「愛と哀しみのボレロ」

フランス
トロカデロ広場(パリ) Yortw from Auckland, New Zealand - View from the Eiffel Tower, CC 表示 2.0, リンクによる

 フランスのクロード・ルルーシュ監督が並々ならぬ執念で作り上げた渾身の大作です。
 第二次世界大戦をはさむ激動の時代を背景に、実在の音楽家、舞踏家の人生を織り込んだ壮大なスケールの人生ドラマです。1930年代から1980年代にわたり、パリ、ニューヨーク、モスクワ、ベルリンを中心に、音楽に携わる5つの家族の2世代にまたがる波乱に満ちた物語が描かれています。

・1981年フランス映画
・監督 クロード・ルルーシュ
・出演 ロベール・オッセン、ニコール・ガルシア、ジュラルディン・チャップリン、
    ジェームズ・カーン、ジョルジュ・ドン

 映画の冒頭は、1981年のパリ、セーヌ川をはさんでエッフェル塔の対岸にあるトロカデロ広場で、ユニセフ(国際児童教育基金)と国際赤十字が主催するチャリティーコンサートが始まるところです。ラヴェルの「ボレロ」の演奏に合わせて一人の男性ダンサーの踊りが始まります。
 そこから物語は一気に1930年代にまで遡り、第二次世界大戦が始まる少し前の時代となります。この映画の中心となる家族の物語が各国で始まります。

 ボリショイ・バレエ団のプリマの最終オーディションが行われています。二人の娘が候補者になっており、タチアナはその一人です。課題曲であるラヴェルの「ボレロ」に合わせて二人は懸命に踊ります。タチアナは惜しくも選ばれず、気落ちして帰ろうとしますが、選考委員の一人であったボリスに声をかけられ賞賛を受けます。それをきっかけに二人は親しくなって結婚し、男の子が生まれます。やがて第二次世界大戦が始まります。ドイツとソ連の間では激しい戦闘が続き、ボリスも徴兵されて戦場に送られます。残されたタチアナはダンサーとして慰問活動をします。

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HRNet – Folies Bergère, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 人気のミュージックホールであるフォリー・ベルジェールでは華やかなショーが行われていました。女性バイオリニストのアンヌは、演奏中に新人のピアニストであるシモンの視線を感じます。やがて二人は仲間から祝福されて結婚し、男の子が生まれます。

 しかし戦争が始まるとフランスはドイツに敗れ、パリは占領されます。そしてユダヤ人の摘発が行われ、ユダヤ人であった二人は拘束されます。赤ん坊を抱いた二人は収容所に向かう列車に押し込められます。過酷な運命を予感した二人はせめて我が子だけは助けたいと考え、途中で重大な決断をします。

 新進ピアニストのカールはナチスの幹部がそろう前でベートーベンの曲を演奏する機会を得ます。演奏後、カールはヒトラーから讃えられます。それはナチス政権下においては大変名誉なことであり、カールは感激し、妊娠中の妻マクダに喜びを伝えます。戦争が始まりドイツがフランスを占領するとカールは占領軍の軍楽隊長に任命され、妻と幼子をベルリンに残してパリに向かいます。

 人気のジャズミュージシャンであるジャック・グレンは、自らの楽団の指揮者として軽快なスウィングを演奏し、それがラジオで放送されています。放送の中でグレンは、長女を産んでくれた妻に感謝の言葉を伝え、妻のスーザンはそれを聞いて感激します。突然ラジオで臨時ニュースが流れます。ポーランドに侵入したドイツにイギリスとフランスが宣戦布告をしたことが伝えられます。ジャックは一瞬顔を曇らせますが演奏を再開します。一年後、ジャックは軍楽隊長としてヨーロッパ戦線に派遣され、慰問演奏の指揮をとります。

 パリはドイツ軍に占領されています。シャンソン歌手のエブリーヌはナイトクラブで歌っていましたが、ドイツから派遣されていた軍楽隊長のカールと親しくなります。二人は恋に落ち、二人の間には女の子が生まれます。

 この映画の主要な登場人物にはモデルとなっている実在の人物がいると言われています。

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Allan warren投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

・ソ連のボリスの子供でありバレエダンサーになるセルゲイ・イトビッチのモデルは、ソ連のダンサーで後にパリ・オペラ座の芸術監督となるルドルフ・ヌレエフです。

ヘルベルト・フォン・カラヤン

ドイツの軍楽隊長で戦後は指揮者となるカール・クレーマーのモデルは、ヘルベルト・フォン・カラヤンです。オーストリア出身の名指揮者で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の芸術監督となるなどクラシック音楽の世界に多大な影響力を及ぼした人物です。

