「地獄の黙示録」

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 ベトナム戦争を舞台に、戦争の本質に迫るとともに極限状態に置かれた人間を冷徹に見据える衝撃的な作品です。様々な伝説に彩られて現在も多くのファンに支持されています。フランシス・フォード・コッポラ監督の渾身の作品です。

・1979年アメリカ映画
・監督 フランシス・フォード・コッポラ
・出演 マーロン・ブランド(カーツ大佐)、ロバート・デュバル(キルゴア中佐)、
    マーティン・シーン(ウィラード大尉)
・カンヌ国際映画祭パルムドール、アカデミー賞の撮影賞、音響賞受賞

 ベトナム戦争末期の1969年。アメリカ陸軍のウィラード大尉はアメリカに一時帰国をしていましたが、本国での生活になじめずベトナムへの復帰を希望し、反対する妻と離婚してベトナムに戻りました。前線での任務を望みましたがサイゴンのホテルでの待機を命じられ、酒におぼれる空虚な日々を過ごしていました。
 ある日、ニャチャンにある特殊部隊司令部から呼び出しを受けて出頭します。そこでコーマン将軍らからアメリカ陸軍特殊部隊のカーツ大佐についての説明を聞きます。カーツ大佐はかつては非常に優秀な軍人で人格者でもありました。しかしベトナム軍の情報部員を二重スパイであるとして独断で処刑したことが罪に問われています。さらにカーツ大佐は軍の命令を無視して暴走し、カンボジア奥地で消息を絶ちました。ジャングルに基地を設けて独自の王国を築き、現地人から神のように崇められていました。現地の山岳民族などからなる軍隊を編成して北ベトナム軍やべトコンと戦闘を繰り広げていました。ウィラードはカーツ大佐の暗殺指令を受けます。この任務を任されたのは、過去に秘密作戦に従事してきた経験を買われたからでした。
 カーツの王国に行くためには、ヌン川を遡り国境を越えてカンボジアの奥地に入る必要があります。ウィラードはアメリカ海軍の河川哨戒艇(パトロール用のボート)に身を隠して出発します。哨戒艇には、船のリーダーである「チーフ」、料理人を目指して修行をしていた「シェフ」、サーファーとして有名な「ランス」、少年兵の「クリーン」の四人が目的地も知らされないまま乗っていました。
 ウィラードは船の中で履歴書などカーツに関する資料を熟読します。しかし、輝かしい経歴をもつエリート将校がなぜ命令に背いて奥地に消えたのか理解できずにいました。
 ヌン川の河口に到達するためにはべトコンの勢力下の危険地帯を通過する必要があり、第一騎兵師団に護衛を依頼します。「空の騎兵隊」と呼ばれるヘリコプターの精鋭です。指揮官のキルゴア中佐に挨拶しますが、指示を受けていないとして難色を示されます。しかしキルゴアは異常なサーフィン好きであり、ウィラードの一行にサーファーとして有名なランスがいることを知ると態度を急変させ、ヌン川の河口で一緒にサーフィンをしようと言って護衛を引き受けます。その場所はべトコンの重要拠点であり、部下は反対しますがキルゴアは耳を貸しません。翌朝、ヘリコプターの大編隊によりべトコンの基地や森林の爆撃を開始します。

 まず、映画の舞台となったベトナムの歴史から見ていきましょう。

 ベトナムはインドシナ半島の東部に南北に細長い国土を持ちます。歴史的には北部、中部、南部が各々周辺地域の影響を受けて異なる発展をしてきました。
⦁ 北部
 ベトナム北部は、もともと現在のベトナムの中心となるベトナム人が居住していました。紀元前には、ドンソン文化という青銅器文化が栄えました。中国の南部に直接接していることもあり、中国文化の強い影響を受けて発展してきました。中心都市はハノイです。紀元1000年頃までは中国の領土であった時期と中国の支配に対して抵抗して独立を果たした時期とを繰り返してきました。
 紀元前214年には秦の始皇帝がベトナムに遠征軍を送り、南海郡をおいて支配しました。また、紀元前111年には漢の武帝も交趾郡などをおいて支配しました。唐の時代にも安南都護府が設置されました。

インドシナ半島(WorldMap_ja.pngより)改変元:著作権・使用制限テンプレート参照改変部分:アップロード者 – File:Japan map.png, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

⦁ 中部
 ベトナム中部の中心都市はフエです。中部にはチャム人という人たちが住んでいました。チャム人は現在もベトナムの少数民族として山岳地帯などに居住しているようです。2世紀ころチャンパー王国を立てました。林邑(りんゆう)や占城(せんじょう)とも呼ばれます。インドのヒンドゥー文明の影響を受けつつ、独自の文化を形成して繁栄しました。7世紀~10世紀には北部のベトナム人、南部のクメール人との抗争がありました。

