「バベットの晩餐会」

デンマーク
ルター聖書(マルティン・ルターによる旧約聖書と新約聖書のドイツ語訳)

 20世紀デンマークを代表する作家であるアイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)の同名小説の映画化です。デンマークの辺境の村を舞台に人生の幸福を静かなタッチで歌い上げた作品です。
 1987年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。

・1987年 デンマーク映画
・監督 ガブリエル・アクセル
・出演 ステファーヌ・オードラン、ビルギッテ・フェダースピール

 デンマークは北ヨーロッパに位置し、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島とその周辺の島々からなる国です。そのユトランド半島の小さな漁村にプロテスタント(ルター派)の厳格な牧師が住んでいました。牧師にはマチーネとフィリパという二人の娘がいました。姉妹は牧師の後継者となるべくつつましい人生を歩んでいました。
 そんな中、偶然この村にやって来て姉妹に心を奪われる二人の男が登場します。まず姉のマチーネに恋をするのは隣国スウェーデンの若い士官であるローレンスです。彼はギャンブルにはまって借金をかかえ、親から叱責されてユトランド半島にある叔母の家で謹慎をしていました。ローレンスはマチーネに惹かれ教会に通いますが思いを告げられず、忘れがたい思いを残しつつ村を去ります。
 妹フィリパの前に現れたのは、パリの人気オペラ歌手であるパパンです。彼はストックホルム公演の帰りにユトランド半島の自然を見るために村に立ち寄り、フィリパの歌声に魅了され、毎日彼女に歌のレッスンをします。パパンはフィリパに惹かれますが、フィリパは戸惑い身を引きます。パパンも失意のうちに村を去ります。
 その後姉妹の父である牧師が亡くなり、姉妹は牧師館を引き継ぎ神に仕えながら独身を貫きます。二人は村人たちに食事を振る舞うなど周囲への慈愛に満ちた日々を過ごし、毎日が淡々と過ぎていきます。

 そして35年という長い歳月が流れます。姉妹ももう若くはありません。1871年の9月のある嵐の夜、かつてフィリパに恋をしたパパンの手紙を携え、一人のフランス人女性が疲れ切った様子で訪ねてきます。その女性がバベット(ステファーヌ・オードラン)です。パパンの手紙には「バベットはパリでの騒乱で夫と息子が処刑された。彼女自身も危険なのでデンマークに逃亡するが、私が知る人はあなたしかいない。どうか彼女を働かせてほしい。」と書かれていました。困惑した姉妹は、「貧しいので家政婦は雇えない」と説明しましたが、バベットは「金はいりません。ここにおいてもらえなければ死ぬしかありません。」と訴え、姉妹は受け入れます。
 こうして三人の暮らしが始まりました。バベットは賢くてやりくりが上手で、姉妹は金銭的に余裕が出てきます。バベットは姉妹にとってかけがえのない存在になっていきます。そしてさらに14年の歳月が流れます。

デンマークは日本人にはそれほどなじみ深い国ではありませんが、世界史上は何度か重要な場面で登場します。それではデンマークの歴史をごく簡単に見ていきましょう。

デンマークの位置
NuclearVacuum – 次の画像を基にした投稿者自身による著作物Location European nation states.svg, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 ゲルマン民族の移動の時代にノルマン人の一派であるデーン人がユトランド半島とその周辺に住み着き、10世紀にはデンマーク王国が成立したようです。デーン人は勢力が強くユトランド半島だけでなく、スカンジナヴィア半島にも勢力を伸ばします。さらにはデンマーク王国の王子クヌートがイングランドも征服しデーン朝を開きました。11世紀にはスウェーデンやノルウェーと合わせて北海帝国と呼ばれました。ただし、イングランドでのデーン人の支配は11世紀半ばには衰退ました。

 デンマークは、13世紀頃からは北海とバルト海の貿易で繁栄して勢力を伸ばし、バルト海の覇権をめぐってドイツを中心にした都市同盟であるハンザ同盟と争いました。1397年には、デンマークの王女マルグレーテが主導してカルマル同盟を結成します。これはデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧三国が結成した同盟で、マルグレーテを実質的な女王とする同君連合です。デンマークはカルマル同盟の盟主として15世紀に最盛期を迎えました。その後、16世紀にはスウェーデンが分離独立してカルマル同盟は解体しデンマーク=ノルウェー連合王国となりますが、引き続きヨーロッパの有力国として繁栄が続きました。