グレン・ミラー

アメリカのジャズミュージシャンのジャック・グレンのモデルは、グレン・ミラーです。スウィングジャズの代表的人物でグレン・ミラー・オーケストラを率いました。

エディット・ピアフ

フランスのシャンソン歌手エブリーヌのモデルは、フランスで最も愛された歌手と言われているエディット・ピアフです。「愛の賛歌」「バラ色の人生」などが有名です。

 この物語は1930年代のヨーロッパとアメリカからスタートします。第二次世界大戦直前の緊迫した時代です。映画の舞台は4か国にまたがりますが、フランスが主要な舞台になります。それでは、第二次世界大戦に至るまでの歴史の流れをフランスを中心に見ていきましょう。

 1914年、バルカン半島での紛争から第一次世界大戦が始まりました。ヨーロッパの主要国は二つの陣営のいずれかに加わって大戦争に突入しました。ドイツ、オーストリア、オスマン帝国などの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国です。

第一次世界大戦西部戦線の塹壕戦

 ドイツは開戦後すぐにヨーロッパの西部と東部で進撃を開始します。西部では中立国であるベルギーの領土に侵入してフランスに攻め込みます。フランスはマルヌの戦いでドイツの進撃を阻止し、そこからは双方が塹壕に入って膠着状態になります。

 一方の東部戦線はドイツとロシアの戦いです。どちらの戦線も決定的な勝敗はつかずに停滞します。戦争では毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器も用いられました。各国は総力戦となり激しく消耗しますが、1917年には戦争が最終段階に入ります。この年の2月にドイツの無制限潜水艦作戦を契機にアメリカが連合国側で参戦しました。
 戦争の長期化により食料不足等で国民生活が窮乏していたロシアでは、1917年3月についに革命が起きます。11月にはソヴィエト連邦が成立し、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から離脱します。ドイツでもキール軍港での水兵の蜂起を契機に革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が退位し連合国と休戦します。こうして大戦は連合国側の勝利で終わりました。
 この大戦でフランスは戦勝国となりましたが、国土が戦場になったため人的にも物的にも大きな被害を受けました。そのためドイツに対する復讐心が非常に強く、パリ講和会議では対ドイツの強硬姿勢を貫きます。講和条約であるヴェルサイユ条約では、ドイツに奪われていたアルザス・ロレーヌ地方がフランスに返還され、ドイツに巨額の賠償金を課し、軍備を制限するなどドイツにとって過酷な内容となりました。ドイツでは反ヴェルサイユ条約の強い感情が生まれました。
 戦後、フランスは新たに発足した国際連盟の常任理事国となりますが対独強硬姿勢は変わらず、1923年には賠償金が支払われないことからベルギーとともにドイツの工業地帯であるルール地方の占領を強行しました。
 その後ドイツの賠償金の支払いについては、アメリカからドイツを支援するドーズ案、ヤング案が出されて解決の道筋が見えてきます。1925年のロカルノ条約によりドイツとフランスの国境が保障されたこともあり、フランスのドイツに対する警戒心もやわらぎます。1920年代は国際協調の機運が高まり、フランスの外相のブリアンとアメリカの国務長官ケロッグが協力して不戦条約が成立します。

