映画史上に燦然と輝く名作と言われるフランス映画「天井桟敷の人々」です。
まず、「天井桟敷の人々」に寄せられた美輪明宏さんの賛辞です。(公式HPより)
「詩人プレヴエールによる数々の名台詞が人間の弱さや愚かさ、愛の真実を見事に表現します。
何があっても観ておくべき!
世界最高の恋愛映画」
■映画の概要
・1945年フランス映画
・監督 マルセル・カルネ
・出演 ジャン=ルイ・バロー、アルレッティ、ピエール・ブラッスール
■あらすじ(ネタバレなし)
時代は1830年代です。フランス革命の勃発から約50年後、歴史上は七月王政と呼ばれている、国王ルイ・フィリップの時代の物語です。
舞台は、ヴールヴァル・デュ・タンブル(タンブル大通り)というパリの歓楽街です。芝居小屋が軒を並べ、芸人をはじめ様々な人々が集う街です。
女芸人ガランス(アルレッティ)はこの街の見世物小屋で人気をよんでいましたが、ある時、無言劇団フュナンビュール座の劇場の前で演じられていたパントマイムを観ていて、スリの濡れ衣を着せられてしまいます。しかしパントマイム役者のバチスト(ジャン・ルイ・バロー)が壇上から一部始終を見ており、出来事の一部始終をパントマイムで再現してガランスへの嫌疑を晴らします。これが二人の運命的な出会いになります。ガランスは彼に赤い花を投げて感謝の気持ちを伝え、バチストはその花を大切にしまっておきます。
ガランスはその騒ぎで失業してしまい、パチストは彼女をフュナンビュール座に入れてあげます。
バチストはガランスに恋い焦がれますが、彼女の周囲には多数の男が取り巻いていました。作家でもある悪漢のラスネール(マルセル・エラン)、駆け出しの俳優のルメトール(ピエール・ブラッスール)などです。
内気なバチストはガランスに思いを告げることができませんでした。一方、座長の娘で女優のナタリー(マリア・カザレス)はパチストに思いを寄せていましたが、バチストの気持ちを知ってショックを受けます。
映画「天井桟敷の人々」の舞台となる場所と時代は、歴史小説「レ・ミゼラブル」と重なり合います。「レ・ミゼラブル」はフランスのロマン主義の文豪ヴィクトル・ユーゴーの代表作です。そして「天井桟敷の人々」と「レ・ミゼラブル」の背景にあるのは、フランス革命以来の激動の時代にフランスの人々の心に生き続けた革命の精神です。
それでは、フランス革命から七月王政までの歴史の流れを「レ・ミゼラブル」のハイライトシーンと共に見ていきましょう。
◎歴史的背景 フランス革命
フランスでは16世紀末にブルボン朝が始まり、ルイ14世の時代に絶対主義が完成します。絶対王政下のフランスは「旧制度(アンシャン・レジーム)」と呼ばれる身分制度の社会でした。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は広大な土地を領有するとともに免税などの特権をもち、重要な官職を独占していましたが、人口の98%を占める第三身分(平民)は不平等な扱いを受けていました。第三身分には、ブルジョワジー(ある程度の私有財産を有する市民)から労働者、貧農など幅広い層が含まれていました。18世紀末には、啓蒙思想やアメリカ独立革命の影響もあって不満が強まり、改革への機運は高まっていました。
フランス革命は、国王に対する貴族の反乱から始まりました。フランスは度重なる戦争で国家の財政は赤字が続いていましたが、アメリカ独立戦争に参戦したことなどから財政が破綻します。政府は、貴族がもっていた免税特権を廃止して課税する等の改革を試みます。しかし逆に貴族はこの機会に王権に対する自分たちの立場の強化を目指します。貴族たちは「三部会」(聖職者、貴族、市民の代表からなる会)の招集と三部会での承認を求めました。三部会は175年間も閉鎖されていました。
1789年にヴェルサイユ宮殿で三部会が開催されます。市民(第三身分)の代表であるブルジョワジーは、憲法の制定を目指します。しかし、第一・第二身分と第三身分は議決方法をめぐって対立します。そして第三身分は、国民の代表機関として身分制でない「国民議会」を独自に組織し、憲法制定まで解散しないことを誓います(球戯場の誓い)。その動きに対して国王は軍隊を動員して圧力をかけます。
一方、都市民衆や農民などの下層市民(一般市民)は食糧危機などにあえいでいました。7月14日、パリの民衆が蜂起し、絶対王政の象徴でもあったバスティーユ牢獄を襲撃し占拠しました。パリは大混乱に陥ります。
パリの動乱は地方にも波及し、各地で農民の蜂起が起き騒然となりました。