 しかし、デンマークの没落が始まります。最初は三十年戦争です。これはもともとは1618年のベーメンでの反乱から始まったキリスト教新旧両派によるドイツの宗教内乱でしたが、ヨーロッパの新教国、旧教国がそれぞれ介入して国際的な戦争となり、最後にして最大の宗教戦争と言われています。長期にわたる戦争でしたが、1625年からの数年間はデンマーク戦争と言われています。デンマーク王クリスチャン4世が、イギリスとオランダの資金援助を受け、新教徒擁護を掲げてドイツに直接介入しましたが、神聖ローマ帝国らの旧教徒同盟軍に撃退されました。結局、領土を大幅に失うことになりました。
 次が19世紀はじめにヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争です。この時デンマークはフランスと同盟を結んでいたため、結局敗者の側になります。その結果、デンマーク=ノルウェー連合王国という形で長年実質的に支配してきたノルウェーをスウェーデンに奪われます。
 さらにデンマークにとって大きな試練となったのは、19世紀にプロイセンと争ったシュレスビィヒ・ホルシュタイン問題でした。シュレスビィヒとホルシュタインはユトランド半島の南部にありデンマーク領でしたが、ドイツ系の住民も住んでおり自治が認められていました。1848年にフランスで二月革命が起きると、その影響はヨーロッパ各国に及び、各地でナショナリズムが高揚します。シュレスビィヒとホルシュタインでもドイツ系住民が独立運動を起こします。これを当時急成長を遂げていたプロイセン王国が支援します。しかしこの時は、プロイセンの進出を警戒するイギリスやロシアがデンマークの支援にまわったため、シュレスビィヒとホルシュタインには強い自治権を与えることを条件にデンマーク領として残りました。
 しかし1863年、デンマーク国王がシュレスビィヒにデンマーク憲法を適用することを決めたことに対する住民の反発が起き、デンマークはプロイセンとオーストリアを相手に戦うことになり敗れます。これによりシュレスビィヒとホルシュタインを手放すことになりました。この両地域はデンマークの国土の中でも肥沃な土地であり、それを失ったことによりデンマークには島嶼部と荒涼としたユトランド半島北部が残されるだけになりました。デンマークは国家として深刻な経済的危機に直面することになりました。
 この後デンマークは、「外で失ったものを内で取り戻そう」というかけ声の下、荒野や原野、沼地などを開拓し、植林や農地を造りだし、国内の開発に力を注いでいきます。(なお、シュレスビッヒの北半分はデンマーク人が多く、その後デンマーク領に戻りました。)

 映画「バベットの晩餐会」で舞台となるデンマークの小村にバベットが現れたのはこの時代です。
 かつて北欧の大国だったデンマークが小国に転落し、経済的にも最も危機を迎えていた時代です。

 この映画の歴史的背景としてはもう一つ重要なことがあります。それはバベットがフランスのパリからデンマークの田舎に逃げてこなければならなかったフランスの動乱です。一般に「パリ・コミューン」と言われている出来事です。それではフランスがこのパリ・コミューンに至るまでの経緯から見ていきましょう。

 ナポレオン戦争後のウィーン会議では、フランス革命以前のヨーロッパの国際秩序と絶対王政を復活させることで各国が同盟を結びました。これがウィーン体制です。19世紀前半はこの反動的な国際体制のもと、各地で起きた自由主義とナショナリズムの運動が抑圧されます。
 フランスでは1830年に成立したルイ=フィリップ国王の七月王政が続いていましたが、普通選挙が拒否されたことなどから1848年に市民が蜂起し二月革命が起きます。これによりルイ=フィリップは退位、七月王政が倒れ、共和政が宣言され臨時政府が成立しました。フランスでの動きが発端となってヨーロッパ各地で様々な民族運動が連鎖的に発生し、ウィーン体制は終わりを迎えます。
 しかしフランスの臨時政府には穏健な共和派から労働者や社会主義者まで様々な人々が参加しており混乱が続きます。政治的・社会的な混乱に不満を抱く民衆は統合と安定を求めるようになります。そうした中で行われた大統領選挙でルイ=ナポレオンが圧倒的な支持を得て大統領になります。さらに大統領自らが軍を率いてクーデターを起こし、国民投票での支持を受けて皇帝位につきます。ルイ=ナポレオンはナポレオン1世の甥であり、ナポレオン3世となります。ナポレオン3世が国民の支持を得られたのは、フランス革命以来の社会的混乱を終わらせ、強力なリーダーシップのもとで国民が統合されることをフランス国民が望んだからだと言われています。こうして第二帝政が始まります。

