「ダ・ヴィンチ・コード」

フランス
「最後の晩餐」レオナルド・ダ・ヴィンチ

 2003年に発表されたダン・ブラウンの世界的大ベストセラー小説の映画化です。レオナルド・ダ・ヴィンチの名画に秘められた暗号(コード)を解き明かしながら、キリスト教の創世期に遡る歴史の謎に迫るミステリー・サスペンス映画の大作です。映画も世界各国で大ヒットしましたが、原作と同様に大きな反響を呼び、論争を巻き起こしました。
 現在のキリスト教世界の考え方や歴史の常識との食い違いも大きく、荒唐無稽であるとの見方もされる一方、キリスト教の関係者からはイエスを冒涜しているとして物議を醸しました。上映に反対する活動が起き、上映が禁止になった国もあります。
 ルーブル美術館で初めて商業映画の撮影が許可されたことも話題となりました。

◎映画の概要
 ・2006年アメリカ映画
 ・監督 ロン・ハワード
 ・出演 トム・ハンクス、オドレイ・トトウ

 まずはこの映画のあらすじです。

Louvre Museum Wikimedia Commons.jpg
Benh LIEU SONG (Flickr) – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 深夜のルーブル美術館内で館長のジャック・ソニエールが黒いマントの男に射殺される場面から始まります。ソニエールは死ぬまでの間にダイイング・メッセージを残していました。死体が発見された時、その身体はレオナルド・ダ・ヴィンチによる「ウィトルウィウス的人体図」を模した奇妙なポーズで横たわっており、そばには不可解な暗号が残されていました。
 その晩、パリで講演を行っていたハーバード大学のロバート・ラングドン教授は、フランス警察のファーシュ警部に呼び出され、宗教象徴学の専門家として捜査への協力を求められます。ラングドンはルーブル美術館を訪れて現場の検証を行いますが、そこに警察の暗号解読官であるソフィー・ヌヴーが現れ、ラングドンの身に危険が迫っていることを密かに伝えます。現場に残されていたメッセージにはラングドンの名があったため、実際は殺人の容疑者として疑われているのでした。しかし死んだソニエールはソフィーの祖父であり、ソフィーはメッセージは自分に託された暗号であること、そしてその内容からラングドンの潔白を確信し、祖父が自分に残した遺志を解明しようとしているのでした。ラングドンはソニエールが残した暗号を解読し、ダ・ヴィンチの作品に秘密が隠されていることと「モナ・リザ」という言葉を見つけ出します。さらに「モナ・リザ」の周辺の暗号文から同じくダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」にたどりつき、絵の裏側に隠された鍵を発見します。
 ラングドンとソフィーは、警察の目を逃れてルーヴルを脱出することに成功し事件の謎を追いますが、警察の追跡を受けることになります。二人は発見した鍵を使ってチューリッヒ保管銀行に預けられていたクリプテックスという木箱を手にしますが開封できません。警察が二人に迫りますが間一髪で逃れます。一方、ソニエールを殺害した犯人らも、ソニエールが隠した聖杯の秘密を追求するためラングドンたちの跡を追います。
 ラングドンとソフィーは、事件の真相に近づくためラングドンの旧友であるリー・ティービングの屋敷を訪ね知恵を借りようとします。ティービングは聖杯の探求に情熱を燃やす宗教史学者です。ティービングは二人に対し失われた聖杯とキリスト教に関する持論を展開し、この事件の背後に潜むキーワードが聖杯であると言います。そして歴史の表舞台には出ていない聖杯を巡る長い争いについて語ります。

 それではこの映画の歴史的背景として、まず古代ローマの歴史についてキリスト教との関係を中心に見ていきましょう。

 古代ローマは、イタリア人の一派であるラテン人がイタリア半島に南下、定住し、ティベル川のほとりに都市国家ローマを建設したことから始まります。ローマは、ギリシアのアテネなどと違い、都市国家では終わらず領土を徐々に拡大し、紀元前3世紀にはイタリア半島を統一します。さらに紀元前1世紀後半には地中海全域を支配するようになります。この時期の政治体制は、国王や君主が存在しない共和制でした。
 ローマの地中海世界の統一は紀元前30年にオクタウィアヌスがエジプトのプトレマイオス朝を滅ぼすことによって達成されました。オクタウィアヌスはこれにより強力な権力者となり、それまで支配権をもっていた元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を授与されますが、自らは「プリンケプス(市民の第一人者)」と称し、元老院との関係を尊重する元首制を開始します。共和制の伝統も残しましたが実際はオクタウィアヌスが多くの要職を兼任する事実上の皇帝独裁でした。この時ローマは共和制に代わり帝政が始まります(紀元前27年)。ここから「ローマ帝国」とされます。