自由主義貴族や上層市民は、農奴制等を廃止する「封建的特権の廃止」を国民議会で決議し、「人権宣言」を採択しました。人権宣言は自由主義貴族のラファイエットが起草したもので、法の下の平等、国民主権、私有財産の不可侵等、後の近代国家の原理となるものをうたった画期的なものです。
この段階では革命の主導権はラファイエットやミラボーなどの自由主義貴族や上層市民(ブルジョワジー)がもっており、立憲君主制を目指すものでした。立憲君主制とは、国王などの君主が存在しますが、憲法によって君主の権力が規制される体制です。1791年には憲法を制定しました。この憲法は穏健な内容で、選挙権には財産資格が設けられる制限選挙制でした。憲法の制定後、国民議会は解散して選挙が実施され、新たに「立法議会」が成立します。これによりフランスでもイギリスと同様に立憲君主制が実現しました。
しかし国王一家が国外逃亡を図って失敗した(ヴァレンヌ逃亡事件)こと等が転機となり、国王は国民の信頼を失います。一方、オーストリアとプロイセンは革命の影響が自国に及ぶことを恐れ、革命に干渉する動きを見せた(ピルニッツ宣言)ことから、対外的な危機が高まります。
立法議会の中では、それまでの立憲君主主義者に対抗して、共和主義者のジロンド派が台頭します。ジロンド派は商工業のブルジョワジーが基盤です。1791年、ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦します。フランス国民の愛国心が高まり、各地から義勇軍がパリに集まります。この時、現在のフランス国家である「ラ・マルセイエーズ」が生まれました。
パリでは民衆が過激化し、革命は一気に急進化します。1792年8月、テュイルリー宮を襲撃して国王を幽閉し(8月10日事件)、立法議会は王権を停止します。議会は解散し、男子普通選挙により「国民公会」が成立します。そして都市の下層市民や農民を基盤とする急進的なジャコバン派が勢力を拡大します。穏健な共和制の維持を主張するジロンド派と革命の推進を主張するジャコバン派が対立します。9月には国民公会が王政の廃止を決議し、フランスは初めて共和制になります(第一共和政)。
1793年1月、国民公会の議決によりルイ16世は処刑されます。それをきっかけとしてイギリスを中心とする「第一回対仏大同盟」が結成され、フランスはヨーロッパ全体を敵にまわすことになります。
内外の危機が高まるなか、ロベスピエールに率いられたジャコバン派は、ジロンド派を国民公会から追放して独裁体制を固めます。価格の統制や土地改革(封建地代の無償廃止)などの急進的改革を行い、男子普通選挙を定めた共和主義の1793年憲法を制定します(ただし、この憲法は実施されませんでした)。そして反対勢力を粛正するなどの恐怖政治を行います。この時、王妃マリー・アントワネットも処刑されました。対外的には1794年にフランス軍が攻撃に転じます。
しかし恐怖政治は長くは続きません。やがて独裁に対する反発が強まり、ジャコバン派は民衆の支持を失います。1794年7月にはロベスピエールが逮捕、処刑され、ジャコバン派は一掃されました(テルミドール9日の反動)。その後は旧ジロンド派等の保守的な共和派が勢力を回復します。1795年10月には1795年憲法が制定され、急進化した革命は穏健な共和制に戻ります。5人の総裁からなる「総裁政府」が成立します。革命初期の1791年憲法が定めた立憲君主制とは異なり国王が存在しない共和制ですが、選挙権には財産による資格を設けた制限選挙制です。
総裁政府の下では、国内の左・右両勢力の対立が激しく政局は不安定で、行政や治安は混乱しました。また対外的には対仏大同盟が存続していました。土地を所有する農民が増加し、私有財産の不可侵が定められている等革命前とは違いますが、有資産階級であるブルジョワの利益が重視されました。社会では貧富の差が大きく、多くの市民はフランス革命以前よりも貧しい生活を送っていたとも言われています。
★この頃「レ・ミゼラブル」では
「レ・ミゼラブル」の物語はこの時代から始まります。市民は貧しく日々の生活もままならない状況です。主人公のジャン・バルジャンは姉の子供たちのためにパンを盗んで逮捕されます。その後、脱獄を図ったこと等から結果として19年間を監獄で過ごすことになります。
貧しさゆえにジャン・バルジャンがパンを盗んだのは、フランス革命の前ではなく、革命が進展して国王が処刑されてから三年も後のことです。