 しかし、この国際協調の流れが一気に崩れるのが世界恐慌です。1929年秋、アメリカのニューヨーク株式市場で大暴落が起き、その影響が各国に広がり未曾有の大恐慌となります。各国は危機に対処するため、関税の引き上げ、閉鎖的な経済ブロックの形成などの対策を講じます。そして軍備を拡張して勢力圏の拡大を図り、主要国家間の対立が激しくなります。
 フランスにも世界恐慌の影響が及び、1932年には深刻な不況となります。他国と同様に経済ブロック(フラン・ブロック)を形成し、アフリカやインドシナの植民地経営に力をいれて乗り切ろうとします。この時期にフランスの政治は混迷し、内閣は何度も交代します。
 ドイツは、賠償金の責務を負っていた上に世界恐慌の影響を受けて経済は大打撃を被ります。失業者が急増し、社会不安が高まります。こうしたなかでヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が急速に台頭します。ナチスはヴェルサイユ体制の打破やユダヤ人排斥などを唱えるとともに、大規模な公共事業などにより失業者を減らして広く国民の支持を集めます。1932年の選挙で第一党になった後、1934年にはヒトラーが総統に就任して一党独裁制を確立します。反対者を排除して文化や教育を統制します。対外的には1933年に国際連盟を脱退します。1935年には再軍備宣言を行い、ヴェルサイユ体制は崩壊します。
 ロシア革命により成立したソ連は、社会主義体制のもと世界恐慌の影響を受けません。1928年からは五カ年計画に基づく重工業の建設と農業の集団化を進めます。ソ連の工業力はアメリカについで世界第二位になり、農業の集団化も完成します。スターリン憲法が制定され、社会主義国家体制が確立します。しかし一方では、スターリンの個人崇拝が強化され、反対者に対しては徹底した粛正も行われました。1935年にはドイツの脅威が高まるなか、ドイツを東西から挟む形でフランスとソ連の間で相互援助条約が結ばれます。
 1930年代のヨーロッパでは、ファシズムの脅威に対し、左翼政党、労働組合などが広く結集する動きもありました。ソ連は、反ファシズム統一戦線(人民戦線)の結成を呼びかけます。それを受け、フランスでは1935年に統一戦線が成立します。翌1936年の総選挙で勝利し、社会党のレオン=ブルムを首相とする人民戦線内閣が生まれ、労働者の待遇改善などを実現させます。
 スペインでも1936年にアサーニャを首班とする人民戦線内閣が成立しますが、保守勢力や軍が反対し、フランコ将軍が反乱を起こして内乱となります。ドイツとイタリアは反乱軍を支援し、ソ連は人民戦線内閣を支援するなど国際戦争となります。この時、イギリスはドイツに対する宥和政策をとっていたこともあり、スペインの内戦に対し不干渉政策をとります。フランスはこの時スペインと同じ人民戦線内閣でしたが、結局イギリスと同様の不干渉政策をとることになります。フランスの人民戦線内閣はスペインへの対応などでの内部対立から1938年には総辞職します。1939年にはフランコが首都のマドリードを占領して独裁政権が成立します。こうしてヨーロッパの人民戦線運動は終わります。

 この映画は、このような時代から始まります。各国の芸術家たちが戦争の気配を感じながらもそれぞれ幸せな家庭を築こうとしています。しかしいずれも戦争に巻き込まれていきます。この映画の中盤は、第二次世界大戦中の各国の物語となります。

 ドイツは1938年3月にはオーストリアを併合し、さらにチェコスロヴァキアのズデーデン地方の割譲を要求します。これをチェコスロヴァキアが拒否し、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスの首脳によるミュンヘン会談が開催されますが、戦争を回避するために対独宥和政策を採っていたイギリスのネヴィル・チェンバレン首相はドイツの要求を承諾します。この時、フランスのダラディエ内閣はドイツを警戒してはいましたが、軍事面での準備不足もありイギリスと歩調を合わせました。下の写真はミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳です。左からイギリスのチェンバレン首相、フランスの ダラディエ首相、ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ首相とチャーノ外相です。

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Bundesarchiv, Bild 183-R69173 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

 しかしドイツの領土要求はさらに拡大し、ポーランドをも要求します。ここにいたってイギリスとフランスはドイツとの対決姿勢を強めます。一方ソ連は、ミュンヘン会談以来イギリスとフランスへの不信感を深めており、孤立を防ぐため1938年8月ドイツとの間で独ソ不可侵条約を結び世界中を驚かせました。
 1939年9月、ドイツは突然ポーランドへの侵攻を開始します。これに対しイギリスとフランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まります。
 ドイツに続きソ連もポーランドに侵入し、ポーランドは両国に分割されます。しかしドイツとフランスの間では宣戦布告がなされたのに戦闘が行われない「奇妙な戦争」と呼ばれた状態になります。
 1940年4月、ドイツは再び侵攻を開始します。北欧のデンマークとノルウェーを攻撃し、中立国であるオランダとベルギーを突破して瞬く間にフランスに攻め込みます。イタリアなどもドイツの優勢をみて参戦します。イギリスはフランスの救援に向かいますが、ドイツは戦車や飛行機を用いた電撃戦を展開してフランス軍とイギリス軍を圧倒し、イギリス軍は撤退します。ダンケルクの戦いです。第一次世界大戦ではドイツの進撃を阻止したフランスですが、第二次世界大戦では一ヶ月ももたず、6月にはパリが陥落してフランスは降伏します。
 ドイツはさらにイギリス本土にも進撃する勢いを見せますが、イギリスではチェンバレンに代わってチャーチルが首相となり、ドイツ軍のイギリスへの上陸を阻止します。ドイツによる激しいロンドン空襲にも耐え、戦争は長期戦となります。