⦁ 南部
 サイゴン(現在のホーチミン)を中心とする地域です。1世紀末には扶南という王朝がベトナム南部からカンボジアにわたる地域に存在しました。これが東南アジア最古の王朝の一つです。この王朝もインド文化の影響を受け、ローマ帝国や後漢との交易で繁栄しました。
 7世紀には真臘(しんろう)というクメール人(現在のカンボジアの中心となっている民族)の立てたカンボジアの王国が扶南を滅ぼします。ベトナム南部は長期にわたりこのカンボジアの王国に支配されていました。

 この時期はベトナムが外部の勢力と戦いつつ、内部での抗争を繰り返して統一国家に向かいます。まず北部では、中国で唐が滅亡した後の1009年、中国の支配から脱し李朝を立てます。これがベトナム人による初めての安定した政権になります。1000年に及ぶ中国王朝によるベトナムの直接支配は終わりますが、その後も宗主国としての干渉は続きました。李朝は科挙、官僚制、儒教、仏教など中国の制度や文化を採り入れます。中国が宗の時代には、宗の侵攻を撃退しています。
 次の陳朝の時代には、中国を征服していたモンゴル(元)が遠征してきます。モンゴルはフビライ=ハンの時代です。遠征は1287年から3回に及び、陳朝は頑強に抵抗してモンゴルを撃退しますが、最終的には服属します。この陳朝はベトナム中部のチャンパーを圧迫して領土を広げます。その後、中国が明の時代になり、永楽帝の遠征により一時的に支配されますが、その後独立して黎朝が成立します。黎朝も中部のチャンパーを攻撃し、1471年にはチャンパーは事実上滅亡して北部のベトナムに併合されます(異説もあります)。
 その後内乱の時代を経て、ベトナム南部出身の阮福暎という人物がフランス人ピニョーの支援を受けて1802年に阮朝を立てます。この阮朝が中部と北部も制圧して初めてベトナム全土を統一します。これが現在のベトナムの元となります。都はフエに置かれ、清朝を宗主国とします。しかしピニョーが阮朝を支援したことから、フランスはインドシナ半島に関心を持つようになり、これが後のフランスの侵攻につながります。
 19世紀後半以降、ヨーロッパ列強がアジア、アフリカに進出しますが、インドシナ半島にはフランスが入ってきます。1858年、フランスの第二帝政の時代にナポレオン三世がインドシナ出兵を開始します。フランス=ベトナム戦争を経て1862年にサイゴン条約が結ばれ、ベトナム南部の一部がフランス領となります。フランスはこれを拡大していきます。
 フランス本国は普仏戦争でプロイセンに敗れて第二帝政は倒れ、パリコミューンなどの混乱の時代を経て第三共和政に移ります。体制は変わっても対外的にはベトナム進出を継続します。1883年から2回のフエ条約によりベトナムはフランスの保護国となります。それに対しベトナムの宗主国である清朝が反発して清仏戦争が起きますがフランスが勝利し、清朝はベトナムの宗主権を放棄します。1887年にはフランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムとカンボジアはフランスの植民地となります。さらに1899年にはラオスが加わります。 

 フランスの植民地経営は、インドシナ総督を頂点とする行政機構により行われました。経済的には、当初は鉱山業が中心でしたが、フランス人の大地主による稲作のプランテーションも広く行われ、第一次世界大戦後はゴムのプランテーションが急速に広がりました。
 20世紀に入るとフランスの植民地支配に対してベトナムの自立を求める民族運動が始まります。1904年にファン=ボイ=チャウという人物が維新会を設立します。日露戦争に勝利した日本に学ぼうと考え、日本への留学を始めます。ドンズー(東遊)運動です。しかし当時、日本はフランスと日仏協約を結んでいたため、この運動は失敗に終わります。次に独立運動の中心となったのが、後にベトナム建国の父となるホー=チ=ミンです。フランスでマルクス主義を学び、ベトナムに戻ってベトナム共産党を創設します。
 第二次世界大戦が始まるとフランス本国はドイツに敗れ占領されます。これに乗じて1940年9月に日本がベトナム北部に進駐します。翌年7月には南部にも進駐してベトナム全土を支配します。これに対して独立を目指す民族組織として、1941年にベトナム独立同盟(べトミン)が結成されます。

ナポレオン三世の肖像(ハルター)
ファン=ボイ=チャウ
ホー=チ=ミン

 ベトナム戦争はベトナムの統一と独立をめぐる争いであると同時に、当時世界を二分していた東西冷戦の代理戦争でもありました。それでは第二次世界大戦後の東西冷戦の推移とベトナムの歴史を照らし合わせて見ていきましょう。 

