まずはこの絵画をご覧ください。舞台は13世紀のローマ教会です。ある若者のグルーブがローマ教皇に謁見を許された場面です。右側の豪華な衣装の人物は、教皇権の絶頂期を築いた教皇として歴史にその名を残すインノケンティウス3世です。左側の粗末な衣服の若者たちの中心人物は、現在も世界各地で活発に活動するフランチェスコ修道会の創設者となる聖フランチェスコの若き日の姿です。
この面会の場面をクライマックスとする2つの映画をご紹介します。どちらも聖フランチェスコの生涯を描いたものです。
まず、この場面に至るまでのローマ・カトリック教会の発展と修道院の活動について見ていきましょう。
◎歴史的背景 中世カトリック教会と修道院の歴史
①教皇権の確立とベネディクト修道会
カトリック教会は、イエスの教えから始まるキリスト教世界の中心的存在です。当初はローマ帝国から厳しい弾圧を受けていましたが、392年ローマ帝国のテオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教とし、それ以外の宗教、宗派を禁止したことから、まずは地中海世界を中心に広がっていきます。
その後、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は476年にゲルマン人により滅ぼされます。
世俗の保護者を必要としたローマ教会は、ゲルマン人の建てたフランク王国との結びつきを強めます。496年にはフランク王国のクローヴィスが、ローマ教会が正統とするアタナシウス派キリスト教に改宗します。これによりローマ教会は一定の安定が得られますが、キリスト教の初期の純粋な信仰からは徐々に乖離していき、教会の指導者にも世俗化や堕落が見られるようになります。これに対し純粋な信仰と高い霊的生活に戻ることを主張する動きが現れます。それが修道院の活動です。
教会が布教の拠点として一般の信徒が出席しやすいよう町や村の中央にできたのに対し、修道院は修行の場として山の上や森の中に造られ、俗界と離れて生活をしました。中世のキリスト教世界においては、この修道院を中心とした改革運動が起こりました。
カトリック教会における最初の本格的な修道会としては、529年に聖ベネディクトスが中部イタリアにモンテ=カシノ修道院を作りました。腐敗堕落した教会がイエスの精神に立ち返ることを目指す刷新運動であり、キリスト教の権威を高めるうえで重要な役割を果たしました。
ベネディクト修道会と、はベネディクトスの定めた独自の戒律に従う修道院の総称です。ベネディクトスは、厳格な修行に身をおくことによって本来の信仰生活を取り戻そうとしました。
ベネディクトスの定めた戒律は「清貧、純潔、服従」が基本的な理念です。そして共同生活を送る上でのモットーが「祈り、かつ働け」です。信仰だけでなく労働も重視し、世俗権力への経済的な依存から抜け出したのです。多くの修道士を輩出し、ヨーロッパでキリスト教を広めることに貢献しました。
590年にローマ教皇となったグレゴリウス1世は自身が修道院に入っていた経験をもち、西ヨーロッパのキリスト教世界全体の最高指導者としての教皇の地位を築いたとされます。ベネティクト派の修道士をアングロ=サクソン七王国(現在のイギリス)に派遣するなどゲルマン民族の改宗に成功し、ローマ教会の支持基盤を作りだしました。
その後ローマ教会は8世紀に聖像崇拝問題を巡って東ローマ帝国の保護下にあるコンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)と対立するようになります。
756年にはフランク王国のピピンがラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進し、これがローマ教皇領の起源となります。ここからローマ=カトリック教会は経済的基盤を持ち、政治的な影響力も発揮するようになります。
800年にはローマ教皇レオ3世がフランク王国のカロリング朝カール1世にローマ皇帝の帝冠を授け、以後、西ヨーロッパ世界は政治的、宗教的にコンスタンティノープルを中心とする東方世界とは分離します。カール大帝の死後、フランク王国は三つに分裂しますが、962年ローマ教皇ヨハネス12世が東フランクのオットー1世にローマ皇帝の帝冠を授けます。これが神聖ローマ帝国(現在のドイツを中心とした多民族国家)の始まりになります。ローマ・カトリック教会とコンスタンティノープルのギリシア正教会は対立が深まり、最終的に1054年に完全に分離します。