エッフェル塔を訪れたドイツ総統アドルフ・ヒトラー

ドイツに降伏したフランスは国土を南北に分断され、北半分は直接ドイツ軍の占領下におかれます。フランス政府は中部のヴィシーに移り、第一次世界大戦の英雄であったペタンが首相になります。ヴィシー政府はドイツに対する「協力」(コラボラシオン)を表明してフランスの存続を図ろうとします。このヴィシー政府はドイツの傀儡政権であったと言われています。ヴィシー政府の時代にはドイツに迎合してユダヤ人狩りが行われ、フランス人男性がドイツの労働力として動員される等しています。これに対し、シャルル=ド=ゴール将軍はロンドンに亡命して「自由フランス政府」という亡命政権を結成し、ロンドンからラジオ放送等を通じて抗戦を呼びかけます。フランス各地でも抵抗運動(レジスタンス)が始まります。

 1941年6月、ドイツはイギリス上陸を断念し、独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連への大規模な侵攻を始めます。ソ連の防衛線を突破し、モスクワ近くまで進みます。しかしソ連軍は激しく抵抗し、ドイツ軍は冬の寒さにも苦しめられます。ドイツとソ連の戦いは持久戦になりますが、1943年2月のスターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を破ります。ここからはソ連が攻勢に出ます。
 アメリカは伝統的な孤立主義もあり、ヨーロッパでの戦争が始まった当初は直接の参戦はしません。武器貸与法を制定してイギリスやソ連に大量の軍事物資を送り支援します。アメリカは1941年に日本との戦争に突入し、ドイツ、イタリアにも宣戦します。太平洋での日本との戦いに見通しがたった後、本格的にヨーロッパ戦線に参加します。軍を派遣するためにアメリカでも大規模な徴兵を行いました。
 イギリスとアメリカの連合軍は、1943年にアフリカからの反攻を展開します。北アフリカからシチリア島を経てイタリア本土に上陸し、9月にはイタリアが降伏します。1944年6月、連合軍はドイツに占領されていた北フランスのノルマンディーで上陸作戦を敢行します。ドイツによる占領地域での抵抗運動も激しくなり、西ヨーロッパの各地域は連合軍により次々と解放されます。8月にはパリが解放されます。
 1945年、東からソ連軍、西からアメリカ・イギリス軍がドイツ領内に進撃し、5月にドイツは降伏します。この後、アジアで戦闘を続けていた日本も8月に降伏します。こうして第二次世界大戦は両陣営に膨大な犠牲と荒廃を残して連合国の勝利で終わりました。

 この映画の後半は、第二次世界大戦後の物語です。戦争が終わっても深い傷跡が残り、この物語の登場人物たちを苦しめます。そしてあらたに冷戦の時代が始まります。

 第二次世界大戦後、国際連合が成立する等平和の維持と国際協力を進めるための取り組みが始まります。しかし、ヨーロッパを中心にアメリカとソ連の両陣営が形成されて戦後の処理や復興などで対立します。戦争には至らないものの厳しく対立する「冷たい戦争」です。
 アメリカは本土が無傷だったこともあり、圧倒的な経済力をもつことになりました。トルーマン大統領は、ギリシアとトルコの共産化を防ぐために援助を行うトルーマンドクトリンを発表し、封じ込め政策により反共軍事同盟を世界各地で次々と結成します。イギリス、フランス、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の五カ国は反共軍事同盟である西ヨーロッパ連合を結成し、これが発展してアメリカを含む12カ国による北大西洋条約機構(NATO)が結成されます。
 アメリカのマーシャル国務長官はヨーロッパの経済復興を援助するマーシャル・プランを発表し、西ヨーロッパの各国はこれを受け入れます。これに対し東ヨーロッパ諸国では、ソ連の指導下に社会主義圏が形成され、ソ連は東側の各国に対しマーシャル・プランを拒否するよう指令を出します。こうして両陣営の対立が本格化します。各国は冷戦という新たな対立構造のもとで戦争からの復興と経済成長を進めることになりました。

シャルル・ド・ゴール

 フランスでは、ドイツの支配から解放された後、ヴィシー政府は解体されます。ド=ゴールはフランスの人々から祖国解放の英雄として迎えられ、臨時政府の首相として国の再建に当たります。しかし共産党との対立などからド=ゴールは1946年1月に首相を辞任してしまいます。その後憲法が制定されて第四共和政が始まりますが、議会では小党が分立して不安定な政情が続きます。
 フランスは、西ドイツ等と同様にアメリカのマーシャル・プランによる援助を受けて戦後の復興を軌道に乗せます。その後は急速に経済力を回復させます。外交面ではヨーロッパ統合に向けて主導的な役割を果たします。フランスの外相シューマンの提唱により1951年に西欧六カ国によるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成されます。これが発展して1967年にはヨーロッパ共同体(EC)が結成され、現在のヨーロッパ連合(EU)の基となります。

