舞台は1894年のフランス、後世の人から「ベル・エポック(よき時代)」と呼ばれる時代でした。後に「ドレフェス事件」として知られることになるユダヤ系軍人に対する冤罪事件が起きました。この事件は当時の共和制政府をゆるがし、国論を二分する大事件となりました。事件の背後には軍部や右翼、さらには大衆にも反ユダヤ主義が根強く存在していたことがあります。この事件を取り上げた二つの映画をご紹介します。どちらもドレフェス事件の実話をもとに作られています。
■「ゾラの生涯」の概要
一本目はフランスの文豪エミール・ゾラを主人公にした作品です。前半は若き日の苦境の時代から始まり、名作『ナナ』などによって名声を得るまでを、後半はスパイ容疑で投獄されたドレフェスの潔白を信じて世論に訴えたゾラの戦いを描いています。
①映画の概要
・1937年アメリカ映画
・監督 ウィリアム・ディターレ
・出演 ポール・ムニ、ジョセフ・シルドクラウト、ゲイル・ソンダーガード
・第10回アカデミー賞作品賞および助演男優賞(ジョセフ・シルドクラウト)、脚色賞を受賞
②あらすじ(ネタばれ無し)
画家セザンヌとゾラはパリの屋根裏部屋で同居して貧乏暮らしをしながら、美術と文学で芸術を極めようとしていました。ゾラは偶然知り合った娼婦を主人公にした小説『ナナ』で評判をとるや、作品が次々と売れるようになります。やがて自然主義作家の旗手としてライフワークの「ルーゴン・マッカール叢書」20巻を発表し、文豪への道を進んでいきます。しかしセザンヌは、社会的な名声と富を得て優雅な暮らしを楽しむゾラに背を向けて去っていきます。
その頃、フランス軍の将校ドレフュスがスパイ容疑で投獄されました。彼の無罪を信じる妻のひたむきな訴えに心を動かされたゾラは、世論を喚起するために「私は弾劾する」という公開状を新聞に投稿します。
■「オフィサー・アンド・スパイ」の概要
二本目は名匠ロマン・ポランスキー監督の最新作です。こちらはドレフェスが無実であるという確信を得て真実を明らかにしようとするフランスの軍人を主人公にしています。
①映画の概要
・2019年フランス・イタリア合作映画
・監督 ロマン・ポランスキー
・出演 ジャン・デュジャルダン、ルイ・ガレル
・第76回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門銀獅子・審査員大賞受賞
②あらすじ(ネタばれ無し)
1895年のパリ。陸軍大尉のドレフュスが多くの軍人や群衆の見守る前で軍籍を剥奪される儀式が行われます。軍人としての徽章をはぎ取られ、軍刀をへしおられます。ドレフェスは「私は無実だ」と訴えますが、群衆から罵声を浴びせられます。ドレフェスはドイツ大使館に軍の機密情報を漏らしたスパイ容疑で逮捕され、仏領ギアナの孤島に幽閉されます。本人は無罪を主張しますが、ユダヤ人であるドレフュスの言葉を信じる者はいませんでした。
同じ頃、ピカール中佐は対敵情報活動を司る諜報部長に抜擢されます。ピカールは諜報部のずさんでぬるま湯的な体質にメスを入れ、改革に取り組みます。そしてドレフェス事件の情報を収集し、証拠を検証するうちに、ドレフュスが冤罪であったことを確信しますが、軍の上層部は体面を重視して事実を隠蔽します。
この事件は当時の第三共和政をゆるがした事件でした。それではこの事件に至るまでのフランスの歴史の流れを見ていきましょう。19世紀のフランスは政治体制が目まぐるしく交代する激動の時代でした。
◎歴史的背景 19世紀フランスの歴史
19世紀のフランスはナポレオンの時代から始まります。ナポレオン戦争の後、ウィーン会議が開かれ、ウィーン議定書が締結されました。フランス革命以前の王朝と政治体制に回帰する「正統主義」が原則とされました。そして列強の「勢力均衡」により、革命や戦争の再発を防ごうとします。この復古的な国際秩序はウィーン体制と呼ばれています。
しかしフランス革命の影響から、自由主義、国民主義(ナショナリズム)がヨーロッパ各地に広がっていました。フランスでも自由と平等を求める精神が人々の意識に浸透していきました。
フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が国王になります(復古王政)。王政が復活しましたが立憲君主制であり、所有権の不可侵や法の下の平等、言論・出版の自由などのフランス革命の成果は保障されていました。憲法が定められ議会も設置されますが、制限選挙によるものです。国王が貴族の権限を強化しようとするのに対し、人民主権など政治体制の近代化を求める運動が続きます。1824年にシャルル10世が即位すると、反動政治を強め、フランス革命以前の時代に戻そうとします。1830年の選挙で自由主義者が勝利すると、国王は議会を解散します。出版の自由を停止し、選挙権への制限を大幅に強めます。7月にはそれに反発して学生、労働者、市民など民衆がパリで蜂起し、バリケードを築きます。結局、国王は国外への亡命を余儀なくされます。これが「七月革命」です。