ナポレオン3世

 ナポレオン3世という人物については歴史学者の間でも評価が分かれるようです。農民、労働者、資本家、教会など国民の各階層の様々な利害が対立するなかで、巧みに広範な支持を得たことは確かなようです。人気取り政策ばかりに走ったという低い評価もありますが、積極的な産業保護政策などによりの近代化を実現したというプラス面もあります。銀行の設立、鉄道の普及、知事オスマンに主導させた首都パリの改造などの金融・社会資本の整備も進み、フランスの産業革命が大きく進展したのもナポレオン3世の時代です。フランス革命以来の混乱から一応の政治的安定が得られたとも言えます。

 ナポレオン3世は国民的支持を得るため、積極的な対外政策を展開しました。イギリスとの共同歩調による中国への進出(アロー戦争)や、インドシナ半島への進出などを慎重に進めました。しかし最後に行ったメキシコ出兵が失敗に終わり権威に傷がつきます。そういう時期に拡大を続ける新興のプロイセンとの軋轢が生じます。プロイセンが強国となることにフランスは警戒感を強める一方、プロイセンはヴィルヘルム1世のもとでビスマルクが首相となり、「鉄血政策」により軍国主義化を進めています。ビスマルクはプロイセン中心のドイツ統一を達成するためにはフランスに勝つことが不可欠と考え、ナポレオン3世を挑発します。この挑発に乗って戦争に持ち込まれたことが皇帝ナポレオン3世の命取りになります。1870年、普仏戦争が始まり、プロイセンが圧倒的勝利を重ねてスダンの戦いではナポレオン3世自身が捕虜になってしまいます。
 これにより第二帝政は終わりますが、臨時国防政府が樹立され、プロイセンとの戦争は継続します。首都パリはプロイセン軍に囲まれ深刻な食料不足になりますが、パリ市民の戦意は高く、徹底抗戦で必死に耐えます。プロイセンは翌1871年1月には占領したヴェルサイユ宮殿において、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行して、ドイツ帝国を成立させます。結局フランス側は降伏を受け入れ1871年1月に休戦協定が成立します。フランスには臨時政府が成立しティエールという人物が首班となります。同年2月、プロイセンとの講和条約においてフランスは巨額の賠償金の支払いと、アルザス・ロレーヌ地方の割譲を受け入れます。これは鉄鉱石や石炭等の地下資源が豊かで長年フランスとプロイセンが争っていた地域です。勝ち誇ったプロイセンは、3月1日、パリに入城します。
 この屈辱的な講和条約に対し、それまで持久戦を必死で耐えてきたパリ市民は憤激して立ち上がります。これがパリ・コミューンの始まりです。

 パリ・コミューンとは、1871年にパリ民衆が樹立した自治政権のことです。

コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード

 フランス臨時政府がパリの市民兵の武装解除をしようとしたことが契機となり、パリ市民が武装蜂起します。一報を受けたティエールは軍と政府関係者をひきつれてパリを放棄、ヴェルサイユに逃走します。蜂起した民衆はパリの実権を掌握し、3月26日にコミューン評議員の普通選挙が行われ、28日にパリ市庁舎で革命政府の樹立が宣言されます。こうしてパリの自治政府がフランス臨時政府から離脱します。