 キリスト教は、ローマの帝政の初期にパレスチナでユダヤ教を母体として成立しました。この頃のパレスチナはローマの支配下にありましたが、ローマはユダヤ教の指導層を通じて間接的な支配をしていました。当時のユダヤ教ではパリサイ派と呼ばれる学者たちが権威をもっていましたが、律法(神ヤハウェが預言者モーセに示した啓示)の遵守や宗教儀礼を極端に重視し形式化していました。それに対し、ユダヤ教の本質である神の絶対愛と隣人愛に立ち返ることを訴えたのがイエスという人物です。イエスは紀元前7年(または4年)にベツレヘムで生まれ、ガリラヤ地方のナザレで育ちました。イエスはユダヤ教を本来の姿に戻そうとした改革者でしたが、指導層であるパリサイ派の形式化、律法主義を否定したことからパリサイ派の反発を招きます。パリサイ派の告発を受けたローマ帝国は、イエスの活動が反ローマの民衆暴動につながることを危惧します。結局イエスはローマへの反逆罪に問われ十字架に架けられ死亡します。これが紀元30年頃のことで、当時のローマ皇帝は第2代のティベリウス帝、直接処刑したローマのユダヤ総督はビラトです。しかしイエスの弟子たちの間でイエスが復活したという奇跡が語られます。そしてイエスの十字架上での死は人間の罪をあがなう行為であり、イエスは救世主であるという信仰が生まれます。そしてイエスの弟子たちはイエスの教えを継承発展させるための布教活動が始めます。こうして教団が成立し、キリスト教という宗教が生まれます。「キリスト」とはギリシア語で救世主の意味です。ヘブライ語では「メシア」です。

 布教の中心になったイエスの十二人の弟子を十二使徒といいます。その最高位がペテロです。ガリラヤの漁師の出身で初代ローマ教皇にあたると考えられています。もう一人重要な役割を果たしたのがパウロです。もともとはパリサイ派に属していましたが、イエスの思想にうたれ、その教えを広める側にまわりました。ユダヤ人に限らず様々な民族の人々への布教を積極的に行い、「異邦人の使徒」と呼ばれています。キリスト教が人種・民族を超えた世界宗教として広まっていく礎を築いたのがパウロです。
 キリスト教の教典は「旧約聖書」と「新約聖書」です。「旧約聖書」はユダヤ教の経典でもあり、「新約聖書」はイエスの言行を伝えるものでキリスト教独自のものです。初期の新約聖書はギリシア語の共通語であるコイネーで書かれました。

 96年から180年までの間、ローマ帝国は全盛期を迎えます。これが五賢帝の時代です。初代皇帝のオクタウィアヌスから五賢帝の最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝までの約200年間は「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれ、ローマが最も安定し領土も最大になった時期です。
 この後ローマは衰退に向かいます。3世紀には各地の軍団が独自に皇帝を擁立して相争ったため混乱しました。この時期は軍人皇帝時代と呼ばれています。
 キリスト教は徐々に広まっていきましたが、ローマ帝国による弾圧もありました。特に帝政初期のネロ帝の弾圧は厳しく、ペテロもパウロもネロ帝による弾圧の際に殉教したと言われています。この時代のキリスト教徒は、迫害を逃れるために地下の墓所にカタコンベと呼ばれる礼拝所をつくって信仰の拠点にしました。
 ローマ帝国の圧政にもかかわらず信者は次第に増加します。はじめは奴隷、女性、下層市民などの社会的弱者を中心に広がりましたが、上層市民にも信者が増えていきます。

 軍人皇帝時代以来の大混乱の危機を救い、ローマ帝国の統一と安定を回復したのがディオクレティアヌス帝です。この皇帝は元老院との関係や共和制の伝統をまったく無視した完全な独裁体制を築きます。ここから元首制に代わり専制君主制(ドミナトゥス)になります。ディオクレティアヌス帝は自らを神格化し、皇帝を神として崇拝することを強要しますが、キリスト教徒はそれを拒否します。この頃にはキリスト教はローマ帝国の各階層に広まりつつありましたが、怒ったディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害します。ローマ帝国における最後の大迫害です。しかしキリスト教徒はそれに耐え、逆に結束が固くなっていきます。
 次に登場するコンスタンティヌス帝も強力な支配者でした。この皇帝は帝国の統一を維持するためにキリスト教を帝国の精神的な柱にしようとし、313年にミラノ勅令によりキリスト教を公認します。これによりキリスト教への迫害は終わります。そして325年にはニケーア公会議を開催してキリスト教の教義を統一します。これについては後で詳しく述べます。またコンスタンティヌス帝はギリシア人が建設した植民市であるビザンティウムに都を移し、コンスタンティノープルと改称しました。現在のイスタンブルです。
 この後ユリアヌス帝が登場しますが、この皇帝はペルシアの神を信奉する密儀宗教であるミトラ教に心酔し、キリスト教を否定して多神教の復活を目指します。背教者と呼ばれました。

 この頃にはローマ帝国は解体に向かっていました。帝国内の混乱に加え、重税などにより都市が衰退する一方、周囲からの外圧も強まります。すでにゲルマン民族は帝国内に流入していましたが、375年に本格的な大移動が始まりローマへの大きな圧力となりました。そして統一されたローマ帝国の最後の皇帝であるテオドシウス帝の時代になります。この皇帝は、キリスト教徒の増加を受け、帝国の解体を食い止めるためにキリスト教を国教化し、他の宗教はすべて禁止します。392年のことです。しかし結局は395年に帝国は東西に分裂します。分裂後、東地中海やバルカン半島を中心とする東ローマ帝国はビザンツ帝国とよばれ、イスラム勢力の圧迫に苦しみながらも1000年以存続しますが、イタリア半島を中心とする西ローマ帝国はわずか100年足らずでゲルマン人に滅ぼされてしまいます。
 またローマ帝国の分裂後は、キリスト教においても西方のローマ教会と東方のコンスタンティノープル教会はそれぞれ別の歩みをすることになります。