七月革命により復古王政は倒れました。その後の政治体制も立憲君主制となり、自由主義者であると言われていたルイ・フィリップを新しい国王に迎えます。ブルボン家の分家の出身です。新しい憲法が制定され、選挙制度も新しくなりますが選挙権は有産者に限られます。議会は産業資本家や銀行家等の上層ブルジョワジーが支配的になり、政権はその利益の保護を図ります。
七月王政期は、フランスにおいても産業革命が大きく進展した時期です。技術革新により工場生産が拡大し、経済は農業から工業中心に転換します。産業資本家が台頭する一方、労働者層も形成されます。労働者の勤務条件や生活環境は劣悪なものであったため、労働運動も活発になります。
市民の間ではルイ・フィリップ政権への批判が強まります。選挙制度の改正を求める運動が「改革宴会」という集会により展開されました。政府が改革を拒否したことから1848年に市民が蜂起し二月革命が起きます。これにより国王は退位、共和政が宣言され臨時政府が成立しました(第二共和制)。フランスでの動きが発端となってヨーロッパ各地で様々な民族運動が発生し、ウィーン体制は終わりを迎えます。
しかしフランスの臨時政府には穏健な共和派から労働者や社会主義者まで様々な人々が参加しており混乱が続いたため、民衆は統合と安定を求めるようになります。そうした中で行われた大統領選挙でナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが圧倒的な支持を得て大統領になります。さらに大統領自らが軍を率いてクーデターを起こし、国民投票での支持を受けて皇帝位につきます。ルイ=ナポレオンはナポレオン3世となり、1852年に第二帝政が始まります。
第二帝政期には積極的な産業保護政策等によりフランスの近代化が進みますが、外交政策の失敗等からナポレオン3世の権威は失墜します。1871年にはプロイセンとの普仏戦争に敗れて第二帝政は終わり、第三共和政が始まります。その直後には人類史上初の市民による自治政府であるパリ・コミューンが誕生し、それに対する鎮圧という波乱の幕開けになりましたが、1875年には憲法が定められ本格的に共和制が始まりました。
ドレフェス事件が起きたのは、この第三共和政の時期であり、後に「ベル・エポック」と呼ばれる時代です。
◎歴史的背景 フランスの「ベル・エポック」
19世紀末から1914年に第一次世界大戦が始まるまでの時代は「ベル・エポック(よき時代)」と呼ばれます。第一次世界大戦後にこの時代の平和な生活や華やかな文化を懐かしんでこう呼んだようです。
フランスは普仏戦争の敗北から急速に国力を回復します。ルノーなどの自動車産業を中心に工業力も発達します。第三共和政という形で政治体制が固まり議会中心の政治運営となりますが、小党が分立し強力な政権はできません。国内では普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回など対独強硬論が根強く、右派と軍部が勢力を伸ばします。一方では労働組合を中心としてデモやストライキなど直接行動を重視するサンディカリズムが台頭し、社会主義勢力も成長します。第三共和制政府は左右両方からの攻勢を受けて不安定でした。
この時代は世界の中でヨーロッパ各国が経済的、軍事的に優位に立っており、海外に植民地を拡大する帝国主義の時代でもありました。フランスもヨーロッパ列強の一員として植民地政策を展開します。アフリカではアルジェリアに続きチュニジアを保護国化し、モロッコからサハラ砂漠を横断して東岸のジブチの方面に向かうアフリカ横断政策を採ります。これはアフリカ縦断政策を採るイギリスと対立することになり、1898年ナイル川上流のスーダンで衝突の危機(ファショダ事件)が生じますが、この時はフランスが妥協して撤退しました。
東南アジアでは、1884年の清仏戦争と翌年の天津条約を経てベトナムを保護領とします。さらに1899年にはラオスを保護国化してフランス領インドシナ連邦が成立します。
フランス国内では産業の発展とともに資本主義が成熟し、市民社会が成立します。文化的にも繁栄し、パリは芸術の都として世界中の憧れの的となります。1900年にパリ万国博覧会が開催され、フランス革命100年を記念してエッフェル塔が建てられました。地下鉄も開通し、ボン・マルシェなどのデパートには買い物客があふれました。都市の消費文化が花開き、現代に続く生活様式が始まった時期です。
美術では、印象派に続き大胆な色彩表現を特色とするフォーヴィズム(マティスなど)、複数の視点からのイメージを一枚の絵に集約するキュビズム(ピカソなど)が登場します。また、植物などをモチーフとして曲線を組み合わせる装飾デザインであるアールヌーボーが開花し、建築、工芸品などに幅広く用いられました。
文学では、自然主義への反動から象徴主義(ボードレールなど)が登場し、神秘的なものや人間の内面的なものを象徴的な手法で表現しました。
◎歴史的背景 第三共和政の危機
1880年代になると政治的には穏健共和派と急進派の二大勢力になります。当初は穏健共和派が主流になり、初等教育の義務化と無償化、職業組合の結成の自由、集会・結社・出版の自由等の政策を実現させました。しかしフランスの共和制はこの時期に何度か政府を震撼させる危機に見舞われます。