①冷戦の始まり

 第二次世界大戦後の世界は、アメリカを中心とする西側諸国(自由主義陣営)とソ連を中心とする東側諸国(社会主義陣営)に分かれて対立しました。両陣営は直接的な武力衝突を避けつつ覇権を競いました。冷戦の始まりは、1945年、第二次世界大戦末期に行われたヤルタ会談と言われています。イギリスのチャーチル首相、アメリカのフランクリン・ローズベルト大統領、ソ連のスターリン首相が会談し、ドイツをはじめとするヨーロッパの戦後処理等について話し合いましたが、アメリカ、イギリスとソ連との間で亀裂が生じました。
 大戦後、東ヨーロッパの諸国では、ソ連の指導を受けた各国の共産党が中心となって政府が作られます。1946年3月、イギリスの首相の座から降りたチャーチルがアメリカを訪れ、有名な「鉄のカーテン」演説を行い、ソ連による東欧諸国の囲い込みを批判し、自由主義陣営の結束を訴えます。
 1947年3月、アメリカのトルーマン大統領が「トルーマン・ドクトリン」を発表し、共産主義の拡大を阻止する方針を明確にします。共産主義陣営に対する「封じ込め政策」が始まります。当時の緊急の課題は、ギリシアとトルコに軍事・経済援助を行い共産主義の浸透を防ぐことでした。6月には「マーシャル・プラン」を発表し、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国の復興を支援します。西側諸国の経済を安定させ共産主義の波及を防ぐものです。一方ソ連は同年10月にコミンフォルム(共産党情報局)を結成し、東側の連携強化を図ります。
1949年4月には「北大西洋条約機構(NATO)」が結成されます。集団的自衛権による自由主義陣営の軍事同盟です。各国の兵からなるNATO軍も編成されます。東側でもこれに対抗して1955年5月に「ワルシャワ条約機構」が結成されます。こうして両陣営の対立が決定的なものになります。

②核開発競争と宇宙開発競争

 冷戦の大きな特徴は、軍事力の増強、特に核兵器の開発競争です。第二次世界大戦が終わった時点ではアメリカが唯一の核兵器保有国でしたが、1949年9月にはソ連が核実験に成功します。1954年にはアメリカが水素爆弾の開発に成功し、ビキニ環礁で核実験を行います。この後アメリカとソ連は、強力な核兵器を大量に配備して相手の戦力を上回ることを目指します。これにより相手からの攻撃を防ぐ核抑止力の考え方です。大陸間弾道ミサイル、核ミサイルを搭載した潜水艦などの核兵器開発競争が限りなく続きます。

月面上での活動(アポロ11号)

 また冷戦期には、激しい宇宙開発競争がありました。軍事技術に応用可能であり他国の偵察にも使えるため、両国の威信をかけた戦いになりました。1957年10月、ソ連が人類初の人工衛星であるスプートニク1号の打ち上げに成功します。後れをとったアメリカは大きな衝撃を受け、NASA(アメリカ航空宇宙局)を設立します。ソ連は1961年4月に初の有人宇宙飛行(宇宙飛行士ガガーリン)を成功させますが、その8年後アメリカは人類を始めて月面に到達させることに成功します(アポロ11号)。

③ベルリンでの対立

 冷戦の初期において対立が先鋭化したのはドイツのベルリンです。敗戦国ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国により分割占領されました。首都ベルリンはソ連の占領地域にありましたが、4か国により分割して管理されました。1948年、西側3カ国(米、英、仏)が管理する西ベルリンでは、経済復興のために新通貨を発行しました(通貨改革)。ソ連がこれに強く反発し、西ベルリンに向かう鉄道と道路をすべて封鎖しました(ベルリン封鎖)。西側では西ベルリンの住民のための生活物資などを空輸して対抗します。ソ連は封鎖を解除しましたが対立は解消されず、1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国され、ドイツの分断が固定化されます。

四か国に分割されたベルリン
Stefan-Xp – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
東ドイツにより建設中のベルリンの壁(1961年11月)

 その後、東ドイツでは社会主義の制度により国民の自由が束縛され、生活水準も西ドイツに後れを取ります。そのため東ベルリンから西ベルリンに逃げ込む市民が激増します。東ドイツは1961年8月、西ベルリンの周囲に「ベルリンの壁」を建設して市民の移動を制限します。この後、壁を越えて脱出を図る東ドイツ市民が相次ぎ、多くの犠牲者がでました。このベルリンの壁が冷戦の象徴となります。

