「ナイルに死す」はイギリスのミステリー作家アガサ・クリスティの代表作の一つです。この小説はこれまでに3回映像化されています(映画2回、ドラマ1回)。原作と映像化作品のあわせて4つの「ナイルに死す」とその歴史的背景をご紹介します。
アガサ・クリスティは巧妙なトリックと人間ドラマとしてのおもしろさから「ミステリーの女王」と呼ばれていますが、「ナイルに死す」はクリスティが1937年に発表した小説です。名探偵エルキュール・ポワロがエジプトのナイル川のクルーズ船上で起きた殺人事件の謎に挑みます。クリスティのファンの中でも評価が高く、クリスティファンによる人気投票などでも上位に入ることが多い作品です。
クリスティが中近東を舞台にして書いた長編の第2作です。クリスティは1933年に2番目の夫で、考古学者であるマックス・マローワンとともにナイル川のクルーズ船「スーダン号」に乗りましたが、その時の体験をもとに「ナイルに死す」を書きました。作品が完成し発表されたのは1937年です。
■小説「ナイルに死す」のあらすじ (ネタバレ無し)
大富豪の娘リネット・リッジウェイは若くて美しい女性です。
リネットの親友であるジャクリーンにはサイモンという恋人がいます。二人は婚約していますが、サイモンが失業中であるため、ジャクリーンは親友のリネットに屋敷の管理人としてサイモンを雇ってくれるよう懇願します。ところがリネットはサイモンに一目惚れしてしまい、ジャクリーンからサイモンを奪う形で強引に結婚します。
リネットとサイモンの二人はエジプトに新婚旅行に行きますが、サイモンのかつての婚約者であるジャクリーンは恨みを募らせ、二人を執拗につけまわします。リネットとサイモンはナイル川上流のアスワンにある高級ホテル「カタラクト」に宿泊しますが、そこにもジャクリーンが現れます。このホテルには静養のため名探偵エルキュール・ポワロも泊まっていました。リネットのいらだちは高まり、自分を守ってくれるようポワロに依頼しますがポワロは断ります。しかし事態を深刻にみたポワロはジャクリーンと話し合い、アドバイスをしますが、ジャクリーンは二人への憎しみを述べるだけで、ポワロのアドバイスに従いません。
三人は複雑な思いをもってナイル川の遊覧船カルナック号に乗船します。しかし、その船には富豪のリネットの知人や彼女に恨みを持つ人物なども乗り合わせ、何かが起こりそうな不穏な緊張感が高まります。途中、一行は古代遺跡を訪れます。しかしアプ・シンベル宮殿に立ち寄った際、そこでリネットとサイモンの頭上から巨石が落ちてくるという事件が発生します。二人は下敷きになりかけますが、間一髪で助かります。
■原作者アガサ・クリスティ
Violetriga – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
「ナイルに死す」はクリスティが1930年代に執筆、公表した作品ですが、この1930年代はクリスティの長い作家生活の中でも質・量ともに非常に充実していた時期です。
1890年に生まれたアガサ・クリスティは、1914年にイギリス空軍のアーチボルト・クリスティ大尉と結婚します。ミステリー作家としては1920年代に「スタイルズ荘の怪事件」でデビューしました。1926年の「アクロイド殺し」では大胆なトリックを用いて、フェアかフェアでないかという論争が世界中のミステリーファンの中で巻き起こり、クリスティは一躍有名になります。しかし、同じ年に謎の失踪事件も起こしています。この事件については、後に「アガサ 愛の失踪事件」(1979年マイケル・アブテッド監督)というイギリス・アメリカ合作映画が製作されています。
失踪事件後1928年にアーチボルトと離婚、1930年にはバクダッド旅行で知り合った考古学者マックス・マローワンと再婚しています。1930年代には精神的な落ち着きを取り戻し執筆に集中していたことから、傑作を次々と生み出しています。この「ナイルに死す」以外にも「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」「そして誰もいなくなった」など現在に至るまでミステリーの名作と言われ続けている作品が多く発表されています。
ポワロにせよ、クリスティが生み出したもう一人の名探偵ミス・マープルにせよ、活躍の舞台はイギリス国内であることが大半ですが、この時期には「メソポタミアの殺人」「ナイルに死す」「死との約束」のような中近東を舞台にした異国情緒あふれる作品が誕生しています。これは、再婚後に夫の発掘作業に同行して中近東を訪れており、その時の体験が作品に結びついたものです。
それでは、この物語の舞台であるエジプトの歴史を見ていきましょう。エジプトの歴史は、いくつかの時代に大別されます。
◎歴史的背景 エジプトの歴史(19世紀半ばまで)
①古代エジプト王朝時代
エジプトは、メソポタミアと並んで古くから文明が起こった地域です。紀元前3000年頃には王(ファラオ)による統一国家がつくられました。以後、一時的に周辺民族が侵入した時期を除いて国内の統一は保たれ、約30の王朝が交代しました。通常これを古王国・中王国・新王国の三期に区分します。(詳細は後述)