◎歴史的背景 ナポレオンの時代
民衆の間では社会を安定させる強力な政権を望む声が高まります。そしてナポレオンの登場となります。ナポレオンは1796年にイタリア遠征軍の司令官に抜擢され、翌年アルプスを越えてオーストリアを破り、対仏大同盟を崩壊させて名声が高まります。さらにインドとイギリスの通商を絶つためにエジプトに遠征しますが敗北します。その間に第二回対仏大同盟が成立すると、ナポレオンは単身帰国し、1799年に無力な総裁政府を倒して三名の統領からなる統領政府をたて(ブリュメール18日のクーデター)、自ら第一統領となって実権を握ります。
1800年、ナポレオンは再度オーストリアを破り、1802年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約)、第二回対仏大同盟を解体させます。ローマ教皇とも和解します。フランスは平和と社会の安定を取り戻しナポレオンの名声はさらに高まります。 同年の国民投票で終身統領となり、フランス銀行を創設、国民教育制度を確立します。さらに所有権の不可侵、法の下の平等などを定めた「ナポレオン法典(フランス民法典)」を発布しました。これによりフランス革命の成果が成文化されます。革命の精神はナポレオンの下でフランス社会に定着していきます。
ナポレオンは野望を燃やし、1804年、国民投票により皇帝に就任しナポレオン1世となります。しかし皇帝の正当性は血筋ではなく国民投票に基づいており、ここでもフランス革命の理念は継承されています。
1805年、フランスの強大化を恐れた各国は第三回対仏大同盟を結成します。ナポレオンはイギリス本土への上陸を目指しますがトラファルガーの海戦でネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北して挫折します。しかし大陸では同年の「アウステルリッツの三帝会戦」でロシアとオーストリアを破ります。さらにプロイセンを破ってティルジット条約を結び、西南ドイツの諸国をまとめて親仏的なライン同盟を結成します。こうしてヨーロッパ大陸の大半を支配下におきます。そして大陸市場からイギリスを閉め出してフランスの産業を育成するため、大陸諸国とイギリスの間の貿易を禁ずる「大陸封鎖令」を出します。
しかしこの大陸封鎖令は大陸の諸国にとっても打撃となります。フランス革命中の対外戦争はフランスの防衛でしたが、ナポレオンの時代になると侵略戦争の性格が強まりました。絶対王政下にあった諸国民にとっては、当初ナポレオン軍はフランス革命の精神である自由と平等をもたらす解放者でした。しかし次第にフランスの大陸支配への反発が強まり、各国で民族意識が高まります。ナポレオンの支配はスペインの反乱から揺らぎ始めます。ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開すると、ナポレオンは大軍を率いてロシア遠征を行います。一時はモスクワを占拠したものの、雪の中での退却を余儀なくされ、結局勢力を大きく失います。ここでヨーロッパ各国がいっせいに立ち上がります。ナポレオンは1813年からの諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)に破れ、退位して地中海のエルバ島に流されました。
★この頃「レ・ミゼラブル」では
この頃ジャン・ヴァルジャンが監獄から釈放されます。つまりナポレオンの時代には、ジャン・バルジャンはずっと監獄に入っていたのです。
ジャン・バルジャンは出獄しても、それまでの長い監獄生活から極度の人間不信に陥っていました。しかしミリエル司教と出会い、司教の情愛に触れることにより改心し、「正しい人」として新しい人生を歩む決意を固めます。有名な銀の燭台のエピソードはこの時のものです。
◎歴史的背景 ウィーン会議と復古王政
ナポレオンが失脚すると、戦後の処理とヨーロッパの秩序の回復のための国際会議が1814年にウィーンで開催されました。ヨーロッパ中の国が参加しましたが、オーストリア、イギリス、ロシア、プロイセン、フランスが主導権を取りました。
「会議は踊る、されど進まず」と言われたように、華やかな宴会や舞踏会が開かれるなかで裏取引が行われましたが、領土の拡大を図る各国の利害の調整がつかず会議は長引きます。その間にナポレオンはエルバ島から脱出して皇帝位に復帰しますが、約三ヶ月しか続きませんでした(百日天下)。「ワーテルローの戦い」でヨーロッパ各国の連合軍に敗れ、大西洋の孤島セントヘレナに流されました。