 ここに登場したコンスタンティヌス帝とニケーア公会議が歴史ミステリーとしての「ダ・ヴィンチ・コード」の謎解きに大きく関わってきます。「あらすじ」の最後でも触れましたが、聖杯を探求する宗教史学者リー・ティービングは、ラングドンとソフィーに自らの持論を展開します。この内容が物語を理解するためのポイントになります。キリスト教関係者から強い反発を招いたのもこの部分です。それではティービングの主張です。

『マグダラのマリアの浄化』 (ホセ・デ・リベーラ)         コンスタンティヌス1世の青銅像(ヨーク) 

 キリスト教を創始したイエスは生涯を独身で終えたと考えられているが、実はマグダラのマリアと結婚をしていた。また、イエスはマグダラのマリアを後継者に指名している。イエスが十字架にかけられた時、マグダラのマリアはイエスの子を身ごもっており、イエスの死後、フランスで生き延び女児を出産した。イエスとマリアの子孫はシオン修道会によって匿われた。その血脈は現在も続いており、子孫は現在も生きている。キリスト教の聖遺物とされる聖杯とは最後の晩餐に用いられた杯であると考えられているが、それは誤りである。聖杯は杯ではなくマグダラのマリアの遺体とイエスの血脈、つまりイエスとマリアの血を引く子孫のことである。
 キリスト教ではローマ帝国のコンスタンティヌス帝の時にニケーアの公会議が開かれ、教義の統一と聖書の編纂が行なわれたが、その時にイエスは神であるとされた。それまでイエスは偉大な人物ではあるがあくまで人間であると思われていたが、コンスタンティヌス帝はイエスを強引に神に変え、それを新たな伝統として確立させ、帝国の統一と安定のために利用した。イエスを神として崇めることが帝国の存続に不可欠と考えたのである。そしてそれと食い違う、イエスを人間として記述したものはすべて聖書から除かれた。
 しかし、カトリック教会はイエスの子孫の存在を否定している。もしイエスとマグダラのマリアの子孫が存在することが明らかになれば、現在の教会の権威の根幹をゆるがす事態となると恐れているからである。これは人類史上最大の隠蔽である。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはシオン修道会のメンバーであり、真実を後世に伝えるために壁画「最後の晩餐」の中に暗号として密かにメッセージを描き込んだ。イエスの右となり(画面の向かって左側)の人物は一般には弟子のヨハネであるとされているが、実は女性でマグダラのマリアである。
 これはキリスト教の歴史を覆すほどの意味を持つ。

 それでは、ティービングの説に登場した様々な人物や出来事について、現在のキリスト教世界での通常の考え方や歴史における常識、いわば通説とティービングの説との違いを見ていきたいと思います。ますば、ニケーア公会議を含む、キリスト教の教義統一の過程です。

 キリスト教が広まるのにあわせ、キリスト教の教義の体系化が図られました。その中ではイエスの教えや言行についての理解や解釈が焦点となりました。具体的には「イエスとは何か?」、つまりイエスは神なのか、人間なのかという問です。そこでキリスト教の教義の統一を図るための公会議が何回も開かれることになります。公会議とは、キリスト教の上位の聖職者が集まって重要事項の意思決定をするための最高会議です。主な公会議は以下の通りです。

 313年のミラノ勅令でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が、キリスト教の教義を統一するために325年に開催した公会議です。約300人の司教が集められ、コンスタンティヌス帝自身が議長を務めました。この公会議でアタナシウス派が正統とされ、アリウス派は異端となりました。アタナシウス派はイエスの神性を強く認める教義です。イエスは神の子であり、神自身と同質であると考えます。神でありながら人間として地上に現れた救い主です。父なる神が子であるイエスを地上におくり十字架にかけたのは人間の罪を赦すためであると考える教説です。それに対し異端となったアリウス派はイエスの神性を否定します。イエスはすぐれた人間ではあるが神ではなく、あくまで神の被造物としての人間であるという教説です。異端となったアリウス派は、その後ゲルマン人に広まっていきます。

Nikea-arius.png
Jjensen投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 上図は第1ニカイア公会議を画いたイコンです。アリウスが下方の闇に画かれ断罪されています。(メテオラ・大メテオロン修道院所蔵)

 381年に統一ローマの最後の皇帝テオドシウス帝によって開かれました。この公会議で、神、イエスとともに精霊の神性が認められます。精霊とはキリスト教徒の心に宿る神の霊です。信者の心に平和をもたらし正しく導いてくれるものです。これによってアタナシウス派の教説を基礎とした三位一体説が正統教義として確立します。これは、「父なる神」「子なるイエス」「精霊」はそれぞれ別な位格(ペルソナ、面)をもつが本質としては一体であるという考え方です。三つでありながら本来一つのものであり、等質、不可分であると考えます。三つの神が一体化してのではありません。この考え方は「ニケーア=コンスタンティノポリス信条」とも言われます。
 しかしその後もイエスの本質をどう考えるかという論争は決着がつきません。ニケーア公会議で正統となったアタナシウス派の考え方は、イエスは人間であるとともに神であるという両性を備えた存在だというものです。しかし、両性といっても神性と人性はどういう関係なのか、対等なのか、どちらが重いのかなど、様々な考えが出され、教義の統一のためにさらに何度かの公会議が開かれます。