 パリ・コミューン政府は選挙で選ばれた84人の評議員で構成されます。実務機関として10の委員会が組織され、パリの統治を始めます。コミューン政府は新しい政策を次々と打ち出します。官公吏の公選制とリコール制など直接民主主義的な政策、言論の自由、集会の自由、信教の自由などの自由権的な政策、生活困難者に対する生活保護や社会保障など社会権的な政策など多岐にわたっており、時代を先取りしたものも含まれていたようです。パリ・コミューンの参加者には労働者が多数を占めましたが、学者、法律家、医師、報道関係者、芸術家など様々な知識人も参加しており、彼らが指導的な立場になりました。まさに多様な都市民衆が参加した自治政権でした。パリ以外の地方都市でも同様なコミューンが結成されましたが、相互の連携も不十分であったため短期間で鎮圧されます。また、コミューンは様々な立場、主張の人々の集合体であるため意思統一が難しく、団結して政府軍と戦うのは困難な状況でした。
 コミューン政府は5月20までパリを統治しますが、ヴェルサイユに集結したフランス臨時政府軍はドイツ軍の支援も受けて態勢を整え、5月21日にコミューンへの攻撃を開始しました。コミューン側は老人、子ども、女性たちも加わって必死の抗戦をします。後に「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦が行われ、セーヌ川が血で赤く染まりました。この戦闘で3万人もの市民が惨殺されたと言われています。
 5月28日、ペール・ラシェーズ墓地に追い詰められたコミューン側は全滅し、コミューンは鎮圧されます。 鎮圧後もコミューンに加わった兵士や市民は捕らえられ、銃殺されました。

 パリ・コミューンはわずか72日間という短命に終わりましたが、市民が中心となった自治政府の樹立は世界史上初めてのことでした。実行には至りませんでしたが様々な革新的な政策が打ち出されたことは、その後に大きな影響を与えたと言われています。
 その後フランスでは王政復古や立憲君主制ではなく共和制を選択し、第三共和政が始まります。1875年には第三共和政憲法も制定され、三権分立や男性普通選挙が導入されます。第三共和政は小党分立で政治的にはやや不安定な状態が続きます。普仏戦争で敗れたフランス国民の反ドイツ感情は非常に強かったようですが、パリ・コミューンから43年後に勃発する第一次世界大戦では再びドイツと激戦を繰り広げることになります。

 この映画について語られているものを見ますと、バベットがデンマークに来た理由を「パリ・コミューンが勃発したため亡命した」、「パリ・コミューンを避けてデンマークに来た」などとされているものがありますが、厳密には少し違うと思います。歴史的背景、前後のいきさつ等を考え合わせると、バベットはおそらくパリ・コミューンを起こした側の人間、少なくともパリ・コミューンの趣旨に賛同し積極的に加わった人間なのでしょう。そして臨時政府軍の弾圧に対し、夫と息子とともに立ち向かったのでしょう。政府軍により夫と息子は処刑されバベットだけがからくも逃亡したと考えるのが妥当だと思われます。一瞬ですが「血の週間」の場面を描いた絵が映画の中で挿入されています。
 映画の中で「パリに帰りたくないのか」と尋ねられた時にバベットは「パリで私を待っている人はいません。すべて死にました。」と言います。この言葉が、「血の週間」の壮絶さとバベットの悲痛な思いを表しています。

 この映画の原作者カレン・ブリクセンは20世紀デンマークを代表する女性の小説家で、デンマークの紙幣に彼女の肖像が使われていたことがあるほどの国民的人気作家です。なお、この作品はアイザック・ディネーセンという名義で発表されています。この人の作品には「愛と哀しみの果て」があり、映画化もされています。
 監督はガブリエル・アクセル、デンマーク人です。フランスを中心にテレビ、映画、舞台の監督をしていた人ですが、デンマークに戻って作ったのがこの作品です。原作の舞台はノルウェーになっていますが、映画化に当たって原作者と監督の母国であるデンマークを舞台にして制作しました。
 この映画の魅力の一つは、全編を貫く静けさでしょう。舞台となる村は、雲が重く垂れ込め北海から強い風が吹き込む冷涼な気候の北欧の漁村です。
 そして19世紀後半のプロテスタント、特にルター派の素朴な精神文化が印象深く描かれます。粗食を旨とし楽しみも少ないですが、それで満足し感謝の心を忘れない、敬虔で質素で穏やかな生活です。心が洗われるような気がします。「口というものは神を讃えるためにあるのであって、贅沢な食事をするためのものではない」ということばがそれを象徴しています。
 バベットが晩餐会の準備をしているのを見た村人たちの様子もユーモラスです。バベットが海亀やウズラを生きたまま調達するのを見た村人たちは衝撃を受け、怪しげな料理を食べさせられるのではと心配し、「魔女の饗宴」とまで言います。姉妹は恐れおののき、夢でうなされたりもします。カトリックの国フランスの豪華な料理とプロテスタントのストイックな生活との対比、西ヨーロッパと北欧の文化の対比が鮮明です。
 ルター派は、ドイツとデンマーク、スウェーデン、ノルウェー等の北欧諸国に広まりました。現在でもデンマークでは国民の約75%がルター派であるデンマーク国教会に属しているそうです。下の写真はデンマークのチョリングという村の教会です。その佇まいから質素で禁欲を重んじる精神が感じ取れます。