ナポレオンの再起で会議が一時中断された後、大国の利害のバランスが図られて、ようやくウィーン議定書が締結されました。会議では、フランス革命以前の王朝と政治体制に回帰する「正統主義」が原則とされました。国王や貴族の支配の復活を図るものです。そして列強の「勢力均衡」により、革命や戦争の再発を防ごうとします。この復古的な国際秩序はウィーン体制と呼ばれています。ウィーン体制では、大国の軍事同盟である「四国同盟」(後に「五国同盟」)とキリスト教の精神に基づく「神聖同盟」が基軸となり、大国の協調により保守的な体制の維持が図られました。オーストリアの外相(後に首相)のメッテルニヒが国際政治を主導し、ウィーン体制の維持が至上命題とされます。
しかしフランス革命の影響から、自由主義、国民主義(ナショナリズム)がヨーロッパ各地に広がっていました。これが近代市民社会の到来を告げるものだと言われています。政治的、経済的に自由と平等を求めるフランス革命の精神がナポレオンの時代にフランスの社会に定着し、ヨーロッパ各国に広まりました。
各国ではウィーン体制に反発する動きが起きますが、この時点では抑圧されました。
フランスではウィーン体制下でブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王になります(復古王政)。王政が復活しましたがあくまで立憲君主制であり、フランス革命前の絶対王政とは異なります。所有権の不可侵や法の下の平等、言論・出版の自由などの革命の成果は保障されていました。憲法が定められ議会も設置されますが、制限選挙によるものです。いってみればフランス革命の最初の段階であった1791年憲法に近い体制に戻ったことになります。革命の理念と王政を組み合わせたような形になります。貴族の権限を強化しようとする国王と、それに反対する自由主義者の対立が強まります。市民には自由と平等を求める意識が定着しており、人民主権など政治体制の近代化を求める運動が続きます。
一方、産業の発達に伴い、市民の中でも産業資本家や金融業者などの上層ブルジョワジーが成長していき、都市の民衆や農民との溝が深まっていました。
★この頃「レ・ミゼラブル」では
ジャン・バルジャンは日々の努力を積み重ね、工場の経営者となり、人々の信頼も得て市長になっています。
一方、フォンティーヌは工場で働きながら娘のコゼットを1人で育てていました。しかし、工場を解雇されて苦しい生活を送った末に命を落とします。そして、ジャン・バルジャンがコゼットを引き取ることになり、愛を込めてコゼットを育てます。
1824年にシャルル10世が即位すると、反動政治を強め、絶対主義の時代に戻そうとします。1830年の選挙で自由主義者が勝利すると、国王は議会を解散します。出版の自由を停止し、選挙権への制限を大幅に強めます。7月にはそれに反発して学生、労働者、市民など民衆がパリで蜂起し、バリケードを築きます。結局、国王は国外への亡命を余儀なくされます。これが「七月革命」です。
七月革命により復古王政は倒れました。その後の政治体制については、共和制を望む声もありましたが、上層ブルジョワジーたちは革命が過激になることを恐れ、共和制ではなく立憲君主制を選びます。そして開明的な自由主義者であると言われていたルイ・フィリップを新しい国王に迎えます。ブルボン家の分家の出身です。憲法が制定され、立憲君主制となります。選挙制度も新しくなりますが選挙権は有産者に限られます。七月革命前の復古王政期に比べれば有権者は増えましたが、それでも全人口のわずか0.6%にすぎませんでした。議会は産業資本家や銀行家等の上層ブルジョワジーが支配的になり、政権はその利益の保護を図ります。
七月革命の影響はヨーロッパの他国にも波及します。ベルギーではオランダからの独立が実現しました。ポーランドやイタリアなどでも反乱が起きますが鎮圧されます。
七月王政期は、フランスにおいても産業革命が大きく進展した時期です。人力にかわって機械の動力を用いる技術革新により工場生産が広がります。経済は農業中心から工業中心に転換し、鉄道の建設も進みます。産業革命が進んだフランスでは、中小の産業資本家が台頭し、一方では労働者層も形成され、市民の間にも階差が大きくなっていきます。銀行家等の上層ブルジョワジーに対する反発が強まります。労働者の勤務条件や生活環境は劣悪なものであったため、労働運動も活発になります。