【この頃ベトナムでは その1 】 

 1945年8月に第二次世界大戦が終わると敗北した日本はベトナムから撤退します。この時、ホー=チ=ミンはベトナム北部で「ベトナム民主共和国」の独立を宣言します。首都はハノイです。しかし、フランスがベトナムに戻ってきます。フランス本国はドイツに占領されていましたが、アメリカとイギリスの力を借りて国土を回復し、最終的には戦勝国となります。フランスは戦後の国際社会で影響力をもつためには植民地の経営が必要だと考え、再度ベトナムの支配を図ります。そして1946年12月、べトミンとの間でインドシナ戦争が始まります。
 当時のフランスは小党分立で政権は不安定でした。アフリカやインドシナ半島の海外領土についても、保守勢力や軍部は断固として維持すべきと主張したのに対し、左翼勢力は独立の容認に傾き、国内は二分されました。1949年、フランスはバオ=ダイを擁立して「ベトナム国」を立てますが、ベトミン側は人海戦術によるゲリラ戦を展開します。戦いは長期化してフランス軍は疲弊し、本国でも厭戦気分が広がります。

 こうした中、1949年10月に社会主義体制の中華人民共和国が成立したことから、アメリカは東~東南アジアにおいて社会主義勢力が広まることを警戒します(後述のドミノ理論)。

④朝鮮戦争

 朝鮮半島では、1948年に社会主義体制の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と資本主義体制の大韓民国(韓国)が成立しましたが、1950年6月、北朝鮮軍が南下を開始します。これが朝鮮戦争の始まりです。これに対し、アメリカを中心とする国連軍が韓国を支援して反撃します。国連軍は38度線を突破して北上しますが、中国が北朝鮮を支援して参戦します。戦闘は膠着状態に陥り、1953年7月、休戦協定が成立します。これにより朝鮮半島は北緯38度線で南北に分割されます。朝鮮戦争は現在に至るまで休戦状態であり、終戦はしていません。この戦争により、冷戦が直接の武力衝突に発展しうることが明らかになりました。 

釜山港に続々と到着する国連軍

【この頃ベトナムでは その2 】

 1950年代に入り、アメリカはドミノ理論を唱えます。これは、ベトナムが共産主義になれば、カンボジア、ラオス、マレーシアなどが連鎖的に共産主義になっていくというものです。1950年からアメリカはベトナムに軍事援助顧問団を派遣してフランス軍に対する支援を始めます。インドシナ戦争は、当初はベトナムの独立を目指す戦争でしたが、ベトミンを中国とソ連が支援し、フランスをアメリカが支援したことから東西冷戦の代理戦争になりました。

ディエンビエンフーの戦い(占領したフランス軍司令部に旗を立てるベトミン軍)

 大勢を決したのは1953年11月からのディエンビエンフーの戦いです。これがフランスの大敗に終わったことから休戦協議が進み、1954年7月にジュネーブ休戦協定が締結されます。これによりベトナムは北緯17度線の軍事境界線によって南北に分断され、フランスはベトナムから撤退します。

 これを受けて、フランスの肩代わりをするようにアメリカが介入してきます。アメリカはアイゼンハワー大統領の時代です。アメリカはアジアの共産化を防ぐため、1955年にSEATO(東南アジア条約機構)という対共産圏の軍事同盟を結成し、南ベトナムにゴ=ディン=ジェムを首班として「ベトナム共和国」を立てます。それに対し1960年に「南ベトナム民族解放戦線(べトコン)」が結成され、北ベトナム(ベトナム民主共和国)がこれを支援します。そしてベトナムの統一をめぐって南北の間で内戦が始まります。1961年1月、アメリカのケネディ大統領は南ベトナムへの積極的な軍事支援を打ち出し、1万6000人の軍事顧問団とともに支援物資を送り込みます。

 しかし、この時点ではアメリカにとってベトナムは最優先課題ではありませんでした。当時の冷戦の表舞台はベトナムではなくキューバでした。

⑤キューバ危機

 キューバ危機は冷戦の中でも最も緊張の高まった事件です。アメリカの隣国であるキューバでは、1959年のカストロによるキューバ革命により親米政権が倒されました。革命政府はキューバ国内のアメリカ企業を接収して国有化するなどしたため、アメリカとの関係は断絶します。アメリカはキューバの革命政権の転覆を図りましたが成功しません。キューバはソ連に支援を求め、社会主義国になります。ソ連のフルシチョフ首相はキューバに核ミサイルを配備することを計画します。

キューバ近海でにらみ合うアメリカの軍用機P-2とソ連の軍用貨物船

 1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚します。キューバからはアメリカ本土が直接攻撃される危険性があるため、アメリカのケネディ大統領はキューバの海上を封鎖してソ連に基地の撤去を迫ります。ソ連はこれを拒否し、両国は臨戦態勢に入ります。事態は極めて緊迫し、まさに核戦争の瀬戸際に立たされました。結局、ソ連はミサイル基地を撤去し、アメリカはキューバ侵攻を断念することで妥協が成立し、危機は回避されました。