②ローマ帝国・東ローマ帝国の属州の時代
紀元前30年から紀元後395年まではローマ帝国の支配下に入り、属州となります。この間はキリスト教が広まり、アレクサンドリアは古代キリスト教の中心地の一つになります。
395年にローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に入ります。
しかし641年にはイスラム勢力の支配下に入ります。イスラム教の創始者ムハンマドの後継者であるカリフが治めていた時代(正統カリフ時代)です。エジプトを征服したのは第2代カリフのウマルです。
③イスラムの諸王朝による支配
続いてウマイヤ朝、アッバース朝などのイスラム王朝がエジプトを支配します。
その後はエジプト独自のイスラム王朝が興亡します。ファーティマ朝は、もともとはチュニジアの王朝でしたが、969年にエジプトを征服し、首都としてカイロを建設しました。この王朝はシーア派、その中でも過激なイスマーイール派でした。
1169年にはスンナ派のアイユーブ朝がファーティマ朝を滅ぼしてエジプトを支配します。この王朝を建てたサラディンは、ヨーロッパのキリスト教勢力の派遣した十字軍との戦いで有名です。1187年、十字軍を破って聖地イェルサレムを奪回します。これに対し再度十字軍が派遣されますが、サラディンは聖地を守り抜きます。アイユーブ朝は、トルコ人の奴隷を集めてマムルーク軍団を組織しますが、この軍団が強大となり、ついには1250年アイユーブ朝を倒してマムルーク朝を建てます。
マムルーク朝で有名なのは第5代スルタンのバイパルスです。ユーラシア大陸を席巻したモンゴル軍が攻め込んできますがこれを撃退します。さらにはアッバース朝のカリフをカイロに擁立し、メッカ・メディナの両聖地を保護下において権威を高めます。
16世紀になると小アジアから興ったオスマン帝国が勢力を拡大します。1517年、オスマン帝国はセリム1世の時代にマムルーク朝を滅ぼし、エジプトはオスマン帝国の領土になります。オスマン帝国は東地中海を支配する大帝国になり、聖地メッカ・メディナも保護してイスラム世界の盟主となります。エジプトにはオスマン帝国の総督がおかれ、その後300年近くオスマン帝国の支配下に置かれました。
④オスマン帝国による支配からイギリスの支配へ
18世紀末からエジプトでは民族としての自覚が高まり独立運動がおきますが、その契機となったのはフランスのナポレオンの遠征です。1798年、ナポレオンは敵国であるイギリスとインドの連絡を絶つことを目的にオスマン帝国領であったエジプトに遠征しました。その時ナポレオン軍の撃退に功績をあげたのが、マケドニア出身のアルバニア人の将校ムハンマド・アリーです。彼は混乱の中で実力によりエジプトを支配し、オスマン帝国のスルタンからエジプト総督の地位を与えられます。さらに1811年にはその地位の世襲を認められます。これがムハンマド・アリー朝の始まりです。これによりエジプトは事実上、独立したことになりますが、形式的にはオスマン帝国の一部でした。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国からの完全な独立を目指し、フランスの援助も受けながら近代化政策を進めます。経済を統制し、アジアではいち早く富国強兵と殖産興業を進め、宗主国のオスマン帝国をしのぐほどの国力となります。オスマン帝国の弱体化につけこんで周辺への膨張策も進めますが、スーダンへの遠征をきっかけにオスマン帝国と戦争になります。これが二度にわたるエジプト=トルコ戦争です。エジプトは一時は勢力を伸ばしますが、それによりイギリス、フランス、ロシアなどヨーロッパ列強に警戒されます。これが「東方問題」と呼ばれました。結局は1840年のロンドン会議で、ムハンマド・アリーはオスマン帝国スルタンの宗主権のもとでエジプトとスーダンの総督の地位の世襲を認められますが、それ以外に獲得した領土はほとんど失います。
この後ムハンマド・アリー朝は実質的な独立を達成し、引き続き近代化政策を進めましたが、度重なる戦争のための兵役や徴税の負担から国民の不満が高まります。
フランスのレセップスが地中海と紅海を結ぶスエズ運河の建設計画を持ち込むと、建設に着手します。フランスのナポレオン3世の援助もあり、スエズ運河は10年後の1869年に開通します。
しかしエジプトの国家財政は次第に苦しくなり、ついには破綻します。財源確保のために外国に借金をしますが、それが雪だるま式に増えていき、経済的にヨーロッパ各国に従属することになりました。1875年にはスエズ運河の株式をイギリスに売却しました。翌年には完全に国家財政が破綻し、イギリスとフランスが財政を管理することになります。
それでは、「ナイルに死す」の直接の歴史的背景となる時代のエジプトの情勢を見ていきましょう。
◎歴史的背景 エジプトの歴史(19世紀後半から20世紀前半)
①19世紀後半~20世紀初頭
19世紀後半には、ヨーロッパ各国が帝国主義政策をとって海外の植民地などを積極的に拡大していきました。これにより中東イスラーム世界もヨーロッパの従属下に置かれました。