 431年に開かれ、ここで異端とされたのはネストリウス派です。ネストリウス派は、イエスが神性と人生の両方をもつという三位一体説を否定し、イエスの神性と人性を分離しました。人間であるマリアから生まれたことからイエスの人性に重きをおきます。そしてネストリウス派は聖母マリアを崇敬の対象と考えません。ここで異端となったネストリウス派はその後東方で広まり、ササン朝ペルシアを経て唐代の中国にも伝わります。唐では景教と呼ばれました。
 聖母マリアについては、キリスト教の教派によって考え方が違うようです。現在でも、カトリックや正教会では聖母マリアの聖性をみとめ、イエスと同様に崇敬されています。

 451年に開かれ、ここでは単性論が問題とされました。単性論は、アリウス派やネストリウス派とは逆にイエスの神性のみを認めます。イエスの人性は外見だけ、形だけのものだと考えます。人性は神性に吸収されたという考え方です。この会議でも三位一体説が正統とされ、イエスは神性において父(神)と同質であり、人生において人間と同質である、とするカルケドン信条がまとめられました。異端とされた単性論は、この後エジプトのコプト教会やアルメニア教会、シリア教会などに継承されます。
 なお、公会議が開かれたニケーア、エフェソス、カルケドンはいずれも当時東ローマ帝国の領土だった小アジア(現在はトルコ)の町です。

 キリスト教は、ローマ=カトリック教会(西方教会)とギリシア正教(東方教会、正教会)に分裂しますが、三位一体説に関しては一致しています。その後カトリックでの宗教改革を経てプロテスタントが生まれますが、どちらも三位一体説です。三位一体説は現在でもキリスト教の最も重要な教義であり、イエスの神性を否定する教義は異端とされます。
 また、イエスは神性をもつ(完全に神である)とともに人生をもつ(完全に人間である)と考えるのが正統で、両性説と言われます。
 ニケーア公会議をはじめとした一連の公会議でイエスが神であるという教義が確立したのは確かのようですが、この物語のティービングが主張するように、コンスタンティヌス帝が政治目的で、それまで人間であると多くの人に思われていたイエスを強引に神に変えた、というのは正統の考え方とは乖離があるようです。

 イエスに付き従って弟子たちとともに宣教の旅をした女性ですが、イエスの死と復活を見届け、イエスの復活を他の弟子たちに伝える役割を担ったとされています。キリスト教の主要な教派では聖人に列せられています。
 新約聖書において何カ所かで登場していますが、いずれも重要な場面です。イエスによって七つの悪霊を追い出されたこと、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、そして復活したイエスが最初に姿を見せたのは彼女の前でした。イエスの「復活」はキリスト教の教義において非常に重要であり、それを最初に見たのがマグダラのマリアであったということは、イエスが彼女を信頼していた証とも考えられます。

『灯火の前のマグダラのマリア (悔悛するマグダラのマリア) (ジョルジュ・ド・ラ・トゥール)
 
 一方では聖書に登場する「改悛した罪深い女」と同一人物であるとの見方もありました。6世紀にグレゴリウス一世がそのように解釈したのですが、真実であるかははっきりしていません。この見方から、娼婦であったというイメージも強く残っていますが、明確な根拠があるわけではありません。
 イエスとの結婚を伝える様々な伝承があります。「ダ・ヴィンチ・コード」でもリー・ティービングが、イエスとマグダラのマリアが結婚してイエスの磔刑の時には子供を身ごもっていたということを述べています。キリスト教では、マグダラのマリアはイエスの死後、イエスの母マリアとともに小アジアに移り住み、そこで死んだとされていますが、ティービングの説では、マグダラのマリアはフランスに移って女児を出産、サラと名付けたとされています。そしてシオン修道会が、マグダラのマリアの墓と、イエスとマグダラのマリアの血脈を受け継ぐ子孫をずっと守ってきたとしています。しかし、歴史的な根拠はないようです。

 少なくとも現在のキリスト教で主流となる考え方としては、イエスは結婚したことはなかったのであろう、ということのようです。もしイエスが結婚をしていたならば、聖書の中にそれに関する記述があるはずだということです。聖書には、イエスの結婚について明確な記述はありませんし、それを推測させるような曖昧な記述すらないのです。イエスが地上に現れたのは、多くの人の罪の購いとして身代わりとなって命を差し出すためであると考えられているようです。イエスは神であるとともに人間でもあったので、イエスが地上にいた時に結婚することもありえたのでしょうが、結婚はしなかったと考えられているようです。
 ダ・ヴィンチ・コード」は、イエスとマグダラのマリアの子孫が存在するという前提に立ち、その秘密が明らかになれば、イエスは神であるとしてきたキリスト教会の権威が失われるとして、オプス・デイという秘密結社を使ってその抹殺を図っているというストーリーになっています。そこが強い反発を招いたようです。