まず、1889年の「ブーランジェ事件」です。これは共和制政府を倒して軍部独裁政権の樹立を目指すクーデター未遂事件です。陸軍大臣のブーランジェ将軍という人物は、ストライキに参加した労働者への同情的発言や、ドイツとの国境紛争で緊張が高まった際の強硬姿勢(「復讐将軍」のあだ名がつく)などから国民の人気が高まりました。政府は将軍の異常な人気を危険視し、大臣を罷免して地方に左遷します。これが国民の反発を呼び、将軍を支持する世論が最高潮になります。興奮した一部の民衆はブーランジェ将軍による政権を望み、クーデターの機運が熟したかに思われました。しかし将軍本人が土壇場で躊躇したため人気は大きく失墜し、運動は急速に沈静化しました。結局、将軍はベルギーに亡命し、結果的に共和制政府の危機は去りましたが、政府への不満は消滅しません。
1892年には「パナマ運河疑獄」が起きます。これはパナマ運河の建設を行っている会社の破綻とその再建をめぐる汚職事件です。運河の建設事業が難航し、パナマ運河会社は経営難に陥っていました。会社は議員を買収して社債発行に必要な上下両院の承認を得ましたが、結局は破産しました。歴代内閣が事実を隠蔽していたことが暴露され、当時の内閣は崩壊し、これにより共和制政府に対する大衆の信頼がさらに揺らぎました。
第三共和政最大の危機ともいうべきドレフェス事件が起きたのはこの2年後でした。
◎歴史的背景 ドレフェス事件
この事件の背景としては三つのことがらがあります。
第一は、フランスの政治状況、特に第三共和政の不安定な状況です。
第二は、フランスをはじめヨーロッパに蔓延していた反ユダヤ主義です。これについては後述します。
第三は、フランスを取り巻く国際情勢、特にドイツとの関係です。普仏戦争でフランスを破ったプロイセンはドイツ統一を成し遂げます。ドイツの宰相ビスマルクは、フランスの反撃に備えてフランスを孤立させることを外交政策の主眼としていました。ビスマルクがドイツの皇帝ヴィルヘルム2世と衝突して失脚し、ヴィルヘルム2世の新しい世界戦略が始まると状況が変わり、ドイツとロシアとの関係が悪化します。この機会にフランスはロシアに接近し1894年に露仏同盟が成立します。この様な緊迫した国際情勢の中、ドイツはフランスへの諜報活動を行っていました。
※ここからは映画のネタバレになりますので注意してください。
事件の発端は1894年にフランス軍の機密情報がドイツに漏洩していることが発覚したことです。これによりフランス将校団の中にスパイがいることが判明しました。やがて参謀本部の大尉であるアルフレド・ドレフェスが反逆罪で逮捕されました。ドレフェスはユダヤ人でした。本人が無罪を主張し、決定的な証拠がないにもかかわらず、筆跡が似ているという理由から軍法会議で有罪判決を受け、終身禁固刑となります。ユダヤ人であるためにスケープゴートにされたと思われます。
南米の植民地ギニアの離島であるディアブル島(悪魔島)への流刑処分となります。
国民はドレフェスを激しく非難しました。その背景には、普仏戦争敗北以来の軍国主義的風潮とユダヤ人への根強い反感がありました。
そんな中、新しく諜報部長に就任したジョルジュ・ピカールは事件の調査をした結果、ドレフェスの無罪を確信するようになり、別の将校であるエステルアジが真犯人であることを突き止めました。しかし軍の威信に傷がつくことを恐れた上層部はそれ以上の調査を禁じます。調査をやめないピカールはチュニジアに左遷され、後任のアンリという人物がドレフェスの有罪を示す偽の文書を捏造します。エステルアジは軍法会議にかけられますが無罪になり、イギリスに渡ります。これも反ユダヤ主義の世論が影響していると思われます。
一方、ドレフェスの妻と弟はドレフェスの無実を信じて奔走します。それを受けて作家のエミール・ゾラが1898年に急進派系の新聞「オーロール」で政府や軍部を非難しドレフェスの再審を求める「私は弾劾する」を発表します。世論は沸騰します。国民はドレフェスの再審を求める派と有罪判決を支持する派に二分され、激しい議論が展開されました。
ゾラは名誉棄損で有罪判決を受けイギリスに亡命しましたが発言を続けました。
アンリによる証拠の捏造が暴露され、アンリは獄中で自殺します。しかし新事実が明らかになっても政府と軍部は再審を拒否します。ドレフェス擁護派であった急進派などを支持基盤とする内閣が誕生し、1899年にようやくドレフェスの再審が始まりました。この時期にドレフェスの弁護士が暴漢に襲われるという事件も起きています。再審でドレフェスは減刑にはなりましたが再び有罪判決を受けます。その後大統領の恩赦により釈放され、世論は沈静化しました。最終的にドレフェスの無罪が確定したのは1906年でした。
この事件はフランスの政治と社会、そして世界中のユダヤ人に大きな影響を及ぼしました。