 キューバ危機から3年後、アメリカはベトナムに直接参戦することになります。そして、東西冷戦の中でも最も激しい戦闘が行われたベトナム戦争が始まります。

【この頃ベトナムでは その3 】

 アメリカは南ベトナムへの軍事支援を行っていましたが、ゴ・ディン・ジェム政権は腐敗し国民から見放されていました。1963年に南ベトナムで軍によるクーデターが起きるとアメリカはこれを黙認します。これ以降、南ベトナム政府はアメリカのコントロール下におかれます。
 暗殺されたケネディ大統領の後を継いでジョンソン大統領が就任すると、アメリカはベトナムを直接攻撃することを決断します。1964年8月、トンキン湾でアメリカの艦船が北ベトナムから攻撃を受けたと主張し(トンキン湾事件)、北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始します。兵力は年々増員され、1965年には地上軍は20万人になり、最終的には50万人の兵力が投入されます。一方では、ソ連と中国が北ベトナムを支援します。ベトナムの統一を目指す内戦が東西冷戦の舞台となって大きな戦争に変質しました。
 北ベトナムは空爆に耐え、ベトコンはジャングルでのゲリラ戦を展開して粘り強く抵抗します。1968年1月にはべトコンによる「テト(旧正月)攻勢」でサイゴンのアメリカ大使館が一時的に占拠されるなど、アメリカは苦戦します。アメリカ軍は多くの犠牲者を出します。

爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機
南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾
反戦デモを行うアメリカの大学生

 アメリカ軍が戦況を打開できない中、アメリカ本国では厭戦気分が高まり、大規模な反戦デモも各地で行われます。また、巨額の軍事費がアメリカの財政を圧迫し、ベトナムでの戦争の継続が困難になり和平を模索します。ジョンソン大統領は大統領選への出馬を断念し、1969年1月に就任したニクソン大統領はベトナムからの撤兵を決定します。しかし直ちに撤兵するのではなく、できるだけ有利な条件での休戦を模索します。

 映画「地獄の黙示録」はこの時点(1969年)のベトナムを舞台としています。

 戦火の中で繰り広げられる人間の狂気を散りばめた緊張感あふれる物語展開と壮大で斬新な映像美については世界中で語り尽くされてきました。特に本物の兵器を使用した実写による映像の迫力は、CGが当然のこととなった現在でも見る者を圧倒します。有無を言わせぬ説得力で見る者に迫ります。戦争そのものを体感するような臨場感です。
 監督のフランシス・フォード・コッポラが膨大な製作費と時間、そして命がけの情熱を注ぎこんで完成させた作品です。撮影はベトナム戦争が終結した翌年の1976年3月に始まり、当初17週間の予定でしたが実際は61週間を要しました。費用も倍以上の約90億円に膨れ上がり、コッポラは「ゴッドファーザー」の成功で手にした私財のほとんどを投入し、文字通り映画人としての人生をかけました。さらに撮影の環境が過酷で、現場は地獄絵図のようだったと伝えられています。撮影に当たってはアメリカ軍の協力が得られず、フィリッピン軍の協力により行われました。フィリッピンに大規模なセットを作り、多くのキャストやエキストラを現地に集めて撮影しましたが、予定した日にヘリコプターが調達できないなどアクシデントが相次ぎ、台風の直撃でセットの多くが壊れてしまうという想定外の事態に見舞われます。またマーロン・ブランドがカーツ大佐役に必要とされていた減量をせずに撮影に臨んだり、セリフを覚えないなど相次ぐトラブルで映画の構想もストーリーも撮影段階で二転三転しました。コッポラは精神的に疲弊して深い闇に迷い込んでしまったと言われています。さらに編集段階でもコッポラは泥沼に入り込んでノイローゼになり、2年半の月日を要しましたが執念で完成させました。なお、映画製作中の逸話については、コッポラの妻エレノアが撮影に同行し、混迷を極めた撮影の記録を手記にまとめるとともに、ドキュメンタリー映画「ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録」を制作しています。
 作品は未完成のままカンヌ国際映画祭に出品され、大きな反響を呼んで最高賞(パルムドール)に輝きました。その後世界中で公開されて大ヒットし、コッポラにとっては、「ゴッドファーザー」三部作と並ぶ代表作になりました。