 次に、この物語ではテンプル騎士団という宗教騎士団が重要な役割を果たしています。宗教騎士団とは何なのかということを知るには、その創設の背景として十字軍について知っておくことが必要です。

 十字軍とは、中世においてキリスト教徒の巡礼の目的地であった聖地イェルサレムがイスラム勢力に支配されたことから、ヨーロッパのキリスト教諸国がその奪還のために遠征軍を派遣した軍事活動です。11世紀の末から約200年にわたって続きました。
 十字軍が始まった直接の契機は、西アジアに勢力を拡大していたセルジューク朝というイスラム王朝がビザンツ帝国(東ローマ帝国)を圧迫して聖地イェルサレムを占領したため、ビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を要請したことです。1095年、当時のローマ教皇ウルバヌス2世はフランスのクレルモンで公会議を開催して十字軍の結成、派遣を決めました。ただし、十字軍が始まった時代背景には、この宗教的目的だけではなく、停滞していた中世西ヨーロッパの封建社会が農業技術の進歩により成長の時代に移りつつあったことがあります。農業生産の増大により人口が増加し、西ヨーロッパ世界が外に拡大していきます。イベリア半島ではキリスト教勢力がイスラム勢力を半島から駆逐する国土回復運動(レコンキスタ)が行われ、ヨーロッパ北部ではエルベ川を越えて東方植民が展開しました。そういった西ヨーロッパの外的拡大のなかで最大規模のものが十字軍です。
 十字軍は、ローマ教皇の呼びかけを受けて各国の国王や封建諸侯が中心となりましたが、イタリア諸都市の商人たちが支援しています。実際には各勢力にはそれぞれ動機がありました。ローマ教皇は、教皇の権威を高め、神聖ローマ皇帝との対立や東方教会との関係において優位に立とうとしました。国王や諸侯は、西アジアに領地を拡大したり財宝などの戦利品の獲得を狙いました。そしてイタリアの商人たちはイスラム商人に代わって地中海貿易での商業的利益の拡大を目指しました。

 十字軍の遠征は1096年の第1回から始まり合計7回行われました。第1回十字軍は、聖地イェルサレムの奪回に成功し、イェルサレム王国を建国しました。しかし、その後はイスラム勢力の反撃に合い、苦戦が続きます。有名な第3回はイギリス国王、フランス国王、神聖ローマ皇帝が参加する華々しいものでしたが、結局聖地の奪回はできませんでした。また第4回では、イスラム勢力と戦うのではなくビザンツ帝国(東ローマ帝国)を攻撃してしまいます。これは地中海貿易での覇権をねらったヴェネツィア商人に誘導されたもので、遠征軍全体がローマ教皇に破門されてしまいました。結局、1270年の第7回において十字軍の最後の拠点であったシリアのアッコンが陥落し、十字軍の遠征はヨーロッパ側の敗北で終わります。
 しかしこの十字軍の遠征は、政治的、経済的、文化的に中世ヨーロッパに大きな影響を残しました。政治的には、当初は十字軍が優勢だったこともあり、十字軍を提唱したローマ教皇の権威は上がりましたが、最終的には失敗に終わり、教皇の権威は傷つきました。十字軍に参加した諸侯や騎士も没落しました。それに対し、国王の権力は相対的に高まり、この後は国王を中心とした中央集権化が進むことになります。経済的には、十字軍に関連した輸送等を通して東方との交易が活性化しました。それにより北イタリアの諸都市が繁栄し、市民が成長しました。文化面では、東方の先進文化圏からイスラム文化やビザンツ文化が流入しました。特に、これらの文化圏で大切にされていた古代ギリシアの文化が西欧に伝播し、これがルネッサンスの遠因となりました。こうして西ヨーロッパは中世から近代に向かうことになります。

 そして、この十字軍の遠征に際して誕生したのがいくつかの宗教騎士団です。十字軍の派遣に伴い、パレスチナなどの聖地の防衛と聖地への巡礼者の保護が必要となり、そのために創設された武装集団です。聖地を守ろうとした敬虔なキリスト教徒であり、修道士であると同時に、騎士としての資格も持っていました。それでは三大宗教騎士団を紹介します。いずれもローマ教皇によって認可されています。

 第1回十字軍の際に、キリスト教徒の居留民や巡礼者のための病院が元となって成立しました。疾病兵の救護などの医療活動で活躍しました。十字軍遠征が終わった後は聖地から撤退し、拠点をロードス島に移しますがオスマン帝国に追われます。最終的には神聖ローマ皇帝カール5世からマルタ島を与えられ、そこを拠点としたことからマルタ騎士団と呼ばれるようになりました。その後も紆余曲折がありましたが、現在でも「マルタ騎士団」という名称で人道団体として活動を続けています。領土はありませんが、国際的に独立国として扱われています。 