第一にフランス革命以来、様々な政治体制が変転して不安定な状態が続き、第三共和制に対しても国民の不満がありました。その中でドレフェス事件を乗り切ることによってようやく政治体制として共和制が定着する方向に進みました。それまでの与党であった穏健共和派や事実を隠蔽していた軍部の権威は失墜し、共和制の担い手が急進派に移りました。事件の経過の中で共和派が結束して結成された急進社会党とフランス社会党が中心となります。
第二に、事件の教訓として宗教と国家の関係の重要性が明らかになりました。フランスでは中世以来の伝統でカトリック教会と国家が結びついていました。軍部とカトリック教会の反ユダヤ主義が冤罪事件の背景にあったことから、1905年政教分離法が成立し、国家と宗教の分離、個人の信仰の自由という原則が確立しました。
第三に、この事件を機にユダヤ人国家の建設をめざすシオニズム運動が始まりました。ヘルツルというハンガリー出身のユダヤ人(新聞記者)が、ドレフェス事件を目の当たりにして、ユダヤ人に対する偏見の強さに衝撃を受けました。ヘルツルは、ユダヤ人は安住の地として先祖の地(パレスチナのシオンの丘)に帰って自分たちの国家をつくるべきだという考えを提唱します。この思想とそれを受けた運動が後のイスラエル建国に結びつきました。
現在、ユダヤ人はイスラエルをはじめ世界の各地に分布しています。ユダヤ人の定義というのは非常に難しいのですが、現在では「ユダヤ教を信仰する人」と考えるのが妥当なようです。それではユダヤ人の歩んできた苦難の道のりとユダヤ人への迫害の歴史を見ていきましょう。
◎歴史的背景 ユダヤ人の歴史
①ユダヤ教の成立まで
前1500年頃、現在のユダヤ人の祖先にあたるヘブライ人がパレスチナに定住し、一部はエジプトへ移ります。前13世紀、モーセがエジプトで奴隷となっていた人々を率いて脱出します(出エジプト)。その途上、シナイ山で神から「十戒」を授かります。
前12世紀頃からパレスチナに定住し、前10世紀頃ヘブライ王国(イスラエル王国)が繁栄します。第2代ダヴィデ王はパレスチナを統一し、都をイェルサレムに定めました。第3代ソロモン王の時代が最盛期で、イェルサレムに壮大なヤハウェ神殿(第一神殿)を建造しました。
前922年頃ヘブライ王国は分裂し、北部の人々は独自にイスラエル王国(都:サマリア)を立てました。南部はユダ王国(都:イェルサレム)となります。前722年、北方のメソポタミアで隆盛を極めていたアッシリア王国(サルゴン2世)によりイスラエル王国が滅ぼされました。ユダ王国は存続しましたがアッシリアの属国となり、アッシリアは前671年にオリエント全域を初めて統一しました。
前587年(586年)、アッシリアを滅ぼした新バビロニア(ネブカドネザル2世) がユダ王国を滅ぼします。町も第一神殿も破壊され、ユダヤの民は新バビロニアの首都(バビロン)に強制的に移住させられました(バビロン捕囚)。
前538年、アケメネス朝ペルシア(キュロス2世)が新バビロニアを滅ぼすとユダヤ人は解放され、パレスチナに帰還しました。前515年にはイェルサレムに神殿が再建されました(第二神殿)。
この様な試練の過程でユダヤ人は強固な信仰を身に着け、独自の一神教としてユダヤ教が成立したと思われています。ヘブライ人はユダヤ人と呼ばれるようになります。ユダヤ人は唯一絶対の神を信じ、自らを神に選ばれた民と考えます。神の言葉を伝える預言者にしたがって生きていました。信仰の拠り所として後1世紀末頃、ヘブライ語の聖典(「旧約聖書」)がまとめられています。
②ローマ時代
パレスチナは、前4世紀にアレクサンドロス大王の帝国 (マケドニア)の支配下に入り、その後は帝国の後継者(ディアドコイ)であるセレウコス朝シリアなどの支配下におかれます。前166~前142年、セレウコス朝シリアがユダヤ教徒を弾圧したことからユダヤ人が独立戦争を起こしました(アカベア戦争)。ユダヤ人が勝利してユダヤ人の王朝(ハスモン朝)を再建します。しかし前63年、ハスモン朝はローマの武将ポンペイウスに敗れ、ローマの支配下におかれます。
前7年(前4年)頃、パレスチナでイエスが誕生します。イエスは、ユダヤ教の祭司パリサイ派を形式主義として批判し、神の絶対愛を説きます。後6年にパレスチナはローマの属州になり、後30年頃、イエスはユダヤ教の支配層によってローマ総督ピラトに訴えられます。ローマはイエスの活動が反ローマの動きとなるのを恐れイエスを処刑しました。このことから、ユダヤ人は「イエス(神)を見捨てた人々」とみなされて、キリスト教徒の反ユダヤ意識の根源となりました。
66~70年、ユダヤ人がローマに反乱を起こします(第一次ユダヤ戦争)が鎮圧され、第二神殿は破壊されて消失しました。神殿の遺構の一部が現在も残っており、ユダヤ人が祈りを捧げる聖地「嘆きの壁」となっています。132~135年、再びユダヤ人が反乱を起こします(第二次ユダヤ戦争)が鎮圧され、ユダヤ人はパレスチナから追放されました。以後、ユダヤ人は自分たちの国をもつことなく、ローマ帝国内の地中海~西アジアの各地に離散します。これが「ディアスポラ」と呼ばれています。ギリシア語で「散在」の意味です。
その後ローマ帝国ではキリスト教が公認(313年)され、さらに急速に広まって国教(392年)となりました。