 この映画は戦争の悲惨さを訴えるだけではなく、戦争そのものの本質と人間の内面を鋭く抉り出しています。映画はカーツの王国への長い船旅を描きますが、まさに狂気の戦場に分け入って進むロードムービーでもあります。主人公のウィラード大尉が司令部で密命を受けた際、将軍たちは「カーツ大佐が“unsound”(不健全)になった」と言います。目的は同じでも、そのやり方が自分たちは健全でありカーツは不健全と考えます。しかしウィラードは船旅の途中で様々な異常な情景を目のあたりにし、その積み重ねから戦争を見る目が深まります。戦場での行為に健全と不健全、正気と狂気の線引きなどできるのだろうか、と考えます。ルールや基準を設けて人を殺すことを「欺瞞」だと考えるようになります。
 ウィラードはカーツに近づくにつれ、カーツに対する共感を感じて心の中で呟きます。
「なぜキルゴアがやっていることは許されてカーツは許されないのか?」
「機関銃を浴びせた後でバンドエイドを貼ってやって何になるのか?」  

 原作はジョセフ・コンラッドの「闇の奥」です。この小説では19世紀にアフリカの奥地で象牙の採集をしていた商社マンが未開の風土で野生の力に圧倒されて消息を絶ちます。映画「地獄の黙示録」は設定をベトナム戦争に置き換え、極限状態に追い込まれた人間のあり様を探求します。
 それ以外にも様々な作品がモチーフになっています。カーツ大佐がT・S・エリオット(ノーベル文学賞受賞者)の「うつろな人々」を朗読する場面があります。カーツの書斎の机の上には、聖杯伝説の研究者である人類学者のジェシー・ウェストンによる「儀式(祭祀)からロマンス」、宗教や神話の研究者である社会人類学者ジェームズ・フレイザーによる「金枝篇」があります。これらが映画の下敷きになっていると思われます。これらに関しては立花隆さんの「解読『地獄の黙示録』」をはじめ、この映画を読み解いた優れた論評が多数あります。
  映画のタイトルは“Apocalypse Now”、直訳すると「現代の黙示録」です。新訳聖書の「ヨハネの黙示録」は、イエスの十二使徒の一人であるヨハネが神から見聞きした未来の光景であり、この世の終末と最後の審判、キリストの再臨、神の国の到来を描いています。この映画がベトナム戦争を通して、狂った現実が覆い隠している神の真理を実現させてゆく道筋を模索する物語という意図なのでしょうか。

 俳優陣はいずれも好演です。ウィラード大尉を演じたマーティン・シーンは厳しい環境の中で熱演を続け、緊張と過労で撮影中に心臓発作で倒れています。この作品が代表作となりましたが、その後も多くの出演作があります。なお、息子のチャーリー・シーンとは「ウォール街」などで共演しています。
 謎に包まれたカーツ大佐を演じたマーロン・ブランドは20世紀後半のアメリカ映画界を代表する俳優の一人です。二度のアカデミー賞を含め多くの賞を受けていますが、コッポラ監督の作品には「ゴッドファーザー」のヴィトー・コルレオーネ役に続いての出演です。この映画では影に覆われたような姿で登場し、神秘的なオーラを発して形容しがたい存在感を見る者に深く印象付けています。
 前半に登場するキルゴア中佐役はロバート・デュバルです。狂気の戦場を体現したようなキャラクターを活き活きと演じて強烈なインパクトです。「ゴッドファーザー」で演じたコルレオーネファミリーの顧問弁護士トム・ヘイゲン役と並ぶ代表作となりました。
 この映画には後に有名になる俳優が脇役で出演していることでも知られています。少年兵クリーンを演じた ローレンス・フィッシュバーンは、この20年後には「マトリックス」シリーズのモーフィアス役を貫禄十分で演じています。そしてハリソン・フォードが「スターウォーズ」のハン・ソロ役で大ブレイクを遂げる直前の姿を見ることもできます。 

 前半のスペクタクルな戦闘シーンに比べ映画の後半は非常に示唆的であり、「神話部分」「哲学部分」などとも言われ、その難解さを批判する人も少なくありませんが、多くの人を魅了し多様な解釈や考察がなされてきました。それも含めた全体としての幻想的な雰囲気と圧巻の映画体験を楽しめばよいのではないでしょうか。
 壮大な物語、強烈なメッセージ、迫力ある映像、どれをとっても文句なしの傑作であり、後世に語り継がれる映画であることは間違いないでしょう。