  一方では植民地問題がフランス政府を悩ませます。第四共和政政府は、戦後の国際政治において影響力を保持するためには植民地を維持することが必要だと考えます。しかし戦後、世界各地で民族的自覚が高まり、アジア・アフリカ地域の旧植民地で独立が進みます。フランスは戦前インドシナや北アフリカに植民地をもっていましたが、これらの地域でも独立運動が活発になります。フランス国内では、左翼勢力には独立を容認する意見が多いのに対し、軍部や保守派は海外の領土の維持を強く主張します。1946年には、フランスとベトナム独立同盟との間でインドシナ戦争が始まります。フランス軍は1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗れ、ジュネーブ休戦協定を締結して、フランス領インドシナ連邦は解体しました。

 アフリカでは1956年にチュニジア、モロッコがフランスから独立します。1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、17カ国がヨーロッパ各国から独立しました。そしてアルジェリアでもフランスからの独立運動が活発になります。アルジェリアの独立を容認するか否かをめぐってフランス国内も分裂し、激しく対立します。この混乱を収拾できない政府に対しフランス国民の不満が高まり、強いリーダーシップを望む声が強まります。そして期待を一身に集めたのがフランス解放の英雄ド=ゴールでした。ド=ゴールは首相に復帰します。国民投票で憲法の大幅な改正が認められ、大統領の権限が大幅に強化され、1959年にはド=ゴールが大統領に就任し第五共和制が始まります。ド=ゴールは就任後、保守派を抑えてアルジェリアの独立を承認します。こうしてアルジェリア問題は解決しました。
 この後、フランスは経済成長を遂げます。外交面では東西冷戦下で西側陣営に属しますが、アメリカとは一定の距離をおきます。経済的にはアメリカが圧倒的に強く、ヨーロッパにおいてもドイツが急速に国力を回復する中、フランスは大国としての存在感を高めることに腐心しました。ド=ゴールは「フランスの栄光」を掲げてアメリカに追随しない独自の自主外交を展開し、核実験の実施、NATOからの脱退、部分的核実験禁止条約の調印拒否などに踏み切りました。そして東側との融和などで主導権をとりました。
 ド=ゴールは国民の強い支持を受けて10年にわたって政権を握りましたが、長期化するにつれて社会からの不満も高まります。1968年には五月危機と呼ばれる反体制運動が起こってド=ゴール政権の権威が揺らぎ、翌年退陣しました。なお第五共和制は現在まで続いています。

 以上がこの映画の背景となる大きな流れです。物語の中では時代を象徴するいくつかの出来事が描かれ、登場人物たちの運命を変えていきます。これらの出来事をもう少し掘り下げるとともに、それらを描いた他の有名な映画もご紹介します。

 まず、この映画に登場するフランスのシモンとアンヌの夫婦は、ユダヤ人であるために強制収容所に送られます。

 ユダヤ人を蔑視する思想については、ヨーロッパでは中世からが根強くあったようです。キリスト教が社会の中心であった時代において、教会により異教徒への迫害が行われるなか、ユダヤ人に対する憎悪が高まりました。中世の黒死病の流行をユダヤ人の陰謀とされたこともありました。
 19世紀以降はユダヤ人が経済的に成功する例もあり、それに対する反発からもユダヤ人を排斥する動きがありました。フランスでは1894年にドレフェス事件というユダヤ人の軍人に対するえん罪事件が起き、社会を揺るがせました。ロシアでも19世紀後半からポグロムという大規模なユダヤ人迫害がありました。
 このような流れの延長で出現したのがナチス・ドイツによるユダヤ人迫害(ホロコースト)です。ドイツ人などのゲルマン民族が最も優れた人種であり、ユダヤ人は最も劣る人種であるという主張です。ユダヤ資本に対して反発する民衆心理を巧みに捉え、ナチスが台頭する要因ともなりました。ユダヤ人の排斥はユダヤ人を絶滅する政策にまで推し進められました。
 第二次世界大戦開始後、ドイツは占領した地域において人種主義政策を強制します。ユダヤ人を隔離してアウシュヴィッツなどの強制収容所に収容して大量殺戮をするホロコーストが行われました。約600万人近いユダヤ人が犠牲になったと言われています。
 フランスでは1942年7月にパリで多くのユダヤ人が一斉に拘束され、収容所に移送される事件がありました。ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件と呼ばれています。この時、多くのユダヤ人の子供も収容所に送られました。ドイツ占領下のフランスでは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害に加担したフランス人が多数いたと言われています。この時の事件もフランス警察によって行われたようです。

