情勢を丁寧かつリアルに描写し、深い人間ドラマを誠実な語り口で描くことで高い評価を得ています。
 この映画はアカデミー賞の作品賞でも有力候補になりましたが、この年は音楽史上最大のミステリーと言われる楽聖モーツァルトの死の謎を豪華絢爛に描いた「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督)が大きな話題となり、作品賞を受賞しています。

サリー・フィールド

 この映画のもう一人の受賞者は主人公エドナを演じたサリー・フィールドです。決して希望を失わない凛とした強さと優しさをあわせもった女性を見事に演じて2回目の主演女優賞です。1979年の「ノーマ・レイ」(マーティン・リット監督)で、アメリカ南部の工場を舞台にたくましく自立していく女性を演じて最初の主演女優賞を受賞しています。逆境の中で立ち上がる気丈な女性の役がよく似合う女優です。この後も映画史に残る作品に重要な脇役として出演して作品を盛り上げています。「フォレストガンプ 一期一会」(1994年ロバート・ゼメキス監督)は、少し頭が弱いが純粋な心と優しさで周囲に影響を及ぼす不思議な男の半生を描いた映画ですが、サリー・フィールドは主人公の母親を演じています。南北戦争期のアメリカで奴隷解放に尽力したリンカーン大統領の最後の4カ月を描いた「リンカーン」(2012年スティーヴン・スピルバーグ監督)ではリンカーン夫人を演じています。

 その他の出演者についても、後に実力派俳優として活躍する多くの名優を輩出しました

ダニー・グローヴァー 
By John Mathew SmithDANNY GLOVER, CC BY-SA 2.0, Link

 黒人のモーゼス役はダニー・グローヴァーのはまり役となりました。この作品の後、数々の有名作品で名脇役として活躍し、「リーサルウェポン」シリーズでメル・ギブソンと刑事コンビを組んでハリウッド映画のスターとなりました。
 盲目のウィルを演じたのはジョン・マルコヴィッチです。この作品が映画デビュー作でしたが、閉ざしていた心を開いていく様を抑制された演技で表現し、アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされました。この後も映画や舞台で主役、準主役の他、悪役を演じることもあり、個性的な演技で高い評価を得ています。

ジョン・マルコヴィッチ
By Gorupdebesanez – Own work, CC BY-SA 3.0, Link

 エドナの姉マーガレット役でリンゼイ・クローズが、またマーガレットの夫の役でエド・ハリスが出演しています。どちらも印象的な脇役として幅広く活躍することになります。

 ラストシーンは静かではありますが、観る者に驚きを持って迎えられます。不思議に思う人もいると思われますが、至福のエンディングとして多くの人の心に残りました。

 終盤の教会の場面での牧師の説教がとても心に残ります。これは『コリントの信徒への手紙』第13章4節~7節です。使徒パウロがギリシアのコリントの教会の人々にあてた手紙の一部で、新約聖書に収められています。愛の本質について深く語られたものとして名高く、「愛の賛歌」とも呼ばれています。日本でも結婚式で読まれることが多いようです。一部をご紹介します。(「新共同訳」からの抜粋)

 『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
  愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
  すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。』

 この物語で大きなウェートを占めるのは綿花の栽培です。綿花の栽培はアメリカ南部で広く行われ、アメリカの発展を支えた基幹的な産業でした。その歴史を見ていきましょう。

収穫期の綿花

 綿花とはアオイ科ワタ属の植物の種子の周りにあるふわふわとした繊維のかたまりです。花のように見えるため「綿花」と呼ばれますが、花ではなく繊維です。綿花から種子を取り除いた後の繊維が「木綿」または「綿」です。これが糸になり、布地として織られたものが「綿織物」または「コットン」です。

 古来、綿布はインドの特産品として有名で、イギリスの主要な輸入品でした。イギリスで綿織物の需要が大きくなり、イギリスでその生産に乗り出して綿工業が発達します。これがイギリスの産業革命の原動力になりました。収穫された綿から糸を作る工程が紡績で、綿糸で布を織る工程が織布ですが、1760年代からこれらを行う機械が次々と改良されます。ハーグリーヴズやアークライトにより紡績機が改良され、クロンプトンがミュール紡績機を発明します。さらにカートライトの力織機により織布能力が飛躍的に向上しました。イギリスの綿織物の生産が急激に増加し、原料となる綿花の需要も増加します。インドから綿花を輸入するようになりますが、アメリカ大陸でも綿花の栽培が急速に広がりました。
 綿花の栽培では、綿花から種子を手作業で取り除くプロセスに手間がかかるのがネックになっていました。18世紀末にアメリカのホイットニーが効率的に分離できる綿繰り機を発明し、生産性が非常に高くなりました。これによりイギリスの綿工業の原料供給地としてアメリカの南部で本格的に綿花の栽培が定着します。これが綿花のプランテーションです。