③中世 ディアスポラ後のユダヤ人
離散したユダヤ人は移住先でも独自の共同体を作り、ユダヤ教の信仰を保ちました。ユダヤ教の会堂はシナゴーグと呼ばれ、ラビと呼ばれる宗教指導者が共同体を統治しました。
キリスト教社会のヨーロッパでは最初からユダヤ人への激しい迫害が発生していたわけではありませんでした。異教徒ではあるものの11世紀頃まではおおむね平和的に共存していたようです。ユダヤ人は中世のキリスト教社会では土地所有ができないので、都市で手工業や商業に携わりました。特に地中海交易などでユダヤ人商人が活躍しました。君主らがユダヤ人の経済力を評価して保護することもありました。
7世紀以降、西アジアを中心にイスラーム教が勢力を拡大しました。イスラーム教世界では、ユダヤ教徒は「啓典の民」として共存を許され、人頭税(ジズヤ)を払えば生活ができました。イベリア半島などでは、官僚等に登用されることもありました。
④中世 ユダヤ人迫害の激化
11世紀末にキリスト教徒による聖地奪回の遠征である十字軍が始まりました。これは主としてイスラム教徒との戦いでしたが、これを機にキリスト教社会の宗教熱が高まり、ユダヤ人も敵であるという意識が表面化しました。イエスを裏切ったユダヤ人への憎悪が根底にあり、社会的な不満をユダヤ教徒にぶつけるようになりました。中世後期に教会大分裂などでローマ教会の権威が動揺すると、教会による異教徒に対する攻撃が強まりましたが、その一環としてユダヤ人への迫害も行われました。
1179年、第3回ラテラノ公会議でキリスト教徒による金融業は「忌むべきもの」として禁止されます。その結果、ユダヤ人が金融業を営むようになると、商業の発展に伴い一部には豊かなユダヤ人も現れます。キリスト教徒の間では強欲で非情なユダヤ人のイメージが定着します。
1215年、第4回ラテラノ公会議は教皇権絶頂期の教皇であるインノケンティウス3世が招集しました。この教皇はアッシジのフランチェスコに活動の許可を与えたことでも知られますが、キリスト教の異端対策に力をいれており、それに併せて様々な反ユダヤ法を規定しました。キリスト教徒とユダヤ人の交際、通婚、同居の禁止などです。これが後のゲットー(ユダヤ人居住区)につながります。また、ユダヤ人を見分けるための徽章(標識)を導入し、着用を義務付けました。これにより「賤民」のイメージが強まり、周囲から侮蔑の対象になりました。
14世紀半ば、百年戦争の最中、ヨーロッパ全域でペスト(黒死病)が大流行しましたが、この時ユダヤ人が毒をまいているというデマが広く流布され、ユダヤ人への迫害も発生しました。16世紀以降、ヨーロッパではユダヤ人への迫害が激化し、国外追放、ゲットー(居住区)への強制隔離、キリスト教への強制改宗などが行われました。また16世紀にはキリスト教の世界では宗教改革が始まりましたが、ユダヤ人はプロテスタント圏でもカトリック圏と同様に迫害されました。
なおユダヤ人の故地であるパレスチナは、16世紀以降4世紀にわたってイスラム王朝であるオスマン帝国の支配下に入ります。
⑤近代 ユダヤ人解放の動き
18世紀以降、啓蒙思想の普及や市民革命の影響で人権思想や平等の理念が広まると、ユダヤ人解放の動きが起きました。宗教裁判は否定され、ゲットーが廃止されるところもでてきました。また、独立を達成したアメリカ合衆国は当初からユダヤ人に市民権を認めていたため、アメリカに移住するユダヤ人が増加しました。
フランスでは1789年にフランス革命が起きますが、「人権宣言」の中でユダヤ人の人権も認められます。1791年には国民議会がユダヤ人に一般市民と同等の市民権を認めました。
オランダ、イタリア、オーストリア、プロイセン、イギリスなどでもユダヤ人への市民権付与やゲットーの解放が進みました。
⑥19世紀 反ユダヤ主義の拡大
しかし19世紀後半、各国で国民国家が成立し帝国主義の時代を迎えるとナショナリズムが強調されるようになり、偏狭な民族意識が強まります。各国内の異民族としてのユダヤ人を排斥する風潮が高まり、反ユダヤ主義が広がります。
産業革命が進展する中で、勤勉で能力の高いユダヤ人の中には経済的に成功する例が現れ、ユダヤ系の金融資本も登場します。それに対する反発が都市や農村の貧困層から強まり、差別意識を助長しました。
ロシアでは1880~1920年代、社会不安が続く中でポグロムと呼ばれる組織的なユダヤ人迫害が行われました。集団暴行、略奪が横行し、殺害に及ぶ場合もありました。また、1881年のアレクサンドル2世の暗殺がユダヤ人の犯行と決めつけられ、迫害が激化しました。この時期に多くのユダヤ人がアメリカに移住しました。
この様にヨーロッパ全体に反ユダヤ主義が蔓延する中で、フランスでドレフェス事件が起きました。それではドレフェス事件以降の動きを簡単に見ていきましょう。
◎その後の動き
その後のフランスはドイツとの対立が明確になり、イギリス、ロシアとの提携を深めます。1894年にロシアと露仏同盟を結んだのに続き、ファショダ事件での譲歩を契機にイギリスとの関係が改善し、1904年に英仏協商を結びます。一方、ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を形成し、第一次世界大戦に突入することになります。