 第1回十字軍の後に創設されました。イェルサレムにあるソロモン王の神殿(テンプル)跡を本拠地としたことが名称の由来です。中世最強の騎士団と呼ばれ、聖地の神殿や巡礼者を保護するためにイスラム勢力と激しく戦いました。十字軍終了後は拠点をキプロス島に移して活動を続けます。歴代の教皇からの保護を受け、入会者や諸侯からの寄進も多く、当時としては画期的な財産管理システムを確立して金融業に進出しました。各国の王侯貴族の財産の管理、貸し付け、為替業務などを幅広く展開しました。現在の国際銀行の走りともいえますが、ヨーロッパの各地に支部を設け、莫大な富を築いたことで知られます。しかしそれが各方面からの批判を招きます。ついにはフランス国王フィリップ4世の策略により、当時フランスのアヴィニヨンに移されていたローマ教皇庁によって異端の罪状を着せられ、1312年に解散させられました。騎士団の総長以下幹部はすべて処刑され、財産は実質的にフランス国王のものとなりました。この時の弾圧が始まったのが10月13日の金曜日であったことが、「13日の金曜日は不吉である」との言い伝えの始まりだという説もあります。(この言い伝えの由来については多くの説があるようです。)
 なお、現在ではカトリック教会により、テンプル騎士団に対する異端の疑いはえん罪であるとされており、その名誉は回復されています。

 これは第3回十字軍に際して創設されました。十字軍遠征が終わった後はドイツに戻り、バルト海沿岸で東方植民活動の中心となりました。そしてドイツ騎士団領という国家を形成し、バルト海での海上貿易で繁栄します。その後は16世紀にはプロイセン公国に移行、18世紀にはプロイセン王国に昇格し、19世紀にはドイツ帝国の中核となります。いわば現在のドイツ国家の前身ともいえます。 

 「ダ・ヴィンチ・コード」の中で登場するのが、二番目に紹介したテンプル騎士団です。ラングドンがソフィーに騎士団について語っています。この物語では、古い秘密結社であるシオン修道会がテンプル騎士団を創ったとされており、テンプル騎士団は廃墟となったソロモン神殿の地下に隠されていた秘密文書(もしくは宝物)を発見し、それによりローマ教皇から巨大な富と権力を得たとされています。そしてフィリップ4世による弾圧もローマ教皇主導であり、その秘密文書を奪うためでしたが、結局その文書は行方不明になったとされています。それが聖杯のありかをしめす地図ではないか、という設定です。この部分は、原作者ダン・ブラウンが、マグダラのマリアに関する謎とテンプル騎士団の伝説を巧みに結びつけて、読者の興味をひく物語を作り上げたのだと思われます。

 イタリアのルネッサンスを代表する人物の一人で、15世紀から16世紀に活躍しました。画家として有名ですが、美術以外にも機械、建築、土木など様々な分野の科学者、技術者としても活躍し、「万能の天才」と称されました。イタリアのフィレンツェやミラノで活躍した後フランスに渡り、フランソワ1世の保護を受けました。
「ダ・ヴィンチ・コード」にはダ・ヴィンチの有名な美術作品がいくつか登場します。物語の序盤でパリのルーブル美術館の館長ソニエールが「モナ=リザ」と「岩窟の聖母」に関連した暗号をメッセージとして残しています。しかし何と言っても物語の中で重要な役割を果たすのがイタリアのミラノにある聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂の食堂の壁画として描かれた「最後の晩餐」です。縦4.2m、横9.1mの巨大な壁画で人物は等身大に近いです。ダ・ヴィンチの支援者であったミラノの侯爵の依頼により1498年に完成しました。最後の晩餐とは、イエスが自分の逮捕が近いことを知り、12人の弟子(十二使徒)を招いて開いた晩餐会のことです。画面ではイエスを中心に弟子たちが横一線に並んでいます。このときイエスはこの中の一人が私を裏切るだろうと予告し、弟子たちの間に動揺が走ったとされています。ダ・ヴィンチの絵はまさにその瞬間を描き、緊張感のある画面を構成しています。また遠近法を用いて奥行きのある画面を作り出したことでも知られています。イエスを裏切った弟子のユダは、この絵の左から四人目の人物として描かれています。

「ダ・ヴィンチ・コード」の中でティービングは、ダ・ヴィンチがこの絵の中に重要なメッセージを暗号として描き込んだとしています。イエスの右隣(画面の向かって左側)の人物が実は女性であり、マグダラのマリアではないかとする説を提示しています。しかし、この人物は通常イエスの弟子のヨハネであるとされており、これがマグダラのマリアであればヨハネが描かれていないことになり、この説には無理があるようです。また、ヨハネは十二使徒の中で最も若く、この時は少年でしたので、絵画の中では女性的な外観で描かれることはしばしばあるようです。

 「ダ・ヴィンチ・コード」では、もう一つダ・ヴィンチの残した作品が関係しています。「ウィトルウィウス的人体図」と呼ばれているものです。物語の冒頭で死体で発見されたルーブル美術館長のソニエールが、撃たれて死に至る際にこの人体図を模した状態で横たわっていました。ウィトルウィウスというのは古代ローマの建築家で、ダ・ヴィンチがこの人物の残した記述をもとにスケッチを描いたものであり、人体のもつ均整のとれたプロポーションを表したものだそうです。