七月王政はやがて少数の大資本家との結びつきを強めます。国内の貧富の差は拡大し、労働者や農民の不満は高まります。ルイ・フィリップ政権への批判が強まり、中小のブルジョワジーや労働者は選挙制度の改正を求めます。普通選挙を要求する運動が「改革宴会」という合法的な集会により展開されました。
★この頃「レ・ミゼラブル」では
成長したコゼットはマリウスという若者と出会います。マリウスは王政に反対して共和制を目指す秘密結社に所属する若者でした。2人は愛し合うようになります。
1832年、民衆に人気のあったラマルク将軍が亡くなったことが契機となり、七月王政を打倒する機運が高まります。将軍の民衆葬のあった日に革命を志す若者や労働者たちが決起します。パリの市街にバリケードを築いて立てこもります。この時の若者のリーダーの1人がアンジョルラスです。マリウスも参加します。
これが「レ・ミゼラブル」のクライマックスで、後に「6月暴動」と呼ばれる事件です。激しい市街戦が行われましたが、結局この暴動は鎮圧されます。アンジョルラスは死に、マリウスは重傷を負います。ジャン・バルジャンが瀕死のマリウスを背負って下水道をさまよう場面は有名です。
翌年、ジャン・バルジャンは結婚したマリウスとコゼットに看取られて苦難の生涯を終えます。
こうして「レ・ミゼラブル」の波瀾万丈の物語は幕を閉じます。6月暴動は鎮圧され、街は平穏を取り戻します。しかし人々の暮らしが良くなったわけではなく、選挙権が広がったわけでもありません。市民の不満は彼らの胸の奥にたまっていきます。そしてフランスの人々には、自由と平等を求めて立ち上がるというフランス革命の精神がしっかりと根付いています。
映画「天井桟敷の人々」が描くのはこの時期のフランス市民の物語です。
次に映画「天井桟敷の人々」の製作の背景を見ていきましょう。この映画には、その製作に携わったフランスの映画人たちの強い意志に裏付けられた強烈なメッセージが込められています。この映画が製作されたのは物語の舞台となった1830年代から約110年後です。第二次世界大戦中のフランスがドイツに占領されていた時期です。それでは、第一次世界大戦終了からこの映画が製作された時期までのフランスとドイツの関係を中心に歴史の流れを見ていきましょう。
◎歴史的背景 第一次世界大戦終了から第二次世界大戦へ
第一次世界大戦でフランスは戦勝国となりましたが、ドイツとの戦いで国土が戦場になったため人的にも物的にも大きな被害を受けました。そのため敗戦国ドイツに対する復讐心が非常に強く、パリ講和会議では対ドイツの強硬姿勢を貫きます。講和条約であるヴェルサイユ条約では、それまでドイツに奪われていたアルザス・ロレーヌ地方がフランスに返還され、ドイツに巨額の賠償金を課して軍備を制限するなど、過酷な内容となりました。ドイツでは反ヴェルサイユ条約の強い感情が生まれました。
戦後もフランスの対独強硬姿勢は変わらず、賠償金が支払われないことから1923年にはベルギーと共にドイツの工業地帯であるルール地方の占領を強行しました。
1920年代には、アメリカの支援によりドイツの賠償金支払いの目処がたったこともあり、緊張が和らぎ国際協調の時代となります。しかし、1929年秋、アメリカのニューヨーク株式市場の大暴落から始まった世界大恐慌により状況は大きく変わります。各国は閉鎖的な経済ブロックの形成などの対策を講じるとともに、勢力圏の拡大を図り、主要国家間の対立が激しくなります。フランスも経済ブロック(フラン・ブロック)を形成して乗り切ろうとします。
ドイツでは、経済が大打撃を被り、失業者が急増して社会不安が高まります。こうしたなかでヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が急速に台頭します。ナチスは大規模な公共事業などにより失業者を減らして広く国民の支持を集めます。1934年にはヒトラーが総統に就任して一党独裁制を樹立します。国際連盟からも脱退して再軍備宣言を行い、ヴェルサイユ体制は崩壊します。
ドイツは1938年3月にはオーストリアを併合し、さらにチェコスロヴァキアのズデーデン地方の割譲を要求します。イギリス、ドイツ、イタリア、フランスの首脳によるミュンヘン会談が開催されますが、この時イギリスは戦争を回避するために対独宥和政策を採っており、ドイツの要求を承諾します。フランスはドイツを警戒してはいましたが、軍事面での準備不足もありイギリスと歩調を合わせました。しかしドイツの領土要求はさらに拡大し、ポーランドをも要求します。ここにいたってイギリスとフランスはドイツとの対決姿勢を強めます。
