1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがパレード中に銃撃され、死亡しました。白昼、多数の人々の眼前で現職大統領が暗殺されるという衝撃的な事件でしたが、当日逮捕された犯人と思しき男も2日後に警察署内で銃撃されて死亡するという異例の展開を見せました。長年にわたって事件の真相をめぐって多くの説が提起され、今もなお議論の的となっています。
この事件の真相究明に執念を燃やした実在の地方検事の姿を通して、20世紀最大の謎の一つとされる暗殺事件を描いたオリバー・ストーン監督の傑作です。
■映画の概要
1991年アメリカ映画
監督 オリバー・ストーン
出演 ケビン・コスナー、トミー・リー・ジョーンズ、シシー・スペイシク
アカデミー賞 撮影賞、編集賞受賞
■あらすじ(ネタバレ無し)
映画は第34代大統領であったアイゼンハワーの退任演説の映像から始まります。アイゼンハワーは、軍隊と軍需産業が結びついた軍産複合体が影響力を強めていることについて警鐘を鳴らします。
続いてケネディ大統領の軌跡を映した実写フィルムです。激戦だった大統領選、公民権運動の高まり、ピッグス湾事件、キューバ危機、ベトナム問題、平和を希求するスビーチなどが映されます。
ここからこの映画の主人公であるニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソン(ケビン・コスナー)の物語が始まります。1963年11月22日、ギャリソンはケネディ大統領暗殺の第一報を聞いて衝撃を受けます。直後に犯人として逮捕されたのがリー・ハーヴェィ・オズワルド(ゲイリー・オールドマン)という男だと聞いてさらに驚きます。オズワルドは4カ月前には「キューバ公正委員会」を名乗ってトラブルを起こすなどの奇行でニューオーリンズでは有名な人物でした。さらに2日後には、逮捕されたオズワルドが警察署の駐車場で大勢のマスコミや警官の前でジャック・ルビーという男に射殺されてしまいました。
一連の経過に疑問を抱いたギャリソンは、匿名電話の情報などをもとにニューオーリンズでのオズワルドの行動や交友関係を調査します。その結果、オズワルドの航空隊時代の教官であったディヴィド・フェリー(ジョー・ペシ)の暗殺事件当日の行動を不審に思い、呼び出して尋問します。そしてオズワルドの共犯の可能性があるとしてFBIに拘留させますが、FBIは事件に無関係であるとして釈放してしまいます。この時点で暗殺事件に関するギャリソンの捜査はいったん終了します。
この後、3年の歳月が流れます。この間、政府の設置した暗殺事件の調査委員会(ウォーレン委員会)は、オズワルドの単独犯行という報告書をまとめていました。
ある日、ギャリソンは飛行機で隣り合わせたルイジアナ州選出の上院議員ラッセル・ロング(ウォルター・マッソー)から、ウォーレン委員会の報告書は信用できないという話を聞かされます。ギャリソンは報告書の証言記録を読み、ニューオーリンズでの自分の調査結果と違っていることに気づきます。それを機に委員会の報告書を何度も読み返しますが、いくつもの矛盾点や疑問点を見つけます。そしてスタッフと共に密かにケネディ暗殺事件の調査を開始します。かつて匿名の電話をしてきたジャック・マーティン(ジャック・レモン)をはじめ、多くの目撃者や関係者に聞き込みをします。
◎歴史的背景 ケネディ大統領の時代

1961年、ケネディは共和党のアイゼンハワーに代わり第35代大統領に就任して民主党政権を復活させました。43歳での当選は現在でも史上最年少です。カトリック教徒として最初の大統領でもありました。カトリックの大統領はその後も第46代のバイデン大統領のみです。
ケネディはアイルランド移民の子孫で、父親も駐英大使を務めた名門です。ハーヴァード大学卒の若き上院議員でした。共和党のニクソン候補と戦った1960年の大統領選はまれにみる激戦でした。この時、テレビの公開討論が初めて導入され、ケネディは巧みな弁論で新鮮な候補者としてアピールしました。
ケネディは「ニューフロンティア」の開拓を政策として掲げました。貧困や差別の解消、教育問題、都市問題などに取り組み、新しい政策によって未知の可能性を開き、アメリカ社会の停滞を打破するというものです。
ケネディが大統領に当選したのは東西冷戦が深刻化しつつある時期でした。当選から暗殺されるまでの主な出来事は以下の通りです。
1960年 ・11月 8日 大統領選に勝利
1961年 ・1月20日 大統領に就任
・4月17日 【キューバ関連】ピッグス湾事件
・5月 1日 【キューバ関連】キューバのカストロ政権が社会主義を宣言
・5月25日 【宇宙開発関連】アポロ計画の推進を表明
・6月 3日 ウィーン会談(ソ連のフルシチョフ首相との会談)
・8月13日【ベルリン関連】ベルリンの壁の建設が始まる
1962年 ・2月 8日 【ベトナム関連】南ベトナム軍事援助司令部を設置
・2月20日 【宇宙開発関連】初の有人宇宙衛星の打ち上げに成功(マーキュリー6号)
・10月16日~28日 【キューバ関連】キューバ危機
1963年 ・6月10日 アメリカン大学卒業式で「平和のための戦略」と題した演説
世界平和に対する情熱と信念を示す
・6月11日 【公民権関連】公民権に関するテレビ演説
・7月26日 核実験停止に関するテレビ演説
・8月 2日 部分的核実験禁止条約に調印(核実験の制限に関する最初の国際条約)
大気圏の内外及び水中の核実験を禁止(地下実験のみ容認)
・8月28日 【公民権関連】人種差別反対ワシントン大行進
・11月 1日 【ベトナム関連】南ベトナムでクーデター(ゴ・ディン・ジェム大統領を殺害)
・11月22日 ケネディ大統領暗殺
それではケネディが大統領在任中に特に心を砕いた事柄について見ていきましょう。
◎歴史的背景 キューバ関連
①ピッグス湾事件
アメリカの隣国キューバでは、1959年のカストロによるキューバ革命により親米政権が倒されました。革命政府はキューバ国内のアメリカ企業を接収して国有化するなどしたため、アメリカはカストロの政策を社会主義的と判断します。1961年1月退任直前のアイゼンハワー大統領は、キューバとの国交を断絶します。
その後アメリカは密かにカストロ政権の転覆計画を進めます。それが具体化したものがその年の4月のピッグス湾事件です。結果的にアメリカの歴史上最も愚かな軍事作戦、ケネディ政権の汚点などとも言われます。
キューバ革命の後、アメリカに亡命してきたキューバ人が多数いましたが、アメリカのCIA(中央情報局)が亡命して来たキューバ人をグアテマラで訓練し、武装等の支援をしてキューバに侵攻させてカストロ政権の打倒を試みた作戦です。
アイゼンハワー政権の時代から準備されており、ケネディはこの計画を引き継いだ形になります。当時のCIAのアレン・ダレス長官は就任間もないケネディ大統領にこの計画を説明し、実行に移すよう熱心に説得しました。