 映画「地獄の黙示録」には、主なものだけでも三つのバージョンがあります。

・オリジナル劇場版    1979年公開  153分

・特別完全版       2001年公開  203分

・ファイナル・カット   2019年公開  182分

 最初のオリジナル劇場版は、一般公開するにあたって映画の配給会社からの強い要請により、2時間半程度の長さにおさめるために大幅なカットを行ったものです。
 特別完全版はオリジナル劇場版より50分長くなっており、オリジナル劇場版でカットせざるを得なかった部分を復活させるとともに、物語をわかりやすくするために細かい追加を行っています。大きく追加されたのは、フランス人入植者に関する場面(後述)と、アメリカ軍兵士への慰問に来たプレイメイトたち(オリジナル劇場版にも登場)とウィラード大尉たちが再会する場面です。その他にもコッポラ監督が詳細にチェックした上で、細かいカットの追加をたくさん行っています。これにより物語の展開がスムーズになりました。特にキルゴア中佐の異常な行動や旅の途中でのウィラードの思索が補われたことにより、後半登場するカーツ大佐を含め登場人物の人間像がより鮮明になりました。
 ファイナル・カットは特別完全版より20分短くなりました(オリジナル劇場版よりは30分長いです)。プレイメイトたちと再会するシーンがすべて削除され、フランス人入植者のシーンも少し短くなりました。他にも冗長と思われる部分をカットしたようですが、全体の印象としては特別完全版と大きくは変わりません。デジタル修復もなされ、コッポラ監督はこのファイナル・カットが最良のものと言っているようです。

 特別完全版で一番注目されたのは、フランス人入植者に関する場面が復活したことです。この場面は、セットにも多額の予算を投入し、フランスから俳優を呼び、撮影においても非常に力を入れていたと言われています。そのためオリジナル劇場版が公開された時にこの場面がまったく無いことが驚きを呼びました。上映時間の制約がある中、物語のメインの流れからはずれるために、断腸の思いで全面的にカットしたようです。それが特別完全版で復活しました(ファイナル・カットでは若干短くなりましたが主要部分は残っています)。
 このフランス人入植者の場面が入ることによって、ベトナム戦争の歴史的な位置づけが鮮明になりました。ベトナム戦争の前にはインドシナ戦争があり、その前にはフランスによる長期にわたる植民地支配がありました。ここで登場するフランス人は、植民地時代にベトナムに入植して必死で働いて農園を開拓した人々の子孫です。こういった植民地支配に抵抗して結成されたのがべトミンであり、その後継組織であるべトコンでした。このフランス人たちが登場することにより物語が幅広く重層的なものになりました。

 この映画は、ベトナム戦争とアメリカ社会の関係も含め、戦争の様々な側面を描き出しています。

①ベトナム帰還兵の精神障害

 ベトナム戦争はアメリカ社会を根底から変えたと言われ ていますが、その一つがベトナムからの帰還兵の精神障害の問題です。アメリカの兵士は戦場での過酷な経験や、帰還後に感じた社会からの冷たい視線などから、深い心の傷を負いました。戦場での記憶に苦しめられたり、疎外感、罪悪感、欲求不満など様々な症状が見られました。今ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)の一種と考えられています。
 映画「地獄の黙示録」では主人公のウィラード大尉にその兆候がでています。映画はウィラードが待機中にサイゴンのホテルで酔いつぶれている場面から始まります。彼はアメリカに帰郷しても自分の居場所を見つけられずベトナムに戻ってきましたが、サイゴンでも平穏な日常に耐えられず、最前線への復帰を渇望します。他の兵士が早く本国に帰ることを願っている中、彼は「俺にはもう故郷がない」と心の中で呟きます。

②「テレビでお茶の間に届けられた戦争」

 ベトナム戦争においてアメリカは報道の規制をしませんでした。そのため報道機関が現地に入って取材をしてそれが報道されたため、戦場の悲惨な状況が多くのアメリカ国民の目に触れました。その影響もあって当初は高かったベトナム戦争に対する支持率がどんどん低下し、反戦機運が盛り上がりました。
 この映画でも戦場の撮影をするテレビ局のクルーが登場します。テレビ局のディレクターが兵士に向かって腕を振り回しながら「カメラを見るな!気にするな!」と叫びながら撮影している場面があります。なお、このひげ面のディレクターに扮しているのが「地獄の黙示録」のコッポラ監督自身です。

③慰問

1954年、韓国で公演中のマリリン・モンロー

 戦場で兵士たちを慰め士気を高めるための慰問公演が行われることがあります。朝鮮戦争の際にマリリン・モンローが韓国の基地を慰問したことは有名ですが、ベトナム戦争でも色々な慰問が行われました。この映画では雑誌「プレイボーイ」のプレイメイトが登場します。「プレイボーイ」のお色気記事が兵士たちに愛読されている場面もあります。

 また、この映画には「ラクエル・ウェルチと裸でマンゴークリームの塗りっこをするのが夢だ」というセリフもあります。ラクエル・ウェルチというのは映画「恐竜100万年」に主演した女優ですが、当時セックス・シンボルとして大人気でした。この人が実際にベトナムに行って兵士の慰問をして回ったそうです。

ラクエル・ウェルチ

④麻薬の蔓延

 ベトナム戦争に派兵されたアメリカ軍の兵士の間では麻薬が蔓延していたと言われています。いつべトコンのゲリラから攻撃されるかわからないという死の恐怖に直面した兵士たちは神経がむしばまれていきます。そして緊張感に耐え切れず麻薬に手を出しました。「地獄の黙示録」にも、麻薬に溺れて正気を失い朦朧とした状態で戦闘をしているアメリカ軍兵士が登場します。なお、兵士が本国に帰還する際に麻薬を持ち帰り、それがきっかけとなってアメリカで麻薬が蔓延して大きな社会問題となりました。