 聖杯とは、キリスト教の聖遺物の一つで、最後の晩餐でイエスが弟子たちにワインを渡すときに用いた杯をさすことが多いようです。ただし、歴史上聖杯とされるものがいくつか存在するようで、どれが正統の聖杯かははっきりしないようです。また、聖杯とはイエスの磔刑の際にイエスの血を受けた杯であるという説もあるようです。
 聖杯伝説とは、中世のヨーロッパの各地で成立した騎士道文学の一種で、行方不明になった聖杯を探し求める騎士たちの試練や活躍、そして恋愛の物語で、様々なものがあります。聖杯でワインを飲むと永遠の命を授かるという伝説もあります。伝説の背景には最後の晩餐やイエスの磔刑がありますが、キリスト教の正式な教義になっているわけではありません。
 さらに、聖杯とは杯ではないとする考えもあるようです。「ダ・ヴィンチ・コード」でティービングは、聖杯とはイエスの血脈、もしくはイエスの子孫だと主張しています。

 「ダ・ヴィンチ・コード」にはキリスト教に関する重大な秘密を守っている秘密結社として登場します。ソフィーの祖父であるソニエールが修道会の代表を務めていたとされています。この組織については、その存在を記した秘密文書がフランス国立図書館に保管されているのは事実です。それによると結成は11世紀まで遡り、歴代総長にはダ・ヴィンチを含む著名人が名を連ねているとされています。またこの物語では、テンプル騎士団もシオン修道会がつくったとされています。
 しかし、この組織に関する届け出をした人物が1990年代にインサイダー取引の疑いで家宅捜査を受けた際に、自宅からシオン修道会に関する文書が大量に発見され、その人物は取り調べにおいて文書のねつ造を認めたそうです。したがって、シオン修道会という組織は、最初から存在しなかった可能性が高いようです。

 これはローマ・カトリック教会から正式に認可されている実在の組織であり、現在も存在しています。メンバーは世界各国にいてキリスト教徒を支援する活動をしているようです。「ダ・ヴィンチ・コード」の中では、イエスの血をひく人物を抹殺しようとして、イエスの血脈を守るシオン修道会の幹部を殺害します。狂信的で反社会的なカルト集団のように描かれています。こういった凶悪な活動についてカトリック教会とも連携を図っていると思わせる場面もあり、この点も物議を醸しました。オプス・デイは「ダ・ヴィンチ・コード」に対する抗議の声明を発表しています。

 宗教、歴史、芸術が密接にからむ壮大なミステリーです。キリスト教にまつわる興味深い謎が提示され、知的好奇心を刺激すると同時に、冒険物語としてもスリリングに展開します。次々と暗号を解きながら物語がスピーディーに展開していくので疾走感があります。
 原作は、キリスト教やダ・ヴィンチの作品にまつわる歴史的事実に、様々な伝説、俗説、さらには歴史の常識を覆すような大胆な仮説などをうまく盛り込み、読み応えのあるミステリー小説を構成したものです。実在の人物、組織、絵画、建築物等も多く登場し、事実と虚構を巧みに融合しています。作品としてはフィクションとして扱われるべきでしょうが、原作者のダン・ブラウンが「事実に基づいた作品」として発表したため、これを事実と思う人も多くでて混乱がさらに大きくなったようです。一方、作中の大胆な仮説は、シオン修道会をとりあげた「イエスの血脈と聖杯伝説」という小説(作者はマイケル・ベイジェンドほか)に基づいているとも言われており、ダン・ブラウンの独創でもないようです。
 映画も基本的には原作を踏まえたものになっています。文章で表現されていたものが映像化されることによりわかりやすくなった部分もあり、原作を読んだ人も楽しめると思います。
 パリの街並みをはじめ全編にわたり美しい映像が魅力的で、雰囲気のいい映画です。フランスとイギリスの歴史的な建築物が多数登場し、重厚感もあります。
 予備知識としてキリスト教や歴史的背景に関する知識があった方が物語の世界観や意外性、謎解きの面白さを理解しやすいと思われますが、そういった予備知識がなくても十分楽しめます。
 日本では、欧米に比べキリスト教を身近に感じていない人も多いですが、日本でも大ヒットとなりました。
 映画の最後の場面の映像と音楽が素晴らしいです。
 フランス王朝の宮殿であった建物と現代アートを思わせるガラスのピラミッドが一体となったルーブル美術館が美しく印象的に描かれています。

 監督はロン・ハワードです。非常に多くの作品を発表していますが、実在した天才数学者の半生を描いた「ビューティフル・マイン」でアカデミー賞の監督賞を受賞しています。その他には消防士の兄弟の物語「バックドラフト」(1991年)、アポロ13号爆発事故に基づく「アポロ13」等が有名です。   「ダ・ヴィンチ・コード」でも原作を尊重し、物語中の印象的な場面を美しく映像化しつつ、スリリングで緊張感のある作品を作り上げています。「ダ・ヴィンチ・コード」に続き、同じ原作者、同じ主人公の「天使と悪魔」(2009年)、「インフェルノ」(2016年)も監督しています。