1939年9月、ドイツは突然ポーランドへの侵攻を開始します。これに対しイギリスとフランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まります。当初は、ドイツとフランスの間では戦闘が行われない「奇妙な戦争」と呼ばれた状態になりますが、1940年4月ドイツは侵攻を開始し、中立国であるオランダとベルギーを突破して瞬く間にフランスに攻め込みます。イギリスはフランスの救援に向かいますが、ドイツは戦車や飛行機を用いた電撃戦を展開してフランス軍とイギリス軍を圧倒します。第一次世界大戦ではドイツの進撃を阻止したフランスですが第二次世界大戦では一ヶ月ももちませんでした。6月にパリが陥落してフランスは降伏します。
ドイツはさらにイギリス本土にも進撃する勢いを見せますが、イギリスはドイツ軍の上陸を阻止します。ドイツによる激しいロンドン空襲にも耐え、戦争は長期戦となります。
ドイツに降伏したフランスは国土を南北に分断され、北半分は直接ドイツ軍の占領下におかれます。フランス政府は中部のヴィシーに移り、第一次世界大戦の英雄であったペタンが首相になります。ヴィシー政府はドイツに対する協力を表明してフランスの存続を図ろうとします。このヴィシー政府はドイツの傀儡政権であったと言われています。
これに対し、シャルル=ド=ゴール将軍はロンドンに亡命して「自由フランス政府」という亡命政権を結成し、ロンドンから抗戦を呼びかけます。フランス各地でも抵抗運動(レジスタンス)が始まります。
映画「天井桟敷の人々」は、このような状況下のフランスで製作されました。
■映画のあれこれ 製作の背景
この映画の監督はマルセル・カルネ、脚本と台詞は詩人のジャック・プレヴエールのオリジナルです。この2人はそれ以前にも「霧の波止場」(1938年)や「悪魔が夜来る」(1942年)などの傑作を生み出した名コンビです。
第二次世界大戦中の1942年頃、ほぼ同時期に後世の映画史に残る二本の映画の製作が始まりました。アメリカの「カサブランカ」とフランスの「天井桟敷の人々」です。「カサブランカ」は、ドイツの侵攻を避けてヨーロッパからアメリカに脱出しようとする試みが物語の核になっていますが、これは当時実際にあった動きです。この時期、フランスの映画人のほとんどはアメリカに亡命しています。しかしマルセル・カルネとジャック・プレヴエールはあくまでフランスにとどまって創作を続ける道を選択します。そして第二次世界大戦中、しかもナチス・ドイツによる占領下という政治的にも経済的にも極めて困難な状況下で果敢に製作を続け、3年3ヶ月を費やして「天井桟敷の人々」を完成させました。第一部「犯罪大通り」、第二部「白い男」からなる3時間15分の大作です。
この作品の時代設定、台詞などの裏には、ドイツの占領に対する隠れた抵抗や自由に対する熱望といった政治的な寓意が秘められています。
天井桟敷とは、劇場の天井に近い最上階の、料金の一番安い席のことです。天井桟敷の人々とは、芝居好きのパリの庶民を指しています。映画に登場する天井桟敷の観客たちは子供のように賑やかです。沸き返るような喝采と熱気、そして溢れるばかりの活力があります。この生き生きとしたパリの庶民の姿がこの映画のタイトルにもなっています。
「天井桟敷の人々」が描いた1830年代の七月王政期は、フランス革命の勃発から50年を経ていますが、革命の理念であった自由と平等を求める精神は、ブルジョワジーから庶民にいたるまで、広く人々の心に染みこんでいました。そしてこの物語から十年あまり後、フランスの市民は武器を持って立ち上がり七月王政を倒します。1848年の二月革命です。「レ・ミゼラブル」で描かれた6月暴動でのアンジョルラスらの死を無駄にはしません。そして二月革命以降、フランスに王政が戻ることはありませんでした。これが歴史の事実です。だからこそマルセル・カルネとジャック・プレヴエールは、ドイツに占領されたフランスの人々の思いをこの時代の人々に託したのでしょう。何ものにも屈しない自由への叫びを詰め込んで渾身の力を振り絞ってこの大作を作り上げました。
撮影はドイツの直接支配下にあるパリを避け、ヴィシー政府が統治する南フランスのニースで行われました。ドイツの影響力が比較的弱い地域でしたが、それでも製作は難航を極めました。製作には、ナチス・ドイツの支配を逃れてきた亡命者やユダヤ人が密かに加わっています。