ローマ=カトリック教会では教皇庁という組織が整備され、教皇を頂点として大司教、司教、司祭などの序列を定めたピラミッド型の聖職者階層組織(ヒエラルキー)が確立されます。ローマ教皇は神の代理人として人々の精神世界の指導者となります。同時に教会は広大な土地や農民らを支配し、政治・社会・文化の面でも重要な存在になります。このようにカトリック教会が世俗の権力と結びつきながらキリスト教をヨーロッパ中に広めていくにつれ、その頂点に立つ教皇の権威は高まります。
②クリュニー修道会と教会改革
政治的な後ろ盾を得てローマ・カトリック教会は発展しますが、聖職者が貴族とともに支配階級になると、教会の堕落も見られるようになります。それに対する改革の中心であった筈の修道院も世俗化していきます。そこでクリュニー修道院による改革運動が始まりました。クリュニー修道院は、10世紀初めにフランス中東部に建てられました。戒律の厳格化,肉体労働による修養の重視,世俗権力からの独立を目標とし、封建領主化したカトリック教会を浄化するための刷新運動の中心となります。
その影響を強く受けて、11世紀後半にグレゴリウス7世という教皇が教会の粛正に取り組みます。問題となったのは聖職売買と聖職者の妻帯です。特に、聖職者の地位が売買の対象となっていたため不適任な俗人が聖職者になるなどの風潮が見られました。グレゴリウス7世は聖職売買と聖職者の妻帯を厳しく取り締まるなどの改革を行い、倫理的な刷新を図りました。
その際大きな問題は、高位聖職者の任命権(叙任権)です。神聖ローマ帝国の皇帝は、領内の諸侯を抑えて自らの権力を強めるために教会を支配下に置こうとし、聖職者の叙任権を握っていました。教皇は聖職者の叙任権を皇帝から取り戻そうとします。一方、皇帝ハインリヒ4世は教皇の意向を無視して叙任権を行使したため、教皇との間で争いがおきます。いわゆる「叙任権闘争」です。この争いの過程で、1077年教皇は皇帝を破門にします。破門はキリスト教世界からの追放を意味します。キリスト教が人々の精神世界を支配していた中世において、これは大きな意味を持ちます。またこの時、帝国内のドイツの諸侯は、破門が解かれない場合には皇帝を廃位すると決議し皇帝を脅しました。皇帝はやむを得ず北イタリアのカノッサという城で教皇に謝罪し許しを請いました。有名な「カノッサの屈辱」です。
③教皇権の絶頂期とシトー修道会
叙任権を巡る皇帝と教皇の対立はその後も続きましたが、1122年にヴォルムス協約が締結され、一応の終結をみます。内容は多岐にわたっていますが、叙任権は主に教皇の手に渡り、教皇の教会指導権が確立して権威がさらに高まりました。
しかし、この頃のカトリック教会は所領も増えて世俗的にも大きな力をもち、またしても腐敗した面が出つつありました。改革の中心的な役割を果たしていたはずの修道院も土地の寄進等を受けるうちに、封建領主のようになっていき、規律の乱れや堕落が見られるようになります。その様な事態を憂えて,クリュニー修道会にかわる修道院運動の中心となったのがシトー派修道会です。11世紀にフランス中部で成立しました。ベネディクトゥスの会則の厳格な励行,粗衣粗食の質素な生活などによる霊性の復興をめざしました。また、荒野や森林の開墾に従事し、12~13世紀のヨーロッパの大開墾時代に大きく貢献したことで有名です。
11世紀末からは、教皇権の隆盛を背景に十字軍(聖地イェルサレムをイスラム教徒から奪回するための遠征軍)の派遣も始まりました。特に初期の十字軍は聖地の奪回に成功したこともあり、ローマ教皇の権威は高まりました。
教皇権の絶頂期は、13世紀はじめのインノケンティウス3世の時代だと言われています。この教皇は、神聖ローマ皇帝オットー4世やイギリス王ジョン・フランス王フィリップ2世を屈服させ、強大な教皇権を実現し、「教皇は太陽であり、皇帝は月である」との言葉を残しました。
これが冒頭の絵画の右側の人物です。
それではこの絵画の左側の若者たちの中心人物であるフランチェスコの生涯を見ていきましょう。アッシジのフランチェスコについては多くの資料が残されており、また様々な伝説や異聞が流布されていますが、世の中によく知られているフランチェスコの生涯は以下のようなものです。
◎歴史的背景 アッシジのフランチェスコの生涯
①清貧の生き方と教皇への謁見