 主な出演者はいずれも高い演技力をもつ役者ばかりです。
 

 主人公の宗教象徴学者ロバート・ラングドンを演じたのはトム・ハンクスです。日本でも非常に有名な役者で多くの作品に出演しています。「フィラデルフィア」(1993年ジョナサン・デミ監督)と「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994年ロバート・ゼメキス監督)で二度アカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。どんなタイプの役でも巧みに演じられる名優ですが、この作品でも自らが殺人の嫌疑をかけられながら、旺盛な探究心でキリスト教の謎にまつわる事件の真相に迫る役を熱演しました。知性のある研究者でありながら冒険心をもち機転もきくという主人公の人物像をうまく表現しています。

John Bauld from Toronto, Canada – TIFF 2019 tom hanks, CC 表示 2.0, リンクによる

 

 ラングドンとともに謎を追うソフィー・ヌヴーを演じたのはオドレイ・トトゥです。フランスの女優で大ヒット映画「アメリ」(2001年ジャン・ピエール・ジェネ監督)に主演して有名になりました。



Georges Biard, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 この他にも、聖杯を追い求める宗教史学者リー・ティービングを演じたイアン・マッケランは、シェークスピア劇等の舞台で多くの受賞がある名優です。また、ファーシュ警部を演じたジャン・レノはフランスの名優で、「レオン」(1994年リュック・ベッソン監督)等で日本にもファンが多いです。

 「ダ・ヴィンチ・コード」は、いくつもの歴史的、宗教的なテーマが関係していますが、これらのテーマについては、それぞれ他にも多くの映画がつくられていますので、いくつかご紹介します。

 マグダラのマリアは、イエスの物語を取り上げた多くの映画に登場しています。聖書を題材にしてイエスの生涯を描いた映画としては、「キング・オブ・キングス」(1961年ニコラス・レイ監督)、「偉大な生涯の物語」(1965年ジョージ・スティーブンス監督)、「パッション」(2004年メル・ギブソン監督)等があります。ユニークなものとしては、「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1973年ノーマン・ジェイスン監督)があります。イエスの最後の七日間を描いた作品ですが、全編がロック音楽で彩られたミュージカルです。数々のヒットミュージカルを手がけたアンドリュー・ロイド・ウェーバーによる音楽が話題となり、舞台も大ヒットしましたが、それを映画化したものです。
 「ダ・ヴィンチ・コード」と関連が深いものとしては、「最後の誘惑」(1988年マーティン・スコセッシ監督)があるます。斬新な解釈でイエスの人間としての苦悩と葛藤を描いたものですが、十字架にかけられたイエスが人間として生きる誘惑に駆られ、マグダラのマリアとの結婚生活を夢想する場面があります。重厚感のある力作ですが、キリスト教の関係者からは激しい非難を浴びせられました。この映画では、マグダラのマリアは娼婦であったという設定になっています。

 聖杯伝説をテーマにした映画もいくつかありますが、最も有名なのが「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(1989年スティーヴン・スピルバーク監督)です。

冒険家でもある考古学者インディ・ジョーンズを主人公とするシリーズの第三作です。十字架上のイエスの血を受けた聖杯で汲んだ水には病気や怪我を治す効果があるとされ、聖杯を探し求めて物語が展開します。シリーズの他の作品と同様、手に汗握る冒険物語です。主人公を演じたのはハリソン・フォードですが、この第三作にはその父親役でショーン・コネリーが出演したことでも話題になりました。
Gage Skidmore, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 少女期のソフィーがシオン修道会の怪しい儀式を目撃してショックを受ける場面がありました。祖父のソニエールが中心人物となり、何人かの男女が仮面をつけてローブをまとって性的な儀式を執り行っていました。
 同様な儀式が描かれている映画としては、「アイズ・ワイド・シャット」(1999年)があります。ある夫婦の愛と葛藤を通して、愛欲、嫉妬、妄想などの深い人間心理を鋭く描いたものです。「2001年宇宙の旅」、「時計じかけのオレンジ」など数々の名作、話題作を生み出したスタンリー・キューブリック監督の遺作としても有名です。当時夫婦だったトム・クルーズとニコール・キッドマンが主演しています。

 「ダ・ヴィンチ・コード」はテンプル騎士団の残した秘密を追う物語でしたが、同じく三大宗教騎士団の一つであるヨハネ騎士団の残した財宝を巡る映画もあります。「マルタの鷹」(1941年ジョン・ヒューストン監督)です。

ハードボイルド探偵小説の第一人者ダシール・ハメットの小説の映画化で、ミステリー映画の古典として有名です。主演はハンフリー・ボガートで、財宝をめぐる陰謀に巻き込まれた私立探偵サム・スペードに扮します。クールでタフな探偵像を確立し、ボガートの出世作になりました。ニヤリと笑う独特の凄みが印象的です。

 財宝というのは、ヨハネ騎士団が神聖ローマ皇帝カール五世にマルタ島を与えられたことに対する返礼として作られた黄金の鷹の彫像で宝石類がちりばめられ、巨万の価値があるものとされています。この映画の中で、ある刑事が梱包された彫像を持って、「重たいな、これは何だ?」というのに対しサム・スペードが

「夢が詰まっているのさ。」

と答えます。映画史上の名セリフの一つとされています。