 プランテーションとは、熱帯や亜熱帯の植民地等で先住民や黒人奴隷等の安い労働力を使って単一の農産物を大量に生産する(モノカルチャー)大規模農園のことです。栽培されるのは砂糖、ゴム、たばこ、綿花などです。アメリカ南部では、入植した白人が先住民(インディアン)を駆逐して広大な土地を確保して綿花のプランテーションを始めますが、労働力が不足して黒人奴隷を大量に導入しました。こうしてアメリカ南部の基幹産業となり、このエリアは「コットンベルト」と呼ばれました。

アメリカ南部の綿花プランテーション(1913年)

 やがてアメリカで南北の対立が激しくなります。北部では工業が発達し、自国の産業保護の観点から保護貿易を主張します。人道的観点から黒人奴隷制に対する批判も高まります。それに対し南部では綿花プランテーションのために黒人奴隷が不可欠であり、綿花をイギリスに輸出するために自由貿易を主張します。この対立から1861年に南北戦争が始まります。この戦争で南部は敗れ、経済的にも大きな打撃を受けます。奴隷制についても1863年にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を発し、1865年には廃止になります。それまでの黒人奴隷に依存したプランテーションは困難になります。
 しかしアメリカ南部では「シェアクロッパー(分益小作人)」という新たな手法で綿花の栽培が再開します。奴隷解放により黒人は身分的に自由になりますが、生産手段を持たず、自営の農民にはなれません。経済的に自立できない黒人は多くが再び綿花の農園に戻り、小作人として綿花の栽培に従事しました。白人の農場経営者が黒人に土地、住居、農具や家畜などの生産用具を貸し与え、収穫した綿花の1/3~1/2を地代・賃料として徴収しました。この仕組みにより南部の経済は復興しますが、黒人は事実上プランテーションに縛り付けられ、経済的に農園主に依存します。過酷な労働を強いられ、貧困から抜け出すことができません。
 また、アメリカ南部では州独自の黒人取締法が制定されるなど、激しい差別が横行しました。憲法で保障されたはずの自由と平等を勝ち取るため、新たな黒人解放運動も始まりますが、経済的な格差とも絡んで黒人に対する差別は根強く残ります。

 シェアクロッパーによる綿花生産は20世紀に入っても続きます。映画「プレイス・イン・ザ・ハート」が描いた1930年代にも映画の舞台となるテキサス州をはじめ南部ではシェアクロッパーによる綿花栽培が続いていたと思われます。映画に登場する黒人のモーゼスもこういった綿花農園で働いていたのでしょう。農園を離れて流れ者になった経緯は描かれていませんが、ニューディール政策が関係しているのかもしれません。この物語の3年前に「農業調整法(AAA)」が成立しています。この法律により農産物の価格を維持するために作付けが制限され、その補償を政府がしています。綿花の農場主も政府から補償金を受け取って作付けを減らし、不要となった労働力を解雇したようです。モーゼスはそのために農場を追われたことも考えられます。
 貧しい黒人労働者を使った綿花栽培は第二次世界大戦後も続きましたが、1950~1960年代には技術の進歩により綿花栽培でもトラクターや自動摘み取り機など機械化が進み、シェアクロッパー制度も終焉を迎えました。農場を離れた黒人は都市部に向かい、工場などで働くようになりました。

 アメリカ南部の綿花農園は多くの映画で描かれてきました。不朽の名作「風と共に去りぬ」(1939年ヴィクター・フレミング監督)は、19世紀の南北戦争期の南部を舞台としています。ヴィヴィアン・リーが扮した主人公スカーレット・オハラは一代で綿花の大農園を築いたアイルランド移民の娘です。映画でも白い綿花畑が印象的でした。
 シェアクロッパー制度の末期の1960年代の綿花農園が描かれている有名な映画もあります。一つは1967年の「夜の大捜査線」(ノーマン・ジュイソン監督)です。人種差別が厳しいミシシッピ州の小さな町で起きた殺人事件を、都会の敏腕黒人刑事と地元の白人警察署長が反目しながら解決していく物語です。作品賞を含むアカデミー賞5部門を受賞した第一級のサスペンス映画ですが、広大な綿花農園と過酷な作業に従事する黒人たちの姿も忘れがたい場面でした。
 2018年の「グリーンブック」 (ピーター・ファレリー監督)も1960年代の南部を舞台とします。教養ある黒人のピアニストと粗野な白人の運転手がアメリカ南部を回ったコンサートツアーの実話に基づいています。二人の間に芽生える友情が胸を打つ作品で、作品賞を含む3部門でアカデミー賞を受賞しています。理不尽な差別もリアルに描かれていますが、農園で綿花を摘む黒人労働者と車に乗った富裕な黒人ピアニストが視線を交わす場面もあり、黒人同士の複雑な思いが強く伝わってきました。