ケネディは事の重大さに驚愕したと言われています。政権内での議論を経て、ケネディはこの計画を許可します。ただし、アメリカ軍を公然とキューバに出動させることはしない、というのがケネディの付けた条件でした。キューバ亡命者軍だけで勝てるというのが前提になっていました。しかし実際はアメリカ軍の直接介入を前提として計画されており、この食い違いが後に大きな問題となります。
計画は、最初に亡命キューバ人の空軍によりキューバ軍の基地の空襲を行い、キューバ上空の制空権を確保してから上陸作戦を行うというものでした。しかし空襲の効果が不十分で、制空権を確保しないまま上陸作戦を行いました。4月17日、約1500人の亡命者軍がキューバのピッグス湾に上陸します。しかし2万人とも言われるキューバ政府軍がそれを待ち構えていました。亡命者軍の上陸と合わせて起こるはずだったキューバ政府軍内部からの呼応もキューバ国民の蜂起も起きません。窮地に立たされたCIAと軍部は、上陸部隊を救うためアメリカ軍の直接介入を許可するようケネディ大統領に強く要請しますが、ケネディはこれを拒否します。結局、亡命キューバ人軍のほとんどは殺害されるか捕虜になり、計画は大失敗に終わりました。
失敗の原因は、予測が楽観的過ぎており、現実と大きく食い違っていたことです。特に、キューバ政府軍の勢力を著しく過小評価しており、機密保持も不徹底でした。ケネディ大統領に対する説明も不十分であり、また、政権が発足してからの日が浅かったため意思決定のシステムが確立しておらず、十分な検討時間をとらないままゴーサインが出てしまいました。
ケネディは記者会見を開き、自らの責任を認めます。同時にCIAに対してはその責任を厳しく追及し、ダレス長官とカベル副長官を解任します。その後ケネディはCIAと軍部をまったく信用しなくなったと言われています。ここでケネディとCIAの関係には大きな亀裂が入ります。
一方、亡命キューバ人の上陸部隊はアメリカ軍の支援を想定していました。捕虜となった上陸部隊は後日アメリカが受け入れましたが、ケネディが壊滅寸前の亡命者軍を見捨てたとして強く恨むようになります。この作戦失敗のツケは大きく、中南米諸国では反米感情が高まり、同盟国のアメリカに対する信頼も揺らぎました。この直後の5月にカストロは社会主義宣言を行い、以後反アメリカの姿勢を強めてソ連に接近します。
ケネディは中南米諸国の信頼を取り戻すため、「進歩のための同盟」として中南米諸国への経済援助を打ち出します。これはキューバを孤立させるとともに、経済を安定化し社会主義化を防止することを目的としました。
②キューバ危機
キューバ危機は東西冷戦の中でも最も緊張の高まった事件です。
ピッグス湾事件で失敗した後もケネディ政権はキューバの共産政権の打倒と親米政権の樹立を画策します。これがCIAを中心に進められたマングース計画です。反カストロのプロパガンダ、市場や経済のかく乱、サボタージュなど社会混乱の扇動、反政府勢力への武器援助など多種多様な案が検討されました。カストロの暗殺まで含まれおり、マフィアも関与していたと言われています。

ソ連のフルシチョフ首相はキューバに核ミサイルを配備することを計画します。1962年10月14日、アメリカの偵察機が撮影した写真から、ソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚します。キューバからはアメリカ本土が直接攻撃される危険性があるため、ケネディ政権は衝撃を受けます。ミサイルが運び込まれるのを防ぐため、アメリカ政府の国家安全保障会議が開かれますが、キューバを空爆して先制攻撃をかける案と海上封鎖をする案で対立しました。
CIAと軍が空爆を強く主張したのに対し、大統領の実弟ロバート・ケネディ司法長官とマクナマラ国防長官は海上封鎖を主張し、最終的に海上封鎖案が採用されました。アメリカはキューバの海上を封鎖してソ連に基地の撤去を迫ります。しかしソ連は基地の撤去を拒否し、両国は臨戦態勢に入ります。事態は極めて緊迫し、米ソ間の直接対決の危機、まさに核戦争の瀬戸際に立たされました。両首脳は裏面で交渉を続け、結局10月27日、ソ連はミサイル基地を撤去し、アメリカはキューバ侵攻を断念することで妥協が成立し、危機は回避されました。
※ ケネディ大統領の実弟ロバート・ケネディ司法長官は「13日間 キューバ危機回顧録」という記録を残しています。これをもとに制作した映画が「13デイズ」(2000年ロジャー・ドナルドソン監督)です。「JFK」で主役を演じたケビン・コスナーが、こちらでは大統領特別補佐官役で主演しています。危機回避に必死に取り組んだホワイトハウス内の状況をリアルに描いています。
キューバ危機の平和的な解決に成功したことによりケネディは指導者としての自信を深めました。キューバ危機の経験から意思疎通の重要性を痛感した米ソ両首脳の間で直通回線(ホットライン)が設置されます。この後両首脳は緊張を緩和し、共存する道を模索します。核開発競争には一定の歯止めが必要であるという認識を共有し、イギリスにも働きかけ、核実験を制限する最初の取り決めに合意します。これが1963年8月に調印された部分的核実験禁止条約です。
なお、ソ連国内ではフルシチョフ首相がアメリカに対して弱腰だと批判され、ケネディ暗殺の翌年の1964年10月にフルシチョフは解任されます。
◎歴史的背景 ベルリン関連
東西冷戦の初期において対立が先鋭化したのは、両陣営が直接向かい合ったドイツのベルリンです。ベルリンは西側三カ国(米、英、仏)が管理する西ベルリンと、ソ連が管理する東ベルリンに分割されます。1948年のベルリン封鎖を経て、1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国されますが、東ドイツの首都であるベルリンは東西に分断されたままです。
その後、社会主義国の東ドイツでは国民の自由が束縛され、生活水準も西ドイツに後れを取ります。そのため東ベルリンから西ベルリンに逃げ込む市民が激増します。東ドイツとソ連は西ベルリンに駐留するアメリカ、イギリス軍の撤退を要求しますが、西側は拒否して対立が深刻化します。