イギリスは、18世紀後半に始まった産業革命により世界の最先進国になりましたが、資源や生産物を大量に運ぶ船舶輸送が重要になります。イギリスはインドの植民地化を進めていましたが、それに合わせインドや隣接地域への航路の確保に力を入れました。特に、地中海と紅海を結ぶスエズ運河はイギリスとインドや中国などのアジア各地とをつなぐ最短航路となり、経済的にも軍事的にもエジプトの価値が高まります。こうしてイギリスのエジプトへの帝国主義的な進出が本格化します。
イギリスとフランスがエジプトの内政にも干渉するようになると、それに対する反発も強まります。1881年、「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げた運動が始まります。リーダーはウラービー=パシャという人物です。これはヨーロッパ各国の支配に対する反発とともに、議会制の樹立などを掲げた革命運動でした。この運動はエジプトで最初の民族主義運動であるとともに、その後のパン=イスラーム主義(ヨーロッパの植民地支配に対抗しイスラム教徒が一致団結する思想)の原点となります。しかしイギリスは1882年に単独でこの運動を鎮圧し、エジプトを占領します。これを契機にエジプトはイギリスの事実上の保護国になります。
エジプトはイギリスのアフリカ進出においても重要な拠点となりました。イギリスはエジプトと南アフリカのケープ植民地を結ぶアフリカ縦断政策をとります。これに対し、フランスはサハラ砂漠とアフリカ東部の地域を結び付けようとするアフリカ横断政策を進めます。両国は1898年スーダンのファショダで衝突しかけます(ファショダ事件)が、全面的衝突を避け、1904年に英仏協商が成立します。ここでイギリスはフランスのモロッコ支配を承認し、フランスはイギリスのエジプト支配を承認します。こうしてエジプトはヨーロッパ列強によるアフリカ分割においてイギリスの勢力圏となることが確定しました。
②第一次世界大戦とその後
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、協商国側の主要国であるイギリスは同盟国側のオスマン帝国と戦う上でエジプトのカイロを拠点としました。また、第一次世界大戦において、エジプトはインドとともにイギリス軍の重要な戦力として戦場に駆り出されました。一方、大戦中から大戦後にかけて各地に広まった民族自決の風潮はエジプトにも及び独立運動が高まります。しかしエジプトが期待していた自治は認められず、不満がたまります。そこでエジプトの独立を訴えるために第一次世界大戦後のパリ講和会議に代表を送ろうとします。そのためにワフド党という組織が結成されました。ワフドとは「代表」の意味です。しかしイギリスの妨害により、会議への出席は拒否されます。その結果民族運動がさらに活発になり、反英暴動も起きます。
イギリスは譲歩して1922年に保護権を停止し、ムハンマド・アリー朝のエジプト王国は立憲君主国として独立します。しかし、イギリスはスエズ運河を確保し、様々な特権を保持したままであり、独立は名目的なものに過ぎませんでした。そこでエジプト側の抗議が続き、ついに1936年にはエジプトとイギリスの同盟条約が結ばれ、エジプトの主権が認められます。イギリスの駐留軍も撤兵しますが、スエズ運河だけは手放さず、イギリス軍が駐留します。
「ナイルに死す」の舞台となるのはこの時代のエジプトです。この少し前までエジプトはイギリスの統治下にあり、長く独立運動が展開されてきました。クリスティがエジプトを訪れた時期(1933年)から小説「ナイルに死す」が発表された時期(1937年)はまさにエジプトの独立が達成される時期です。ただし形の上で独立していても、実際にはイギリスの影響が非常に強かったのが実態です。
なおこの時期は、1929年に起きた世界大恐慌の影響が残り、ドイツではナチスが台頭し、第二次世界大戦の前夜ともいえる時代です。
「ナイルに死す」は、クリスティ自身が考古学者である夫とともにエジプトを旅行した際に着想を得て、エジプト滞在中に書き始め、帰国後に完成した作品です。作者自身がこの時期のエジプトに実際に滞在していますので、作品にはその体験が存分に活かされています。イギリス人であるクリスティからみた当時のエジプトの状況が活写されています。
物語の後半は、歴史の香りが漂う古代遺跡を豪華客船でめぐる船旅です。ナイル川流域にあるいくつかの古代遺跡が物語の舞台として登場します。エジプトの神秘的な雰囲気も素晴らしいのですが、古代遺跡についてはクリスティが現地でつぶさに見てきたものであり、しかも考古学者である夫の説明を受けたためか描写が精緻になされています。
それでは「ナイルに死す」に登場する古代遺跡の背景として、歴史をさかのぼって古代エジプトの歴史を紹介します。
◎歴史的背景 古代エジプト
エジプトは閉鎖的な地形なため外部からの他民族の侵入が比較的少なく、古代ではエジプト人の王朝による支配が続きました。ギリシアの歴史家で「歴史の父」と呼ばれたヘロドトスが「エジプトはナイルのたまもの」という言葉を残していますが、ナイル川が用水と沃土をもたらし、ナイル川周辺では農業生産力が発達しました。また、ナイル川が定期的に氾濫したことから、太陽暦が発達したと言われています。