全長400メートルに及ぶ巨大な繁華街のオープン・セットとフュナンビュール座のセットが見事です。1500人のエキストラを動員した大通りの群衆シーンは、戦時下で撮影したとは思えない壮大さで圧倒されます。
この作品の雄大さは、人間精神の自由を求めてやまないフランス人の魂の叫びです。この作品にかけたフランス映画人の意気込み、映画への愛、熱い思いが込められています。
この映画が製作されていた三年あまりの間に戦況は大きく変わります。イギリスへの上陸を断念したドイツはソ連への大規模な侵攻を開始しますが、1943年2月のスターリングラード攻防戦で敗れ、以降はソ連が攻勢に転じます。また、アメリカが本格的に参戦し、アメリカとイギリスの連合軍は北アフリカからイタリアに上陸します。さらに連合軍は1944年6月に北フランスのノルマンディーに上陸し、8月にはパリが解放されます。翌1945年5月にはドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦いは終わります。
この映画は1945年3月、解放後間もないパリのシャイヨー宮殿でプレミア上映されました。その後フランスで公開されて大ヒットし、各国でも公開されました。この大作を占領下で作ったことはまさに驚異的であり、フランスという国の芸術性の高さをあらためて全世界に知らしめることになりました。
そもそも映画は19世紀後半にフランスのリュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスから始まりました。第一次世界大戦が始まる頃までフランス映画は質的にも量的にも世界一でした。その後世界の映画産業の中心はアメリカのハリウッドに移りますが、現在に至るまでフランスはアメリカと並ぶ映画大国です。
映画「天井桟敷の人々」の公開は、占領下という苦難から脱したフランス映画界の復活を宣言するものでした。まさにフランス映画復興の旗印ともいうべき記念碑的な作品となりました。
■映画のあれこれ 「天井桟敷の人々」の魅力
19世紀のパリを舞台に1人の女性とそれを取り巻く男性たちの人間模様ですが、当時のパリの世相を生き生きと描いた絵巻物です。冒頭に美輪明宏さんの賛辞をかかげましたが、日本を代表する二人の映画評論家も賞賛しています。
淀川長治さんは、「絢爛たるフランスの大歌舞伎」と呼びました。
双葉十三郎さんは「規模の雄大、精神の雄渾、この作品に比肩すべき映画はない。」と評しました。
脚本、台詞、音楽、美術、衣装、そのすべてにフランス映画ならではの気品が漂います。愛することの喜びと悲しみ、人生のかけがえのなさ、そしてこの時代を生きる人々のひたむきさに感銘を受けます。
主要人物を演じた俳優には当代随一の役者をそろえていますが、それぞれ名演です。
パントマイム芸人バチストを演じたジャン・ルイ・バローは、生きることへの情熱とその哀しみを全身で表現しています。何といっても劇中劇のパントマイムの素晴らしさは多くの人が絶賛しています。
女芸人ガランスを演じたアルレッティは、妖艶な美しさ、艶やかさとともに気品を兼ね備えて比類のない魅力を発揮しています。
バチストと恋のさや当てを演じるルメートルを演じたピエール・ブラッスールも、押しが強く野心的ですが決して悪人ではないという独特の個性を巧みに演じて存在感を示しています。
無頼漢ラスネールを演じたのはマルール・エランという俳優ですが、これもすばらしい演技で主役を食ってしまうほどでした。
パチスト、ルメートル、ラスネールの3人には19世紀はじめに実在したモデルがいるようです。まさに虚実を織り交ぜて描いた人間ドラマです。監督、脚本家とともに俳優やスタッフが一丸となり、占領下だからこその熱意と気迫を込めて作り上げたと言っていいでしょう。
この映画は、「詩的リアリズム」と呼ばれるフランスの映画運動の代表作にもなっています。「詩的リアリズム」とは、1930年代に始まったフランス独自の映画美学の傾向で、リアリズム(現実主義)と詩的な表現という一見矛盾する二つの表現方式に基づいた独特のスタイルです。文学的、演劇的な側面が強く、後にフランスでヌーヴェルバーグと呼ばれる映画の革新運動が起こった際には、この「詩的リアリズム」厳しく批判された時期もありましたが、その後再評価され、現在にいたるまで多くのファンに支持されています。