Tjorring kirke.jpg
Af No machine-readable author provided. Parus~commonswiki assumed (based on copyright claims). – No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims)., CC BY-SA 3.0, Link

 次の写真はこの物語と同じユトランド半島の海岸の風景です。映画の舞台となった漁村の雰囲気が感じられます。

Henne Strand bei Sonnenuntergang.jpg
Af Andreas Schmidt – photographed by myself (Nikon F 601 – scanned color slide), CC BY-SA 3.0, Link

 北欧の寒村でつつましく禁欲的な生活をおくる人々の生活を描いた前半もとてもよいのですが、映画のクライマックスの晩餐会の場面は特筆すべき素晴らしさです。神様に感謝しつつ料理を楽しんで食べることが人の心を豊かにし、生きる活力を与えてくれることを実感させられます。映画を見る者にも、晩餐会の参加者と同じように不思議な暖かみと幸福感が満ちてきます。
 晩餐会に出席した人たちの表情や様子、その場でのやりとりが物語の展開においてとても面白いのですが、それを書くとネタバレになってしまいます。そこで晩餐会でバベットが作った料理の内容だけを見ていきましょう。料理についての映画の中でのセリフ(字幕)の他、大勢の方がブログやホームページでバベットの料理を解説しておられますのでそれを参考にしています。なお、バベットの料理を再現した食事会というものが日本でも何度か催されたようです。2012年にホテル西洋銀座(残念ながら今はありません)で提供された「再現フルコース」も参考にしました。また、この映画に関するデンマーク語のWikipediaの記事(バベットの饗宴 (映画) – Wikipedia)には、バベットの料理を再現したものの写真が掲載されていましたので、それも掲載させてもらいます。(Photo: Mogens Engelund)

①スープ :「海亀のスープ」

 海亀は現在では大型海洋生物として絶滅危惧種に指定されており取引はできません。したがって私たちが海亀のスープを飲むことはできませんが、かつては高級なフランス料理にも使われていたようです。芳潤な味わいでとても美味しいもののようです。

②前菜 

 字幕では「ブリニのデミドフ風」となっていました。この料理は「キャビアのデミドフ風ブリニ添え」と言っている人もおられます。プリニという小さなパンケーキにキャビアをのせています。キャビアの量もしっかりあり、豪華です。デミドフ風というのはサワークリームを添えるということのようです。

キャビア(スターター)のデミドフ。
Af Mogens EngelundEget arbejde, CC BY-SA 3.0, Link

③メイン

 字幕では「ウズラのパイ詰め石棺風」となっていました。これは「ウズラのフォアグラ詰めパイケース入り、ソースペリグール」と言っている人もおられます。ソースは「黒トリュフのソース」と書かれたものもあります。パイで作ったケースにウズラとフォアグラとトリュフを入れて、オーブンで焼いていました。フォアグラもたくさん入っています。最後にトリュフの濃厚なソースをかけます。とても美味しそうです。

石棺の中のウズラ(メインコース)。
Af Mogens EngelundEget arbejde, CC BY-SA 3.0, Link

④季節のサラダ

⑤チーズ三種の盛り合わせ

⑥デザート 

 映画ではバベットが無言で作りますので字幕がありません。色々な方のブログ等を見ますと、「クグロフ型のサヴァラン ラム酒風味」「ラム風味のサヴァラン フルーツのコンフィ添え」あるいは「ババのラム酒風味」などと言われているようです。サヴァランなのかババなのかよくわかりませんが、これもとても美味しそうです。バベットはラム酒(らしき液体)をドバーッとかけています。このへんが美味しさの秘訣でしょうか。