ノモスと呼ばれる多くの村落が形成されましたが、ノモスでは灌漑農業が発達し、農業や治水事業の指導者が台頭して王となり、都市国家となります。上エジプト(ナイル川中流)と下エジプト(下流のデルタ地帯)には多くのノモスを支配した王朝が成立しました。
紀元前3000年頃には上エジプトが下エジプトを統合し、エジプトではじめての統一王朝が成立しました。王朝の支配者はファラオと呼ばれましたが、これは「大きな家」という意味で、ファラオは太陽神ラーの子として絶大な権力をもちました。
この後、紀元前332年にアレクサンドロス大王に征服されるまで約30の王朝がエジプトで興亡しましたが、その時期は古王国、中王国、新王国の三つに区分されます。
①古王国時代 (紀元前27世紀~紀元前22世紀)
第3王朝から第6王朝の時代です。都は下エジプトのメンフィスで、エジプト初代の王メネスが建設したと言われています。
この時代は生ける神である王(ファラオ)が神権政治を行いました。国家の体制が整い、労働力を調達して統制のとれた作業に従事させることが可能となるとともに、土木・建築技術、測量術が発達しました。これにより大規模な建造物が建設されました。
その代表が、大ピラミッドです。ピラミッドは、マスタバという長方形の墳墓から発展したものです。王の霊魂を守るための墓ではないかと考えられていますが、はっきりはしていないようです。第4王朝の時代はピラミッドの建設の最盛期で、ギザのクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三王のピラミッドは古代エジプトを象徴する建造物となっています。(下の写真は、右からクフ王、カフラー王、メンカウラー王のもの。)
古王国時代の末期は分裂状態になり、地方勢力が割拠していたようです。
Ricardo Liberato – All Gizah Pyramids, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
②中王国時代 (紀元前21世紀~紀元前18世紀)
紀元前2040年頃、エジプトが再度統一されて中王国の時代になります。第11王朝から第12王朝の時代です。都は上エジプトのテーベ(現在のルクソール)に移りました。
この時代には、都が移ったこともあり、テーベを含む上エジプト地方の守護神であるアメン神の地位が非常に高まりました。太陽神ラーと結びつきアメン・ラー神として崇拝されました。テーベには、アメン・ラー神を祭る神殿の建設が始まり、神官団は政治勢力としても力をもちます。
中王国末期には東方のシリア方面からアジア系遊牧民のヒクソスが侵入してきました。ヒクソスは馬と戦車を用いてエジプトを征服し、エジプトは約一世紀にわたってヒクソスに支配されました。
③新王国時代 (紀元前16世紀~紀元前11世紀)
紀元前1542年にヒクソスを追放して再度エジプトを統一したのが新王国です。第18王朝から第20王朝までですが、都は引き続きテーベです。古代エジプトが最も繁栄したのが新王国時代です。この時代には、後世に名前が残る有名な王が何人もでてきます。また、新王国時代には多数の大規模建造物が造られています。
第18王朝のトトメス3世は「エジプトのナポレオン」と呼ばれ、シリアやヌビア(現在のスーダン)、パレスチナ方面に多くの遠征を行い、領土を拡大しました。
同じく第18王朝のアメンホテプ4世(後にイクナートンと改名)は、一種の宗教改革を行ったことで有名です。アメン・ラー神を祭る神官団の勢力が増し国王と対立したことから、国王は神官団を抑え、王権を強化して国王による統一的支配を確立するため、唯一神であるアトン神をつくり出しました。国王はアトン神への信仰を強制し、アメン・ラー神への信仰を禁じました。それまでの多神教から一神教になったのです。都もテーベからテル=エル=アマルナに移しました。テーベよりは下流です。ここではそれまでの伝統にとらわれない自由で写実的な芸術が発達しました。アマルナ芸術と呼ばれています。
この写真がアメンホテプ4世です。
en:User:MykReeve – Uploaded to en.wikipedia as Image:Tutankhamun-mask.jpg on 28 May 2004 by en:User:MykReeve (see talk page for details)., CC 表示-継承 3.0, リンクによる
アメンホテプ4世の次の王がツタンカーメンです。この王の時代には神官団の力によってアモン・ラー信仰が復活し、都も再度テーベに戻されています。この王は若くして亡くなったと言われており、エジプトの王の中でも人気があります。
この写真は、テーベの近くにある「王家の谷」で発見されたツタンカーメンの黄金のマスクです。この王の墓からは多数の黄金の副葬品が発見され、その豪華さで世界を驚かせました。古代エジプトを代表する芸術作品の一つです。