 ホロコーストを取り上げた映画は多数ありますが、代表的なものとしては1993年のスティーヴン・スピルバーグ監督による「シンドラーのリスト」があります。オスカー・シンドラーというドイツ人の実業家が1200人のポーランド系ユダヤ人の命を救った実話に基づく作品です。舞台はポーランドのクラクフ郊外に設置されたプワシュフ強制収容所です。収容所での過酷な迫害の実態もリアルに映像化されています。アカデミー賞では、作品賞を含む7部門で受賞しています。

オスカー・シンドラー
クラクフ・プワシュフ強制収容所

次に、映画の序盤でソ連のボリスが過酷な最前線に送られます。それがスターリングラード攻防戦です。

 1942年6月から翌年の2月までの間、ソ連領内のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)を巡ってドイツ軍とソ連軍が激しく戦いました。ソ連領内に侵攻したドイツ軍は進撃を続け、スターリングラードの90%を制圧しますが、ソ連のスターリンはスターリングラードの死守を厳命します。ソ連では多くの成年男子を徴兵して送り込み、強力な反撃にでます。ソ連軍がスターリングラードを包囲し、雪と厳寒の中で補給の絶たれたドイツ軍は降伏しました。この戦いは第二次世界大戦中最大の激戦と言われており、凄惨な市街戦により両軍で200万人を超える犠牲者がでました。独ソ戦ではこの戦い以降ドイツ軍の後退が始まり、ソ連が西に進軍して領土を回復していきます。第二次世界大戦全体の中でも重要な転換点となりました。
 下の写真は、スターリングラード攻防戦で突入するソ連兵です。

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RIA Novosti archive, image #44732 / Zelma / CC-BY-SA 3.0, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

この戦いを描いた映画もいくつかありますが、二つご紹介します。
 「スターリングラード」(2001年ジャン・ジャック・アノー監督)は、実在のソ連の狙撃兵を主人公にしてスターリングラードの激戦を壮大なスケールで描いたものです。

ソフィア・ローレン(映画「ひまわり」)

ひまわり」(1970年ヴィットリオ・デ・シーカ監督)は、第二次世界大戦によって引き裂かれたイタリア人夫婦の愛と悲劇を描き、映画史に残る名作と言われています。日本でも多くの人に愛されてきました。この映画で夫が動員されて送り込まれたのが地獄のような独ソ戦の最前線でした。スターリングラード攻防戦では、イタリア軍もドイツ軍とともにソ連軍と戦ったのです。マルチェロ・マストロヤンニが演じる夫がこの戦いで行方不明になります。戦争が終わった後に、ソフィア・ローレンが演じる妻が夫を探してロシアの大地をさまよい歩く姿が印象的でした。

 映画「愛と哀しみのボレロ」でアメリカのジョン・グレンは、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、軍楽隊の指揮者としてノルマンディに向かう部隊に随行します。

ノルマンディー上陸作戦

 1944年6月、アメリカとイギリスを中心とする連合軍が、ドイツに占領されていた北西ヨーロッパに侵攻した作戦です。アメリカのアイゼンハウアー元帥が指揮をし、イギリスからドーバー海峡を渡って北フランスのノルマンディー海岸への上陸を成功させました。連合国側にも大きな損害がでましたが、6月6日の1日で約10万人、1週間で50万人の兵員が上陸しました。上陸を許したドイツ軍はその後後退しました。この作戦の成功が第二次世界大戦の趨勢を決めたと言われています。

 いくつもの映画が作られています。「史上最大の作戦」(1962年)は、上陸作戦を詳細に描いたノンフィクションの映画化です。この戦いを正面から壮大なスケールで描いた大作で、各国のトップスターが多数出演しました。
 「プライベート・ライアン」(1998年)は、ノルマンディー上陸作戦で行方不明になった兵士の救出に向かう部隊を描いたスティーヴン・スピルバーグ監督の作品です。男たちの友情と過酷な戦場がリアルに描かれました。

 映画「愛と哀しみのボレロ」の中盤でフランスは連合軍によりドイツの支配から解放されます。その時の出来事はとてもインパクトのあるものです。

 フランスでは解放された後、ヴィシー政府は解体され、国家を再建する一環としてドイツへの協力者に対する裁判が行われました。公的な裁判によりヴィシー政府の関係者などに対する処罰が行われました。これを「エピュラシオン」といいます。ヴィシー政府幹部は、首相であったペタン以下が死刑判決を受けました。高齢のペタンは無期禁固に減刑されましたが、多くの幹部が処刑されました。公職からの追放、公民権の剥奪は数万人に及びました。

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Bundesarchiv, Bild 146-1971-041-10 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