1961年6月、ケネディ大統領とフルシチョフ首相による米ソ首脳会談がウィーンで行われました。キューバでのピッグス湾事件の2カ月後です。ケネディはこの会談で東西冷戦に何らかの打開策を見出したいと考えていましたが、結局進展のないままに終わりました。
重要な議案であったベルリン問題では、ケネディが西ベルリンを守る姿勢を貫き、フルシチョフが強く求める西ベルリンからのアメリカ軍の撤退を拒否します。
この会談の2カ月後の1961年8月、東ドイツは西ベルリンの周囲に「ベルリンの壁」を建設して市民の移動を制限します。この後、壁を越えて脱出を図る東ドイツ市民が相次ぎ、多くの犠牲者がでました。このベルリンの壁が冷戦の象徴となります。
◎歴史的背景 宇宙開発競争
冷戦期には、激しい宇宙開発競争がありました。軍事技術に応用可能であり他国の偵察にも使えるため、米ソ両国の威信をかけた戦いになりました。1957年10月、ソ連が人類初の人工衛星であるスプートニク1号の打ち上げに成功し、後れをとったアメリカは大きな衝撃を受けてNASA(アメリカ航空宇宙局)を設立します。
ケネディはスプートニクショック以来失われていたアメリカの自信を取り戻すことを公約として掲げ、宇宙開発に力を入れます。しかし、ソ連は1961年4月にはボストーク1号による初の有人宇宙飛行を成功させます。宇宙飛行士ガガーリンによる「地球は青かった」という言葉が話題になりました。
ケネディは宇宙開発をアメリカの国家の威信の象徴と考え、1961年5月、議会において、10年以内に人間を月に到達させるという計画を提案します。そして1962年9月12日にテキサス州ヒューストンのライス大学での演説で「我々は月に行くことを選択する」と述べ、アメリカ国民の支持を求めました。こうして人類初の月への有人宇宙飛行計画であるアポロ計画が本格化します。

なお、その7年後(1969年)、アメリカは人類を始めて月面に到達させることに成功します(アポロ11号)。
◎歴史的背景 ベトナム関連
①インドシナ戦争
ベトナムは第二次世界大戦前はフランスの植民地であり、大戦中は日本の占領下にありましたが、1945年8月に第二次世界大戦が終わると敗北した日本はベトナムから撤退します。この時、ベトナムの独立を目指す民族統一組織(べトミン)の指導者ホー=チ=ミンはベトナム北部で「ベトナム民主共和国」の独立を宣言します。しかしフランスが再度ベトナムの支配を図ります。そして1946年12月、べトミンとフランスの間でインドシナ戦争が始まります。戦いは長期化してフランス軍は疲弊します。
こうした中、1949年10月に中国共産党により中華人民共和国が成立したことから、アメリカはドミノ理論を唱えます。ベトナムが共産主義になれば、東南アジア諸国が連鎖的に共産主義になっていくというものです。1950年からアメリカはアジアの共産化を防ぐため、ベトナムに「軍事援助顧問団」を派遣してフランス軍に対する支援を始めます。トルーマン大統領の時代です。
一方、ベトミンは中国とソ連の支援を受け、インドシナ戦争は東西冷戦の代理戦争になりました。1953年11月からのディエンビエンフーの戦いがフランスの大敗に終わったことから休戦協議が進み、ベトナムは北緯17度線の軍事境界線によって南北に分断され、フランスはベトナムから撤退します。
②アメリカの介入
これを受けて、フランスの肩代わりをするようにアメリカが介入します。アイゼンハワー大統領の時代です。アメリカは南ベトナムにゴ=ディン=ジェムを首班として「ベトナム共和国」を立てます。それに対し1960年に「南ベトナム解放民族戦線(べトコン)」が結成され、ソ連や中国の支援を受けた北ベトナム(ベトナム民主共和国)がこれを支援します。そしてベトナムの統一をめぐって南北の間で内戦が始まります。
ケネディはアイゼンハワーからベトナムへの介入を引き継ぎましたが、ベトナムに関する特別委員会を設置して検討します。委員会は南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言します。1961年1月、ケネディは南ベトナムへの積極的な軍事支援を打ち出し、軍事顧問団を1万6000人に増やすとともに支援物資を送り込みます。1962年2月にはサイゴンに軍事援助司令部を設置しますが、事態はなかなか好転しません。
ケネディがベトナムへの人的、物的関与を大幅に拡大する政策を採ったことは間違いありません。しかし、当時の情勢において、その度合いを極力抑制しようとしていたとも考えられます。少なくともアメリカ正規軍の派兵は行いませんでした。それはソ連や中国との対立を煽ることを避けたのだと思われます。

アメリカは南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権への支援を行っていましたが、ゴ政権は腐敗し国民から見放されていました。ゴ政権はアメリカに支えられてきたにもかかわらず、南ベトナムへの内政干渉を行うとしてケネディ政権を敵対視するようになります。ゴ政権ではゴ・ディン・ジェム大統領の実弟であるゴ・ディン・ヌー秘密警察長官とその妻のマダム・ヌーが実権を握り、その力を濫用します。大統領が独身であったため、マダム・ヌーはファーストレディーのように振舞います。

ゴ・ディン・ジェムは自らが熱心なカトリックであり、それ以外の宗教、特に仏教を厳しく弾圧したため、激しい抗議運動が起きていました。1963年6月には、弾圧の実態を世界に知らしめるため、仏教僧が焼身自殺をしました。その報道は世界に衝撃を与えましたが、マダム・ヌーがテレビ番組の中で「あんなものは単なる人間バーベキューだ」と発言して批判を浴びます。この発言についてはケネディも激怒したと言われています。そしてケネディ政権はゴ・ディン・ジェム政権を統治能力なしと見限ります。
1963年10月31日、ケネディは介入を拡大してきた従来の方針から転じます。政権内外の反対を押し切って、1963年末までに軍事顧問団1000人が撤退すると発表します。さらにマクナマラ国防長官が、1965年末までにベトナムから完全に撤退する計画がある旨の発表をします。
この時のケネディの真意として、ベトナム政策の失敗を悟り、本気で1965年末までに手を引く決意を固めていたという説もあれば、アメリカ政府の意に反する行動をとり続けるゴ・ディン・ジェム政権に対する脅しであり、本気で撤退を考えていたわけではない、という説もあり、今となってはどちらとも言えません。
南ベトナムで軍の中でクーデターの動きが起きるとケネディ政権はこれを黙認します。1963年11月2日、クーデターが勃発し、ジェム大統領と弟のヌー長官は殺害され、政権の上層部は国外に逃亡します。これ以降、南ベトナム政府はアメリカに近い人物を首班とする軍事政権になりますが、情勢は安定しません。
このクーデターの3週間後にケネディ暗殺が起きます。
暗殺されたケネディ大統領の後を継いでジョンソン大統領が就任すると、1965年からベトナムに本格的に介入することを決断します。これ以降、アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいきます。
◎歴史的背景 公民権運動関連
第二次世界大戦後、アメリカは豊かな繁栄をとげます。黒人は既に奴隷としては扱われなくなっていましたが、南部諸州では依然として激しい黒人差別が続いていました。黒人に投票権が与えられていても、選挙権登録の際の文字テストで実質的に排除されたり、交通機関などで白人と黒人を分離する政策が採られており、 黒人は市民としての権利(公民権)が奪われている状況でした。
これに対し、1950年代からは黒人による抗議行動が起こります。それが組織化されたものが公民権運動です。中でもキング牧師は非暴力による黒人運動を指導します。
ケネディは就任時には対外政策、特にソ連との関係を強く意識しており、必ずしも当初から黒人解放を強く主張していたわけではありません。大統領選で対立するニクソン陣営が閣僚に黒人を入れることを明言したのに対し、ケネディ政権では黒人が入閣することはありませんでした。
しかし大統領就任後に公民権運動が高揚する一方、白人の人種主義者による暴力がエスカレートするのを見て、黒人擁護へ姿勢を変え、黒人差別撤廃に乗り出します。その背景には、翌年に控えた大統領選挙に向けて黒人票の確保や、アメリカの汚点として国際的な非難が高まることを避ける狙いもあったと思われます。
かつては人種差別が激しい南部では黒人が大学に入ることは不可能でした。徐々に黒人の学生を受け入れる州が増えていきましたが、アラバマ州では黒人の学生を認めていませんでした。1963年6月、アラバマ大学に黒人が入学しようした時、知事を先頭に激しい抵抗があり、大きな事件となりました。この時ケネディの断固たる行動により黒人学生の入学が実現し、以後黒人学生を締め出す州はなくなりました。