第19王朝のラムセス2世は紀元前13世紀の王ですが、エジプトを宗教改革の混乱から立て直して国力を回復します。この時代に新王国は最盛期となります。対外的にはシリアをめぐってヒッタイトと抗争します。ヒッタイトというのは小アジア(現在のトルコ)を中心とする王朝で西アジアで最初に鉄器を使ったと言われています。紀元前1286年にはカデシュの戦いでエジプトはヒッタイトを破り、シリアの領土を確保しました。この戦いの後に締結されたカデシュ条約は世界最古の国際条約と言われています。また、ラムセス2世の時代には巨大な神殿など多くの建造物が造られています。
この写真はアブ・シンベル神殿にあるラムセス2世の像です。
Hajor – 投稿者自身による著作物, Hajor., CC 表示-継承 3.0, リンクによる
④その後の古代エジプト
この後、地中海一帯には「海の民」と呼ばれる民族が侵入しますが、エジプトもこの民族の侵入により新王国は衰退し分裂状態になります。
紀元前671年(663年)には、メソポタミアに興ったアッシリアという民族がエジプトを征服します。アッシリアはオリエント世界を初めて統一した民族です。
さらに紀元前525年にはアケメネス朝ペルシアがエジプトを征服し、オリエントを統一します。しかしこの国はマケドニアのアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征により滅びます。アレクサンドロス3世の没後、後継者(ディアドコイ)の一人であるプトレマイオス1世がエジプトにプトレマイオス朝を建てます。この王朝の時代にはエジプトのアレクサンドリアが学問の中心として繁栄します。
紀元前30年にはプトレマイオス朝の最後の女王であるクレオパトラがローマの執政官(コンスル)オクタウィアヌスに敗れ王朝は滅びます。これ以降、エジプトはローマ帝国の支配下に入りました。
■3回の映像化の概要
①映画Ⅰ 「ナイル殺人事件」(1978年版)
・1978年 イギリス映画
・監督 ジョン・ギラーミン
・出演 ピーター・ユスティノフ(ポワロ)、ロイス・チャイルズ(リネット)、
サイモン・マッコーキンデール(サイモン)、ミア・ファロー(ジャクリーン)
②ドラマ版 「ナイルに死す」
・2004年 イギリスのテレビドラマシリーズ「名探偵ポワロ」 第52話
・監督 アンディ・ウィルソン
・出演 デヴィッド・スーシェ(ポワロ)、エミリー・ブラント(リネット)、
JJ・フィールド(サイモン)、エマ・マリン(ジャクリーン)
③映画Ⅱ 「ナイル殺人事件」(2022年版)
・2022年 アメリカ・イギリス合作映画
・監督 ケネス・ブラナー
・出演 ケネス・ブラナー(ポワロ)、ガル・ガドット(リネット)、
アーミー・ハマー(サイモン)、エマ・マッキー(ジャクリーン)
■「ナイルに死す」に登場する古代遺跡等
「ナイルに死す」の小説と映像化作品に登場する古代遺跡と観光スポットを見ていきましょう。
①ピラミッドとスフィンクス
広大な砂の大地にそびえたつギザの三大ピラミッドは最も有名な古代遺跡です。古王国時代のクフ王、カフラー王、メンカウラー王の時代に建造されました。また、スフィンクスは、ピラミッドの近くに立つ巨大な建造物ですが、人間の頭とライオンの体をもつ石の彫像です。
小説にはピラミッドは出てきませんが、3つの映像化作品のすべてに登場します。映画Ⅰでは、新婚旅行中のリネットとサイモンがメンカウラー王のものと思われるピラミッドを登る場面があります。(実際にはピラミッドを登ることは禁止されています。)
ドラマ版では物語の舞台ではありませんが、風景の中で見られます。この写真はカフラー王のピラミッドとスフィンクスです。映画Ⅱでは、ポワロがカフラー王のピラミッドとスフィンクスに向かい合うようにして午後のお茶を楽しんでいる場面が印象的でした。
Most likely Hamish2k, the first uploader – Most likely Hamish2k, the first uploader, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
②カルナック神殿とルクソール神殿
中王国時代と新王国時代の都テーベ(現在のルクソール)に建てられました。ナイル川東岸にあります。エジプトで最大規模の神殿群で、「カルナック神殿複合体」と呼ばれています。
この神殿も小説には登場しませんが、映画Ⅰとドラマ版に登場します。
カルナック神殿は、紀元前2000年頃の中王国の時代から建設が始まったようです。もともとはテーベ地方の神であるアメン神を祭る神殿であったようですが、テーベの王がエジプト全体の王都なり、アメン神は太陽神ラーと合体し、アメン・ラー神を祭る神殿となったようです。
新王国時代になり、エジプトの国力が増すにつれ、増改築を重ねて神殿の拡張が進みました。そしてエジプト全体の宗教的中心地として巨大な神殿複合体となりました。中心となるのはアメン大神殿です。大神殿の主要部分は新王国の第18王朝の時代に造られたようです。神殿の拡張は、アメンホテプ4世の宗教改革の時期に一時中断したものの、その後再開され、ラムセス2世の時代にも拡張が進みました。