 このような正規の裁判とは別に、市民レベルでの報復という暗い出来事もありました。パリが解放された直後、喜びに沸くフランス市民は連合軍を熱烈に歓迎しましたが、同時にドイツへの協力者と目された人間に対しては裏切者として様々な復讐を行いました。公衆の面前での侮辱、暴行などの民間人による粛正が行われ、殺害された人もいたと言われています。 特に、占領中にドイツ人と深い関係になったとされた多くのフランス人女性たちが対独協力者のレッテルを貼られ、見せしめのため頭を丸刈りにされた上で、さらし者にされて群衆から罵声を浴びせられるなどの辱めを受けました。

「二十四時間の情事」

これらは正規な手続きや法律に基づかない民衆によるリンチです。フランス人としては掘り起こされたくない歴史のようですが、フランスの映画史に残る有名な作品の中で描かれています。フランス映画の巨匠アラン・レネ監督が、デビュー作である「二十四時間の情事」(「ヒロシマ・モナムール」)(1959年)でこの出来事を取り上げています。

 この映画では、終戦から10年後、フランス人の女優が映画の撮影のために広島を訪れ、日本人の建築家の男性と親しくなります。その男性は原爆により家族をすべて失っていました。一方フランス人の女性は、大戦中故郷のヌヴェールでドイツ人の将校と恋仲になりました。そのため彼女は戦後に丸刈りにされて町中の見世物にされたという過去がありました。レネ監督は、戦争の残した傷跡の一つとしてフランスでは一種のタブーになっているこの出来事を描きました。

 映画「愛と哀しみのボレロ」の後半には、第二次世界大戦後、アルジェリア戦争に動員された後、フランスに帰還した四人の若者が登場します。彼らはこの戦争で精神的に傷ついて帰って来ました。心のバランスを失った者もいました。アルジェリア戦争は日本人にはなじみが薄いですが、フランスでは国を二分する重大な出来事でした。

 北アフリカで地中海に面するアルジェリアはアラブ人が主体のイスラム教国ですが、1830年にフランスのブルボン復古王朝のシャルル10世が出兵し、フランスの植民地となりました。その後130年にわたり100万人以上のフランス人が入植して現地を統治してきました。フランスにとってアルジェリアは、他の植民地よりも歴史が長く、入植者も多いため非常に重要でした。第二次世界大戦後、他の植民地が独立してもアルジェリアだけは手放したくないという空気が強かったようです。
 しかしアルジェリアでも民族独立運動が起きます。1948年に民族解放戦線(FIN)が結成され、武装蜂起してアルジェリア戦争が始まりました。現地の支配層であるフランス人入植者の子孫やフランス軍は厳しく弾圧しますが、現地人のテロが続き凄惨な戦いとなります。アルジェリア植民地の保持に固執した政府や軍により若者たちが駆り出されて戦場に投入されました。
 フランス政府が独立の容認に傾くと、現地の入植者が激しく反発します。軍部もインドシナ戦争に敗れたことの名誉回復を狙います。1958年、アルジェリアに駐留していたフランス軍の部隊が本国政府への反乱を起こします。フランス本国でも意見は真っ二つに割れ、政府は統制ができなくなります。その混乱を収拾するため祖国解放の英雄シャルル・ド=ゴールが大統領に就任します。ド=ゴールはアルジェリアを死守したい保守派からも期待されていましたが、大統領にとして強力な権限を得るとアルジェリアの独立を認める方向に動きます。現地軍の反乱を抑え、1962年にエヴィアン協定を締結して和平を実現しました。

住民に対する弾圧(映画「アルジェの戦い」)

このアルジェリア戦争をリアルに描いてヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したのが「アルジェの戦い」(1966年ジッロ・ポンテコルヴォ監督)です。実際の戦争経験者を含む多くのアルジェリア市民が参加し、独立戦争の実態をドキュメンタリータッチで再現しました。

 当時のフランスの保守的勢力や軍関係者はド=ゴールがアルジェリアの独立を認めないことに期待していました。しかしド=ゴールが結局はアルジェリアの独立を認めたため、一部の勢力はド=ゴールに裏切られたと考えました。彼らの失意はド=ゴールへの殺意にまで変わりました。実際にいくつもあったド=ゴール大統領暗殺計画をもとに書かれたサスペンス小説がフレデリック・フォーサイスによる「ジャッカルの日」です。世界的な大ベストセラーとなり、映画化もされました(1973年フレッド・ジンネマン監督)。緊張感みなぎるサスペンス映画の傑作です。
 フランスではアルジェリア戦争のために多くの若者が徴兵されて現地に送られました。ミュージカル映画のスタンダードとして根強い人気がある「シェルブールの雨傘」(1964年ジャック・ドミー監督)では、若者が戦争に動員されて恋人との仲が引き裂かれます。せつない恋愛物語ですが、この時の戦争がアルジェリア戦争です。全編が歌で進行するとても美しい映画です。映画としては画期的な型式で、カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞しています。

「勝手にしやがれ」

 アルジェリアに送り込まれた若者たちは、この戦争の大義も理解できないまま悲惨な経験を強いられ、混乱のうちに帰還しました。この頃のフランスでは若者たちの間に虚無感や閉塞感が広がるという現象があったようです。当時の若者の鬱屈感を背景にして作られたのが、フランス映画の新しい流れであるヌーヴェルヴァーグの記念碑的作品である「勝手にしやがれ」(1960年ジャン=リュック・ゴダール監督)です。

 ソ連もこの物語の舞台の一つです。社会主義政権であるソ連では文化や芸術活動が統制されました。

 ソ連ではスターリン政権の時代に、芸術活動に関し「社会主義リアリズム」という方針が定められました。社会主義を礼賛し、人民に革命思想をもたせることが芸術活動の目的とされ、それにそぐわないものは国家により制限されました。権力により監視され抑圧される社会であり、自由な言論や芸術表現ができませんでした。
 しかし、バレエやオーケストラ等は外貨の獲得を目的に海外公演などをやっていました。また、知識人、学者、作家、芸術家やスポーツ選手などは自由主義圏の国の社会、生活、文化と接触する機会もあり、自由のないソ連での生活に不満を募らせました。文化人等が海外に出国した機会を捉えて西側に亡命するということが頻発しました。まさに東西冷戦の時代を象徴する出来事の一つでした。

 クロード・ルルーシュ監督が国境と時代を越えて展開する過酷で波乱に満ちた物語を通して、生きることの素晴らしさを格調高く歌い上げた人間賛歌です。文化と芸術の国であり、映画大国であるフランスならではの作品です。
 クロード・ルルーシュは、大人の恋愛を繊細なタッチで描いた「男と女」(1966年)がカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞して一躍有名になりました。他にも冬季オリンピックをドキュメンタリータッチで描いた「白い恋人たち」などがあります。

 この映画は、二十世紀の激動の時代に翻弄されながらも懸命に生きた人々の物語です。物語の根幹はフランスを中心にした二十世紀のヨーロッパの歴史の流れそのものです。
 フランスの近代は18世紀末のフランス革命から始まりました。ナポレオンの時代を経て、19世紀のフランスは自由と平等を求めて内乱や革命が繰り返され、政治体制はめまぐるしく変転しました。その一方で、産業革命により経済は発展し、海外にも進出しました。首都パリは近代的な都市として生まれ変わり、芸術の都として世界中の憧れの的になります。
 20世紀に入り、フランスはさらに激動の時代を迎えます。第一次世界大戦では戦勝国になりますが大きな痛手を受けます。戦間期には世界恐慌の影響を受けます。そして第二次世界大戦に向かう不穏な時代から「愛と哀しみのボレロ」は始まりました。戦争で多くの人命が失われる悲劇、ドイツによるフランスの占領、ユダヤ人狩りと強制収容所へと物語は続きました。そしてパリの解放と対独協力者への制裁、戦争が終わってもその傷跡が人々を苦しめます 戦後はあらたに冷戦という対立の構図に置かれます。経済成長を遂げる一方、人々の孤独は深まります。アルジェリア戦争では国が二分されました。
 苦難の時代を懸命に生きた各国の芸術家たちの愛と喜び、そして哀しみが胸を打つ一大叙事詩です。

 この映画は、芸術をテーマにしつつ、五つの家族の物語が時間軸に沿って展開する群像劇です。国や文化が異なる人々が、互いに交錯しつつ運命の糸をたぐり寄せるように長い時間を経てつながっていきます。
 そのため人間関係がやや複雑です。しかも作中の親、子、孫を同じ俳優が一人二役で演じているケースが多いのも特徴です。初めて見る時は少し混乱するかもしれません。

 絢爛たる映像美と流麗な音楽の調和がこの映画の魅力の一つです。音楽は「シェルブールの雨傘」「華麗なる賭け」などのミッシェル・ルグランと、「男と女」、「ある愛の詩」などのフランシス・レイというフランスの映画音楽の二大巨匠によるコラボレーションです。

ジョルジュ・ドン

 クライマックスの「ボレロ」の場面は圧巻です。同じメロディを繰り返しつつ様々な楽器が加わり、歌声が響き渡ってさらに盛り上がります。二十世紀バレエ団の伝説的ダンサーであるジョルジュ・ドンが強烈な存在感を放っています。フランスが世界に誇るバレエ振付家であるモーリス・ベジャールによる振り付けです。