ラム酒のババ(デザート)。
Af Mogens EngelundEget arbejde, CC BY-SA 3.0, Link

⑦新鮮なフルーツの盛り合わせとコーヒー

 料理は以上ですが、バベットはワインにも力を入れ、それぞれの料理に合わせたワインを調達します。ワインを注ぐタイミングにまで心配りをしています。出席者も美味しそうに飲んでいました。以下に名前だけ書きますが、いずれも銘酒としてワイン好きな人には有名なもののようです。
・「アモンティリャード」      シェリー酒です。食前酒として出されます。
・「ヴーヴ・クリコ1860年」   シャンパンです。前菜に合わせて出されます。
・「クロ・ヴージョ1845年」   ブルゴーニュの赤ワインです。メインに合わせて出されます。
・「フィーヌ・シャンパーニュ」   食後酒です。

 バベットが料理をする場面は、バベットのテキパキとしたきれのよい身のこなしが心地よく、料理にかける情熱がひしひしと感じられます。どんな料理が出来上がっていくのか見ているのも興味深く、料理やワインに特に詳しくない人でも十分楽しめます。
 そしてすべてをやり遂げた後、バベットが一人で赤ワイン「クロ・ヴージョ1845年」のグラスを傾けるシーンがあります。彼女の充実感が感じられて印象的です。

ステファーヌ・オードラン

 主人公バベットを演じたのはフランス人のステファーヌ・オードランです。家族を失い故郷を追われた癒やしがたい悲しみを抱えながらも、過去を封印して新しい土地で生き抜こうとするバベットのたくましさを力強く演じています。毅然としたたたずまい、心に秘めた情熱が印象的です。ステファーヌ・オードランは、1968年の『女鹿』でベルリン国際映画祭の女優賞、1972年の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』で英国アカデミー賞の主演女優賞を受賞しています。

 その他の登場人物を演じた俳優たちは国際的に名の通った人たちではありませんが、どの人物もみな魅力的です。生涯をかけて村の人たちのために尽くした2人の姉妹はもう一方の主人公と言ってよいでしょう。人生を神に捧げた生き様が立ち居振る舞いにも表情にもにじみでています。
 若き日に姉妹に思いを寄せた二人の男性にも好感が持てます。実らぬ恋心もどこか不器用でほほえましく、淡々と描かれた若き日のエピソードが実は物語の展開と密接に関係しています。
 晩餐会の当日にバベットの助手として大活躍した少年と、台所の隅でバベットの料理を一人で美味しそうに食べる御者の男もいい味わいです。名前すらでてこない脇役ですが、この二人の存在によって晩餐会の場面は一層暖かいものになっています。

 この映画はデンマークとフランスのそれぞれ厳しい時代を生きてきた人々の物語ですが、すべての登場人物に対する心温まる優しい視線が映画の隅々にまで行き渡っています。
 人生には楽しいこともつらいことも色々あるけれど決して悪いものではない、そんな暖かいメッセージが押しつけがましくなく伝わってきます。珠玉の名作という言葉はこういう映画のためにあるのだと思います。

 この映画には素晴らしいセリフがたくさん出てきます。その一部をご紹介します。

 「人が天国に持って行けるものは、この世で他者に与えたものだけだ。」(姉妹の父である牧師)

 重くて深い言葉です。

「人はこの世で辛い選択を迫られて悩む。だがそんな選択には実は意味がない。やがて眼が開く時が来る。我々は心穏やかにそれを待ち、感謝の気持ちで受け入れればいい。」(ローレンス将軍)

過去の選択を後悔し苦しんでいる人にとって魂の救いとなるような言葉です。

 「貧しい芸術家はいません。芸術家は人を幸せにします。」(バベット)

「これが最後ではありません。あなたは天国で至高の芸術家になります。そして天使を魅了します。それが神の定めです。」(姉妹)