ケネディは1963年6月、議会に公民権法案を提出します。これは、黒人選挙権の保障、公共施設やレストラン等での差別や隔離の撤廃、教育における差別の排除等総合的に黒人差別を無くすことを目的としました。しかし、議会の保守派、特に南部選出の議員等は激しく抵抗し、成立の見通しはまったく立たない状況でした。6月11日、ケネディはテレビで全米に向けたスピーチを行い、直接国民に訴えかけます。公民権法案に対する国民の理解と議会の支持を求めるものです。
8月28日、公民権運動のピークとも言うべきワシントン大行進が行われます。この年はリンカーンの奴隷解放宣言から100年目に当たることから、キング牧師らの呼びかけにより全国の黒人を中心に約20万人が参加し、公民権法の成立等を強く求めました。この時のキング牧師による人種平等と差別撤廃を求めたスピーチ、特に「私には夢がある(I Have a Dream.)」で始まる一節は多くの人の胸を打ちました。
この様な動きを見て、保守層、特に白人至上主義者は黒人公民権を容認する流れに強い危機感を抱きます。
ワシントン大行進の3カ月後に暗殺事件が起きます。

暗殺事件の翌年である1964年、ジョンソン大統領のもとで公民権法は成立します。
同年キング牧師はノーベル平和賞を受賞しますが、1968年に暗殺されます。
※ アメリカ南部の黒人差別を描いた映画は多数ありますが、その一つが「ミシシッピー・バーニング」(1988年アラン・パーカー監督)です。公民権法が成立した1964年夏のミシシッピー州を舞台に、3人の公民権運動家の失踪事件を捜査する2人のFBI捜査官を主人公にした映画です。南部の黒人差別の実態、その根の深さを赤裸々に描いた衝撃的な作品です。
それでは、あらためて暗殺事件の概要を見ていきましょう。
◎歴史的背景 ケネディ暗殺事件の概要

1963年11月22日金曜、ケネディ大統領はテキサス州に遊説しました。翌1964年11月に大統領選挙を控え、再選に向けての活動の一環です。ケネディ政権が公民権法案の成立を目指していることに対して南部での反発が強いこともあり、南部の中央にあるテキサス州を訪れたものです。
大統領夫妻は大統領専用機でダラスに向かい、11時40分に当時ダラスの玄関口であったラブフィールド空港に到着、11時50分にダラス市内の自動車でのパレードに出発しました。車列は、先頭が先導する白バイ、その後ろにシークレットサービスだけが乗った車、大統領専用車、シークレットサービスが乗った車と続き、その後ろにジョンソン副大統領夫妻が乗った車が続きました。
大統領専用車はリンカーン・コンチネンタルのリムジンでオープンカーです。中は三列で、最後列の右側にケネディ大統領、左側にジャクリーン夫人、その前の列の右側にテキサス州のコナリー知事、左側に夫人、最前列は運転席と助手席にシークレットサービスが乗車していました。
パレードのルートの沿道には大勢の市民が繰り出していました。一部に大統領に対する批判的なプラカードもありましたが、全体的には歓迎ムードで、和やかな雰囲気のもと大きなトラブルもなく進んでいました。(パレードのルートについては下の写真と図を参照してください。)
12時30分ごろ、メイン通りから右折してデイリープラザという都市公園地区に入り、ヒューストン通りを進みました。その正面にテキサス教科書倉庫ビルがあります。このビルの前を左折してエルム通りに入りました。教科書倉庫ビルから約20メートル進んだ地点で最初の発砲音が響きました。ケネディをはじめ皆が一斉に右方向に顔を向け、その直後にケネディは喉をおさえて苦しい顔になりました。この時、前の席のコナリー知事も被弾しました。その直後ケネディは頭部に激しい損傷を受けます。
警察とFBIはただちに付近のビルを閉鎖して捜査を開始しました。銃声の方向から教科書倉庫ビルが一番に疑われ、ビル内の捜索に入り、6階の部屋からライフル銃と弾丸の薬きょうを発見しました。従業員の点呼が行われ、リー・ハーヴェイ・オズワルドという男が失踪していることが判明し、指名手配されます。
その後、オズワルドによく似た男を見かけて訊問しようとした警察官が射殺されるという事件が起きます。
13時30分、オズワルドがテキサス劇場という映画館に入り、13時40分に警官殺害の容疑で逮捕され、後に大統領殺害の容疑でも逮捕されます。オズワルドはどちらも強く否定しました。
オズワルドは当時24歳でした。17歳で海兵隊に入り、除隊後ソ連に亡命して後に帰国したという経歴の持ち主です。事件の年には、ニューオーリンズで親カストロ団体のビラ配りをしていましたが、裏で反カストロの団体とも接触があったようです。
事件の2日後の11月24日の11時21分、ダラスの警察本部から拘置所に移送される際、オズワルドは警察本部の地下通路でダラスのナイトクラブ経営者のジャック・ルビーに射殺されます。大勢の警官やマスコミ関係者がいる前での出来事であり、その瞬間はアメリカ中にテレビで生中継もされていました。逮捕されたルビーは動機について、「ユダヤ教信者の証しとして」「(大統領の)ジャクリーン夫人が気の毒だから」等と述べました。警察ともマスコミとも無関係のルビーがなぜ現地に立ち入ることができたかは不明です。
ルビーは死刑判決を受けましたが、獄中で病死しました。