巨大な石柱の並ぶ列柱室も造られました。映画Ⅰではリネットとサイモンの頭上から巨石が落ちてくる事件がここで発生しており、列柱室の神秘的な雰囲気の中で事件がスリリングに映像化されています。
カルナック神殿のアメン大神殿の副神殿として建設されたのがルクソール神殿です。カルナック神殿とは参道で結ばれています。参道は両側に小型のスフィンクスが並んでおり、映画Ⅰとドラマ版に登場します。
なお、ピラミッドとカルナック神殿では毎夜、幻想的な音と光のショーが開催されているそうです。
Rabax63 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
③王家の谷
新王国歴代の王の墳墓として、テーベの近くに造られました。カルナック神殿複合体がナイル川東岸にあるのに対し、西岸にあります。ツタンカーメンの黄金のマスクが発見されたことで有名です。
ドラマ版のみに登場します。
④アブ・シンベル神殿
Olaf Tausch – 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, リンクによる
新王国時代の紀元前1280年頃にラムセス2世によって造られた大神殿です。都だったメンフィスにあります。正面には高さ20メートルを超えるラムセス2世の巨像が並びます。
ナイル川沿いの岩山を削って造った岩窟神殿でしたが、1960年代にナイル川のアスワン・ハイダムの建設計画により水没の危機に瀕しました。神殿の保存を求める声が国際的に巻き起こり、4年がかりで約200メートル離れた丘の上に移転しました。この神殿の移設を機に遺跡保護の機運が高まり世界遺産という仕組みが創設されたという経緯があります。
小説では、カルナック号の乗客たちが神殿の中を散策している際にリネットとサイモンの頭上から巨石が落ちてくるという事件が発生し、一連の事件の幕開けとなります。映画Ⅱにおいても同様の場面があります。映画Ⅰでは、事件の現場ではありませんが少しだけ登場します。
⑤デンデラのハトホル神殿
ルクソールの北約60キロのデンデラにあるデンデラ神殿複合体の主神殿です。建設は中王国時代から始まったようですが、現存するものはずっと後の時代であるプトレマイオス朝時代に建造されたものです。エジプトで最もよく保存されている神殿の一つで、天井、地下室なども残っています。愛と喜びの女神ハトホルに捧げられた神殿です。
この神殿はドラマ版のみの登場です。神殿の壁にプトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラと息子のカエサリオンのレリーフがありますが、リネットとサイモンがこのレリーフの下に座っている時に頭上から巨石が落ちてくるという事件が発生します。
⑥ナイル川の観光船「スーダン号」
この物語の後半の舞台となるカルナック号のモデルとなった豪華船です。19世紀末に、イギリスのヴィクトリア女王がエジプト国王に贈呈するために建造させた船ですが、後にクルーズ船になっものだそうです。
クリスティは実際にこの船に乗ってナイル川観光を楽しみました。この観光船の雰囲気、ルート、立ち寄った古代遺跡などにヒントを得て、この物語を考えたと言われています。
19世紀後半、イギリスのトーマス・クックという人物が世界で初めてツアー旅行を始めたり、旅行ガイドブックを発行するなどして観光産業の基礎を築きましたが、ナイル川クルーズもこの人が始めたものです。現在でも観光はエジプトの主要産業の一つであり、その目玉がナイル川クルーズです。船にも様々なランクがあるようですが、このスーダン号は現在も使われているようです。
ドラマ版はこのスーダン号で撮影が行われました。
⑦「オールド・カタラクト・ホテル」
エジプト南部主要都市の一つであるアスワンにあるクラシックなホテルです。ナイル川に望む豪華な宮殿のようなホテルで、大理石のファサードのあるビクトリア朝様式の荘厳な建物です。このホテルも19世紀末にイギリスのトーマス・クックが建てたものだそうです。
数多くの著名人が泊まったことで有名です。メインダイニングでは正統派のフランス料理が楽しめるそうです。クリスティもこのホテルに滞在し、ここで「ナイルに死す」の執筆を始めたようです。
小説はもちろん、映画Ⅰ、映画Ⅱでも登場します。
Luna92 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
⑧アスワンマーケット
エジプトには各地にマーケットがあって賑わっているようですが、アスワンマーケットはその中でも人気のある市場のようです。
様々なアフリカの産物が並ぶ活気ある巨大な市場で、地元客と観光客の両方で賑わっているようです。農産物、香辛料、衣料品、アクセサリーなど色とりどりの品物が並びます。
物語では、カタラクトホテルに宿泊中の登場人物たちが訪れます。
■原作小説のあれこれ