フランチェスコは、1182(または1183)年にイタリアのアッシジという町に生まれました。アッシジは、イタリア中部のウンブリア州ペルージャ県というところにある丘の上に広がる町です。
フランチェスコは、富裕な商人の息子として何不自由なく育ち、若いころは享楽に溺れていたと言われています。
フランチェスコが信仰に目覚めたのが何時なのかは、様々な言い伝えがあるようです。
当時のイタリアは、神聖ローマ皇帝の勢力(皇帝派)とローマ教皇の勢力(教皇派)の対立の他、都市間の争いもあり戦乱が絶えませんでした。フランチェスコは、隣町のペルージャとの戦いで捕虜になり、牢獄に入れられていました。この経験から戦争の愚かさを痛感します。その後、熱病におかされ、生死の間をさまよったことがあり、これらの経験から神の道を求めるようになったと言われています。
また、アッシジの町の郊外にあるサン・ダミアーノ教会で神の声を聞いて回心したとも言われています。
フランチェスコは「人間に大切なのは富ではなく心だ」と言い、現世での富を放棄します。家を捨て、家族とも縁を切って一切の財産を持たずに野に出て愛と平和を説きました。何も持たないことによって束縛から解き放たれ、心も解放されて喜びに満ちて生きることができると説きました。
裸足で粗末な衣服をまとい、腰に荒縄を巻いた姿で、托鉢(寄付)だけで命をつなぎとめて祈り、説教をしました。病人、特にハンセン氏病患者の看病をし、貧者には愛を注ぐ奉仕活動をしながら布教を続けました。また、サン・ダミアーノ教会をはじめ、いくつもの教会の修復を行いました。フランチェスコの活動は、福音書に書かれたイエスや弟子たちの行動に基づいています。
当初、フランチェスコの行動は周囲の人々を戸惑わせました。奇矯な行動と見られ、侮蔑の対象となりましたが、フランチェスコに共感をもち、付き従う人が少しずつ増えていきました。フランチェスコは仲間と共にイタリア各地で布教をして回りました。1208年頃には仲間とともに「小さき兄弟会」を発足させました。これが後のフランチェスコ会です。現在でもフランチェスコ修道会の正式名称は「小さき兄弟会」です。
活動を続ける上で様々な困難に直面したフランチェスコは、1210年、活動を続けるために仲間と共にローマに向かい、ローマ教皇への謁見を求めました。そして謁見が許されます。痩せ細り、裸足でぼろぼろの修道衣という薄汚れた姿の若者たちを見て、教皇は困惑したようです。従来の修道会が修道院の中での祈りを中心としていたのに対し、各地で説教をして回る「小さき兄弟会」は性格が異なりました。また、当時は托鉢も認められていませんでした。フランチェスコたちの活動は異端とされる恐れもありました。しかし、教皇は口頭ではありましたが彼らの活動を認めました。この背景には、当時異端の撲滅などに苦労していた教皇インノケンティウス3世は、ローマ教会の体制を維持するためにはこの様な托鉢修道会の活動が必要と判断したのだと言われています。
②指導者としての苦悩と「聖痕」
フランチェスコは自然を愛し、神の創造物である様々な生き物を愛しました。そして色々な動物に話しかけ、意思疎通もできたと言われています。特に、小鳥たちに説教をすると小鳥たちがフランチェスコの話しに聞き入ったというエピソードは有名です。
フランチェスコたちは、その後も托鉢と説教、病人や貧者の世話を続けました。徐々に人々から尊敬を受けるようになり、入会を希望する人が急増しました。会の人数が多くなり組織が大きくなると、フランチェスコが想定していなかった問題が発生します。様々な意見が出されますので、組織を円滑に運営するためにはその調整が必要になります。皆が納得する制度が必要になります。
特に大きな問題となったのは、フランチェスコが定めた規律は厳しすぎるという声が強くなってきたことです。しかし、規則の緩和は、フランチェスコとしては簡単に容認できることではありませんでした。フランチェスコと会員たちとの間に乖離が生じます。
1221年、フランチェスコは会則を定めようとしますがフランチェスコ会の総会で承認が得られず、教皇ホノリス3世の認可も得られません。フランチェスコは会員の賛同を得るため、またローマ教会との折り合いを付けるため大幅な妥協を余儀なくされます。そして修正した会則が1223年にようやく認可されます。会としてのローマ教会からの正式な認可はこの時になります。