副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン第36代大統領は、暗殺事件の7日後に事件の調査委員会(以下、「ウォーレン委員会」)を設置しまた。この委員会の報告書が現在に至るまでアメリカ政府の公式見解になります。
■ウォーレン委員会の報告書と疑問点
委員会は上下両院の与野党議員計4名、前CIA長官、弁護士を委員とし、委員長はアール・ウォーレン最高裁長官が務めました。委員会の独自調査として延べ552人の証人喚問を行い、翌1964年9月、全888ページの報告書を大統領に提出し、その後一般公開されました。別に全26巻、20,000ページ以上という膨大な関連資料が付されていました。

ウォーレン委員会の報告書(以下、「報告書」)のポイントは以下の通りです。
・大統領を殺害し、同乗していたコナリー知事を負傷させた銃弾は、テキサス教科書倉庫ビルの6階の南東角の窓から発射された (このビルは事件発生時点で大統領専用車の右後方にあった) 。
・発砲は全部で3発。
・大統領が最初に撃たれた弾丸は首の後ろから入って首の前から出たが、致命傷ではなかった。次に頭の右後部に当たった弾丸が致命傷になった。
・発砲したのはリー・ハーヴェイ・オズワルド (単独犯行) 。
・オズワルドが大統領を暗殺するための何らかの陰謀に加わっていたという証拠はない。
アメリカの主要なメディアは報告書を支持しましたが、一方では当初から批判もありました。オズワルドの単独犯行を結論として確定させることを目的とした委員会ではないか、と言われました。複数犯を推測させるような証言も多くあり、背後にもっと大きな存在が潜んでいるのではないか、と主張する声は後を絶ちません。証拠物件の公開が政府によって制限されたことも憶測を呼びました。(「事件に関係する無実の人々が被害を受けないよう保護するため」という理由で証拠や証言の一部が非公開とされました。)
なお、暗殺の瞬間が撮影された貴重なフィルムが存在します。沿道でパレードを撮影していたアマチュアカメラマンのサプルーダーという人物が撮った8ミリフィルムです。このフィルムが調査委員会でも、その後の多くの研究者たちの調査でも大きな役割を果たしました。「サプルーダー・フィルム」と呼ばれています。
委員会の報告により捜査は終了し、多くの謎が残ったまま真相は闇に葬られた形になりましたが、数多くの研究者が登場し、長年にわたって議論が続きました。批判や疑惑を生んだのは次のような点です。
①最大の疑問は、オズワルド自身にケネディを暗殺する動機がなかったことです。オズワルドがケ ネディに対して好意的な発言をしていたことが明らかになっています。委員会は膨大な証言、資料等を調査しましたが、結局動機については不明とせざるを得ませんでした。
②銃撃が3発とされたことに対しても、4発以上であったと思わせる証言、状況証拠が多々ありました。
報告書によれば、1発目は標的をはずれて沿道に当たり、2発目がケネディの首を貫通してコナリー知事の手首を含め計5か所に当たり、3発目がケネディの頭部に当たったとされています。しかし、2発目については実現可能性が問題視されました(「魔法の弾丸」と呼ばれた議論です)。コナリー知事の証言からも大統領の喉に当たった弾丸と知事に当たった弾丸は別であると思われました。

③銃撃はどの方向からされたのかという点も議論を呼びました。報告書では、大統領専用車の右後方に位置した教科書倉庫ビルから銃撃されたとされています。
暗殺事件のあったデイリープラザという広場内にグラシー・ノールという芝生の小さな丘があり、銃撃時点では大統領専用車の右前方に位置します。そのグラシー・ノールの垣根とその先の立体交差の箇所から銃撃があったという証言もありました。証言の数は調査によって異なるのですが、最も少ないものでも20人の証言があったとされています。
また、サプルーダー・フィルムでは、致命傷になった銃撃を受けた直後に、ケネディの上半身は後方に反り返っており、前方から撃たれたようにも見えます。


④銃撃の実現可能性についても疑問があります。オズワルドは海兵隊時代に射撃の訓練を受けていましたが、動く標的を用いた訓練は行っておらず、オズワルドの射撃の技量でこの事件が可能であったか疑問が呈されています。
また、銃の性能に関しても、6秒程度の間に3発を発射したとされていますが、オズワルドが使用したとされる銃でその時間に3発発射して2発を命中させることは困難ではないかという指摘があります。さらに同じ銃で続けて発射すると順に照準に狂いが生じると言われており、最後の3発目が最も正確な射撃だったことについても疑問も出されています。
⑤事件後のオズワルドの行動からも疑問が出されています。事件直後、オズワルドはすぐに逃走せずにビル内でコーラを飲んでいるところを目撃されています。
⑥パレードのルートの変更に関する疑惑もありました。事件の当日になってパレードのルートが変更になったのは、狙撃しやすいルートに変更したのではないか、という疑惑です。当時のダラスの市長がピッグス湾事件で更迭されたCIAのカベル副長官の弟であったことから、当初は疑惑が持たれました。現在では、保安上の理由から妥当なルートであったとされています。
この事件の真相については、非常に多くの説や陰謀論が出されています。有名なものをご紹介します。
■事件の真相をめぐる諸説
(A)軍産複合体説