⑤カンボジア侵攻

 この映画のカーツ大佐はカンボジアの奥地にまで入り込んで自らの王国を築いて戦いを続け、それを非難されますが、カンボジアへの侵入という点については、現実のベトナム戦争でもアメリカ軍が同様のことをしています。べトコンが粘り強く戦い続けられるのは、北ベトナムがカンボジアを経由したルート(ホー・チ・ミンルート)で様々な支援物資をべトコンに送り届けていたことが背景にありました。この映画の舞台となった1969年の翌年、アメリカはこの支援ルートの遮断という名目でカンボジアに侵攻しました。

ホー・チミン・ルート(北ベトナムから南ベトナムへの武器や装備の輸送)

⑥「べトコンはアメリカが作った」

 映画の中でウィラードがフランス人から「べトコンはアメリカが作った」と言われ、唖然とする場面があります。映画を見た人たちの間でこのセリフの解釈が話題になりましたが、以下のように考えられます。
 1937年に日本と中国の間で日中戦争が始まりましたが、当時日本と対立していたアメリカなどが中国を支援する物資を送り届けました。そのルートの一つがインドシナ半島を経由するものでした。1941年に日本がベトナムに進駐したのは、そのルートを遮断する意図がありました。日本に対して抵抗運動を行うべトミンが結成されるとアメリカはべトミンを支援します。この時アメリカがべトミンを支援したことが、結果的にべトミンの後継組織であるべトコンを育てることにつながった、という趣旨でしょうか。

 この映画には多くの名セリフが散りばめられています。そのいくつかをご紹介します。
①ウィラードがカーツに対する罪状に疑問を感じ始めた時、心の中でつぶやきます。

「戦場で殺人罪を問うのは、レース場でスピード違反を取り締まるようなものだ。」

②終盤で登場するカーツはウィラードに対し、自らの胸の内を告げます。難解なセリフも多いのですが、それらからカーツの真意を推しはかることができます。その一つです。

「(君には)私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。」

③「アメリカ映画の名セリフベスト100」の12位に選ばれた有名なセリフです。サーフィンをする適地を確保するために爆撃を命じるキルゴア中佐の言葉です。まさにベトナム戦争の狂気を象徴するような一言です。

「朝のナパーム弾の香りは格別だ。」

①その後のベトナム戦争

 アメリカ軍の苦戦が続く一方、反戦運動は高まります。また、戦争の長期化により戦費の支出が大幅に増大して財政は悪化し、金の準備高は激減します(ドル危機)。1971年、ニクソン大統領は金とドルの交換停止を発表します(ドル=ショック)。アメリカのドルを基軸とした第二次世界大戦後の国際経済体制が動揺します。
 一方、北ベトナムを支援する側でもソ連と中国の関係が悪化し、1972年にはニクソン大統領が中国を訪問して関係の改善を図るなどベトナム戦争を取り巻く国際情勢は複雑化します。結局1973年にベトナム和平協定が成立し、アメリカは撤兵を開始します。1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムを制圧し、統一国家として「ベトナム社会主義共和国」が成立して独立を達成します。

②その後のベトナムと東西冷戦

 ベトナム戦争が終わっても平和は訪れません。隣国のカンボジアでは親中国のポル=ポト政権が成立し、親ソ連のベトナムと対立します。ベトナムは1978年にカンボジアに侵攻し、これに反発して中国がベトナムに侵攻して中越戦争となります。中国は撤退しますが、度重なる戦争のためにベトナムの国民生活は圧迫され、経済は停滞します。
 しかし、1985年にソ連でゴルバチョフが登場して大胆な改革が始まり、東欧諸国でも民主化が一気に進みます。1989年には冷戦の象徴であったベルリンの壁が解放されます。翌念12月、アメリカのブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長のマルタ会談において冷戦終結が宣言されます。
 これらの動きを受け、ベトナムでも社会主義体制を維持しながら市場経済を導入する「ドイモイ(刷新)政策」が1986年に始まります。これにより著しい経済成長が始まり、有力な発展途上国として注目されるようになります。ベトナムは国際社会にも復帰し、1995年にはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟、同年アメリカとの国交も正常化します。現在ではハノイ市やホーチミン市には高層ビルが立ち並びます。

ハノイ市の街並み Ntml4507投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
ホーチミン市の街並み Lê Minh Phát – https://www.flickr.com/photos/leminhphat/48548518557/, CC 表示 2.0, リンクによる