晩年のフランチェスコは、会の運営を弟子にまかせ孤独な隠遁生活に入りました。森の中の小屋で自然と心を通わせながら祈りを中心とした生活に移りました。そして1224年、山の中で天使から「聖痕」を受けたと言われています。フランチェスコの体にイエスが十字架に架けられた時に受けた傷(両手、両足と脇腹の5カ所)と同じものが現れました。イエスの教えを忠実に実践してきたフランチェスコの生涯を象徴する出来事です。
この「聖痕」というものは科学的には説明できないものであり、カトリック教会において奇蹟の一つとされています。その後、何人もの修道士や修道女に「聖痕」が現れ、聖人に列せられる等していますが、フランチェスコは「聖痕」が現れた最初の例だそうです。
フランチェスコは、その頃には多くの人からの崇敬の対象となっていましたが、徐々に体が弱くなっていきます。そして1226年10月3日に亡くなりました。
フランチェスコは亡くなって2年後という異例のスピードでカトリック教会により聖人に列せられました。現在でもフランチェスコは、国境を越え、また様々な宗教の境を超え、世界各地の多くの人から愛されています。
③アッシジのキアラ
最後にフランチェスコの生涯を語る上で欠かせない人物を紹介します。アッシジのキアラ(英語名はクレア)として知られる女性です。もとはアッシジの貴族の娘でしたが、フランチェスコの思想や行動に共鳴し、フランチェスコと同様、財産をすべて放棄し、清貧の生活を送りながら病人の看護などの活動に生涯を捧げました。フランチェスコに付き従い、フランチェスコが病気になった後は亡くなるまで世話をしました。
またクレアの思想に共鳴する女性たちとグルーブを作って活動しました。それがフランチェスコ会の女子修道会クララ会となりました。フランチェスコと同様に死後、聖人に列せられました。
■聖フランチェスコを描いた映画
フランチェスコの生涯はこれまでに何度か映画化されています。特に、1950年のロベルト・ロッセリーニ監督によるイタリア映画「神の道化師、フランチェスコ」は優れた作品と言われています。今回は、1970年以降に製作された二作品を紹介します。いずれも苦悩の末に聖人となったフランチェスコの生涯を正面から描いており、純粋な魂の見事な映像化になっています。
①「ブラザー・サン シスター・ムーン」
◎映画の概要
・1972年イタリア・イギリス合作映画
・監督 フランコ・ゼフィレッリ
・出演 グレアム・フォークナー、ジュディ・ボウカー
イタリアの映画監督フランコ・ゼフィレッリの作品です。ゼフィレッリ監督は1968年の「ロミオとジュリエット」が有名です。シェィクスピアの有名な戯曲の映画化ですが、不朽の名作として現在でも高い人気があります。その4年後に製作されたのがこの映画です。
宗教的題材を扱っていますが、素晴らしい青春映画です。若者の一途さを生き生きと描いています。フランチェスコが教皇に謁見するまでの日々を概ね史実に忠実に描いています。宗教映画によくある説教臭さやご都合主義がありません。
一面の花畑、アッシジの街に溢れる陽光など自然の描写が素晴らしく、画面の明るさはまばゆいばかりです。清らかな心と美しい風景がマッチして心が洗われる作品です。
数々の試練を乗り越えて清貧の生き方を選択するまでのいきさつがわかりやすく描かれています。教会の中の聖職者が豊かな生活をしているのに対し、教会の外では病人や貧者が必死で祈っている姿を見て、「神はこのようなことは許さない。人間に大切なのは富ではなく心だ」と悟る場面が印象的です。
ローマ教皇に面会を求めるまでの苦難の日々が丁寧に描かれています。謁見の場面も、細部には史実からのアレンジがあるのかもしれませんが感動的なクライマックスです。
スコットランド出身のフォーク・ロック歌手のドノヴァンが主題歌や挿入歌を作詞作曲していますが、これも物語によく合っています。
フランチェスコを演じたのがグレアム・フォークナー、クララを演じたのがジュディ・ボウカーという若い 無名の俳優でしたが、二人とも初々しく爽やかな好演でした。
ジュディ・ボウカーの可愛さも話題になりました。
その後の活躍が期待されましたが、残念ながら主役の二人のその後の活動については日本にはほとんど伝わっていません。
②「フランチェスコ」
◎映画の概要
・1989年イタリア映画
・監督 リリアーナ・カヴァーニ
・出演 ミッキー・ローク、ヘレナ・ボナム=カーター