軍産複合体とは、アメリカの軍や国防総省等の政府機関と軍需産業が結びついた連合体をいいます。冷戦の深刻化に伴い、軍備の増大により軍需産業が活況を呈し、それによりアメリカ経済が拡大したと考えられています。その動きに警鐘を鳴らしたのがケネディの前任の大統領であるアイゼンハワーです。アイゼンハワーはもともと軍人であり、第二次世界大戦中は連合国軍のヨーロッパ戦線の最高司令官としてノルマンディー上陸作戦の指揮を執り名声を博しました。戦後は大統領になり8年間務めましたが、その間、自らの出身母体である軍隊と巨大化した軍需産業が結びつくことによりコントロールが利かなくなり、国家や社会に過剰な影響力を行使することを危惧するようになります。
アイゼンハワーは退任演説においてその危険性を指摘し、「軍産複合体が自由や民主主義を危険にさらすことを決して許してはならない」と述べました。この演説は名スピーチとして後世に伝えられています。
ケネディはソ連と協調する道を模索し、キューバへの侵攻の断念、部分的核実験停止条約への調印、ベトナムの軍事顧問団の縮小等、次々と軍産複合体の利益とは相反する方向に進もうとします。軍備の増強が続くことを望む軍産複合体の思惑が暗殺事件の背後にあったのではないか、という声は根強くあります。
映画「JFK」はアイゼンハワー大統領の退任演説から始まります。3時間を超える大作の冒頭にこれを置いたことが、オリバー・ストーン監督のメッセージなのかもしれません。
(B)CIA(アメリカ中央情報局)説
大統領就任直後のピッグス湾事件でケネディとCIAの間には大きな亀裂が入りました。事件の後、CIAの長官と副長官は解任され、ケネディに忠実な人物に替えられましたが、その後もケネディはCIAを信用しなくなったと言われています。現職大統領との深刻な不和はCIAにとっては重大な危機だったと思われます。
事件の犯人とされるオズワルドも、その不思議な経歴からCIAとの関係を取り沙汰されました。報告書では、「オズワルドがCIAに雇われていたという証拠はない」となっていますが、疑惑は残ったままです。
暗殺事件の直後に大統領の実弟のロバート・ケネディ司法長官がCIA長官を自宅に呼び出して、「CIAが殺したのか?」と詰問し、長官が即座に否定したという話は有名です。
軍産複合体、CIA、さらにはFBI(連邦捜査局)や一部の政府高官らが加担したという「影の政府」説もあります。
(C)亡命キューバ人説
キューバ革命でアメリカに亡命したキューバ人は、カストロ政権を倒してキューバに帰ることが悲願でした。それを実現すべくピッグス湾事件を起こしたのですが、亡命キューバ人の実行部隊が危機に瀕した時にアメリカの正規軍の投入をケネディが拒否したことについて、実行部隊やその遺族がケネディに対して激しい憎悪を抱いていたと言われています。その意味では明確な動機があったと言えます。
また、その後に起きたキューバ危機でも、ケネディはソ連のフルシチョフに対しキューバに武力侵攻をしない約束をしたとされ、亡命キューバ人たちの希望を打ち砕きました。
(D)マフィア説
ケネディ家は大統領の父親の代からマフィアと深いつながりがあったと言われています。1960年の大統領選においても、マフィアはケネディ陣営の資金集めや集票に大きな役割を果たしたようです。それにも関わらず、ケネディ政権は弟のロバート長官を中心にマフィアの壊滅作戦を進めようとしました。これがマフィアにとっては許せない裏切りと映ったという説です。
また、キューバ革命以前のキューバではマフィアがカジノの経営により巨額の利益をあげていました。キューバ革命によりその権益を失ったマフィアは、カストロの暗殺を企てていたようです。
キューバへの軍事進攻を断念したケネディ政権への怒りという点で、CIA、亡命キューバ人、マフィアが連帯した可能性も取り沙汰されました。
オズワルドを暗殺したジャック・ルビーがマフィアとつながっていたことも無視できない点です。
※ マフィアのキューバでの利権が描かれている映画に「ゴッドファーザーPARTⅡ」(1974年フランシス・フォード・コッポラ監督)があります。三部作の第二作で、アカデミー賞では作品賞を含む6部門で受賞しています。カストロが率いる革命軍が勝利し、親米のバティスタ政権が崩壊する様が描かれています。
(E)公民権運動を背景とする説
暗殺事件が陰謀である場合、その背景として考えられる有力な要因の一つです。ケネディが公民権法を実現させる方向に舵を切ったことは、南部の保守派を中心に非常に激しい反発を受けていました。
(F)キューバ政府説
ピッグス湾事件の後、社会主義宣言をしてソ連に接近するカストロ政権に対し、アメリカはマングース計画などにより政権を倒す企みを続けました。中にはカストロの暗殺を狙う動きもあり、自らの危険を感じたカストロがケネディを狙ったという説です。
(G)ジョンソン副大統領説
ケネディは翌年(1964年)に予定されていた大統領選挙において、副大統領の候補としてジョンソンを外し別の人物を選ぶ腹積もりであったと言われています。それを察知したジョンソンが先手を打ち、自らが大統領になろうとしたという説です。
(H)共和党説
1960年の大統領選挙においてケネディ陣営がマフィアの力を借りて大規模な選挙違反を行い、共和党のニクソン陣営がそれを把握していたという説があります。何らかの不正があった可能性は高いようですが、勝敗を左右するほどの影響があったかは定かではありません。不正により政権を奪われたと考えた共和党が報復を企てたという説です。
(I)シークレットサービス説
事件当日のシークレットサービスの動きについても一部に疑惑がもたれています。オズワルドのような不審な経歴をもつ人物がパレード沿道の建物で勤務していることが事前の調査でチェックできなかったのか、パレード中もっとケネディの近くで警護すべきではなかったか等、事件に何からの形で関与していたのではないかという声がありました。
(J)南ベトナム説
南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権はアメリカの支援を受けつつアメリカと対立もしていました。11月2日のクーデターもケネディは事前に情報を聞きましたが黙認しました。クーデター自体、裏でCIAが動いたという説もあります。大統領とその弟は殺害されましたが、幹部の多くは国外に逃亡しました。ケネディ暗殺の3週間前の出来事であり、このクーデターが暗殺事件に何からかの形で結びついたという説もあります。
なお、仏教僧の焼身自殺を「人間バーベキュー」と呼んで多くの批判を受け、ゴ・ディン・ジェム政権が見離されるきっかけを作ったマダム・ヌーは、「夫と義兄が惨殺され自分の王朝を滅ぼした世界一のバカ妻」として話題になりましたが、本人はクーデター後もアメリカやヨーロッパで暮らし86歳の長寿を全うしています。
(K)コカ・コーラ理論
オズワルド単独犯行説の最大の問題は動機がないことですが、それに対する説明です。オズワルドがコカ・コーラを愛飲していたことから、糖質依存症だったのではないかという疑いです。事件直後にもビル内でコーラを飲んでいるところを目撃されています。糖質依存の症状としては糖尿病や動脈硬化が言われますが、精神への悪影響もあると言われます。つまりコカ・コーラを飲みすぎたオズワルドが大統領を暗殺しなければならないという妄想にとらわれ、それを実行してしまったという考えです。
(L)コナリー仮説
動機の問題を説明するもう一つの仮説です。オズワルドが狙ったのはケネディ大統領ではなく、同乗していたコナリーテキサス州知事だったというものです。オズワルドとコナリー知事は事件の前に接点があり、しかもオズワルドは海兵隊時代の処遇に関してコナリー知事を恨んでいたと言われています。自らの恨みを晴らすべくコナリー知事の暗殺を企て、誤って大統領を撃ってしまったという仮説です。
暗殺の真相について様々な説が提起される中、もともとあった別の噂と結びついてまことしやかに広められた都市伝説もあります。それを2つご紹介します。
(M)宇宙人説
暗殺の当日は、もし事件がなければパレードの後ケネディはスピーチをして、それが世界中に発信される予定でした。ケネディがその演説の中で何か重大な事実を開示しようとしていたため、それを阻止したい勢力により殺されたという説があります。
その一つが宇宙人・UFOに関係するものです。アメリカ政府が墜落したUFOから宇宙人(またはその遺体) を回収し、地球外の物質や地球に無いテクノロジーなどを密かに研究しているという噂が根強くあります。中でも1947年にニューメキシコ州のロズウェルという所で謎の墜落事故があり、アメリカ政府は気球だと言っていますが実はUFOだという説です。ネバダ州にエリア51というアメリカ空軍の施設があり、機密性の高い案件を扱っていますが、UFOに関する研究もそこで極秘で行われているという憶測です。