また、この作品はバルザックの「人間喜劇」を連想させるとも言われています。多数の人物が登場する複雑なドラマですが、わかりやすく構成されており、様々な人々が集う当時のパリの魅力がスクリーンから溢れ出ます。濃密で奥行の深い作品であり、上映時間3時間10分という超大作ですが、最後まで飽きることなく観ることができます。まさに観る者の心を豊かにしてくれる作品と言っていいでしょう。
公開以降、世界各国で多くの人の心をとらえて放しません。その魅力は今日まで語り継がれています。公開直後の1946年にヴェネツィア国際映画祭で特別賞を受賞しています。フランスでは1979年にセザール賞特別名誉賞を受賞、フランス映画史上ベストワンに選出されています。
日本でも1952年に初公開されて大きな反響を呼びました。その後も雑誌等での映画史上のベスト100等の企画では必ず上位に選出されています。2009年にキネマ旬報が行った「オールタイム映画遺産200(外国映画篇)」においても、評論家・文化人の投票で第10位、読者の投票で第8位にランクされるなど、根強い人気は衰えません。
なお寺山修司さんが主催していた劇団「天井桟敷」の名称は、この映画を観て感動したことから着想を得たそうです。
■映画のあれこれ 名セリフ
この映画の脚本は言葉の魔術師と呼ばれた詩人ジャック・プレヴエールによる傑作です。全編が名セリフに彩られています。セリフ自体が詩になっていると言われました。哲学とも人生の教訓とも言われました。ウィットに富んだ、思わずメモをしたくなるような洒落た台詞が散りばめられています。
まず、この映画の代名詞とも言うべき有名な台詞がこれです。
「愛し合う者同士にはパリも狭いわ。」 Paris est tout petit pour ceux qui s’aiment.
この台詞は以下のようなやりとりの中で登場します。
「いつまた会える? この通りに置き去りかい?」
「いつか会えるわ。偶然にね。」
「だけどパリは広いんだよ。」
「愛し合う者同士にはパリも狭いわ。」
もう一つの有名な台詞は、男たちを翻弄するガランスのキャラクターが如実に表現されている一言です。
「恋なんて簡単よ。」
他にもたくさんありますが、いくつかご紹介します。
「昔はよかったわ。幸福な日々だった。」
「気をつけろよ。振り返ると過去は狂犬のように噛みつくぞ。」
「せめて君が金に汚され身も心も腐り果てて堕落してくれていれば、俺は心を乱されずにすんだの に!」
「何、この花は? 誰か死んだの?」
「そうです。死んだのです。あなたのためにと思い上がっていた男が。」
「まあこわい。」
「別の男が生まれました。あなたのために命を捧げる別の男です。」
「夢で君を見ていたんだ。君に花を投げられて夢から覚めた。」
「俺には虚栄心などない。あるのは自尊心だけだ。」
最後に、「天井桟敷の人々」が描いた七月王政期以降の19世紀フランスの歴史を駆け足で見ていきましょう。
◎その後のフランス
ルイ=フィリップ国王による七月王政に対し中小ブルジョワジー等が普通選挙を要求しますが、政府がそれを拒否したことなどから1848年に市民が蜂起し二月革命が起きます。これによりルイ=フィリップは退位、七月王政が倒れ、共和政が宣言され臨時政府が成立しました。フランスでの動きが発端となってヨーロッパ各地で様々な民族運動が連鎖的に発生し、ウィーン体制は終わりを迎えます。(「諸国民の春」)
しかしフランスの歴史はここからさらに曲折を経ることになります。
フランスの臨時政府には穏健な共和派から労働者や社会主義者まで様々な人々が参加しており混乱が続きます。政治的・社会的な混乱に不満を抱く民衆は統合と安定を求めるようになります。そうした中で行われた大統領選挙でナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが圧倒的な支持を得て大統領になります。さらに大統領自らが軍を率いてクーデターを起こし、国民投票での支持を受けて皇帝位につきます。ルイ=ナポレオンはナポレオン3世となり、第二帝政が始まります。
第二帝政期には積極的な産業保護政策等によりフランスの近代化が進みますが、外交政策の失敗等からナポレオン3世の権威は失墜し、プロイセンとの普仏戦争に敗れて第二帝政は終わります。この直後には、人類史上初の市民による自治政府であるパリ・コミューンの誕生とそれに対する過酷な弾圧という嵐がフランスを吹き抜けます。
そして第三共和政が始まります。政治的には不安定ながらも国力は回復し、産業も発達します。ヨーロッパ列強の一翼を担って海外での植民地形成も進めます。文化的にはパリは芸術の都として世界中の憧れの的となります。