イタリアの女性監督リリアーナ・カヴァーニの作品ですが、この監督は1973年の「愛の嵐」が有名です。戦後のオーストリアを舞台に、ナチズムに翻弄された男女の倒錯した愛とエロスを描いた衝撃的な作品でした。それに対してこの「フランチェスコ」では、死後に聖人となる人物の人間としての苦悩を正面から描いています。
しかし何と言ってもこの作品で特筆すべきは、フランチェスコを演じたミッキー・ロークです。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985年マイケル・チミノ監督)、「ナインハーフ」(1986年エイドリアン・ライン監督)、「エンゼルハート」(1987年アラン・パーカー監督)等で主役を演じ、セクシーな魅力をもった男性スターとして名を馳せました。フランチェスコ役は一見ミスキャストに思えますが好演です。聖人の役にまったく違和感がありません。
カヴァーニ監督は監督としてのデビュー作もフランチェスコを描いたもの(日本では未公開)でしたが、この作品では主役にミッキー・ロークを迎え、満を持してまさに渾身の力作になりました。それまで世俗的な欲望にまみれたような、清貧とは対照的なイメージだったミッキー・ロークが演じることによって、俗人には理解しにくい清貧の思想が映画を見る人の心にダイレクトに入ってくると考えたのでしょうか。
ミッキー・ロークは見事にその期待に応えました。徹底した無一文にこそ生きる喜びを見いだす様や生身の人間として苦闘する姿がミッキー・ロークの熱演により見事に表現されました。
映画はフランチェスコに付き従ってきたキアラと弟子たちがフランチェスコを回想する形で進みます。「ブラザー・サン シスター・ムーン」と基本的な内容は同じですが、こちらの方が暗く、重たく、崇高な雰囲気が強くなっています。人間としての苦悩をより写実的に打ち出しています。特に「ブラザー・サン シスター・ムーン」には無かった教皇への謁見以降の指導者としての葛藤がとてもリアルに描かれています。会の発展により様々な考えの人間が集まり軋轢が生じます。フランチェスコの方針に疑問が呈されます。批判を受けたフランチェスコは悩み、神の声を必死に求めます。弱さ、脆さをもつ一人の人間としてのフランチェスコに迫っています。
そしてキアラを演じたのが、若き日のヘレナ・ボナム・カーターです。この人は後年ハリー・ポッターシリーズ等でまったく違うイメージの役を演じるようになりますが、この頃は「眺めのいい部屋」(1986年ジェームズ・アイヴォリー監督)等で上流階級の令嬢を演じていました。この作品でも彼女の純真なイメージがキアラによく合っていました。
なおミッキー・ロークはその後ボクサーに転身するなど俳優としては低迷していましたが、「レスラー」(2008年ダーレン・アロノフスキー監督)で見事に復活しました。
どちらの映画も見応えのある作品ですが、聖フランチェスコについての予備知識があった方がより楽しめるかもしれません。
■映画「フランチェスコ」から映画「薔薇の名前」へ
フランチェスコ会のその後を知る上で重要なヒントとなる物語があります。イタリアのウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」です。1986年にジャン・ジャック・アノー監督が映画化しています。「薔薇の名前」は、フランチェスコが死んでからほぼ100年後の物語です。舞台は北イタリアのベネディクト会の修道院ですが、ショーン・コネリーが演じたウィリアム修道士はフランチェスコ会の修道士です。
それでは、フランチェスコの死後のフランチェスコ会の活動から見ていきましょう。会は一切の財産を所有しないというのが聖フランチェスコの清貧の理念を受け継ぎ、托鉢修道会として活動を続けました。粗末な衣服で都市や農村を回って信者からの托鉢(寄附)により活動しました。民衆レベルへの布教に力を入れ、イエスの教えを民衆にわかるように説いてまわりました。これ以降、貧しい一般民衆にまでキリスト教が浸透するようになったと言われています。
また、同じ頃に活動を始めた別の托鉢修道会としてドミニコ会があります。ドミニコ会は、スペイン人のドミニコの南フランスを中心にした活動から始まりました。
托鉢修道会の修道士たちは、布教に力を入れるとともに、当時広まっていたカタリ派(アルビジョワ派)などの異端との戦いにも力を注ぎ、異端審問官にも多数起用されたようです。
フランチェスコ会はヨーロッパ各国で拡大の一途をたどり、13世紀以降は世界各地への布教も始まりました。