「ナイルに死す」は、美しく贅沢なミステリー小説です。クリスティの作品の中でも最も長い作品の一つです。しかも殺人事件が起きるのは全体の半分が過ぎてからです。前半部分では登場人物たちの様々な人間模様が描かれ、物語はゆったりと進みますが人間ドラマとしても素晴らしく、楽しく読書の世界に浸ることができます。古代遺跡をはじめとしたエジプトの観光名所の紹介も盛り込まれており、エジプトの旅情をたっぷり味わうこともできます。
この作品はクリスティ自身がエジプトに滞在した実体験にもとづいて書かれていますので、イギリス統治時代の名残りが残っていたこの時代のエジプトの情勢がリアルに反映されています。現代の感覚からすればイギリスとエジプトはまったく別の国ですが、当時としては裕福なイギリス人がエジプトに旅行するのは自然なことで、心情的には自国内の旅行に近いものがあったのかもしれません。
大富豪リネット、夫のサイモン、サイモンの元婚約者ジャクリーンのドロドロの三角関係について繰り返し描かれていますが、それ以外の登場人物も人物像が明確で、それぞれの物語が興味深く描かれています。クリスティは別名義で恋愛小説もいくつか執筆しており、深い心理描写にも長けていますが、「ナイルに死す」はクリスティの持ち味が活かされた作品と言えます。愛と憎しみ、欲望の深さ、嫉妬など奥深い人間描写がされています。
多彩な人物が登場しますが、中でも印象深いのがコーネリア・ロブスンとロザリー・オッターボーンという二人の若い女性です。コーネリア・ロブスンは、富裕な貴婦人の世話係として同行しており、地味で華やかさとはほど遠い存在ですが、素直で優しい女性です。
ロザリー・オッターボーンは、ポルノ色の強い恋愛小説を書く女性小説家の娘で、母親のことで引け目を感じつつも、精一杯意地を張り、いつも毅然とした態度をとり続けます。ポワロがこのロザリーに好意を持ち、アドバイスをする場面が印象深いです。
ミステリーとしては、外からは隔てられているという点では密室に近い空間である船の中で起こった殺人事件ですが、この物語にはいくつもの事件が複雑にからまっています。まず、大富豪リネットをめぐる様々な人々の思惑です。婚約者を奪われたジャクリーンは恨みを募らせてつきまとい、執拗な嫌がらせをしますが、その他にもリネットに恨みをもつ人物、リネットをだまそうとする人物などが登場します。
また、リネットの真珠の首飾りをめぐる事件があります。この事件の背後にはロンドン警視庁が3年間追い続けている宝石の連続盗難事件があり、その関係者がこの船に乗っているのではないかという疑いがもたれます。
さらに、破壊活動を行うテロリストが乗船しているという情報ももたらされます。これは反イギリスの活動と結びついているようで、当時のエジプトの緊迫した社会情勢が反映されています。
■映像化作品のあれこれ
3つの映像化作品はいずれもナイル川の雄大な風景と古代遺跡の映像が美しく、どの作品もエジプトを観光するようにミステリーを堪能することができました。いずれもストーリーがわかっていても十分楽しめます。
原作小説ではいくつもの事件が絡まっていましたが、映画もドラマも時間の制約があるため、リネットに関係する愛と欲望の物語に焦点を当てた展開になっており、他の事件は比重を軽くするか、省略されています。
船で起きた殺人事件を解明するプロセスでは、原作小説では、各人の船室の配置の見取り図があるためわかりやすいのですが、映像化作品では右舷と左舷、上の階と下の階の関係などを把握するのが難しいです。その点は、映像化の限界なのでしょう。
それでは映像化作品の特徴をそれぞれ見ていきます。
①映画Ⅰ(1978年版)
娯楽映画の職人芸的演出を得意とするジョン・ギラーミン監督が存分に手腕を発揮しています。クリスティの作品の映画化が多数あるなかで、抜群の出来栄えとも評されています。
当時の世代を越えた豪華なキャスティングで、主な出演者はそれぞれ主演作をもつ名優です。クリスティの生み出した個性的なキャラクターに名優たちが命を吹き込んだ競演を見るのも楽しみの一つです。
ニーノ・ロータの壮麗な音楽がエジプトの風景にもマッチし、大作としての格調を高めています。
推理劇「探偵スルース」などで有名な劇作家アンソニー・シェーファーの脚本は、原作の味わいを活かしつつ、映画ならではの工夫を凝らしています。
ミステリーとしての謎解きに重点をおいており、乗客一人ひとりについて人物像をしっかり描いたうえで、もしその人物が犯人であったならばという仮説のもとに、動機や犯行のシーンをそれぞれ丁寧に映像化し、誰でも犯行が可能であったことを観客に巧みに示しています。映像ならではの特長がうまく機能しています。ポワロの推理が真犯人にたどりつくプロセスも説得力があり、今再見してもミステリー映画としての楽しさは色あせていません。
その一方、登場人物は集約されています。2時間20分の大作ですが、時間の制約があるためでしょう。特に、コーネリア・ロブスンが登場せず、ロザリー・オッターボーンに二人分の役割を担わせたため、性格の設定が不明瞭になってしまいました。小説の魅力でもあった人間ドラマの楽しさを十分には活かしきれていません。
②ドラマ版