 いずれも心に沁みる言葉です。

 この映画の主人公バベットは架空の人物ですが、バベットと同じようにパリ・コミューンに参加したためにフランスからの亡命を余儀なくされた実在の芸術家がいます。フランス写実主義の代表的な画家として有名なギュスターヴ・クールベです。
 クールベは、当時のフランス美術界の主流であった新古典主義、19世紀前半に隆盛であったロマン主義のいずれをも拒否し、民衆の実際の生活をそのまま描き出す写実主義という新しい潮流を生み出しました。『天使は見たことがないので描くことはできない』というセリフを残したと言われています。     

 彼は伝統的な美術で主流であった歴史画、宗教画等には関心を示さず、風景画、静物画などが中心です。特に郷里であるオルナンという地方の自然や地元の名もない人々を主題として、現実をあるがままに写し取った作品を生み出しました。代表作としては、「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」が有名です。1855年の万国博覧会に出品を拒否されたことに怒り、万博会場の近くの建物を借り、自らの作品展を開いたことでも知られています。 
 まず、下の作品が「オルナンの埋葬」です。現在はパリのオルセー美術館に展示されています。

Courbet, Un enterrement à Ornans.jpg
ギュスターヴ・クールベ投稿者自身による著作物 撮影日:2005年12月15日, CC 表示 2.5, リンクによる

 続いて「画家のアトリエ」です。この作品もオルセー美術館に展示されています。

Courbet LAtelier du peintre.jpg
ギュスターヴ・クールベ – 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

 社会への関心も高かったクールベは、パリ・コミューンに共鳴して積極的に参加し、コミューンの芸術連盟会議の議長という職に就任しました。そしてナポレオンの戦勝記念碑であったヴァンドーム広場の記念円柱の取り壊しを提案し、実施に移しています。
 ヴェルサイユの臨時政府軍がパリに入り市街戦が始まるとクールベは潜伏しますが発見され、投獄されます。他のコミューン指導者よりは刑が軽く、一度は釈放されますが円柱の再建費用として巨額の賠償金の支払いを請求されます。支払いが困難なクールベは身の危険を感じ、1873年にスイスに亡命し、1877年スイスで亡くなりました。
 伝統的な美術から脱却し、現実に見たものをそのまま描くという当時としては革新的な画業は印象派をはじめとした後の近代絵画に大きな影響を与えました。後世「第一回印象派展」と呼ばれる展覧会がモネ、ルノワールらの無名の若い画家たちにより開かれたのはクールベが亡命した翌年のことでした。

 デンマークは北欧の大国として繁栄した後、苦難の歴史を歩むことになりました。国民は懸命に働き、農地や森林を生み出し、災害を防ぎ、農業・牧畜中心の国づくりにより地道な生活を築いていきました。それを支えたのがルター派の熱心な信仰心でした。その後は、安定した立憲王国として着実に発展をとげ、第一次世界大戦は中立を守ります。第二次世界大戦では突然ナチスドイツに攻め込まれ、たった1日で降伏しドイツの支配下に入りました。抵抗運動は続いたようですが、独立を回復したのは終戦後です。
 戦後は北大西洋条約機構(NATA)に加入します。バルト海と北海の間という枢要な位置にあるためソ連の反発がありましたが、冷戦時代には一貫して西側諸国の一員として歩みます。1973年にはヨーロッパ連合(EU)の全身であるECに加盟し、現在もEU加盟国です。
 現在のデンマークは人口は580万人程度ですが、国連が発表している世界幸福度ランキングでは常に上位に入り、幸福度の高い国として知られています。

 日本でも有名なデンマークの企業は、おもちゃの「レゴ」、陶磁器の「ロイヤル・コペンハーゲン」、北欧風雑貨ショップの「フライングタイガー・コペンハーゲン」、銀器の「ジョージ・ジェンセン」などです。

 歴史上有名なデンマーク人としては、ロシア海軍で活躍しベーリング海峡やアラスカを発見したヴィトゥス・ベーリング、グリム童話で有名なハンス・クリスチャン・アンデルセン、量子力学のニールス・ボーア、実存主義哲学の創始者といわれるセーレン・キェルケゴールなどがいます。
 活躍中の映画関係者としては、「ドッグヴィル」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー監督、そして北欧の至宝と呼ばれる俳優のマッツ・ミケルセンが有名です。
 観光は、コペンハーゲンの「人魚姫の像」、チボリ公園などが人気です。