しかし、フランチェスコの死後、晩年のフランチェスコが危惧していたことが大きな問題となります。会は民衆からの寄附で運営し、財産はすべて共有でした。しかし会が世界各地での布教活動を広く展開していくうえで、実際には修道会の建物や様々な施設や品物が必要となります。そこで会の中には清貧の考え方を現実的に緩和しようという動きが出てきます。一方ではそれに対し反発し、あくまで清貧を実践するという理念を厳格に実施すべきだという主張もなされます。論点は、「聖職者は個人としての財産を所有せず純潔に貧者の生活を送らなければならない」と言う考えをどこまで厳格に実施するかということです。
また、フランチェスコ会が清貧の教えを守ろうとすると、権力が集中して資産を蓄えていく教皇庁のあり方に疑問を呈することにもなり、教皇庁との間にも様々な軋轢が生じるようになりました。
フランチェスコ会は、清貧の理念をめぐって会則の遵守を重視する厳格主義派と、会則を緩和し教皇庁との妥協を図る穏健派に分裂します。穏健派が主流となりますが、修道会内部の対立は熾烈なものとなります。
映画「薔薇の名前」では、主人公ウィリアム修道士はフランチェスコ会の修道士で、異端審問官も務めたことがあるという設定です。舞台となる修道院にやって来たのは、当時アヴィニヨンにあった教皇庁の使節団とフランチェスコ修道会の使節団の会談において調整役を務めるためです。二つの使節団が到着する場面は対照的です。フランチェスコ会の修道士は粗末な衣服で徒歩で来るのに対し、教皇側使節団は豪華な衣装で立派な馬車でやって来ます。会談の様子も描かれます。教会はどこまで清貧であるべきなのかというカトリック教会の根幹にかかわる問題を話し合いますが、双方ともそれぞれの主張を強硬に述べるだけであり、議論は平行線をたどって結論が出ません。映画「フランチェスコ」の終盤でフランチェスコを悩ませた問題は、100年後の「薔薇の名前」においてはカトリック教会をゆるがす問題にまでなっています。
もう一つ生前のフランチェスコの教えと違ってきているのが、学問に対する取り組みです。フランチェスコは病人の看護や肉体労働を重んじ、学究生活を送ることは清貧に反するとしていました。当時書物が高価だったこともあるようです。しかし、フランチェスコ会はその後、神学の研究にも力を入れるようになりました。「薔薇の名前」のウィリアム修道士は、学問と書物に生きがいを見いだす人物です。ここにもフランチェスコの時代からの100年の歳月を感じます。
■アッシジのサン・フランチェスコ聖堂など
フランチェスコの死後、その功績をたたえるために巨大な聖堂が建設されました。現在では、その聖堂を中心に「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」という名称で世界遺産に登録されています。
フランチェスコの死後、信奉者が喜捨を集め莫大な額になったことから、聖堂の建設が始まりました。1253年に完成しましたが、その後何度も改修が行われています。
この聖堂は13世紀のイタリアを代表する宗教建築物の一つです。上下二層に分かれ、建築様式が異なります。上層はゴシック様式、下層はロマネスク様式です。外観は白く、簡素な印象を与えます。フランチェスコ会の清貧の思想を反映したもののようです。下堂には聖フランチェスコの墓所があります。
一方、内部はイタリア美術の宝庫でもあります。フィレンツェで活躍しルネッサンスに先鞭を付けたジョットの代表作でもある28枚のフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」が有名です。
もう一つの主要な建築物がサンタ・キララ聖堂です。これはフランチェスコに付き従ったキアラ(クララ)らのグルーブが建てた女子修道院で、1257年に完成しました。この地方で採掘されるピンク色の石を用いた美しい外観です。こちらもクララ会の清貧、貞節の精神を反映しているのでしょう。
修道院の地下には、キアラの遺骸を収めた部屋があります。
アッシジは人口が2万人程度で大きな町ではありませんが、フランチェスコが誕生し、活動を始めた場所であり、今もフランチェスコが眠る場所です。カトリック教会の巡礼地として多くの人が訪れます。アッシジは城壁に囲まれた中世の面影を残す美しい町です。日本からのイタリア観光の目玉の一つにもなっています。ローマからアッシジへの日帰りツアーもあるようです。