ユダヤ人をめぐる動きは、第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ国家の建設を認めるバルフォア宣言を発表しましたが、第一次世界大戦後の1920年、パレスチナはイギリスの委任統治領となりました。
ドイツでは1933年にナチ党政権が成立し、1935年にニュルンベルク法を制定しユダヤ人の市民権を剥奪します。以後、1938年の「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件をはじめ、各地に強制収容所を設置し、1942年にはホロコーストと呼ばれる大虐殺を開始しました。多くのユダヤ人が迫害を逃れてパレスチナやアメリカに移住しました。
第二次大戦後は、ユダヤ人に対する国際的な同情の高まりを受け、国際連合がパレスチナをユダヤ人とアラブ人に分割する決議を定めます。これにより移住ユダヤ人と先住のパレスチナ人(イスラーム教徒)の対立が激化し、1948年にイスラエルが建国されると直ちにパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発しました。多数のアラブ難民が生まれ、深刻な対立が続きます。
■映画「ゾラの生涯」のあれこれ
文豪ゾラの伝記的映画です。前半の無名時代から社会的な評価を得て名声と富に溺れていく様子も興味深いですが、ドレフェス事件に関わる後半は、正義感があって力強い人間像がくっきりと描かれています。
政府や軍だけでなく大衆をも敵に回すことになりますが、名声や悠々自適の生活を捨てることも辞さずに戦う毅然とした姿が胸に響きます。特に法廷での戦いの場面は見事です。真摯で説得力のあるゾラの弁論は映画を見る者の心もつかみます。
監督のウィリアム・ディターレは、「近代細菌学の開祖」と言われるパストゥールを主人公にした「科学者の道」(1936年)、クリミア戦争でのナイチンゲールの看護活動を描いた「白衣の天使」(1936年)など伝記映画の傑作を残しています。この作品でもゾラの誇り高い生涯を格調高く描いています。
主人公ゾラを演じたポール・ムニは、「科学者の道」のパストゥール役でアカデミー賞の主演男優賞を受賞していますが、この作品でも迫真の演技です。特に法廷の場面は圧巻です。
他の俳優も皆好演ですが、画家セザンヌ役のウラディミール・ソコロフは、無名ではあっても誇りを失わない孤高の画家を巧みに演じています。
ドレフェス役のジョセフ・シルドクラウトは、この作品でアカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。
この映画について興味深いのは、作品中にユダヤ人という言葉がまったく出でこないことです。この映画が製作されたのは1937年です。ヨーロッパ各国ではユダヤ人に対する迫害が行われており、ドイツでのホロコーストが本格化する前の時点です。差別意識を助長させないためだったとも言われていますが、映画を無事公開するための配慮なのかもしれません。この時代の厳しさを感じさせます。
■映画「オフィサー・アンド・スパイ」のあれこれ
こちらの主人公はドレフェス事件の真相を追求した軍人のピカール中佐です。こちらも重厚で骨太の作品です。「ゾラの生涯」と同様に事件の事実関係をベースに物語が展開しますので、似ている場面もあります。
主人公は正義が損なわれていることを無視できず、軍人としての真実を貫きます。ピカールが事件を検証して真相に迫る過程はスリリングで、緊迫した展開に引き込まれます。軍の中で孤立し様々な圧力を受けても屈せず、信念を曲げずに戦い続けます。強靭な精神力に深い感銘を受けます。当時のフランス軍の内部の様子や社会の緊迫した雰囲気がひしひしと感じられます。
その一方、室内の調度品、衣装をはじめ美術が素晴らしいです。街並みやピクニックの場面など印象派の絵画から抜け出したかのような場面もあり、ベル・エポックのパリの風俗を見事に再現しています。とてもシリアスな内容ですが、画面からは豊潤な香りが漂います。
ナチス・ドイツから身を隠して生きた経験をもつポランスキー監督が自らの人生を反映させ、魂を込めて作った力作です。
主演のジャン・デュ・ジャルダンは、2001年の「アーティスト」でアカデミー賞の主演男優賞を受賞していますが、この作品でも迫真の演技で正義感の強い軍人を熱演しています。
二つの作品を通して、軍部やフランス社会全体に染み込んだ差別と偏見、反ユダヤ主義の根深さを痛切に感じさせられます。
■映画のあれこれ ゾラとセザンヌ
①エミール・ゾラ
19世紀後半から20世紀初め、フランスで活躍した自然主義文学の代表的な作家です。当初はロマン主義に傾倒していましたが、資本主義の発達により経済が発展する一方で社会の矛盾が露呈していく様を目にして、現実社会と科学的、実証的に向き合うべきと考えます。そこで自然科学の手法を文学に取り入れた自然主義の文学を創始しました。「居酒屋」、「ナナ」など全20作の小説からなる作品群「ルーゴン・マッカール叢書」を残し、世界の文学に大きな影響を与えました。