ケネディはそこで行っている研究内容を強い反対を押し切って公表しようとしたのではないかというものです。
なお、ロズウェルはその後さらに有名になり、UFOを観光の目玉にして賑わっています。
※ エリア51やロズウェル事件はハリウッド映画の題材にもなりました。2008年スティーブン・スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」もその一つです。ハリソン・フォード演じる考古学者インディ・ジョーンズが活躍するシリーズの第4作です。ロズウェル事件でアメリカ軍が手に入れた謎の箱や宇宙人の遺体をめぐる冒険の物語です。エリア51もでてきます。アカデミー賞を2度受賞しているケイト・ブランシェットがソ連のKGBのエージェント役で登場します。
(N)マリリン・モンロー殺害の報復説

マリリン・モンローは、1950年代~1960年代のはじめにかけて多くの映画に出演したトップスターです。当時のセックスシンボルの代表であり、死後も様々な大衆文化に写真が使われるなど根強い人気があります。
このマリリン・モンローがケネディと非常に親しい関係であったようです。愛人であったという噂もありますが定かではありません。弟のロバートとも親密だったようです。
1962年5月19日のケネディの誕生パーティーでモンローが歌った「ハッピー・バースデー・ミスター・プレジデント」は有名です。モンローはこの年の8月4日に睡眠薬の過剰摂取により36歳の若さで亡くなっています。
自殺説、事故死説の他、謀殺されたという説もあります。その一つが、ケネディがモンローに国家の機密事項を漏らしてしまい、モンローは厳重に口止めされたにもかかわらず、第三者の前でペラペラとしゃべるようになり、ついには消されてしまったというものです。それに対しモンローの周辺の関係者か熱烈な信奉者がケネディに対し報復を行ったという説です。

■映画「JFK」のあれこれ
実在の元検事ジム・ギャリソン自身の著作である「JFK ケネディ暗殺犯を追え」をベースに、事実に虚構を織り交ぜた作品です。主人公ギャリソンはアメリカ南部のルイジアナ州の最大の都市であるニューオーリンズの地方検事ですが、その職務の枠を超えてテキサス州ダラスで起きた大統領暗殺事件の解明に取り組みました。かたくなまでに事実を探求していく主人公の執念の捜査の物語です。見応え十分の力作です。
映画評論家の淀川長治さんは、オリバー・ストーン監督の作品は自分の主張を押しつけがましいと言って嫌っていましたが、この「JFK」だけは高く評価していました。ただこの作品でも、公開された情報をもとにしつつも、ある程度の脚色がなされています。膨大な資料や証言の中から、監督自身の考えに沿ったものを抽出して強調や拡大解釈をしている部分もあるようです。ドキュメンタリーではなく、一つの可能性、仮説を提示したフィクションですが、観客に訴えかける力は大きく、調査資料の一部が非公開とされる中、議論に一石を投じて世論を喚起した意義は間違いなくあったと思われます。
主人公が調査を丹念に積み重ねていく展開には説得力があり、壁に突き当たりながらも一歩一歩事件の核心に迫っていく過程はスリリングで緊張感があります。膨大な情報や証言をわかりやすく整理し、当時の実際の映像を織り交ぜた編集は巧みで、事件を目撃しているかのような臨場感をもたらす見事な演出です。上映時間は劇場公開版が3時間9分という大作ですが、観客はまったく飽きることなく興味津々でラストまで引き込まれます。エンターテインメントとしても第一級のポリティカル・サスペンスになっています。

オリバー・ストーン監督は、自身がベトナムに従軍した経験をもとに「プラトーン」(1986年)、「7月4日に生まれて」(1989年)などベトナム戦争を扱った映画で注目を浴び、その後も政治的なテーマを取り上げた作品を多く作っています。この「JFK」はストーン監督が渾身の力を込めて撮った作品で、アメリカの民主主義精神の復活を願う気持ちがこもっています。また、この作品の後にも「ニクソン」(1995年)と「ブッシュ」(2008年)の2作で大統領を中心に据えた映画を作っています。
なお、ストーン監督は2021年には「JFK/新証言 知られざる陰謀」というドキュメンタリーを撮っています。「JFK」後の新しい証言を加えてこの事件を多面的に再検証した作品です。
主人公を演じたケビン・コスナーは大熱演です。正義を信じる男の熱い姿を圧倒的な気迫で表現しています。コスナーは南北戦争時代の北軍の軍人とアメリカ先住民の心の交流を描いた「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990年)の製作、監督、主演をしてアカデミー賞の作品賞、監督賞を受賞していますが、俳優としては禁酒法時代のシカゴでアル・カポネと対峙したエリオット・ネスを演じた「アンタッチャブル」(1987年ブライアン・デ・テルマ監督)とこの「JFK」が代表作となりました。