By Phil Chambers from Hamburg, Germany – IMG_6979.JPG, CC BY-SA 2.0, Link
イギリスで制作された「名探偵ポワロ」のドラマシリーズの一編です。このシリーズは1989年から24年という長期にわたって断続的に放送され、ポワロの登場する短編、長編のほぼすべてをドラマ化したものです。原作に忠実で丁寧な作り方が本国イギリスをはじめ各国で高く評価されました。日本でも繰り返しテレビ放映されています。シリーズのすべての作品でポワロを演じたデヴィッド・スーシェは、最も原作に近いポワロと言われ、その名演技が高く評価されています。
このドラマ版「ナイルに死す」も、原作小説での登場人物の性格付けが忠実に映像化されており、小説のファンからの評価も高いようです。
三つの映像化の中で最も時間が短い(1時間40分)こともあり、複雑な人物関係の描写も大分簡略化されていますが、映像化作品の中で唯一コーネリア・ロブスンが登場し、小説と同様心の温かい優しい女性として描かれています。ロザリー・オッターボーンも限界ギリギリまで意地を張る様子が原作通りに描かれています。
その代わりに、映画Ⅰが大きく時間を割いた登場人物それぞれの動機や犯行の機会、可能性についての描写が少なく、ポワロの推理の過程も駆け足で、ミステリーの醍醐味を味わうには若干不満が残ります。
小説には事件がすべて解明され犯人が明らかにされた後、ポワロと犯人が二人だけで穏やかに話しあう印象深い場面がありますが、ドラマ版のみにそのシーンがあります。
③映画Ⅱ(2022年版)
この映画も十分楽しめます。特筆すべきは、最新技術を用いたエジプトの雄大な風景の撮影は素晴らしいです。特に、序盤に登場するギザの大ピラミッドの上空からの映像は圧巻で、まさにその場にいるかのような臨場感です。
その一方、この作品には気になる点も何点かあります。
まず、エジプトでの撮影には様々な困難があるなかで映画Ⅰやドラマ版では出演者がエジプトに滞在して現地での撮影を敢行したのと異なり、映画Ⅱでは出演者はエジプトには行かずスタジオで撮影したものをCGで合成しています。アブ・シンベル神殿もオールド・カタラクトホテルも事件の舞台となるカルナック号もスタジオ内に実物大のセットが造られて撮影されました。そのセットはいずれも本物かと見間違うほどの見事な出来栄えです。しかし如何に最新のCG技術を駆使しても、映画Ⅰやドラマ版が出演者が現地で演じたことによって醸し出されたエジプトの空気感、リアルな雰囲気は残念ながらありません。
また映画Ⅱでは、登場人物の設定に小説には無い現代的な改変が加えられています。登場人物の何人かが黒人やインド人に替えられるという独自の設定になっています。当時の情勢においてイギリスの富裕層と黒人やインド人がエジプトの豪華客船に乗客として乗り合わせるということがあり得たのかという疑問はさておき、原作のファンから見れば唐突な印象をぬぐい去ることはできないようです。さらに登場人物の間に同性愛の関係があることが途中で明らかになります。これらは、人種差別やLGBTといった現代社会の問題意識を持ち込み、進歩的な価値観を示そうという意図なのかもしれませんが、クリスティが生き生きと描いた独立直後のエジプトの空気とは別の世界になっています。
■ポワロの名言
小説の中で、ポワロは若い女性たちに折に触れて様々なアドバイスをしています。そのいくつかを紹介します。
ポワロが、リネットとサイモンへの復讐に凝り固まったジャクリーンにアドバイスをします。
「人生にはどうにもならないことがあります。それでも道を間違えてはいけません。」
「問題は未来です。過去はどうでもいいのです。」
ポワロが、リネットの恵まれた境遇を妬むロザリー・オッターボーンにアドバイスをします。
「光るものすべてが黄金とは限りません。」
最後に「ナイルに死す」の時代の後、エジプトがどのような道をたどったのか見ていきましょう。
◎その後のエジプト
1939年に勃発した第二次世界大戦では、連合国側のイギリスの軍隊がエジプトに駐留し、同盟国のドイツ、イタリアと戦いました。エジプトは連合国側にとどまり、大戦中の1943年には連合国首脳によるカイロ会談が行われました。
第二次世界大戦後はエジプトを含む中東情勢は大きく変わりました。国際的な影響力の低下したイギリスはエジプトからも撤退しますが、新たにパレスチナでのユダヤ人による国家建設問題が浮上します。それを阻止しょうとするエジプトなどアラブ7カ国は1945年にアラブ諸国連盟を結成し、アラブの統一行動を目指します。しかし1948年にはユダヤ人国家イスラエルが建国され、これを受けて第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が起きます。
エジプトでは1952年にナセルを中心とする自由将校団によるエジプト革命が起き、国王は追放され、共和国が成立します。1956年には実権を握ったナセルが大統領に就任し、スエズ運河の国有化を宣言します。そして第二次中東戦争が勃発します。
こうして大戦後のエジプトは、イスラエルとの対立関係を軸とした新しい国際関係の激動の中に置かれることになります。