ドレフェス事件に強い関心を抱き、反ユダヤ主義に言論で立ち向かったことは大きな反響を呼びました。 1902年にパリで一酸化炭素ガスの中毒で不慮の死をとげました。ドレフェス事件との関係で暗殺されたという説もあるようですが真相は不明です。
同居していたセザンヌをはじめとして印象派の画家がフランスの美術界で認められていなかった時代に、彼らを擁護、支援する批評を発表しています。
1868年、マネがゾラの肖像を描いていますが、背後に日本の浮世絵が見られ、フランスの芸術に日本文化が与えた影響を示しています。
②ポール・セザンヌ
19世紀後半から20世紀初め、フランスで活躍した画家です。印象派から出発し、独自の絵画様式の探求を続け、後期印象派の一人ともされています。 南フランスのエクス・アン・プロヴァンスに生まれ、パリで印象派に加わりました。印象派の明るい色彩世界の影響を受けましたが、やがて光の一瞬のきらめきやうつろいを追求する印象主義には飽き足らず、確固とした量感や存在感を持つ絵画を目指すようになりました。豊かな色彩と画面の秩序の調和を目指し、幾何学的な構成を重視した造形世界にいきつきました。
故郷のサント・ヴィクトール山を繰り返し描いたことでも有名です。本人の死後、名声と影響力はますます高まり、20世紀美術に大きな影響を与えて「近代絵画の父」と呼ばれています。
小説家のゾラとは少年時代からの親友でしたが、ゾラが「制作」という小説の中でセザンヌをモデルとして芸術家の悲惨な生涯を描いたことからセザンヌが絶交したと考えられていますが、交友は続いていたとの見方もあります。
■映画のあれこれ フランス領ギアナと悪魔島(ディアブル島)、そして映画「パピヨン」
ドレフェスが収容されていたのはフランス領ギアナの北海岸の沖合約11kmにある「悪魔島」と呼ばれる 面積14haの島です。フランス領ギアナは南アメリカ大陸の北東部にあり、ブラジルの北側に位置しています。17世紀から入植が始まりましたが、フランスの流刑植民地として約8万人が送り込まれました。
ギアナの監獄の中でも特に悪名高いのがこの島です。1852年から政治犯など重犯罪者を収容しましたが、過酷な強制労働など非人間的な扱いがされたことから「緑の地獄」と言われました。
ドレフェスがここに収容されていたのは1895年から 1899年です。監獄は1953年に閉鎖されています。
「ギアナには黄金郷(エルドラド) がある」と言われた時期もあり、人口が増加しました。現在はフランスの海外県の一つです。フランス国立宇宙研究センターがあり、フランスの宇宙開発の拠点となっています。宇宙センターは見学が可能です。野生生物が豊かな自然保護区もあります。監獄の跡地も残っており、ガイドツアーも行われているようです。日本からギアナに行く観光客は多くはないと思われますが、日本の観光ガイドブックにはフランスの巻ではなく、ブラジルや南米の巻に少し掲載されています。
この悪魔島には、ドレフェスが入っていた時から約30年後に、後に有名になるある人物が収容されています。アンリ・シャリエールという人物です。無罪を主張しながら終身刑となりギアナに送られました。何度も脱獄を図ったため悪魔島に収容されましたが最後には脱獄に成功し、ベネズエラの市民権を得ます。後に自らの数奇な半生を自伝として出版しています。それが映画化されたものが「パピヨン」(1973年フランクリン・J・シャフナー監督)です。胸に蝶の刺青があったことからパピヨンと呼ばれた主人公をスティーブ・マックイーン、贋金づくりの名人ドガをダスティン・ホフマンが演じ、二大スターによる友情と冒険の物語が話題になりました。主人公の決してあきらめない驚異的な精神力、そして画面に溢れる熱帯の雰囲気が印象的な映画でした。ジェリー・ゴールドスミスによるテーマ曲も有名で、映画音楽の定番となっています。
次に、今回ご紹介した「オフィサー・アンド・スパイ」のロマン・ポランスキー監督についてです。
■映画のあれこれ ロマン・ポランスキー
フランス出身の映画監督で、多くの傑作を生みだし映画史上に名を残す名監督の一人とされています。その一方、毀誉褒貶が激しく壮絶で波乱万丈の人生でも有名です。
パリで生まれ、ポーランドのクラクフで育ちました。父親がユダヤ教徒であつたため、第二次世界大戦時にはドイツが作ったユダヤ人ゲットーに押し込まれました。強制収容所に連行される直前に、父親の機転でポランスキーだけが脱出しました。父親は終戦まで生き残りましたが、母親は収容所で殺されました。ポランスキー自身はドイツ占領下のフランスで各地を転々と逃亡し、ユダヤ人狩りを逃れました。この時の体験が後の映画製作に大きく影響を及ぼしていいます。
第二次世界大戦後、ポランスキーは映画づくりに携わります。まずはポーランドで監督としての第一作として恋愛心理劇の「水の中のナイフ」(1962年)を発表し、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされます。イギリスに渡り、狂気に駆られていく女性を描く心理ドラマ「反撥」(1964年)と、奇妙な人間関係を描く不条理サスペンス「袋小路」(1965年)でベルリン国際映画祭の賞を受けます。