この映画はその他にも魅力ある名優たちの豪華共演を楽しむことができます。それぞれ実在した人物を個性的に演じています。事件のキーパーソンとしてクレイ・ショーという人物が登場しますが、これを演じたのがトミー・リー・ジョーンズです。1993年の「逃亡者」でアカデミー賞の助演男優賞を受賞した後、たくさんの主演作があります。日本では缶コーヒーのCMでもおなじみです。
主人公の妻を演じたのはシシー・スペイシクです。スティーブン・キング原作のホラー映画「キャリー」(1976年ブライアン・デ・パルマ監督)で一躍有名になり、アカデミー賞の主演女優賞に計6回ノミネートされ、「歌え!ロレッタ 愛のために」(1980年マイケル・アプテッド監督)で同賞を受賞しています。
ウォーレン委員会で犯人とされたオズワルド役を演じたのがゲイリー・オールドマンです。様々な映画に出演しており、2007年の「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」(ジョー・ライト監督)で主人公チャーチルに扮してアカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。主人公の調査対象人物の一人としてケヴィン・ベーコンも出演しています。青春映画の大ヒット作品である「フットルース」(1984年ハーパート・ロス監督)の主役を演じてブレイクし、その後も個性的な実力派俳優として活躍しています。
さらに主人公に大きな影響を与える謎の人物(x大佐)として登場するのが、名脇役として知られるドナルド・サザーランドです。この人はオリヴァー・ストーン監督のドキュメンタリー「JFK/新証言 知られざる陰謀」(2021年)ではナレーターを務めています。
そしてジャック・レモンとウォルター・マッソーというアメリカ映画史上に残る喜劇俳優のコンビが共に出演しているのも映画ファンには嬉しいところです。レモンは匿名の通報をする男の役、マッソーは主人公が事件に関心をもつきっかけを作る上院議員の役です。
「スターウォーズ」シリーズをはじめ数々の大作映画の音楽を手掛けてきたジョン・ウィリアムスの音楽がサスペンスを盛り上げます。
この映画には心に残る力強い言葉が多く出てきます。映画の冒頭にはアメリカの作家エラ・ウィーラー・ウィルコックスの言葉が登場します。
「抗議すべき時に沈黙するのは卑怯者である。」
To sin by silence when we should protest makes cowards out of men.
もう一つご紹介します。主人公ギャリソンが、ある作家の言葉を引用して言います。
「愛国者は、自分の国を政府から守るべきだ。」
A patriot must always be ready to defend his country against its government.
なお、ストーン監督は2021年には「JFK/新証言 知られざる陰謀」というドキュメンタリーを撮っています。「JFK」後の新しい証言を加えてこの事件を多面的に再検証した作品です。
ケネディ暗殺に関係する映画は多数ありますが、この事件の真相に正面から迫った作品をもう一つご紹介します。
■こちらもおすすめです。 映画「ダラスの熱い日」
〇映画の概要
1973年アメリカ映画
監督 ディヴィド・ミラー
出演 バート・ランカスター、ロバート・ライアン
〇映画「ダラスの熱い日」のあらすじ(ネタバレ無し)
冒頭にナレーションがあります。1970年、ジョンソン前大統領はテレビ対談に出演した際、オズワルドの単独犯行というウォーレン委員会の結論に疑念を抱いていることを示唆しましたが、その映像はジョンソン自身の要請により消去されたという内容です。
物語は1963年6月から始まります。元軍人のロバート・フォースター(ロバート・ライアン)の邸宅に、元CIA高官のジェームズ・ファリントン(バート・ランカスター)、テキサスの石油王ハロルド・ファーガソン、右翼の退役将校ハリディが集まり、ケネディ大統領の進歩的な政策に対する不満を語り合います。元CIAのファリントンは、過去の大統領暗殺事件や暗殺未遂の例を紹介し、暗殺が実行可能な選択肢であることを示唆します。そして暗殺を実行するのであれば、3方向から狙えること、混乱に乗じて逃走が容易であること等から車でのパレードの最中が最適であると述べます。さらに過去の大統領暗殺事件は少数の政治的狂信者によるものだとも述べます。
その後も、公民権法への国民の理解を求めるケネディのスピーチ、ワシントン大行進、部分的核実験停止条約調印、1965年末までにベトナムへの関与を終わらせる計画等の報道を見て、彼らは不安を募らせます。ケネディの政策がそれまでの白人富裕層を中心としたアメリカの支配に危機をもたらすと危惧します。ついには暗殺を実行に移す決断をします。綿密な計画を立て、周到な準備をします。孤独な狂信者による単独犯行に見せかけるためオズワルドを犯人に仕立てることとし、よく似た男を雇って人前で奇行を演じさせます。実行犯となる狙撃チームを編成し、移動する標的を中・長距離から狙撃する訓練を砂漠で密かに行います。
〇映画「ダラスの熱い日」のあれこれ
この作品はケネディ暗殺を首謀者たちの側から描いています。当時の政治情勢とともに、首謀者たちが暗殺を決断するまでの協議、計画の立案、準備、実行、そして証拠隠滅に至る約半年間の過程を当時のニュース映像などを散りばめてドキュメンタリータッチで映像化しています。
この映画が公開された時は暗殺事件から10年しかたっていません。アメリカ社会ではまだ事件は風化しておらず、過去の出来事にはなっていなかったと思われます。この映画はあくまでフィクションではありますが、ケネディ暗殺の真相を一つの陰謀として確定的に描いています。暗殺に向けた手順を積み重ねていく映像は事実を再現しているかのようです。観客に及ぼす影響等を考えるとその時期に公開する映画としてはかなり際どい内容であり、この映画が商業映画としてアメリカ国内及び海外で公開できたことに驚かされます。アメリカという国の懐の深さなのでしょうか。アメリカではこの映画の公開の前年の1972年にウォーターゲート事件が起きています。現職の大統領らの関与した侵入、盗聴等の事件が世の中を騒がせており、陰謀論が受け入れられやすい状況にあったのかもしれません。
物語は淡々と静かに、かつ緊迫感をもって進みます。ニュース映像が効果的に挿入されており、ぜい肉を削いで上映時間91分という短く濃密な作品です。
当時信憑性が高いと思われた仮説の一つに基づいて構成されているようです。この「ダラスの熱い日」が提示する仮説の主な内容は以下の通りです。
・暗殺はアメリカ政府に直接または間接に関係する人間たちの謀議によるものとされます。保守派の政治家、石油産業の資本家、CIAの関係者、軍の関係者などが、自分たちの主導するアメリカが失われることへの反発、恐怖などから暗殺を謀ったという設定です。いわゆる「影の政府」論に近いものだと思われます。
・狙撃は複数犯です。3チームの狙撃グループを編成し、3か所から銃撃します。教科書ビル、それとは別のビル、そしてグラシー・ノールの丘に配置します。
・オズワルドは囮で、オズワルドの単独犯に見せかける細工をします。
なお、CIA、FBI、軍などの現職の人間が直接関与している描写はありません。さすがにそこまでは描けなかったと思われますが、警備体制等の情報が漏洩している描写があり、政府の高官が関与した壮大な組織的陰謀であることを思わせる内容です。
原案は、ケネディ暗殺事件の研究をしていた弁護士のマークレーンという人物で、脚本は反戦映画「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)の監督と脚本を担当したことで知られるダルトン・トランボです。別名義で「ローマの休日」の脚本も書いています。監督のデヴィッド・ミラーという人は他にはあまり有名な作品がなく、これが代表作になります。
バート・ランカスターやロバート・ライアンといった名優たちが抑えた演技で事件の黒幕をリアルに演じています。暗殺に向けた準備を黙々と進めていく様が不気味です。
この映画の18年後に「JFK」が公開されてケネディ暗殺の代表的な映画となったため、「ダラスの熱い日」は忘れられたようになっていますが、「JFK」に勝るとも劣らない力作です。