その後アメリカに移住し、「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)を撮ります。悪魔崇拝をテーマとしたこの作品が大ヒットし、その後世界中で数多く作られるオカルトサスペンスの源流となりました。その1968年には女優のシャロン・テートと結婚しますが、翌1969年、ポランスキーがイギリス滞在中に妻のシャロンが自宅でパーティーを開いた際に、狂信的なカルト集団(チャールズ・マンソン・ファミリー)が間違えてポランスキー宅を襲撃し、妊娠八か月だった妻のシャロンが惨殺されるという痛ましい悲劇に見舞われます。
この事件で大きな衝撃を受けますが、そこから立ち直り1974年には私立探偵を主人公とする本格サスペンスの傑作「チャイナタウン」と撮ります。
しかしポランスキーは少女に性的行為を行ったとして逮捕されます。無実を主張しますが有罪判決を受け、仮釈放中に逃亡してフランスに入国します。フランスの市民権を得てアメリカからの引き渡し要求から逃れていますが、他にも何人かの女性から性的虐待を受けたという訴えが出されます。
その後はパリを拠点に映画製作を続け、2002年にはこの次にご紹介する「戦場のピアニスト」が高く評価され、カンヌ国際映画祭のパルムドール、アカデミー賞の監督賞を受賞しました。2010年、元英国首相の陰謀に巻き込まれるミステリー「ゴーストライター」でベルリン国際映画祭の監督賞を受賞したのに続き、今回ご紹介した「オフィサー・アンド・スパイ」でヴェネツィア国際映画祭の審査員大賞を受賞し、世界三大映画祭の主要部門を制覇しました。
2020年、この作品によりフランスで最も権威のある映画賞であるセザール賞の最優秀監督賞を受賞しましたが、授賞式において一団の人々がポランスキーの受賞に抗議して退席をしています。監督の個人的な汚点が作品の評価に影を落としているのは残念なことです。
次に、ポランスキー監督の力作をもう一本ご紹介します。ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの第二次世界大戦中の体験に基づいています。
■こちらもおすすめです。 「戦場のピアニスト」
①映画の概要
・2003年フランス・ドイツ・イギリス・ポーランド合作映画
・監督 ロマン・ポランスキー
・出演 エイドリアン・ブロディ、トーマス・クレッチマン
・カンヌ国際映画祭パルムドール、アカデミー賞の監督賞、脚色賞、主演男優賞を受賞
②あらすじ(ネタバレ無し)
1939年、ポーランドの首都ワルシャワです。主人公はユダヤ人のピアニストであるシュピルマンです。第二次世界大戦が勃発し、ドイツがポーランドに侵攻します。イギリスとフランスがドイツに宣戦布告をしますが、ポーランドはドイツに占領されてしまいます。主人公をはじめワルシャワに住むユダヤ人たちは、ナチスドイツの親衛隊によって日常生活を制限されます。1940年の後半にはユダヤ人はゲットーに押し込められ迫害はエスカレートしていきます。食糧も乏しく、日常的に暴力にさらされます。
さらにユダヤ人は絶滅収容所行きの列車に乗せられることになります。シュピルマンは知人のユダヤ人の警察官の手引きでそれを逃 れます。シュピルマンはその後もゲットーで強制労働をさせられますが、ユダヤ人の蜂起に協力しながら、ゲットーを脱出する決意をします。そして脱出に成功しますが、その後もドイツの目を逃れ、隠れて生きなければなりません。
③映画のあれこれ
実在の人物であるシュピルマン氏の生涯を描いていますが、ポランスキー監督自身の人生を投影しています。この作品も「オフィサー・アンド・スパイ」と同様にポランスキーだからこそ作ることができた作品です。
主人公は戦場という極限状況に翻弄されながらも音楽への情熱を失わずに生き抜きました。 生きるという強固な意志がリアルで胸に迫ります。主人公をはじめ多くのユダヤ人がどんどん追い詰められ、過酷な状態に置かれていく様は強烈なインパクトを残します。ユダヤ人たちが困窮を極め、生きるために人としてのプライドを捨てなければならない様は胸が締め付けられ見ていて辛くなります。
ワルシャワの廃墟になった街並みが心に焼き付きます。魂を揺さぶられる作品です。
劇中で演奏されたピアノ曲の多くはショパン作曲のものです。悲惨な戦場に響くクラシック音楽の名曲の美しさが痛切です。隠れて暮らしているため音を出すことのできない主人公がエアーでオルガンを弾く場面も印象的です。
主人公はどんな過酷な状況にあってもピアノを弾く時には必ず姿勢を正します。毅然としてりりしく、そして静かなたたずまいです。主役を演じたエイドリアン・ブロディは、決して誇りを失わない音楽家を見事に演じ、史上最年少でのアカデミー賞主演男優賞の授賞となりました。
主人公が出会うナチスの将校を演じたトーマス・クレッチマンは東ドイツから西ドイツに亡命した経歴をもつドイツの名優です。